4、深海1
時には優しく、時には厳しく。晴れた日は明るく、雨の日は荒々しく。
空が台風で吹き荒れていても、ひとたび潜れば、そこはとても静かだ。
電子カルテの騒動も、一段落付いてきたかな、という今日この頃。誰かがパソコンの壁紙を、どこかの南国のビーチの写真に替えていた。
一体、誰がしたんだろう。そのことに対する疑問より、南の島に行きたい衝動に駆られる。
海。一艘のヨットと、やしの木。白い砂浜……
とても暖かな、明るい夏のイメージで、薄暗い診察室で光っている。まるで、飛び込めば、そこに行けるかのような、錯覚すら感じてしまう。
旅行、してないな……この夏は、仕事一色だった。引越しのこともあって、経済的に、日帰り旅行もままならない。自分の懐具合に情けなさを感じる。
そのうち、行こう。南の島に、飛び立とう。お金も貯めなきゃ。水着も着るから、ダイエットもしよう。恵子と、栄美を誘って……
仕事からの帰り道、寒い町を歩きながら、私は、写真のイメージを膨らませていく。
エメラルドグリーンの海。
私は今、あの光景の只中にいる。海の色は、岸を離れていくにつれ、緑から、濃いブルーへと変わっていく。
ボートが、エンジン音を立て、どんどん岸から遠ざかっていく。私たち三人と、インストラクターのお兄さんは、無言で、空と海を見詰めている。
ここは、どこだろう。もう、随分遠くまで来てしまった。
エンジン音が止む。お兄さんは、慣れた手つきで、ロープを海面に放り投げる。重りが、沈んでいくのが見える。それだけ、水が美しいと言うことだな、と思う。
まず、恵子が、次に私が。お兄さんと、潜るのが初めての栄美が、順番に海面から降りていく。
ロープにつかまり、耳抜きをしながら、ゆっくり下がっていく。
海底は、珊瑚の粒で、真っ白だ。海草が、揺れている。色とりどりの魚が、群れて泳いでいる。私たちは、手をつないで、はぐれないように海底で集まる。
お兄さんは、BCジャケットのポケットから、魚肉ソーセージを取り出し、ナイフで包み紙を切る。私たちに、数本ずつ渡すと、
『ちぎってみてください』
ホワイトボードに字を書く。栄美は、きょとんとしている。
私たちは、ソーセージを、指で潰していく。綺麗な、青や黄色の、小魚が、寄ってきて食べる。
栄美も、恵子も、私も、満面の笑みで写真をとる。
ずっとここに居たい。そう、思う……
幼馴染の二人は、私の誘いに乗ってくれるかしら。嬉しい心配をしてみる。遊歩道の、桜並木は、色の変わった葉っぱたちを、一枚、一枚、ひらひらと落としている。
家族旅行。
まだ、妹が生まれる前、私が小学生の頃、父と母と三人で、海へ行った。担任の先生と、同じ名前のところだ。
ゴムボートを、お父さんが膨らましてくれた。黄色かった。プラスティックのオール。こぎ方を、お父さんに教わるけれど、どうしてもうまく漕げない。私は、必死で練習する。
お母さんと、私と、二人でボートを漕ぐ。オールを一本ずつ持って。呼吸を合わせる。ぴちぴちと、ゴムボートに、波が当たる。
お父さんは、ボートにつかまって泳いでいる。私たち二人が、オールで漕ぐより、お父さんに押される力のほうが勝っていて、ずんずん、ボートは、岸から離れていく。
お父さんが、防水カメラを持って、ボートの上の、私たちの写真を撮った。防水カメラのカバーも、黄色かった。
あの写真、どこに行ったろう。実家にあるかしら。お父さんは、海が好きなのだろう、と思う。そして黄色も。
昔、家にはガラスの浮きが、網で吊るされていたし、ダイビングが趣味だったようで、お父さんが撮った、海中の魚の写真も飾られていた。
一時期、お父さんがやっていた喫茶店のマッチには、ヨットの絵が、描かれていた。ヨットと言えば、お父さんに連れられて、ヨットの展示会場にも行った思い出がある。
今は、両親は、神奈川の海の近くに住んでいる。
私は、一人、東京に来てしまったけれど。