せかい +++ act.2


そして僕たちは王宮の床に 輝く偽りの歌を刻みつけた

王国/谷山浩子



眼下には、小さな街がある。闘技場の発する猥雑な活気はない。ただ、人々の営みを感じさせる穏やかな風景。
アベルと彼とが、この街の外れにある家に落ち着いて、数週間が過ぎていた。この街は、今まで住まいしていた場所に比べたら、片田舎といえるくらいで、その分、奴隷である白き羽に対する差別意識も強いらしい。それでも、周囲に人家はないため、アベルは多少ならば、自由に外に出る事もできる。アベルにとって、ここはひどく平穏に緩やかな時間の流れる場所だ。
ただ、彼にはそんな暮らしは向いていないと思っていたから、彼が古い本をどこからか手に入れ、それを読み耽って時を過ごしている現在に、少し訝しむ。
彼の読む本は、旧時代の隠された知識に関するものばかり。
その中には、アベルとその兄弟の名の由来になった物語も含まれていて、アベルの、今では随分と動かなくなってきた感情がふと揺らぐ事がある。
悪神に『愛』された少年アベルと、自らの手で呪われた弟を殺し、善神から<永遠>を授かったカイン。
胸の潰れるようなこの想いが何だったのか。疑問を抱くより前に、端からこぼれ落ちていく。感情も、記憶も。
記憶は、消えていく、というよりも、ただ、風化していく、という表現が正しかったかもしれない。アベルの中では、外界とは時間の流れが違うとでもいうのか、それらはあっという間に澱んだ記憶の淵に沈み、埋没し、見えなくなる。
今では、全てが遠い、まるで夢の中の話のようにしか感じられない。兄の存在も、兄だけを唯一としていた事があったということも。
いつか、彼の事も、そのように感じられるようになるのだろうか、と思うと、やはり、胸は締め付けられるようだったけれど。
ああ、まだ何か感じる気持ちは残っている、と、心の片隅で安堵する。
彼が、剣闘士を辞める、と言った時も、隠居のように人里から離れる、と言った時も、アベルは全く、驚いた顔を見せなかった。
彼が、自分のしたい事を諦めるのを、少しの哀しみで受け止め、そして、全てを受け入れた。
彼も、何も言わなかった。アベルが、彼に何も問い質さなかったのと同じように。
彼らはただ、決めた事実だけを口にして、そして、それに従って行動した。
数ある関係者にどのように話をつけたものか、彼のような職業の者には珍しい程に、円満な廃業を認められ、美辞麗句で飾られた華々しい引退試合の準備の進む中、アベルはただ黙々と、引っ越しの準備を調えた。
全く速やかに事は運んだ。最後の試合も華々しく大勝し、己を贔屓にしていた客達を大いに儲けさせ、まとまった金を手にして帰宅した彼は、その足で、アベルと共に街を離れた。アベルが用意した小さな荷物だけを待って。
今まで彼らの家だった借家は、その形跡など一切残さぬ程、アベルが完璧に片づけた。
消える事は可能なのだ。全ての痕跡を消して、姿を眩ませて、そのうち、彼らの事など、誰の口にも上らなくなる。そうすれば、もはや初めから存在しなかったも同じ。
世界から、存在は抹消される。
だけど、運命から逃れる事は?
薄曇りの空は、今にも泣き出しそうな重い灰色。
もう、あまり時間は残されていない。
「ゼロ様。やっぱり薬草を採りに行ってきます」
長い雨になってしまったら、目当ての植物も探し出せなくなってしまうかもしれないから。
「…『ゼロ』って呼べって言っただろ」
唇を尖らせて言い募る彼が、子供のように映るのは、その瞳を潤ませ、紅玉の強さを和らげさせている熱のせい。
「……ゼロ」
宥めるように口にすると、ゼロは満足げに微笑う。
貴方が喜んでくれるなら、何だってしたいと思う。僕はこれから、貴方に酷い事をするのだから。
「この程度の熱、寝てれば治る。別に、薬なんか必要ない」
だから、外に出るな、との言下の答えに、苦笑を作る。
「まだ、薬草に関する知識くらいは残ってますから、大丈夫」
こんな風に、己の記憶に関する話題を持ち出せば、彼は何も言えなくなってしまうのだと知っていて、敢えてアベルは口にする。彼がアベルを止める言葉を封じるために。
「それじゃあ、行ってきます」
軽く、殊更に軽く言って、扉を潜るアベルに、
「…アベル」
ゼロのかけた声は、不思議と静かで。
思わず、アベルは背後へと体ごと向き直る。
「お前は、ここにいていいから」
かかる言葉は唐突で、だけど、それは薬草を探しに行くアベルへ、というより、もっと大きな、本質的な意味であると悟る。
「俺は、絶対にお前を手放さないって決めたんだ。お前が離れたいって言っても、絶対、な」
そして、いかにも得意満面といった子供の顔。
「俺の本気を舐めんなよ」
彼の言葉は、鋭い爪のついた凶暴な手となって、アベルの心臓を鷲掴み、そして抉り上げる。
いっそ、このまま、握り潰してくれればいいのに。
そうすれば、このまま、ここで終わる事ができるのに。
だが、心臓は動きを止めない。涙の一粒すら、出なかった。でもまだ、笑みを作る事はできる。唇の端を持ち上げて、頬の筋肉と目元を緩めて。
この人はいつも、アベルの欲しい言葉をくれる。綺麗で暖かな気持ちをくれる。アベルを赦し、受け入れてくれる。だけど。

「離れません」

もう赦さなくてもいい。

貴方を裏切る僕を、決して許さないで。覚えていて。
どうか許して。忘れてしまって。
相反する想いはぐるりと回って、ひとつの輪を形作る。
決して終わりのない、問い。願い。想い。


答えは、いらない。


「すぐに帰ってきますから」
嘘の上に、嘘を重ねて。
この扉を閉めたら、もうこの楽園には戻れないのだと知っていたけれど、既に悲しい、という感情は枯れかけていたから、あまり動揺もせずにすんだ。彼に不審感を抱かせる事もなかっただろう。その事だけに安堵する。
近づいてくる。目に映らない距離にいる者達が何故か、手に取るように判る。その者達が身に纏うアンゲルス教団の法衣でさえ。

来るといい。早く。

口角が笑いの形につり上がる。笑いたくなどないのに。笑いって、どんな気持ちの時に浮かべるはずのものだっただろう。
赤く染まるアンゲルス教団の法衣。噎せ返るような鉄錆びた匂い。
思い浮かべる。ただそれだけで、今、ここにある現実ででもあるかのように、鮮明に脳裏に映る。
まるで、感情を失うのと比例して、感覚は研ぎ澄まされていくかのようだった。
ああ、運命から逃れる事は、できないものか?


愉悦が、あった。














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