せかい +++ act.3


そして僕たちは王宮の床に 輝く偽りの歌を刻みつけた

王国/谷山浩子



手にも、羽にも、どろどろとしたぬめりがついた。そんなアベルの不快感に呼応するかのように、重々しい曇天からぽつりと大粒の滴が落ちる。
水。ぬめりのない、透明な。
天を振り仰ぐ。途端に、空は落とす水滴の量を増やし、みるみるうちにそれは、滝のような雨と化した。
目に入った水は、目尻からこぼれ落ちて、こめかみに筋を作る。視界が緩やかにぼやけて、赤い色は拭い去ったように消えていき、それで、ようやっと周囲の情景が目に映るようになった。
赤く染まるアンゲルス教団の法衣。噎せ返るような鉄錆びた匂い。
先程の空想と、寸分違わぬその情景。
ただ、空想の中で感じた感情が、今はない。
愉悦。
それって、どういうものだっただろうか。
静かに歩を進める。そちこちに倒れた、男達の遺骸。皆、体中を切り裂かれて、教団の衣装を全て朱に染め変えて。
気づいた時。
アベルの足は止まっていた。
足下に、男の死体。その手から零れ落ちたのか、そこに一本の短剣があった。

『ああ。嬉しい。この短剣』

糸に引かれたように、拾い上げる。

『さあ、この胸がお前の鞘。ここにお眠り』

そんな科白をふと思い出す。 誰の言葉だっただろうか。



忘れてしまった。


















闇に浮かぶ白い光。
地に敷き詰めた白い羽から舞い飛ぶ粒子が世界を照らし、繭のように包み込む黒い羽が世界を護る。
前に、どこかで見た、光景。
夢で見たのかもしれない。

「…ああ、来たね…」

涼やかな、鉄錆びた、年若い、老成した、男のような、娘のような。
光り輝く闇の声。
ぼんやりとした視線をそちらに向ける。それを受けて、『闇』はふと、眉根を寄せる。
一体、何だというのだろう。

「………お前。その魂魄は、どうしたのだ?」

魂魄。
魂は精神を、魄は肉体をつかさどるたましい。ふたつが絡み合うようにして、それでたましいと呼ばれるものは形作られている。しかし、魄を失えば当然、死に至るため、普通にたましいと言えば、それは魂を指すものだ。

「お前の魂は、消滅しかかっている。このままでは、生きた人形と化すだろう。…それが、あれらの目的なのであろうが」

彼の元へと堕ちてきた時、贄の魂を消滅させれば、彼の前に肉体だけが残される。彼が己の意識を移して、この獄舎から抜け出すための体が。
餌。
そんな単語が脳裏を過ぎった。
蜂に麻痺針を刺されて、身動きのできなくなった芋虫。目の前には、産みつけられた透明な卵。
生贄、とは、文字通りの意味なのだ。

ああ、そうか。
だから、感情が消えていってしまったのか。

そんな事を今更のように思って、だけどもう、何も感じなかった。恐怖も、哀しみも、諦観さえも。
何もかもが消え失せていた。
なのに、目の前の『闇』の方が、気分を害しでもしているように、不機嫌そうに眉根を寄せる。
この状況は、何なのだろう。
ふわふわとした思いは、口元を緩ませる。それはまるで、微笑んででもいるかのようだったかもしれない。
『闇』は、驚いたように目を見開いて、そして、彼を見据えた。まるで、全てを映し出す鏡のような、底のない澄み切った黄金の瞳で。

この世界に時間はない。一瞬は永遠であり、永久は刹那となる。しかし、それでも、長い、と感じられる沈黙があった。

「…このままでは、お前は消えてしまうよ」

淡々と、ただ事実だけを述べる言葉。なのに、そこに何らかの『感情』を感じて、顔を上げる。この『感情』は、何を指すものだっただろう。
『闇』の方が、己よりも『感情』を持っている。それが、何だか不思議でもある。

「我を受け入れよ」

決然と示される。『闇』の意志。
彼が何を言っているのか、首を傾げるより前に、『闇』は更に続ける。

「地上に戻りたいのなら、その身に我を受け入れるのだ。そのままでは、お前は確実に、滅する。…どうする?道は、二つにひとつだ」

身のうちに彼を受け入れる。それがどのような意味を持つものか、どのような結果をもたらすものか。
そんな事は、もうどうでもよかった。道は、初めからひとつしかなかった。
己は、帰ると約束した。地上に、彼の元に。それ以外に守るべきものなど、何もなかった。

手を伸ばす。鎖に繋がれた美しいモノへと。

『闇』が、伸びをするように天空へと広がる羽を震わせる。それだけで、幾重にも巻かれていた鎖が千切れ飛び、大小の破片が雨のように周囲に降り注いだ。『闇』の黒い羽の下、傘に護られた彼らの上に、降ってくるものはひとつもなかったのだけれど。

『闇』は、この世界から出られないのではない。出なかっただけなのだ。

差し出された手は、何処までも白く、美しい。
痺れたような意識の中、こちらへと伸べられた手に己の手を重ね合わせる。氷の手と未だ生きた人の手は出会い、次の瞬間、握り合わされた掌が癒着した。まるで、元々、繋がったひとつの躰であったかのように。
その時、己は『闇』を理解した。『闇』の過去、現在、未来。記憶。力。『闇』が何者であったのか。これから、何を成すものか。
『闇』も己を理解した。短い時間の中で生きてきた己のすべて。何よりも大切な存在と、彼に抱いた暖かな『感情』を。
そして、彼らは共に融け、崩れ去った。欠片は光となり、大地に降るより前に、世界へと霧散する。
その時、『彼』は消えかけた意識が、不意に暖かな何かに包み込まれるのを感じた。
それは、遠い昔に感じた感情、幸福、というものに似ていたかもしれない。
端からぼろぼろと崩れ落ちていく魂は、既に幾つもの細かな切片にしか過ぎなくて、それでも、欠片のひとつひとつが小さく小さく、口ずさんでいた。ひとつの言葉を。

ゼロ。

それが何だったのか、そんな事はもう判らなかったけれど。

………………ゼロ。

忘れない、と。
そう、決めていたから。
ふんわりと優しい何かは、欠片のひとつひとつを残らず、包み込み、抱き締める。まるで、それを護り通すかのように。
















こうして、生贄のアベルと呼ばれた少年の物語は終わる。



幾つもの光り輝く欠片を内包した、まあるい小さな生まれたばかりの魂は、魂を育む子宮へと変貌したこの世界で眠り続け、時満ちた時、新たに生まれ出た命として、地上へと還る。
その時、再び、世界は動き出す。



だけど、それはもう少し後の話。



今はただ、死よりも深い眠りがあるだけ。





END







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