ふるさと1

          ふるさと            文藝軌道2019.5月号
                            石川詩織
 仕事が首になった。
 人件費の問題だそうだ。備品も随分買っているようだし、大丈夫かな……。と、思っていたら案の定、シビアだが、やむを得ない。
 花。辞める時にいただいた。アルバイトの看護師に花までもらえるとは思っていなかった。気を遣わせてしまい申しわけない。私は、あまり貢献できなかったと思っている。今頃ばたばたしているだろうと思うと、部屋でごろごろしていて良いのかと、やりきれない気持ちになる。友人たちは少しゆっくりすれば、と言ってくれる。ゆっくりしながらも、落ち着かない思いだ。
 私、これから、どうなるんだろう。次の仕事、見つかるだろうか。そして、続くだろうか。漠然とした不安が押し寄せてくる。一人ぼっち。誰かに会いたい。自室で一人、果てしない孤独感に苛まれる。
私の鬱々とした気分とは裏腹に、外は雲ひとつない青空。梅雨も明け、季節がめぐる。このままではいけない。何かしなくては。焦っている。
 とりあえず、生活をきちんとしようと家事に専念する。毎日していると、一日の負担がだいぶ楽になる。最近発見したのは、風呂掃除を入浴後にするということ。今までは、日中洗濯している間にやっていたが、どうも面倒。今は時間に制限されないから、ゆっくり入浴して、出るときに掃除。浴室乾燥機も、一回で済む。後はスイッチ。二週間、まめに点けたり消したりして、電気料金が三百円違っていた。皆が節電にはまるのも解る気がする。当たり前のことかもしれないが、今まで、そんなこともできずにいた。
 
 私は、洗足池の近くに住んでいる。洗足池とは、東京都の大田区内、中原街道に面している人造池で、淵沿いが公園になっている。私は時々池の周りを散歩する。
「大岡山へは、どう行けばよいのでしょうか」
 休日なのに、背広を着た男性だった。
「わかりませんね」
 立ち去ろうとすると、
「仕事でこっち来たんですけど道がわからなくなっちゃったんです。この辺の人ですか」
「一応……」
「歩き疲れちゃって。一緒にお茶でも飲みませんか」
 突然声をかけてきて、道がわからないのかと思えばナンパ? 訳がわからない。
「駄目ですか?」
 笑った口元は、歯並びが悪く、虫歯にやられている。気持ち悪い。
「池沿いに交番ありますよ」
 逃げるように帰ってくる。天気が良く、せっかく散歩しようと池に行ったのに。何やってるんだろう。
 追いかけてきたら、どうしようかと思ったが、後ろは振り向かずに部屋まで戻ってきた。夕飯にはまだ早い。埃っぽいのも嫌だったので、先に風呂に入ることにする。
 バスタブに身を沈めると、毛羽立った気持ちが和らいだ。あのまま、あの虫歯男に着いて行ったらどうなっていたんだろう。怖かった。人を見た目で判断してはいけないのかしら。もし本当に困っていたのだとしたら……。
 身体が温まるに従って悶々としたものが、薄らいでいく。顔が、頭が、ボーっとしてくる。これだけでいい。今の私には、ここが一番のお気に入りの場所。

 梅雨が明けると、お盆。
 祖父母の墓参りも、大分行っていない。墓は埼玉にある。浦和の叔父を思い出す。急に連絡しても、叔父なら許してくれるだろう。久しぶりの埼玉。そう思ったら、少し気力を取り戻せた。
 叔父の家に電話する。墓参りの話をすると、二つ返事で承諾してくれる。叔父たちは、小さいころから、良くかまってくれた。もう、定年ではないだろうか。埼玉を出て、もう二十年だ。そんなに経っていたのかと、いささか驚く。
 三歳から十八歳まで浦和の文蔵に住んでいた。祖父が退職金で買った一戸建て。その家も、今はもうない。私は、祖父母に育てられた。両親は、サンドイッチ屋を開き、店の近くにアパートを借りて住んでいた。父母はたまに夕飯を食べに帰ってくる。その日は嬉しくて、ご飯をお代わりしていたな。私の寂しがりは、そのころに培われたのかもしれない。
 子供の頃の父の印象は、いつも休日に洗車をしていたイメージで、母はというと本を読んだり、編み物などしていたイメージだ。父は車をピカピカにして、たまにドライブに連れて行ってくれた。父母と浦和の駅前の映画館でハンバーガーを食べながら、映画を見た。今となっては良い思い出だ。
父母は私が看護学校の時に、店をたたみ、神奈川へ移り住んだ。私も、このまま結婚しない人生を歩むのなら、育った埼玉に戻るか、両親のいる神奈川へ移らなければならないだろう。そのことは、時々私を悩ませるのだ。

 約束の日。三十度はすでに超えていて、とにかく暑い。冷房を効かせて身支度をする。
 叔父とは、墓で落ち合うことになっている。夏の埼玉は、相当暑いだろうと思い、帽子をかぶる。サングラスは、何となくやめる。
部屋の鍵を閉め、マンションを出ると、むあっとする。汗が吹き出る。
 商店街を抜け、洗足池駅へ向かい、池上線に乗り込む。中はひんやりしているが、人が多いので蒸し暑い。額の汗を、ハンカチで押さえる。職業柄の薄化粧は汗と一緒に首へ流れ落ちているようだ。

 池上線は、停車毎に、乗客が増えていく。
 夏休みということもあってか、親子連れが目立つ。キャリーバックを下げた人。ラフな服装の若い女性。サンダル。ネクタイなしの、会社員風の男性……。
 車内は、少しざわついている。開放的な雰囲気の中、皆、夏を楽しんでいるように見えてくる。私だけ、なんだか場違いなところに紛れ込んだような気になってくる。遊びのつもりはなかった。叔父に、今後の相談をしたかったのだと、言い訳めいたことを考える。目の前の赤ちゃんを何となく眺める。友人たちは皆、結婚して、子供産んで、家を買って……。もう四十半ばになるのだもの。大人だ。私だけ、時間の流れ方が違っている。大人になりきれていないような、遅れているような気がして、自由だし、身軽ではあるけれど、何か、間違っていないかと思ってしまう。皆と違う道を歩んでいる自分に自信がないのだ。ベビーカーから、たまごボーロが、床に落ち、転がる。
 終点の五反田に着くと、狭い池上線ホームを、ぞろぞろと波を作って改札へ向かう。普段電車に乗りなれない私は、いささか気後れしながら、波に乗ろうと必死だ。
 JRへの連絡改札口を抜け、人波はのろのろと、皆、同じペースで急な階段を下りていく。履きなれないサンダルの私は、転がり落ちないように意識しながら、一段ずつ降りる。すぐに来た山手線に乗り込む。

山手線は混んでいて、目の前に、身なりのいいお爺さんが座っている。
祖父を思い出す。小学生の時に祖母が亡くなり、しばらく祖父と二人だけになった。いつも優しく、おっとりした人だった。わがままも聞いてくれた。社会の授業の、魚屋さんごっこの時も、画用紙と色鉛筆で、リアルなさんまを作ってくれたり、演劇部のときの、大道具の井戸を、材木屋さんから古木をもらってきて作ってくれたりした。私は大喜びしたものだ。今思えば、器用だったのだろう。ゲートボールの選手をしていた。いつも自転車で買い物に行く。カラオケも好きで、父にカラオケセットを買ってもらっていた。祖父のカラオケセットと、マッサージチェアーは、私も時々遊ばせてもらったものだ。祖父が亡くなって、十五年ちかく経つ。祖父と離れてから、私は道しるべを失った旅人みたいな気分で生きている。祖父のような人には、もう、出会えないだろうか。私は、自分を立て直さなくてはならないかもしれない……。

 田町で久しぶりに、京浜東北線に乗り換える。比較的すいていて、座ることが出来る。
 就職活動なのか、リクルートスーツの女子大生が、紙パックのお茶を飲んでいる。京浜東北線のほうが、山手線より涼しいような気がする。扇風機が、チラシを揺らしている。
 私もまた、就活しなくてはならない。今はアルバイトで転々としているが、いつか失業してしまうのではと不安になる。池であった虫歯男を思い出す。休日に背広を着ていた。炎天下で、道に迷って汗だくになっていた。仕事で家のあたりに来たと言っていた。人が休んでいるときに、汗だくになって働いている、良く考えれば、そんなに悪い人ではなかったのかも……。仕事かあ……。
 
 電車は、有楽町に着いたところだ。看護学生の時、有楽町の喫茶店でアルバイトをしていた。学校の友達は皆、夜勤のバイトをしている中、看護師になったら、他の仕事は経験できないと思って、喫茶店にした。
 ある日、店長に、朝から来れないかと言われ、行ってみると、宝塚のトップスターの引退公演の日だったらしく、早朝から店が満席になっていた。忙しい日もあったけれど、働くのは、楽しいことだと思っていた。
 銀座が近いので、たまにウインドーショッピングもしたけれど、やっぱり何か欲しくて、ブランド物の傘を買って、壊れるまで使った。綺麗にしているお姉さんたちを横目で見ながら、ぶらつくだけ。それでも、充分気分が華やいだものだ。パン屋でお昼を買って、日比谷公園で食べたり。毎日が楽しく流れた、私にも、そんな時があったのだな……。
 
ドアが開くたびに、むっとする熱風が入ってくる。電車は田端に着いた。ここは、看護学校の最寄り駅だ。その看護学校も、今はもう無い。
 看護学校の時は、充実していたように、思う。熊本出身の友達が個性的で、初めは私も敬遠していたのだけれど、ふとしたきっかけで、仲良くなった。彼女は寮生。私は通生。通生とは、通学生という意味だ。
 彼女は、本と、音楽と、酒と、大人の男の人が好きだった。私は、彼女と、喫茶店で何時間も話したり、絵を見に行ったり。芝居を観たり、映画を観たり。夜遊びをしたり。幼なじみ以外で、あんなにも傍に居てくれた友達は、居ないかもしれない。
 私は、それ以来、友達になりたい人、友達として付き合っている人に、一歩突っ込んだものを望むようになっていった。彼女と出会って自分の人間性が豊かになったと思っていた。けれどどこかぎこちなくなって、人との適度な距離が、いつからか私は掴めないでいるようだ。
 彼女、どうしているだろう。就職して数年後、田舎に帰ってしまった……。
 田舎。私の田舎は、十八歳まで育った埼玉だろうか。それとも、現在、親の住んでいる神奈川なのだろうか。
 
 一人暮らしをしていると、気楽だと思う反面、時々無性に誰かと関わりたくなる。気の合う人や、好きな人と、時間を共有したいと思ってしまう。職場の人たちに、それを求めようとした時期もあったけれど、昔なじみの友達とは、何かが違っている。一緒に居る時間が長いけれど、仕事をしに来ている同士だから、一歩突っ込んだ付き合いにはならない。職場を転々としているなかで、気の合いそうな人との出会いもあった。私のことを、解ってもらいたいとも思ったが、仲良くなる前に、仕事で信頼を得ることの方が大事なのではないだろうか……。
 学生時代は、個性的なのが好いと思っていた。看護師になって今、思うのは、個性は仕事とは関係なく、心身ともに丈夫で、愛想が良く、機敏に動いて、気の利く人が向いている。ということ。
 人に優しい人でありたいと思ったから、看護師になったのに、それは、当たり前のことで、豊富な知識や、行動力、余計な自己主張をしないことの方が求められる。私には向いていないようだ。とはいっても、私の場合、ほかの仕事についても、きっと同じかもしれない。
 頭では分かっていても、実際、どうすればいいのか迷っている。向かいの席の、楽しげな若い女の子を見る。私もああだったはずなのにと溜息が出る。
 とりあえず、埼玉から帰ったら、就活かな。昨年の夏の就活を思い出す。スーツを着て行って、冷や汗と、暑さの汗で大変だった。現地に早めに着いてしまい、時間をつぶすのに苦労したり。履きなれない靴で、足が痛くなったり。でも、皆やってること。私にもできる、はず。
 それにしても、仕事が続かない。長く務めた病院を辞めてから、あちこち転々としている。たいていは、他のスタッフとうまくいかず、結果、仕事もスムーズに出来なくなる。
 私がいけないのだろう。納得できないことはできないし、悪口も嫌いだ。要領悪いし、愛想もない。若い時はそれで通用していたかもしれないが、この年になると、頑固さが前面に出て、融通の利かなさが、悪く目立つのだろう。
 なんでうまくいかないのかな。努力が足らないから。歩み寄ろうとしないから。割り切れないから。自分を責めても、内に内に入っていくばかりで、実際何か変わったか、あるいは変えようとしているか、というとそうではなく、同じことを繰り返して、堂々巡りをしているような気分になる。
 看護師は、もう、二十年以上やっている。他の職業も憧れるが、何ができる、となると頭を抱えてしまう。向いていない、と白旗を上げるより、向いていないなりに努力をしなくてはならないのかも知れない。いかに、誠実かが問われる職業ではないかと思う。

 赤羽を過ぎ、電車は荒川を通過する。
              
        次号に続く