毒
文藝軌道2011年秋号 石川詩織
毒について。
「これは毒だから、子供にはあげられないわ」
母親が言った。今思えば、酒、たばこ、チョコレート、キムチ、コーヒー、そんなようなものだ。母親に関して言えば、そんな記憶しかない。物心ついたときには、
「おまえは、橋の下から拾われてきた」
という父親の云うことに、反論もしたけれど、今は、本当かも知れないと思う。
父親とは、連絡を取っていない。ていうか、十四のときに、家出して、そのまま。私は街で暮らしている。昼間は、サウナで昼寝して、夜はクラブだ。
前に、銀座で知り合った、お金持ちのおじさんが、お金をくれる。ときどき会う。
昨夜は、いつものクラブ『フォルテッシモ』で飲んでいたら、一人、男が声を掛けてきた。そのままついてきて、今、男の部屋にいる。男はまだ眠っている。昨夜はやらなかった。
冷蔵庫から、ペットボトルを拝借。お茶を飲んでいると、男が目を覚ました。
「あ……おはよう」
男はそう言って、また眠った。
煙草が吸いたくなる。昨夜の感じからすると、男は煙草を吸わないようだった。部屋を見渡すが、灰皿がない。さて、どうしたものか。キッチンに行くと、飲みかけの缶コーヒーがあった。こちらを拝借。
半日ぶりの、煙草は、とてもうまい。キッチンの、椅子に腰かけ、テーブルに肘をつき、煙草を燻らしていると、男が起きてきた。
「変わった匂いだな。それ、葉巻?」
「煙草」
「ふうん。……毒、だな」
男はニヤッと笑った。私もニヤッと返してやる。
「ああ。腹減ったなあ」
男は、頭をぽりぽり掻きながら、バスルームへ行く。
「とりあえず、シャワー」
そう言って、消えた。私は、ちょっと置き去りにされた感があったけれど、待つことにした。煙草をもう一本、吸って、吸い終わらないうちに、男は戻ってきた。乾き切らない髪を、タオルでごしごししながら、
「ちょっと待ってて」
男は、キッチンに立ち、何か作り始める。パンと、チーズと、トマトと、サラミ。ピーマンに、玉ねぎ。トマトソース。
慣れた手つきで、厚切りのパンに、ソースを塗り、胡椒を振る。スライスした玉ねぎ、トマトをのせる。チーズをその上にのせ、さらにその上に、サラミと、ピーマンをのせ、オーブンに入れた。
少しすると、いい匂いが、キッチンに漂う。
「あんた、器用だね」
「そう? コーヒーでいいよな」
「うん」
男は、コーヒーカップの上に、もうひとつ、コーヒーカップのようなものをのせ、紙をその中に敷き、豆を入れ、湯を入れる。すごいいい匂いがしてきた。すげえ。こいつ。
チン、とオーブンが鳴る。
「タバスコ、かける?」
「いらない」
男はケタケタと、笑いだした。
「なんだよ」
「いや。別に」
男は、笑いをこらえながら、ピザトーストと、コーヒーを差し出した。
「うまっ」
「だろ?」
「あんた、料理人?」
「ちがうよ」
こんなおいしいの、食べたことない。私はすっかり、居心地が良くなってしまった。
「俺、ジロー。君は」
「チェリー」
「チェリーかあ。……じゃあ、サクラって呼ぶ」
「……」
「何? 駄目?」
「いいよ」
なんだこいつ。調子狂っちゃうよ。
私とジローはいろいろな話をした。
ジローは三人兄妹の、真ん中だということ。長男は、赤ちゃんのときに死んでしまったこと。父、母、妹と四人で暮らしていたということ。最近、家を出たということ。大学は文学部だったということ。学生時代はジャーナリストになりたかったということ。今はとりあえず、サラリーマンをしているということ。高校時代は、サッカー部だったということ。などなど。
こいつ、いい奴なのかな……。私とは違って、恵まれた境遇。正直、うらやましくなる。そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。いい人って、世の中にはいるんだな。おじさん以外にも。何か、お礼がしたい。トイレで考える。
「生理になっちゃった。近所にコンビにある?」
「ああ。アパートの前の通り、右に行くとあるよ」
昼過ぎの、知らない街。住宅街。ここはどこだろう。私は、どうして、ここに来たんだろう。
コンビニに入り、いろいろ品物を見てみたけれど、ジローへの、プレゼントになりそうな物は無い。何か、良いものあげたい。駅まで足を延ばすことにする。駅なかの、ショッピングモール。財布は、殆ど空で、何も買えないと気付き、呆然とする。どうしよう……。本当に、どうしよう……。そうだ。
「もしもし」
ジローへ。
こないだは、ありがとう。ピザトースト、とてもおいしかったです。
いつか、ジローに会えたら、渡そうと思って、手紙を書くことにしました。
私は今、お水のバイトだけど、ちゃんと、働いてるよ。働いたお金貯めて、ジローにプレゼント買おうと思ってるんだ。
ジローみたいな、良い人、会ったこと、なかった。
と、ここまで書いて、こんなの、嘘と思って、ペンで、便箋をぐちゃぐちゃと書き潰す。私は、毒を口にして、毒を吐きだす。何度も。毒は、私を蝕むけれど、毒は、私を裏切らない。
ていうのも、嘘。なんか、よくわからない。本当は、もう一度、会いたい。ジロー、ジロー、ジロー、ジロー。心のなかで呼んでも、もう、会えない。会いたい。会いたいよジロー。
あの時、言わなかったけれど、私の本当の名前、『さくら』って言うんだよ……。
了
H22.1.22