奇跡のヴェール +++ 前編


罪や かなしみでさえ そこでは聖くきれいにかがやいている

宮沢賢治



「俺の財産は、お前だけ」
あの人は、そう言った。実際、僕はとても高価だったらしい。「こんな事なら、『読み書きができる』なんて、言わなきゃよかった」なんて、愚痴っていたけれど、それが何の事かは判らなかったけれども、それでも、むっつり不機嫌そうな顔を見ていると、何だかとても悪いことをしたのだという気になる。
だから、少しでも役に立てるように、値段分の価値はあったと思われるように、あの人の為になることが、何かできるといい。そう思った。





己の胸奥から洩れ出た溜息の、部屋中に響き渡るかのような大きさに、我が事ながらびっくりして、アベルは慌てて周囲を見回した。誰もいない、という事は、判っていたのだが。
そして、つい一瞬前までと同じように、今も、この室内には、誰もいない。
いや、もっと言うならば、この家の中には、アベル以外は誰もいない。
家の主は、留守だった。生鮮食料品他、日持ちしないものを買いに行っているのである。そして、それは、ここ最近の彼の日課でもある。
新たに、アベルの主人となった少年は、何でも自分でする人だった。長い間、ひとりで生活してきたのがよく分かる手際のよさで、日常業務を難なくこなす。
アベルよりも、ずっと効率よく。
そもそも、初めから、その傾向はあったと思う。
アベルの奴隷としての初仕事は、彼が今まで暮らしていた宿舎から、この家へと引っ越す時の手伝いだった。関係者以外立入禁止の宿舎に足を踏み入れ、気後れしながらも押さえきれない好奇心に、きょろきょろと周囲を見渡すアベルには全く気を止める様子もなく、薄暗い廊下を足早に進む彼に置いて行かれないように、必死で追った。
整然と廊下に並んだ扉のひとつを、無造作に彼は開く。
一部屋のみのそのスペースは、ひどくがらんとしていた。据え置きのベッド。作りつけの箪笥。余計なものは何もない。ただ寝起きするためだけの場所。
元々、極少ない物の中から、彼が無造作に荷に詰め込んだのは、本当に少数のものでしかなくて、彼が肩に担いだ分で全てだった、といって過言ではない。荷は持たせてもらえなかった。大切なものを預けられるほどには、信用されていない、という事だろう。それは、仕方のない事だと思ったから、アベルも、強くは言えなかった。が、しかし。
結局、真っ当に手伝えたのは、引越し先の家の掃除のみ、というのは、どういうものだろうか。それだって、アベルが「したい」と言ったから、なのだ。そうでなければ、彼はおそらく、簡単な埃払いしかしなかった。その場が汚れていても、さほど気にしない性質なのは、もうよく解っていたので。
アベルは、そっと溜息をついた。今度は、少々控えめではあったが、先程のものより、ずっと長く深かった。



それは、聞こえたと思うより前に、感じた、といった方が正確かもしれない。
何か音がしたような気がした。
戸口に近い場所からのそれは、気配に近いようなもの。瞬間、アベルは、玄関に向かって駆けだした。まるで先程までの状態が嘘のように、その足取りは軽かった。
玄関口へと続く廊下の端で、一瞬の逡巡。それでも、そっと顔を出す。
やっぱり、彼がそこにいた。
片方の手から肩に掲げるようにして、大きな荷物を抱えている。息を殺すようにしてそこにいるアベルの、それこそ気配を感じたのか、彼が顔を上げる。数瞬前までの気むずかしそうに顰めた眉根が、ほんの一時だけ解けた。
「…あ、あの。お…」
おかえりなさい、と続けたかった言葉は、今日も口の中に消える。こんな時、アベルは何だか俯きたくなってしまう。彼の前ではいつも顔を上げていたい、という想いは、頭の垂れさせるのを寸前で差し止めるのに精一杯で、結果、全く口を開くどころではない状態に陥ってしまうのが、ここ最近のアベルの常だった。
困ったように彼を見つめる。彼もまた、無言のまま、アベルを見つめる。その一瞬だけ、視線があった。
その時、彼が小さく微笑んだ、ように思えたのは、錯覚だろうか。
「台所に持ってって、しまっとけ」
やはり、そうだったらいい、という希望や期待といったものが見せる、幻影だったのかもしれない。
アベルへと荷物を押しつけるようにして手渡してすぐ、横を擦り抜け、彼は家の奥へと消えた。
今日もまた、顔を背けられてしまった。
沈み込みそうな気分の中、彼が置いていった荷物を整理分別しながら、アベルはとつとつと考える。
最近の彼は、アベルに必要最低限の事しか言わない。
決して、アベルの顔を見ようとしない。
最近、意識さえしないうちに洩れるようになってしまった、小さな溜息。
檻の中に居た時の方が、ずっと彼との距離が近かったような気がする。
思い出す。初めて、会った時のこと。
すっと伸びた姿勢と、きびきびとした足運びがとっても綺麗だった。自己というものをしっかりと持った人特有の力強いオーラは、知らず知らずのうちにも、周囲の目を惹きつける。
ポスターの中から、いきなり現れた人。
つい、不躾にじろじろと見てしまって、だけどそのおかげで、彼がアベルの存在に気づいてくれて。
色々あって、本当に色々あって、彼はアベルに会いに来てくれるようになった。
路地裏の店の前に置かれた檻の中。鉄格子を挟んで、相対した彼。
無表情を装った影で、彼がとても豊かな感情を持っている事は手に取るように感じ取れた。
バカにしたような微笑の裏で、ほんの時たま見せてくれた、まるで悪戯っ子のような笑顔。
火を噴くような怒りの発露も、生の彼そのものだった。
『俺が何を考えてるのかなんて、勝手に判断するな!』
そう言ってアベルを睨み据えた、高い矜持を持った人。
彼とは反対に、全てを諦める事で、何とか命を繋いできたに等しいアベルにとって、彼の生命力はあまりにも眩しいものだった。

…そう言えば、元々、嫌われてたんだっけ。

その後に繋がる顛末から、思い出さなくていい事まで、思い出してしまった。
彼が自分を買ってくれて、そして、主人となってくれた、という事が、あんまり嬉しくて、すっかり忘れていたのだった。
我ながら、大馬鹿だと思う。多分、彼の言うように、己はかなり『トロい』のだろう。
以前、彼はアベルを称して、こう言った。
『見ていると、苛々する』と。
彼は別に、アベルを買いたくて買った訳ではなかった。それは殆ど成り行きのようなもので、おそらく、本当なら、ずっとひとりで気ままな暮らしをしていたかったのだ。
だけどそれでも、買ってくれたから。
顔を見るのも嫌なほどに、嫌われているとは思っていなかった。
いや、思いたくなかった。
だけど、改めて己を鑑みれば、本当に迷惑ばかり掛けているのだ。
アベルがいたから、彼は今までいた宿舎から出る事を余儀なくされたという事。そのくらい、アベルにも察しがついた。剣闘士専用だったのだろう、今までの彼の部屋は、一人で暮らすというのが絶対条件になっているようなスペースで、だから、アベルを買った時点で、彼はあの部屋から出ざるを得なくなってしまったのだ。
現在、借りているこの家は、そんなに街中から離れているという訳ではない。この辺りの賃貸相場など、アベルにはさっぱり判らなかったけれど、今までのところよりはお金も掛かっているのだろう事は、想像するも容易い。
彼の役に立ちたいと、ずっと思っていた。だけど、己がここにいるという事自体が、彼の負担になるのかもしれない。こういう場合、どうしたらいいのか。『あの人』の蔵書の何処にも、それは書かれてはいなかった。
本当に、どうしたらいいんだろう。









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