「この辺に引っ越すのかい?」
ナベさんに言われる。引越しのごたごたから解放されたくて、やってきたのだ。
ここは、ゆっくり時間が流れる。大き目の、ぼんぼん時計のせいなのか。ランプのせいか。ナベさんも、私も、初めて出会ったときから、変わっていないように思える。
引っ越すに当たって、物を捨てることにした。洋服も、たまりに溜まった芝居のパンフレットも。やらなくなったダイビングの機材も。ウエットスーツも。
CDと本は売ることにして、漫画は売るか、友達に譲るかしよう。
外国の、名のも知らない女性ボーカルの歌が流れている。引越しまであと二週間。しばらくナベさん店にも来られなくなる。
「これ、引越し準備の合間に、飲むといいよ」
コーヒー豆を、プレゼントしてくれる。ラッキー。
先日、引越し業者が見積もりに来て、私の部屋を見て呆れていた。
「これ、全部持ってくんすか?」
そんなにたくさんあるだろうか。六畳の部屋に収まるほどなのに。でも、あの様子からすると、相当捨てないといけないかもしれない。なんせ十三年の蓄積だから。苦笑する。
ナベさんの店から帰ってきて、早速ごみ捨てに取り掛かる。クローゼットの中身を、持って行くもの、捨てるものに分ける。次々と、ゴミ袋に詰め込む。口を縛る。寮のゴミ捨て場に持っていく。カバンや、靴も整理する。
物置のものは、ほとんど捨てなければ新居には収まらない。気が付くと夜中になっている。愕然とする。そりゃあ、引越し屋さんも、呆れるわ。
やっぱり大変だなあ。引越しって……ごみの山に埋もれながら、一人呆然とする。洋服で、山盛りになっている上から横になる。ちょっと休憩。気が付くと、眠っていた。
恵子に久しぶりに会うことができた。
彼女も、引越しの時期が重なっているので、お互い、なかなか時間がとれずにいる。
恵子の方はというと、分譲マンションで、駅から五分の距離だそうだ。こちらは賃貸。お互い引っ越して、落ち着いたら、泊まりっこしようと約束して別れる。
引越しまで、もう時間があまりない。平日は、毎日荷造りしている。休日は、不動産屋で契約をしたり、新居での日用品を買い揃えたり……スケジュール帳はびっしりだが、ひとつの目標に向かっている感じが心地よい。
新しい生活。ずっともやもやしていた霧が、少しずつ晴れていく感じ。私は引っ越すのだ。
引越し当日、小雨がぱらついているなか、トラックを迎える。母から、携帯電話に連絡がある。
「何も手伝えなくて、ごめんね」
「引越し終わったら、電話する」
「がんばって」
わずかなやり取りだが、気にかけてもらっていて、嬉しい。
引越しそのものは、朝から、午前中のうちに終わってしまった。母に連絡したあと、電気、ガス、水道の使用開始の手続きをする。
いよいよ、新しい生活の始まり。ここで暮らしていくのだと実感する。
寮に戻り、掃除をしながら、十三年暮らした部屋に別れを告げる。
空っぽの部屋は、少しよそよそしかった。
引っ越してから、週末が以前より楽しくなった。
駅近くのマンションだから、商店街も、駅からどこかへ行くときも、とにかく近い。
今までより、池がとても身近に感じられて、嬉しい。池の周りを、ぐるっと周る。時計回りが多い。少し歩くとベンチがある。一番景色のいい、灰皿もあるところを、ベスポジその一と名づける。ベスポジとは、ベストポジションの略だ。その一から五十メートルほど離れたところに、ベスポジその二がある。
黄色い葉はわずかで、紅葉はまだのようだ。早く紅葉が見たい。桜の開花を待つときのように、今の私の楽しみでもある。老夫婦がカメラを片手に歩いている。
今日は、お昼には家を出て、ベスポジその一を陣取ることができた。格好つけて、本を読んでみる。本は面白かったが、すっかり冷えてしまった。かっこつけて、風邪を引いても仕方ないし。立ち上がる。
時計を見ると、一時間も粘っていたことに気付き、唖然とする。
また、歩き出す。神社の近くで焼き芋が売られている。いつも買うか迷って、止める。
たくさんの人とすれ違う。子供や、大人。老人、中学生。外国人ともすれ違う。皆、はしゃいでと言うわけでもないけれど、のんびりした雰囲気が、池の周りを囲っている。
桟橋の下では、たくさんの鯉が泳いでいる。池のほうに目をやると、ボートの周りを、鴨だろうか。水鳥が群れて泳いでいる。
電子カルテも、病院も、救急車も、しばし忘れる。
これが、今の私の週末。
引越しのおかげで、お金が全然ない。
こうして離れてみると、寮の頃はお金を大事にしていなかった。
毎週、バーや、ナベさんの店に行き、洋服は買い放題、エステや旅行などなど。随分贅沢をしていたものだ。
家にいることが多くなるからと、パソコンを光通信に替えた。その割には寮の頃よりいじっていない。
その代わり、本を随分読んでいる。読むのは相変わらず遅いけど。
念願の、ガスコンロのおかげで、料理もちょっとずつやるようになった。土鍋でご飯を炊いていると、母にメールしたら、
「やるじゃないですか」
お褒めの言葉をいただいた。
バーや、ナベさんの店には前ほどではないけれど、たまに顔を出している。だって、私にとって、病院以外の、社会とのつながりだから。大切にしたいのだ。
恵子とは月一回くらいのペースで会っている。栄美はすっかりご無沙汰だ。きっと、彼氏とうまくいっているのだろう。
お金は自由に使えなくなったけれど、その代わりいろいろなものを手に入れたように感じる。それは、忘れてしまっていた何かに、限りなく近いもの。生活を充実させることが、こんなにも大切なことだとは。
寮を出なかったら、今頃、まだ足踏みしていたかもしれない。
今日は妙に機嫌がよい。
外では、鳥が鳴いている。
久々の平日休み。
それだけで、何か得したような気になる。今日は天気がいいから、池へ行こう。
なんだかすっかり、池の周りを散歩するのが、日常的なことになってきた。寮の頃は、ごくたまにしか行かなかった。十年以上もこの町に住んでいるが、こんなにもこの町を身近に感じるようになったのは、引っ越してからのような気がする。
いつものように、時計回りで歩く。ベスポジ一は埋まっていて、その二のほうが空いている。一休みする。平日のせいか、ボートが出ていない。池もいつもと違った表情だ。
また歩く。ジョギングをしている人と、すれ違う。のんびり歩く。足元の落ち葉が、先週の末より、わずかに増えている。木々はうっすら色を変えているような気もする。見ごろまで、頑張ろうかな、と思う。
池の記念碑の前で、さっきのジョギングの人とまた、行きかう。私が四分の一周歩く間に、この人は一周走ってるんだわ。自分ののろさに苦笑する。
仕方ない。これが私のペース。休日くらい、のんびり歩いたっていいじゃないか。
一周歩くと、おやつが食べたくなる。引っ越して、お酒が減ったせいか、甘いものが好きになった。
今日は、駅前のファーストフードで、ミニケーキか。それともパン屋のアップルパイか。ファーストフードは混んでいるのでアップルパイを買って、部屋に着く。
紅茶とアップルパイの、贅沢な時 私は、満足している。