4月 石川詩央里2020.4
四月に入り、職場のみんなで注文していたマスクが届いた。人数分、均等に影井さんが分けてくれ、それぞれビニール袋に入れてくれた。それを手にした時の、安堵と喜びは相当格別なものだった。
あとは、トイレットペーパー。まだ少しあるが、生理が来たら足らなくなりそうで、落ち着かない。自宅近くのドラッグストアで、かろうじて箱ティッシュがあったので、とりあえず買った。なんだかんだと、毎日買い物に出かけ、くたくたで、ストレスと、食欲が、とどまるところを知らない。白衣のズボンもぱつぱつだ。
あの日、影井さんが、彼女の家の近くの、イタメシ屋さんが、余った食材とか、安く売ってますよと教えてくれたのに、料理する気になれずに、断ってしまった。帰ってから、ラインで謝ると、気にしなくて大丈夫ですよと、とてもおおらかな返信が来た。私は年上で、しかも看護師なのに、影井さんの余裕に、脱帽した。
そして、ふと、恵子や絵美は、どうしているだろうと、ラインしてみた。二人とも、今のところ安全なところにいるらしく、一番今回、堪えているのは私らしかった。
米と、マスクと、トイレットペーパーが、なかなか手に入らない話をすると、二人とも、とても驚いていた。
芝居仲間は、もう少し焦っていて、メグは、会社で、長距離の通勤がだめになったらしく、私に部屋をシェアしてもらえないかと、打診してきた。私は、自分の余裕が全くなく、断ってしまった。翌日改めて聞くと、車で通勤するとか言い出し、うちおいでと言いなおしたけれど、心は決まってるようだった。そのご、どうなったのだろう・・・トシは、地方に住んでいるが、ネットとテレビのニュースで私同様、すっかり煽られていて、心配して連絡してきた。逃げるんなら、今だよ、と言われた。そして、学生時代以来の三時間と言う長電話をした。
母親にも、ラインした。多分気が高ぶっているのだろう。いろいろ送ってくれてありがとうと伝えると、そっけなく、また送るよ、と返信はあったが、父や、祖母や、妹のことは、何も言わなかった。もうみんな、一人ひとりそれぞれが頑張るしかないのだな、と思った。
昔、当たり前にそばにいた人たちとの距離を感じて、とてもさびしいけれど、こうして、連絡できて、良かったと、思いなおすようにした。
土曜の半日勤務のあと、五反田の東急で、四ロール入りの、トイレットペーパーが、やっとこ買え、今日も、注文していた米が届いた。
少しずつ、不安材料は、減っているはずなのだ。希望は、まだ、捨てない。
ある日、患者さんが途切れたので、皆で待合室のテレビを見ながら、雑談していると、下の階の、韓国料理店のオーナーが現れ、
「先生のところ、マスク、足りてますか?家に今、一万枚あって、一枚45円でお売りしますよ」
と言ってきた。院長は、少し考えていたが、
「うち、在庫あったっけ?」
と事務の小島さんに聞いた。
「まだあります」
「そしたら、足らなくなったら、お願いするかもしれない」
「解りました。いつでも言ってくださいね」
と言い、オーナーは去って行った。
値段的には、やや高いようだったけれど、最近のネットの相場と同じくらいだった。
「あるところには、あるねえ」
と、皆で言いあった。
四月も半ば過ぎてから、東京は、というか、東京に限らず、街が閑散としだした。電車も空いているし、職場も、そんなにたくさんの患者さんが来ることもない日が続いている。
でも、わたしは、常に焦っている。落ち着かなくて、いらいらして、気分も悪く、体調もすぐれない。休日も、何処か緊張感があって、寝付きも悪く、悪夢を見て汗をびっしょりかいたり、コロナの件がショックなのか、更年期か不明だが、生理も二カ月止まっている。
今月は、亡くなった、父方の祖母と、幼なじみの絵美の誕生日がある。ふしぎと、同じ日なのだ。
絵美は、在宅勤務でのんびりしているらしい。恵子とおめでとうラインを送り、前回マスクの話をしたせいか、恵子は、マスクはまだあるけれど、手作りマスクと、シーツを切って、ガーゼ代わりにしたものを、使いまわして対応してるとのことだった。シーツという発想は無かった。流石恵子。たくましさすら感じる。
子供の頃、私たちは、ドングリの背比べだった。その後、三者三様に育ったけれど、今まで、それぞれ、励ましあいながら、いろいろ試練を乗り越えてきた。これから先、人々の価値観が変わっていくだろうと、ネットのニュースであった。二人と話すと、わたしは、すっかり出遅れているように感じる。
職場でも、感染対策が始まって、正直、いっぱいいっぱいだ。しかし、着いていかなければならない。皆に。
少しずつためた、神社のおみくじを引きなおす。末吉。人のため、世の中のために、働きなさい。とある。こんなやつに務まるというのだろうか。かなり努力せねば。