バスタブ 石川哲子
文藝軌道2007年4月号
1
今日、寝坊した。
タイムカードを押すのが五分遅れただけで上司にも同僚にも良い顔はされない。一日の歯車が起きた時点で少しずれただけで丸一日ブルーになる。
昨夜、寝つきが悪く床に入ってからも落ち着かなかった。ダイエット中のため夜中なのにお腹が空いている。冷蔵庫のミニチーズを一個ほおばり、ふと目に付いた缶ビールを飲んだ。仕事の前の日は飲まないと決めていたのに…それが今日の敗因。
今日の仕事は朝のアクシデントを挽回すべくいつもより頑張ったつもりだ。皆は気付いただろうか。私が頑張ったということを。気付いていないに決まっている。平社員が頑張ったところで、パートのおばさんはなんとも思わない。面倒なことは人に任せて早く帰ることばかり考えているだろう。
上司に相談したこともある。
「後輩育成、頑張って頂戴」
話を聞いてくれるどころか肩を叩かれて終わった。
くさくさした気持ちで帰路を急ぐ。東京の郊外のベットタウン。都心には近いほうだから通勤には便利。今日は会社が遠かった。地元の駅に着き、商店街の中を歩く。私と同世代の人たちが自転車の後ろに子供を乗せ、両方のハンドルにスーパーの袋を下げて通り過ぎていく。負け犬、と言う言葉が私の中をよぎる。私は収入が良いわけでも、独身ライフを楽しんでいる訳でもない。負け犬ではなく負け組だ。
商店街の中のバーが目に入る。給料日に贅沢気分を味わう場所。もちろん今日はバツ。しばらくお酒は飲めないわ。
足早にバーの前を通り過ぎる。ガラス越しにマスターがコップを拭いているのが見える。マスターも、月一回しか飲みに来ない私のことなんて気に留めてもいないだろう。
アパートに着き、部屋に入る。梅雨の湿気が部屋の中に充満している。エアコンをドライにしてスイッチを入れた。埃くさい空気がエアコンから流れる。寄り道をしなかったのでいつもより早く部屋に着いた。コーヒーをすすりつつ煙草に火を点ける。1Kのアパート。やっと帰ってこれた。今週は後五日働かなくてはならない。
紫の煙を眺めながらCDをかける。十年前の曲をリメイクしたアルバム。歌い方もちょっと違う。同じ曲なのに、違って聞こえる。同じ歌手なのに。変わらないものなどないのだろうか。CDを聞きながら十年前に思いを馳せる。楽しかったな。十年前は。体力もあったし、仕事も恋も順調だった。どこで歯車が違ってしまったのか。あ。また嫌な発想。
ダイエットドリンクをコップにあけ、牛乳でかき混ぜる。これが私の夕食。一食二百円。外食やコンビニ弁当、ましてや普通に作るより手軽で安い。腹持ち悪いけど。出来上がったミルクセーキをちびちび飲む。味は美味しい。フルーツの味。平日はこれで我慢するが休日は気が緩んで食べてしまう。だからなかなか痩せない。悪循環。
洗面台に行きメイクを落とした。化粧を落とした素顔はとても人様にお見せできるものではない。鏡の中の私と目が合う。目の下には薄茶色のくま、昔作ったにきびの痕、たるんだ首筋。我ながら醜い。
頭を左右に振り、ため息混じりにバスタブの栓をした。お湯をひねる。蒸気がユニットのバスルームに立ち込める。服を脱ぎ、体重計に乗る。今日の朝は乗らなかった。あと五キロ痩せたい。そしたら普通なのに。
バスルームに戻り、湯気に曇った鏡をまた見る。ボディチェック。これも日課。手で鏡の曇りを払い、裸を見る。下腹が出ている。三十過ぎてから腹が出始めた。またため息をつく。
入浴剤を入れ、バスタブに身を沈める。花の香りを一気に吸い込んで、大きく息を吐いた。繰り返す。気分がほぐれていく。
足先をマッサージする。次はふくらはぎ。肩から首筋。全身が凝っているのが分かる。エステは無理でも、マッサージくらいは行きたいなあ。今度の休み、幼馴染を誘っていこうか。幼馴染の久美子と真理の顔が浮かぶ。
五年前、三人の付き合いが二十五周年になると真理が言い出し、奮発して海外旅行に行った。アジアの小さな島。観光地化されて間もないために建てたばかりのホテルが格安で泊まれた。
日中はプライベートビーチで泳ぎ、辛い料理を食べた。オプションで別の島までヨットで行き、そこのビーチで現地の人にトロピカルなマニキュアを塗ってもらった。
予約制のエステにも行った。三人で一緒の部屋はできないと言われ、私だけ別の部屋に案内された。風通しの良い、何の木で作ったか判らないアジアンテイストの小部屋で言葉の通じない現地のエステシャンが待っていた。
小柄な可愛いその人に、身振り手振りで服を脱ぐように言われ、足や手、腹、背中とマッサージされる。マッサージオイルのオレンジの香りが私を包む。
ふと、エステシャンの腕が、私の足に触れた。しっとりとして、すべすべの肌。うらやましいと思った。
エステシャンは無言で、私の体を揉み解していく。時々、風が通り過ぎる。何の鳥か判らない声が遠くに聞こえる。思考が停まる。帰ったあとのこと、日本での生活のこと、何もかも忘れそうになる。オレンジが私を浄化していく…
あんな贅沢、しばらくできないな。
バスタブの栓を抜き、立ち上がった。ボディソープでからだを洗い、シャワーで流す。髪を洗い、歯を磨いてバスルームから出る。部屋がひんやりしている。爽やかな気分になり、冷たい水を飲む。
やっと一日が終わった。
2
今日は風が強いけれど晴れている。
昨晩はバーで飲みすぎて起きるのが昼過ぎになってしまった。ここのところ雨が多かったから布団を干そうと思っていたのに。
朝食のような昼食を食べ、部屋の片付けと掃除をする。私の部屋はものが多い。多分この部屋のキャパシティを越えている。一度親が来たときごみだらけだと笑われた。捨てられないものたち。他人にとってはごみかもしれないものたち。今の私に必要なものだけを残したらさっぱりするかしら。本当に必要なものってどれだろう。CDも、本も、洋服も、友達にもらった雑貨も、芝居やコンサートのパンフレットも、捨てられない。一人暮らしをはじめてからどんどん蓄積されていく。
部屋の片付けに飽きて近所へ買い物に出ることにした。風に吹かれながら外の空気を思いっきり吸い込む。気持ちが良い。原付のキーを差込みエンジンを掛け出発する。
風が強いのがいささか心配だったがアパートの敷地を出るとさほど影響はなかった。スーパーとドラッグストアに寄り必要なものを買って帰ってきた。途中、原付であてもなく走りたい気持ちになったが荷物があったので辞めた。代わりに散歩しよう。一旦部屋に戻り買ってきた荷物を置いて外へ出る。
昨晩、マスターが言った。
「土曜日の道路って緊張感がなくて平和なんですよね。後部座席に子供が乗ってたりして」
ふうん、相槌をうつだけだった。
日曜の商店街を通りながら駅の方へ向かう。確かに平和かもしれないなと思う。駅に着き、歩道橋をわたると公園に出た。池のふちに沿って歩く。いつだったか都内の公園は大人が多いと何かで聞いた。子供を見かけない。子供が遊んでいない。大人ばかりだ。子供はいるにはいるが必ず親がついている。それも小学生がいない。幼稚園くらいの小さい子が目立つ。
遊具のある場所に着くとやっと子供を見つけることができた。皆ブランコや滑り台で遊んでいる。ブランコの傍で赤ちゃんを抱いた外国の女の人がいる。結婚して日本に来たのか、結婚前から日本に来ているのか。異国で生きていくのは大変なんじゃなかろうかと余計な心配をする。私には出来ないな。
池の周りを歩いていると、ベンチがどれも塞がっている。しばらくすると誰も座っていないところを見つけることができた。座ってみると、なるほど眼前に草が生い茂り眺めが悪い。空いているのが良くわかった。
とりあえず腰掛ける。ボーっとする。今日の私は隙だらけ。これが平和なんかなあ。池の周りをぐるっと囲んでいる柵が目に入る。気が付くと横に渡している柵の棒に、ありの行列が連なっていた。どこから始まっているのか良くわからないがなんとなく列を目で追う。私の座っているところから見渡せる限りありの行列は続いていた。もしかすると池の周りを一周してたりして。ぐるぐるまわっているかも知れない。そのうちどこが巣なのか分からなくなる奴もいるかもしれない。柵を渡っているありが何匹いるのかと思ったらぞっとした。
池に目をやる。こちらは平和。皆、自分たちの周りをありがぐるぐる回っていることも知らずにボートで楽しんでいる。
風が吹いた。帽子が飛ばされそうになる。目の前の草が揺れる。見渡すと木々も揺らいでいる。落ち着かない。帽子を外す。風のせいで髪がぼさぼさだ。ここらで帰るとするか。少し気分転換になった気がして立ち上がる。また池の周りを歩く。
「大岡山はどう行けばいいんでしょうか」
休日なのに背広を着た男性だった。
「わかりませんね」
立ち去ろうとすると
「仕事でこっち来たんですけど道が分からなくなっちゃったんです。この辺のひとですか」
「一応…」
「歩きつかれちゃって。一緒にお茶でも飲んでくれませんか。綺麗なヒトだなあと思って声かけたんです」
突然声かけてきて道が分からないのかと思ったらナンパ?わけが分からない。
「駄目ですか?」
笑った口元は歯並びが悪く、虫歯にやられている。気持ち悪い。
「池沿いに交番ありますよ」
逃げるように帰ってきた。今日は変な日。追いかけてきたらどうしようと思ったが、後ろは振り向かずに部屋まで戻ってきた。気が立っている。時計は五時。夕飯にはまだ早い。埃っぽいのも嫌だったので先に風呂に入ることにする。
お湯を溜めながら煙草を一口吸い、大きく息を吐く。なにやってんだろ私。
バスタブに身を沈めると毛羽立った気持ちが和らいだ。あのまま、あの虫歯男についていったらどうなっていたんだろう。怖かった。最近いいことないな。アレがいい男だったら良かったのに。これっていけない発想?人を見た目で判断してはいけないのかしら。もし本当に困っていたのだとしたら…
体が温まるにしたがって悶々としたものが薄らいでいく。顔が、頭が、ボーっとしてくる。休日は時間を気にせずゆっくりお風呂に入れる。しかもこんなに早い時間から。これだけでいい。今の私にはこれが贅沢。ここは私の部屋の中で一番のお気に入りの場所。
3
最近、仕事が忙しい。
部署が変わって二ヶ月が経とうとしている。新しい職場も、新鮮だったのは始めの三日間だけであとは他のスタッフと同じ量の仕事を任された。毎日残業しても追いつかない。仕事はとめどなく私に降りかかる。休日も死んだように眠り、バスタブに逃げ込んだ。バスタブは私を許してくれたが、入浴剤が切れたのをきっかけにシャワーだけの日が続いた。
帰りも遅く、昼休みも弁当をかき込み、すぐに職場へ戻る日々。誰よりも早く職場へ行かなくてはならないし、誰よりも遅くまで残業するため睡眠時間もままならない。
あとどれだけ頑張ればこなせるようになるだろう。あとどれだけ頑張れば皆においつくのだろう。食欲も落ちてきた。それでも仕事は私にのしかかる。
ある日、シャワーを浴びているとタイルの目地がかびているのに気が付いた。掃除をする暇もなく、毎日シャワーで済ませていた結果だった。
見渡すと、カビはバスルームのあちこちに侵食し、こんなところで私は体を洗っているのかと愕然とした。明日も朝が早い。私は掃除を諦めた。いつものように体と髪を洗い、バスルームを出る。すがすがしさなどは無く、冬の冷気が私を刺した。
悲しかった。私の唯一の場所だったはずのバスルーム。誰にも邪魔されず、ありのままの私でいられる場所だったはずなのに。
このままじゃいけない。何とかしなくては。
いい年して、母に相談した。
「前の部署に戻してもらったら。あと有休もらいなさい」
悔しいよりも先にほっとした。電話口で泣いた。
「なんのためにお母さんがいると思っているの」
突っ張っていた私のとがが外れた。とりあえず、休みたい。
一人で交渉し、一ヶ月の休みと前の部署へ戻してもらうようお願いした。不思議と上司はすんなり受けてくれた。今の部署の人たちはどう思うだろうか。本当の負け組になってしまった。
でも、もう、あとにも先にも引けない。
4
磨く。磨く。磨く。バスタブを、タイルを、鏡を。
あちこちに生えたカビは先日半日かけて落とした。それからは毎日掃除している。
ピカピカのバスルーム。新しいお湯を張って、お気に入りの入浴剤を入れる。花の香りが立ち込める。防水用のCDプレイヤーをつけ、十年前のあの曲をかける。
お湯に身を沈める。大きく息を吸い、吐く。何も考えない。ゆらゆらと、浮かぶようにしてお湯に浸かる。切ないラブバラードが時々私の心を締め付ける。一緒に歌う。ちょっと泣く。汗が、じんわりと私の額に浮かぶ。デトックス。
少しのぼせてきた。湯舟の端に座り足だけつけ、しばし涼む。これを五回繰り返す。
ふと、鏡に目をやる。無防備な表情。誰にも見せない私の素顔だ。またお湯につかる。足を、肩を、マッサージする。一通り揉んだところで休む。
このまま、ずっとここに居たい。でもいつかは出なくてはいけない。そんな思いも、バスタブの湯気とともに蒸発していく。ありのままの姿で、私は、ここにいる。
このまま、バスタブになって誰かを包み込みたい。
上っては消える湯気を眺めているといつのまにか自分がバスタブの一部になっていた。
それでもいい。いや、それもいい…
ありは、自分の巣に帰れただろうか。
了