奇跡のヴェール +++ 後編


罪や かなしみでさえ そこでは聖くきれいにかがやいている

宮沢賢治



アベルは、己が月である、という事を自覚していた。
いつだって、どんな時だって、己自身で輝きを発する事はない。昼日中、うっすらと浮き上がる、まるで午睡にたゆたう夜の見る夢か、幻影のような白い月。
ほんの幼い時分は、太陽のような兄が共にいた。だから、アベルは安心して、そこに存在していられたのだ。太陽の光を受け止めて、太陽の引力に引き寄せられて、思い煩う事もなく、ただ、そこにいるだけでよかった。
今度も、そうなのだろうか。
彼を、兄のように、己をつなぎ止めるものとして認識していて、だから、こんなにも彼に惹かれるのだろうか。
多分、半分は当たっていて、もう半分は当たっていない。
何となく、そう思うだけだけれど。
自分を知り、人を知り、歴史を知り、世界を知る。
すべてを知っていた『あの人』のようには、なりえない。
自分の心すら、よく判らない己では。
だけど、判らなくとも、いいと思った。
ただ、彼が好きだと思う気持ちだけは本当で、それだけが真実。
それでいいような気がした。

例え、彼に嫌われていても。

またしても、物思いはひとつところに回帰する。
それは、薄皮一枚、かさぶたで塞がっただけの傷のようなものなのかもしれない。
触れば血を噴くとわかっていて、それでも触らずにはいられない。
己は、多分にマゾヒスティックな性向でも持ち合わせていたのだろうか。今まで自覚はなかったが。
手にした雑巾を、半ば機械的に洗う。バケツの水は、すっかり黒く濁っていたが、それと反比例するように、床のタイルは、先程まで見せていたそのくすんだ風合いを保ち続けるのを止め、作られた当時の顔を再び、取り戻しつつあった。
この手の根気仕事は、アベルの得意とするところだった。
常に何事か考えており、自分の想念の奥深くに沈み込みがちなアベルにとって、ある種の没頭が必要な作業は、何よりも、考え事をしていてもこなせる、という点に於いて、向いていたともいえるし、心持ち他者と行動テンポの違うアベルには数少ない、真っ当にこなせる、と胸を張っていえる仕事でもあった。
それに何より、掃除は好きだった。それは日常の中に、時にこんな新鮮な発見を与えてくれる。
元々、こんな色をしていたのか、と今更ながらに気づくほど、すっかり綺麗になった床は、見ていてとても気持ちがいい。
しかし、これだけ綺麗になっているという事は、それなりの時間をこの床掃除に費やした、という事なのだろう。見ると、窓に差込む日の光も、仄かに夕闇を溶かし込んだものに変わりつつある。
もう少し、掃除を続ける時間は残っているだろうか。
今日中に、この部屋の床は綺麗にしてしまいたかったのだが、それには、もう少しの手間と時間が掛かりそうだった。
もうそろそろ、彼も帰ってくる時分なのかもしれない。
アベルは、バケツを手に立ち上がった。
そろそろ掃除は切り上げなくてはならないだろう。食事の支度もしなくてはならない。だが、もう少しだけ。
これを最後の水替えにして、今日の掃除は切り上げよう。
外には出るな、と言われているので、外の水場に汚れた水を捨てにいけない。代わりに、台所脇にある洗い場を使う。
こちらは、まだあまり手入れをしていないので、彼等が入居する前、空き屋だった頃のゴミ置き場状態に近い。さすがに台所の方は、既に掃除もすませていたが、ここも早急に何とかしなくてはならないだろう。
バケツを傾けて、一気に空ける。汚水は、しばらくその場に留まっていたが、やがてゆっくりと、下水道へと続くパイプを伝い、地の底へと流れていった。
何となく、それを確認してから、再び、バケツに水を満たすために、蛇口へと手を伸ばす。その瞬間、さくりと皮膚の切れる触感があった。
考え事をしていたのがよくなかったのだろうか、ガラクタの積み上げられた流し場近辺に、割れた硝子が混ざっていたのに気づかなかった。
未だ、痛みはない。傷口は、一部、皮膚を削ぎ取っているようだ。剥がれた皮に、白い部分がくっついている。傷口もまた、白い。筋組織までは達していない、という事だろう。
観察するうちに、自分でも驚く程の血が滲み出してきて、アベルは慌てて、傷を負っていない方の手で、傷口を握りしめた。しかし、それで傷口が塞がる訳でも、なかった事になる訳でもまた、当然ない。
徐々に痺れが失せていくと同時に、傷はじりじりと痛みを訴えるようになってきた。
どうしよう。
溢れる血は、ぽたぽたと床に滴り落ちる。
部屋を汚してしまう。
おろおろとした混乱の中、ふと、アベルの心の琴線に何かが触れた。
言うなれば、まるで誰かに見つめられているかのような。
部屋全体に一渡り、頭を巡らせたが、気配にすらならないような気配は、もうどこにも感じない。
気のせいだったのか。
そう思った時、玄関で扉の開く音がした。



「何やってんだ、お前は!」
彼が顔を覗かせたのは、アベルがようやっと床に落ちた血を拭い取り終えた頃の事だった。
「あの、ごめんなさい。まだ、夕食の支度してなくて。これから、すぐに作りますから」
「そんなん、どーでもいい。何だ、それは」
「…えっと。ちょっと汚しちゃったんですけど、すぐに拭いたから、染みにはならないと思います…」
「誰がそんな事訊いてんだよ」
憮然と言う。
『誰が』って、当の彼が訊いたのではないだろうか。
アベルは、ぼんやりと床に視線を落とす。
まだ血が残っている。もう一度、水拭きした方がいいかもしれない。
「あの、…ごめんなさい。すぐ、綺麗にしますから…」
「馬鹿野郎」
こちらに向かって突き出された手に、思わず、体を竦ませたアベルであったが、彼に腕を取られて、なお狼狽える。
彼の視線は、アベルの傷を負った手に注がれていた。握りしめた雑巾は、元々の汚れの黒と血の赤とに染まっている。しかし、それも一部では乾き始めてきていて、雑巾は少々、ごわついていた。
ああ、これも洗っておかないと、染みになって残ってしまうな。
つらつらと思うアベルを余所に、その腕を握りしめたままの彼は、ひどく怒っているように見えた。むっつりと引き降ろされた口から絞り出された低音は、いつになく強張って響く。
「『お前は俺の物だ』って言っただろう。髪の毛一本、爪の先まで、全部、俺の物なんだ。俺の物を粗末に扱うってのは、どういう了見なんだ」
思いもよらぬ言葉を聞いたアベルは、目を瞬いた。
が、数瞬の沈黙の後、そういうものなのか、と思い直す。
奴隷階級の白き羽に生まれつき、幼い頃から、自分の身が自分自身のものであった試しのない身の上でありながら、アベルは今まで、黒き羽の主人を持った事が、一度もなかった。
そうか。そうだな。怪我なんかしたら、仕事に差し支えるんだ。
言われなければ気がつかないなんて、なんて情けない。
だけど、それは思考の中での論理的帰結、であった。アベルにとって、それが実感として認識されたのは、彼が舌を打ちつつアベルの手を離し、部屋の奥へと顎をしゃくった時だった。
「お前は、あっち行って、傷の手当てしとけ」
「だけど、食事の支度…」
「俺がやるからいい」
結局、彼に迷惑をかける事しか、できないのだ。
身を翻しかけた彼が、急に立ち止まった。立ち竦んだ、といった方が正確だったかもしれない。
なんだろう。ぎょっとしたような顔をしている。
「…何、泣いてんだよ」
「……え?」
泣いてる?
そういえば、何だか顔がすうすうするような…。
アベルは、己の頬へと手を伸ばす。指に伝わる濡れた感触。これは、伝った涙?
「あっ…」
どうしよう。そんなつもりではなかったのに。
「ごめんなさい。何でもないんです」
「何でもなくて、泣くのか、お前は」
顔を拭おうとしたアベルの腕を、再び、彼が取った。
「この手で拭いたら、顔面血だらけだぞ」
確かに、その通りだった。傷を負った手は、未だ血が止まりきってはいない。血と涙とが混ざって、とんでもない事になるだろう。
本当に、考えが足りない。
「…そんなに痛いのか?」
心持ち潜められた眉根。これ以上の迷惑は、かけたくない。
「…痛くないです」
静かに首を横に振る。全く痛くない、と言ったら嘘にもなろうが、別に強いて訴える程に、という訳ではない。実際、切ってから、もうそれなりの時間が経っている。痛みというのは、慣れるものなのだ。
だけど、彼はアベルの言を信用していないようだった。胡散臭そうに、アベルの顔と傷口とを見比べている。できるなら、口にしたくない事実も、白状しなければならない気になる。そうしなければ、拘束したままの腕を放してくれそうもないから。
「…ただ、僕が本当に、役に立たないから……」
アベル苦渋の告白は、彼の鼻息一つで、吹き飛ばされた。
「そんなん、どーでもいいだろ」
どうでもよくはないだろう。
それとも、どうでもいいのは、アベル自身か。
思考は、どんどん泥濘へと嵌っていく。比例するように、涙はぱたぱたとこぼれ落ちた。泣きたい訳ではない。哀しい、というのとも、また、違うような気がする。獄舎の中、周囲が皆、〈アベル〉の死を望んでいるのだと理解していた頃。『あの人』が、もう帰ってこないのだと思い知った時。
遠い昔、唯一の同胞であった兄が死んだ時の、世界にたったひとり、取り残されたような感覚。
「馬鹿か、お前。それっくらいで、泣くなよ。うざってーな」
「………知ってます。自分の馬鹿さ加減も、鬱陶しいってことも」
だから、せめて、邪魔だと思われたくなかったのに。
「…………だから、せめて、嫌われたくなかったのに…」
間があった。アベルにとっては、ひどく長く、何日、何十日にも感じられるような、長い間だった。だけど、おそらく、実際には一呼吸か二呼吸の間だったろう。心臓の音が、ひどく大きく響く。耳障りだった。
「…何だ、そりゃ」
ひどく息苦しい数瞬の後、彼はぽつりと呟いた。先程までの憤りも既になく、すっかり毒気を抜かれてしまった、といった具合だった。
「誰が言ったよ、『嫌いだ』なんて。俺は今まで、んな事、一度だって言ってねーぞ」
アベルは思わず、顔を上げる。涙で汚れた顔だったけれども、真っ直ぐ彼を見返した。彼もまた、真っ直ぐにアベルを見つめている。
鉄柵越しにアベルを見つめた、あの頃と同じ強い瞳。
それが、急にふいと外された。最近の彼のように。同時に、アベルの腕を握りしめていた手も解かれた。
急に、どこかに放り出されたような気がした。
一瞬、元に戻り掛けた糸が、再び、ほどけていくような感覚。更に続く彼の一言と相まって、それはアベルの思考を停止させる。
「大体、嫌ってるのは、お前の方だろ」
「…え?」
彼は一体、何を言い出したのだろう。
「お前が元々売られる予定だった相手の話は、聞いてる。すごく条件のいい話だったってのも」
彼は一体、何を言ってるんだろう。
「一人暮らしの若い女の世話役。楽だし、お前みたいんでも、目立たなくてすむし。隠れ場所としても最適だもんな、俺のトコとは違って」
『目立たなくてすむ』
『隠れ場所』
その言葉は、アベルに反射的とも言える反応を返させる。
彼が、アベルの抱える秘密を、知っているはずがない。知っているはずはないのに。
再び、心臓がどくりと脈打つ。
しかし、目の前の彼は、アベルの反応の変化に気づいた様子はなかった。己の言葉に煽られて、再び、激昂し出したようだ。身振りも大きく、憤然たる調子で、それでもまた、怒りに満ちた瞳で、アベルを真っ直ぐに睨め付けた。
「ああ、そうだよ。確かに俺は、お前の邪魔をしたよ。でも、だからって、毎日毎日、目を反らさないようにしようと努力なんかされると、むかつくんだよ」
「…努力なんて…」
「してただろ」
にべもない。
「お前、ここに来てから、俺から目を反らさないようにしようとしてただろ」
それは、確かにそうだったので、常のアベルだったら、それで黙り込んでしまっただろう。元来、他者とのコミュニケーションに慣れていないアベルは、他者に自分の意志を伝える、という能力が欠如していたし、彼に己の行動が気づかれていた、という事実は、それだけでアベルの胸を締め付け、常日頃から回らない口を完全に固めてしまうには充分だった。
が、それでも。
多分、その時、意識は真っ白で、だからそんな行動も取ってしまったのだろう。
何も考えられなかった。ただ、思わず、手を前に、彼の方へと差し出した。今度は、アベルの手が彼の腕に触れて、その瞬間、未だ塞がりきらない傷がぴりりとひきつれ、その痛み故に、アベルは己の現状を把握した。
弾かれる勢いで、手を引く。それにまた、彼は目を眇めてみせた。
「何だよ。触りたくもないってか」
「ち、違っ、…っごめんなさ、手、血が…」
回らない口をもつれさせるアベルの視線を辿って、彼は己の腕に目を向ける。
そこには、擦られたような血の痕。
「これくらい、何だってんだよ」
常に己以外の血にまみれて戦う、彼が『血濡れ』と呼ばれる剣闘士である事は、アベルも知っている。しかし、それはあくまでも知識として知っているだけで、実感なんかまるでなかった。今、彼についた血は、見ている間にも乾いてしまうだろう程のものでしかなかったが、アベルにとってはそれはまるで、彼を傷つけてしまったような、そんな思いをかき立てさせるものだった。
「……ごめんなさい…」
やっぱり、口は思うように回らない。まるで、その代わりのように、涙が溢れた。
「…………僕はただ、貴方の役に立ちたかったんです。…貴方には必要ないんだって、判ってて、だけど、それでも…」
彼の前で萎縮していたのは、事実だった。
彼は鋭い人だから、気づいてしまっていても、それは当然だったろう。
だけど、その理由は、彼が思っているような事では決してない。
彼には、彼にだけは、誤解されたくなかった。
何故、そんな風に思うのか判らない。兄にだって、『あの人』にだって、こんな感情を抱いた事はない。こんな気持ちになったのは、全くの初めてだった。
ほんの少しの沈黙の後。
「…それも、気に入らねえんだ…」
ぽつり。呟かれた言葉は、アベルの息を一瞬止めさせる。
「お前、外に出てから、俺の名前、一度も呼んでない」
しかし、続く言葉はまたしても、アベルの予想を遙かに超えていた。
思考停止。空白の時間。あまりの事に、涙も止まった。こんな時は、その言葉の意味など考えられない。取り敢えず、言葉それ自体しか受け止められない。
彼の名前を呼んでいない?
そうだったろうか。
これまでの日常をなぞるように、思い返す。
…そうかもしれない。
「…でっ、でも…」
そもそも、相手の名前を呼ぶという習慣自体が、アベルにはない。今まで、己以外の他者がたったひとりしか存在しないような世界での生活で、名などなくても、それで間に合ってしまっていたし、そもそも、『あの人』の名は秘されていたものでもあったのだ。
人の名は、軽々しく口にすべきものではない。
そういった、無意識化の意識ができてしまっていたのだろう。
しかし、それが彼には気に入らないらしい。それは、いけない事だったらしい。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
せっぱ詰まった心が見つけ出した逃げ道、とでもいうのだろうか。
その時、アベルの中に、天啓の如き事実が降りてきた。
「ゼ、ゼロ様だって、僕の名前呼んでません」
言い切ってしまった後には、またしても沈黙。
…こんな事、言ってはならない事だった?
飼い主、とか、ご主人様、とか。口答え、とか、無礼、とか、いくつもの関連用語がアベルの脳裏を飛び交った。
目の前で、彼の肩が軽く揺れる。笑っている、と気づいたのは、それからしばらく経ってから、だった。
「お前の発音って、やっぱり変だ」
「え、…そ、そうですか?ごめんなさい…」
「別に怒ってる訳じゃない。なじみのない古い音楽でも聞いてるみたいで、面白いし、気持ちがいい。…俺の名前、呼べよ、アベル」
感情豊かで、怒りっぽくて、それでもひどく優しい声がなぞったアベルの名は、何故か、アベルをひどくびくつかせた。
怖いのだろうか。それとも、嬉しいのか。多分、このふたつの相反する感情は、実は隣り合わせのように近しいところにいる。
「………ゼロ、様?」
「もっかい」
「……ゼロ様…」
「もう一回」
「ゼロ様」
幾度も繰り返す、彼の名前。
生まれた音は、本来の古語の意味以上のものを以て、既にアベルの内に在る。
彼は、アベルを見つめていた。怒りも喜びも、すべてを真っ直ぐにぶつける、強い瞳。
それは、アベルの知るゼロ、そのものだった。



「そういえば…」
ゼロが、何か思いついたように眉根を上げたのは、さんざっぱらアベルをこき下ろしながら、それでもひどく慎重な、優しくさえある扱いで、彼の手の傷に残った細かな硝子の破片を丁寧に洗い落として、たっぷりと薬を塗り込み、包帯を巻き始めた頃の事だった。
「…お前、さっき、なんか言ってたよな。『役に立たない』とか、『必要ない』とか」
申し訳なさそうに項垂れていたアベルの羽が、瞬時に硬直する。
そう言えば、どさくさ紛れに、口走ってしまっていたのだ。
「……ごめんなさい」
「だから、謝んなってーの」
所在なげなアベルを気にした風もない。ゼロは、軽く笑って、手際よく包帯を巻いていく。
「俺は別に、お前が役に立ちそうだったから、買った訳じゃない。だけど、必要ない訳じゃない。…あんまバカな事考えんな」
突き放したような言い方だけど、あんまり、彼が優しいので。
アベルは、期待してしまう。
例えば、綺麗に片づいた部屋。テーブルに添えられた季節の花。そして朝。その日、一番最初のあの人へ、「おはよう」の微笑み。
絶対必要な訳じゃないだろうけれど、あるととても嬉しかったり、心が和んだりするもの。
己も、彼にとってのそんなものになれるだろうか。
なれたらいい、と。
夢見てしまう。
「ほら、終わったぞ。これからは、ぼけっとしてんなよ」
きつめにしっかりと巻かれた包帯は、アベルでは到底できないくらい、綺麗に整っている。今までなら、落ち込んでいただろうそんな事も、今では重荷に思う事もない。
アベルは、小さく微笑んだ。すると何故か、目の前のゼロの頬が、仄かに赤く染まった。
「…なんだよ」
むくれた彼が、何だか可愛いと、そう思えるのが、我ながら不思議だ。
「何でもないです。…ただ、言葉って、本当に口にしないと駄目なんだなぁって。やっぱり、ゼロ様は凄いなぁって、そう思ってたんです」
「…お前、本当に変だな」
ゼロは、軽くため息をつく。
「そんなん当たり前だろうが。言葉なんか、口にしなくて何の意味があるんだよ」
「……そうですね。本当に、そうなんですね…」
ゼロは、たくさんの事をアベルに教えてくれる。
世界には色がある。感情にも色がある。人には体温があって、感情にも熱がある。
そして、言葉の持つ力。
言葉は、感情を伝える。目の前の大切な人を理解したい。そして、自分を理解してほしい、と思うことを、助けてくれる。
彼を理解したい、という想い。
それは、何と暖かなものを胸に溢れさせる事だろう。
こんな時、言うべき言葉があったはず。
昔、読んだ本に載っていたね。
「…ふつつか者ですが、どうぞ末永く、よろしくお願いします」
「………お前はもう、しゃべんな」
「え。……あの。…もしかして僕、何か、間違いましたか」
「……………馬鹿野郎」
「ゼロ様、顔赤いです。熱でも…」
「だあーーっっ、もう、俺に構うな、あっち行ってろぉーーーーっっっ」





そこは、聖母のヴェールに護られた場所。
神聖なる隠れ家。



幸福の棲む処。



END







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