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 教会とバチカン −12使徒の後継者−

バチカンといったら、皆様ご存じ、バチカン市国。500メートル四方に欠けるサイズの世界で一番小さな独立国。人口約800人は、全て教皇庁関係者。
信者10億とも云われるローマ・カトリック(下記参照)の総本山である宗教国家、であります。
19世紀末、イタリアという国ができた時、各地にあった教皇領(昔は、もっと俗世的な権力も備えた国家だった)をどんどん併合、ローマ市も没収して、イタリアは完全統一されたのですけれど、当時の教皇がそれに激怒して、あそこに立て籠もっちゃったんですって。
で、しばらく、イタリアとは没交渉を貫いてたらしいのですが、その後の政権(ムッソリーニ軍政権)との交渉の結果、教皇の俗権放棄の代償として、バチカンだけは教会領として認められたというお話。
駄々って、捏ねてみるもんね。

2001年秋現在のローマ教皇は、ヨハネ・パウロ二世。
ローマ・カトリック首長としては破格の…破天荒といっても過言ではない…お人。
在位からこっち、その傾向はあったんですけど、ここ最近は特に、みどうに「まるで死期を悟った老人のような」と称される(失礼)くらい、端から見てる方が、そこまでやっちゃって大丈夫か?とハラハラしてしまうような行動をそりゃもう次から次へと精力的に取っております。
仮にもカトリック法王が、ダーウィンの進化論認めちゃヤバいだろ、おい。
そのうち、暗殺でもされやしないか、と心配…。(実際、一度、されかかったらしい)
 ■カトリック(ローマ・カトリック)

プロテスタントが「新教」と呼ばれるのに対して、こちらは「旧教」とも称します。ローマ教皇を首長とする、キリスト教の一大主流。カトリックとは、本来、古代ギリシア語で「普遍」という意味。

神による人間の救い。
救いに必要な徳と、守るべき掟。
救いを得るために最も重要な秘蹟と祈り。
この三点について、神が与えた啓示を真理として受け入れ、それに従う事。
更に、啓示はイエス・キリストによって、完全に与えられたので、信仰とは、キリストに従う事である。
ゆめ疑うなかれ、信じる者は救われる。

誠に大雑把ではありますが、これがカトリックの教義の大意であり、その教えは聖書と聖伝(聖書にはない伝承、聖者信仰や天使信仰など)に依っています。
カトリックで僧籍にある人は、皆、神父、と呼ばれますが、組織としては、完全なピラミッド型位階構造。こちらでは、その階層なんぞを適当に列挙してみましょう。

 法王あるいは教皇

言わずもがなの、ローマ・カトリック教会の首長。
「法王」の方は、他宗教の首長でも使われるっちゃ使われる(例:ダライラマ法王)ので、「教皇」の方が、イコール、ローマ・カトリック首長としては、判りやすいのでしょうか。
個人的な読み物の中では、微妙に違う意味を持たせたりしてますが、この二つ、一般的には全く同じ意味合いで取り扱われております。
選出方法は、枢機卿の互選。(多数決で2/3以上の得票が条件)
任期は終身。故に、教皇になるチャンス自体、滅多にないです。
ルネサンス時代なんか、教皇選出が行われる、となると枢機卿同士、裏での金のバラ巻きや腹の探り合い、瀕死の現教皇の枕元でライバル同士の罵り合い、なんてのもあったそうですが。
原因不明の病で急死、なんて人も、いたなぁ、そーいえば。
俗世も聖域も、今も昔も、あんまり変わらないですね。

そうまでして、枢機卿の皆様が狙った教皇の椅子とは、どんなものか。
「神の代理人」とも云われる教皇ですが、正式には、サンピエトロ、つまりは、初代教皇聖ペテロ(使徒シモン。前職:漁夫)の後継者、であります。
何で「シモン」が「ペテロ」なのかといいますと、聖書の中でイエスがシモンに対して「お前はペテロ(岩)だ」と言ったからなのですね。

あなたはペテロ(岩)である
 そしてわたしは この岩の上に わたしの教会を建てよう
 黄泉の力も それに打ち勝つ事はない
 わたしは あなたに天国の鍵を授けよう
 そして あなたが地上で繋ぐ事は 天でも繋がれ
 あなたが地上で解くことは 天でも解かれるであろう

マタイによる福音書・第一六章より

こうして、全キリスト者は、「イエス・キリスト=神」の地上での代理人と指名されたペテロに、服従しなければならないと決定されました。
以来、教皇は、天国と地上、地下の三界の支配を意味する三重冠と、天国の鍵を組み合わせたものを紋章とし、漁夫の指輪を嵌めた手で命令を下し、同じ手で祝福を与え続けてきました。
現在、教皇の座すサンピエトロ大聖堂は、皇帝ネロの競技場で殉教したペテロの遺骸の上に建てられた、と云われています。
 枢機卿

ローマ教皇の最高顧問。カトリックでは、教皇に次ぐ高位の教職であります。
教皇庁の諸聖庁、諸官庁の長官または構成員で、教皇の補佐などをいたします。
司教枢機卿、司祭枢機卿、助祭枢機卿の三種。その選任権は、教皇にあり。
(条件:司祭以上の教職者であること。ただし、司教枢機卿は司教以上)
枢機卿のローブは緋色と決まっているため、緋の衣を纏った貴族、なんて云われようもしますが、何よりも、ここまでのし上がらなければ、絶対、教皇にはなれません。だけど、この枢機卿だって、定数70名の狭き門。
教皇=神の代理人だったら、さしずめ枢機卿は、御前天使(七大天使)ってトコでしょうか。
実際、ここまでくると、すっごいブルジョアジーな生活送れるそうで。
金持ちだから幹部になれるのか、幹部になれば金持ちになれるのか。
宗教組織における、古今東西、万国共通の謎でございます。
 司教

ある一定の地域(教区)における最高聖職者。
総大司教、首都大司教、大司教、司教などの階層制。
カトリック聖職者は、司教以上になって、初めて、キリスト司祭としての完全な権限を得るそうです。
東方正教会の場合は、この総大司教が各教会の首長となります。各地域事に、首長がいるわけやね。例えば、ロシア正教、イスタンブール正教、エジプト正教。日本正教。←あるのよ、そーいうのも
しかし、東方正教会(「ギリシア正教」とも称されます)の詳細については、またのちほど、<異端編>にて。(何故
 司祭

ミサを執行する事を許された聖職者。司教の補佐やなんかもいたしますが、その権限は、限定されます。
カトリックの教義では、人類唯一の大司祭は、キリストであるとされています。十字架上の犠牲を再現するミサ(聖祭)においても、真の執行者はキリストであるのだそうで。
司祭は、キリストに倣って、生涯独身を貫く事を強要されるそうですが、…最近では、妻帯も認められたんじゃなかったかなぁ。…例の革新的な教皇が、なんか言ってたような気がする。
そんなニュース、聞いたような気がします。<曖昧
ちなみに、この司祭以上だと、教会により、秘蹟(下記参照)を授ける力を与えられます。
こちらよりも下の階位にあるのは、助祭、副助祭。司祭の補佐、というより、お手伝い、というところかしら。
 修道士・修道女

修道会に属する男女。修道院と呼ばれる場所に共住する。
そもそも、修道会とは、カトリックによって公認された団体。世俗社会を離れて、清貧・貞潔・従順の誓願を立て、永続的にそれを守る、キリスト者の集団。
こう書くと、何だかすごい信者ばかりのようですが、昔は、捨て子や親のない子供、嫁入り持参金を出せない貧乏貴族の娘の最終落ち着き先だったりもしたようで。
やはり、その後の生活は、入所する時に持ってきた心付け次第、だったようです。
(身一つで来た最下層者は、下働きして置いてもらうって感じなのね。さみしー)
正式には、聖職者ではないので、秘蹟を授けたりする力はなし、です。
 ■秘蹟(サクラメント)

キリストによって定められた、神の恵みを受ける方法。
洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の7つがある。
ちなみに、プロテスタントでは「礼典」と称し、洗礼と聖餐の2つだけ。
大意は、次の通り。

 洗礼

人間は本来、罪にまみれているらしい。なんたって、神に逆らったアダムとイブの子供達だもの。なので、この儀式によって、新たに神の子、キリスト教徒として生まれ変わるのだそうです。
こちらは、洗礼者ヨハネが、ヨルダンの畔でイエスに洗礼を施した、という、福音書中のエピソードによります。
…余談ですが、ほんとーに余談ですが、みどうのリアル母は、この儀式によって与えられる「洗礼名」なるものを持っているらしいです。びっくりだ。どんな名前なのか、是非とも、リサーチしてみたかったのですが、「生まれてすぐ、(洗礼に)連れてかれたらしいってだけで、そんなもの覚えてない」と。…死んだ婆ちゃま(みどうの曾祖母)が熱心なカトリックだったのだそーな。
 堅信

洗礼を受けたキリスト者が一定の年齢に達した時、「本当にキリスト教徒になるね?」と再確認し、正式にキリスト教徒として認める儀式。洗礼を受けた者が、成年に達していた時は、セットで行われるらしいが、みどう母のように、生まれてすぐ、親に洗礼を受けさせられた乳幼児などは、学校に上がる年齢程度で、新たに受けるものらしい。
(ちなみに、みどう母は受けていない。…多分。<当人はそう訴えているが、元々、記憶力に難がある人なので、信憑性はあまりない)
 聖体

神父の手から与えられたパンと葡萄酒は、キリストの血と体に変化している、らしい。これを食する事により、イエス=神との合一をはかります。
これは聖書の中での最後の晩餐のシーン、イエスが使徒に手ずからパンを与える場面に由来します。

取って食べよ、これはわたしのからだである
みな この杯から飲め。
 これは 罪のゆるしを得させるようにと
 多くの人のために流すわたしの契約の血である

マタイによる福音書・第二六章より

だけど、この儀式が魔術的であるとも批判されていたりして。物質変化→神との合一って、錬金術の基本趣旨だったりもするのですよね。結局の処、オカルトの根は教会の中にあるのだという事を教えてくれる一コマです。
 (聖餐)

パンと葡萄酒を飲食するのは、聖体と同じ。
ただ、プロテスタントの場合、牧師(カトリックでいうところの神父)だからといって、特別な力がある訳ではない、とされているので(新教って「神は聖書の中のみにあり、人の心の中にあり」だから、自力でパンと葡萄酒をキリストの血肉に変換させなきゃならんのよね…)みんなで食べましょってとこですか。
 告解

人間は罪を犯す生き物です。洗礼を受けて、一度、綺麗さっぱり、罪を許された身であっても、生きてる限り、ちまちまちまちま、罪はその身に山積していきます。
故に、定期的に教会に通って、神父に罪を告白致します。そこで、
「赦します」
というお言葉と、場合によっては、赦しを得るために相応の祈り、労働(罰当番?)などを与えられ、またしても、綺麗さっぱりとした身となるのです。
 終油

人間、死ぬ前には、これを受けないとイケマセン。大体、告解とセットですね。
文字通り、いよいよヤバい病人に油を塗るという作業なのですが、これが、キリストの慰め、ということになるんでしょーか。やっぱり、聖書の中に、そのようなエピソードあり。
瀕死者の枕辺に呼ばれた神父は、終油を授けて、最後の告解を致します。ここで今まで生きてきた中で犯した悪事、全部ゲロして、赦しをもらって、ぱっと死ねれば、キリスト者は皆、天国へ行ける…ハズなんだけどな、理屈では。
反対に、終油・告解に間に合わないと、場合によっては、地獄行ってこと?
下手な場所じゃ死ねないねぇ。むーん。
(現在では、「病人の塗油」とも言い、病気快癒への祈り、慰めとしても行われるそうです)
 叙階

聖職者に任命する権利、ですね。
神父の階級によって、任命できる階位には制限あり、です。例えば、司教が任命できるのは、司祭まで。司祭が任命できるのは、助祭まで。
 婚姻

文字通り。
神の祝福を受けた男女として認めます。神の力によって結びつけられた信者同士ですので、当然、離婚は許されません。そして、この婚姻から生まれた子供以外は、本来、洗礼に与れません。
洗礼に与れない子供は、この世に生まれ落ちた瞬間から、地獄行が決定してしまいます。地獄行が決定した魂は、絶対、最後の審判で復活できマセン。これは、キリスト者としては、致命的。
(そもそも、聖書で見る限りでは、キリスト教とは、終末の日、最後の審判で復活し、その後の天国へと導かれるために今を生きる、そういう宗教です)
昔は私生児は、もんのすごい差別されたみたいですよ。
 <蛇足なんだけどさ〜聖書・旧約と新約>

聖書、と一般的に呼ばれる書物、正式には「旧約聖書」と「新約聖書」の合本構成となっております。「新約」だけだったら、「新約聖書」と書いてあるはず。
聖書というのは、正しくは、「神との神な契約の」という意味合いで、これはもう、読んで字の如し、です。でも、キリスト教の大本になったユダヤ教では、バイブルといったら、「旧約」のみ。というか、そもそも、バイブルはひとつしかないので、旧約も新約もありゃしない、というのが、正解。
旧約聖書とは、イスラエルと呼ばれたユダヤの民が神との間に結んだ契約に基づき、ユダヤの人々は神の求める律法を守る、神は彼らに祝福を与える、という、お互い、フィフティ・フィフティの契約を取り交わした書、なのです。
この中で語られる、イスラエルを救う救世主(メシア)キリストの存在が、キリスト教とユダヤ教、旧約と新約とを大きく分ける事になります。
旧約は、イスラエルの民のみと交わされた契約。
しかし、キリストは「イエス」という形を取って顕現し、その十字架下での犠牲により、神と世界人類全てとの間で、再度、契約は成された。
こう主張するキリスト教は、イエス出現以来の教えの書、を「たになされた契の書」であるとした訳です。
しかし。
イスラエルの民、そんな事は認めませーん。
だって、イエスはイスラエルの民、救ってないじゃん。なのに、イエスがキリストだなんて、何で言えるのさ。
…いやまぁ、イエスが、優秀な導師(ラビ)だった事は認めますけどね。<ごほごほ
という訳で、ユダヤ教においては、まだ、キリストは顕れていないのであります。
イスラエルの受難を救う救世主が現れるのは、いつの日か。
(…こう書くと、よくあるRPGのようね、とか思っちゃうのは、何故かしら…)
 <蛇足なんだけどさ〜聖書・福音>

福音。
それは、神が人間の救いのために、イエス・キリストを通じて与えた、喜びの訪れ。
福音書。
それは、いっぺんに読もうとすると、段々、精神がささくれてくる書。
なにせ、同じような内容の書が、4つもあるですよ。3つ目末期くらいに差し掛かると、イエスが自分の最後を予知して、ひとり、ゲッセマネの園に籠もるシーンなんぞ、「くっくっくっ。怯えとるな、怯えとるな、人としてー」などと、小暗い含み笑いを洩らしてしまうようになります。<ヤバ
だってほらー。もうストーリィ判ってるしさー。そもそも、そんな明るい内容でもないしさー。何度も読むの、かったるいー。<そもそも、一気読みしようとするから…

ええと。
気を取り直して、まいりましょう。福音書。
内容は大体、イエスの出現から、十字架にかけられ、最後には復活するという、その一連を、『イエスは言われた』のようなお説教を取り混ぜ、綴るという形式。
前述しましたが、正式に「福音書」とされているものは、4作あります。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4人の手による、とされるもの。この4人を「福音聖者」「福音記者」と称したりもしますが、それはさておき。
この4つは全て、「新約聖書」の中に収められています。
初めてB/Mやってて、不思議に思った事その一。
なんで、「マタイ」って人、いないんだろう?<ビミョーな疑問だなぁ…
 正統であるということ

カトリックでなければ、全て「異端」と云われた時代もあるキリスト教。正統、というものがあるのならば、それはやはり、カトリック、という事になるのでしょう。
キリスト教って本当に、「異教」よりも「異端」に敏感で、その反応は冷酷、残酷だったりします。受け取り方って、人それぞれなのにな、と思うけれど、そんな事を考えるという事自体が罪であり、「異端」であるとされた、そんな時代もあったのです。

  
 ◆◆ INDEX〜B/M YOUGO GITEN