深海3

職場の人を、傷つけてしまった。
「あのひとだから」
とっさに出た一言だった。会話の流れで、つい出た言葉だ。冗談のつもりが冗談にならず、言い訳は、言い訳にしか過ぎなくて、謝りたい気持ちはあるけれど、謝ろうとすればするほど、失言を肯定してしまうのではないか。
仕事だけしている分にはいい。けれど、みんな、人間なのだ。私は独りで生きている訳ではない。生きている以上、どこかで、誰かと、絶えず関わる。
一人になりたい。その直後はそう思った。けれど、一人暮らしのこの部屋に帰ってきても、頭のなかをあの場面が占領していく。
水ふうせんのように膨らむ。私の頭は、爆発しそうになる。
ベランダに出る。雨が降っているというのに。
 こんなときに煙草が吸いたいのか。違う。そうじゃなくて。頭を冷やしたかった。寒いベランダで、ぐるぐるの思考をリセットしたいのだ。
 忘れたいわけではない。その逆で、今ある問題と、真正面に向き合う時間が欲しい。
 明日も仕事がある。早く帰って、寝る時間を確保するつもりだったのに……
 本当は、湯船に浸かりたい。けれど、頭がボーっとするのは嫌なので、シャワーだけにする。
 引越しを決めて、思いのほか新生活が楽しくて、有頂天になっていたのかもしれない。
 順調だと、必ず何かが起こる。その繰り返し。嫌になる。自分が。本当に要領が悪い。機転が利かない。瞬発力が無い。慎重さが無い。もう、いい大人のはずなのに……

「おいでおいで」
 ナベさんの店に電話すると、快い返事が返ってくる。
 引越ししてから、無駄遣いは辞めようと、あまり行かなくなっていた。
「なにかあったのかい?」
 心配そうな顔をされる。
「うん……私、人を傷つけてしまって……」
 ナベさんは、詳しくは聞こうとしない。それでも、気持ちは分かってくれる。
「元気出せよ」
 それだけ言われた。そして、映画のビデオを店の小さなテレビで見せてくれる。カフェオレをちびちびやりながら、それを眺めて、見終わると帰る。
 辺りはすっかり暗い。けれど、星は無い。足元の落ち葉を踏む。かさり、と音がする。
 下を見ながら歩く。とぼとぼと。
 自分が、とても情けなくて、みっともない人に見える。ええかっこしいではなかったか。そんな元気も無い。
 恵子と栄美から、次に会う日の調整のメールが入る。私から言い出したことだけど、旅行のことは、もうどうでもよくなっている。
 でも、と思い直す。今の私に必要なのは、多分、目標。落ち込むだけ落ち込んで、その先どうしたらよいか、どうしたいのかを考えなくてはならない。
 フラメンコを踊ってる恵子を思い出す。あの日勇気付けられた自分を思い返す。
 開き直りではない。まだ落ち込んでいる。
 いつまでも、悲劇のヒロインを気取っていてはいけないのだ。

 ボジョレーヌーボー。
 今年もこの日がやってきた。毎年この日は飲みすぎていたから、今年はバーで一本買うことにした。
 仕事は早めに終わり、夕食を作って食べ、商店街を、去年までとは逆方向に歩く。
 久しぶりのバー。ボジョレーのチラシが、例年通り、貼られている。
「いらっしゃいませ」
 お客さんが少ないせいもあって、店の中はひんやりとしている。私は座らずにカウンターに手をかける。
「あのう。前来たときに、ワインを一本頼んだんですけど」
 柳田さんは、一瞬動きを止めたが、
「ああ。そうでしたね」
 一本、出してくれる。
「味見はしますか?」
「今日はいいです」
 本当は、飲みたくてしょうがない心境なのだが、あえてぐっと我慢し、
「ありがとうございました」
 挨拶をして、お金を渡す。
 手には、一本のボジョレーヌーボー。商店街を逆戻りする。これでいいんだと、自分に言い聞かせる。
 いつ、封を開けよう。誰と飲もうか。一人で楽しもうか。
 普段飲むワインも、勿論好きだが、私は記念日に弱い。今年のワインの誕生日。お祝いは、また今度にすることにして、明日の仕事を優先することができた。