奇跡のヴェール +++ 中編


罪や かなしみでさえ そこでは聖くきれいにかがやいている

宮沢賢治



今日は、朝から慌ただしかった。日が暮れて後、闘技場で彼の試合があるのだ。
アベルも手伝いたかったのだが、やはり、彼は殆ど全てをひとりで済ませてしまった。
彼が厳しい目を光らせた最後の検分も、非の付けどころもなく磨き込まれた鋼鉄の刃は難なく通過して、冷たく滑らかな響きを聞かせて、鞘へと消えた。
「…あ、あの…」
こんな時、何というのが正しいのだろうか。
『頑張って』…一体、何を。
『怪我をしないように』…僭越だ。
『気をつけて』…言われるまでもないだろう。
ぐるぐる悩むアベルの言葉は、またしても、胸奥で滞ってしまった。それでも、何とか俯く事に耐えるアベルの前で、彼が軽く目を眇めた。
何か、悪いことでもしただろうか。
そう思っただけで、心臓がぎゅっと、握り込まれたような気がした。瞬間、刺すような痛みが走る。小さく息を呑んだだけで、それは走り過ぎるようにして去っていったけれど。
目の前の彼には、気づかれなかったようだった。
アベルは、これも気づかれない程度に細く、静かに息を吐いた。
最近、周期が短くなってきた。
後少し、もう少し、と、己のものであり、己のものでない心臓が囁く。
判っているよ。だけど、お願い。本当に、後少しだけでいいから。
「お前は、俺のものだ」
突然、耳から滑り込んできたそれは、己の心臓からのものではなかった。
数瞬の間。言葉は、じわじわと全身を経巡って、ようやっと、アベルは現状を把握する。今の言葉は、目の前の彼の発したものだった。
弾かれたように、顔を上げる。胸の痛みのせいだろう、知らないうちに俯いてしまっていた事に、その時、初めて気が付いた。
「…何、羽根膨らましてんだよ」
苦笑混じりに、彼が言う。言われて初めて、アベルは己の羽根がぱんぱんに膨らんでいる事にも、気が付いた。心臓は、今度は先程までと全く違う風に、だけれども、同じくらい激しく、波打っていた。
…何だってこんなに動揺しているんだろう。彼がアベルを買ったから、アベルは『彼の物』なのだ。それは、事実でしかないのに。
「お前は、俺のものだ。…そうだな?」
彼は繰り返す。今度は、随分と冷静になっていた。告げられた純然たる事実に、アベルも素直に頷いた。
「だから、お前は、俺の言いつけは、全部守る義務がある。そうだな?」
こくり。頷く。今度は少々、怖ず怖ずと。
アベルは彼の奴隷であり、彼はアベルの飼い主だった。奴隷が飼い主の言いつけを守るのは、当然の事である。しかし。
彼は一体、何が言いたいのだろうか。
不安そうな素振りを見せるつもりはなかったが、それはやっぱり、羽根に現れていたらしい。揶揄するような視線を注がれて、慌てて、羽根先にまで神経を配る。
しばらく、そんなアベルの様子を面白そうに観察していた彼だったが、やがて、ひとつ頷いた。取り敢えず、話す事は話しておけ、という事らしい。
改めて、アベルを見遣る。真っ直ぐな紅玉の瞳。久方振りに、彼の瞳を見たような気がする。力に満ちた強い瞳。
「俺が帰ってくるまで、絶対、外には出るな」
ひどく真剣な視線に気押されて、アベルは少し、たじろいだ。
それを、逡巡と取ったのか、彼はより一層、視線に力を込める。
「わかったな」
是非もない。
アベルが頷いた事を確認して、彼は小さく息を吐いた。
「…別に、その間に料理作ってても、掃除してても構わねーから」
代わりに、とでもいうかのように、ぽそりと呟く。何だか、アベルに理不尽な事でも強いているかのように。
おかしな話だ。奴隷が飼い主の言いつけを守るのは義務なのだ、と、彼がそう言ったのだし、それは確かに真理であるのに。
アベルの無反応振りに対してか、それとも、己の言動に対してなのか、彼は小さく舌打ちして、そして、身を翻した。
これから、彼は戦場へ行く。
戦うために。腰に差した剣に、新たな血を吸わせるために。たまたま相手となった、不幸な白い羽の剣闘士を殺すために。
その時、ようやっとアベルは、彼に伝えるべき一言を見つけた。
「…いってらっしゃい」
それだけで、よかったのだ。
囁くようなアベルの声に、彼は心持ち、目を瞠ったようだった。
「ああ…、…いってくる」
にやりと、いつもの笑いでも、悪戯っぽい笑みでもない、一種、凄絶な微笑。
今日、家を出た彼が、もう帰ってこないかもしれない、などとは、露程も思わない。
彼は、決して負けない。
彼は、決して死なない。
負けるはずがない。こんなにも、強い生命力に満ちた人が。
彼ならば、例え、何処にいても、どんなにたくさんの人の中に混ざろうとも、きっとすぐに見つけ出せる。
幾重にも降ろされた帳を裂いて顕れる。
隠しようのない輝きを放つ金環食(エクリプス)
アベルを惹きつけて止まない、強い強い生命のオーラ。
彼が、この家に来て以来、初めて、アベルを正面から見てくれたのだという事に気づいたのは、不覚にも、彼が出かけてから随分経ってから、だった。









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