IN PARADISUM〜天国にて act.4


神に対する 人間の最初の反逆と
また あの禁断の木の実について…

ジョン・ミルトン「失楽園」より



彼が来ない。
来ないからといって、それはおかしな事では決してない。今まで、この道を通り、そしてアベルに声を掛けるというのが日課になっていたとはいえ、それは別に、彼がアベルと約束していた訳でも何でもない。その上、アベルは彼が来なくなるのに十分な、決定的な事実を告げていた。
それでもやはり、胸にぽっかりと穴が空いたようだった。
彼が来ない。その事実がこんなにも、辛く苦しい。
彼と初めて会ったあの日。彼が現れたあの裏路地からの小さな騒ぎを知ったのは、まさにその日だった。他殺体が発見されたらしい、とは、洩れ聞こえてくる会話の端々から得た情報。
すぐに判った。彼がそれに係わっているという事は。そして、とても心配した。あの人が、よくない事に巻き込まれなければいいのに、と。
手を下したのが誰なのか。アベルにとってそれは、全く興味のない事だった。そんな事は、どうでもいい。殺された人には、一面識さえもない。ただ、彼だけ。彼の事だけ。
だから、伝えたかった。
僕は、何も見ていない。何も聞いていない。何も言わない。だから、心配しないで、と。
本当は、もっと早く言わなければならなかったのだ。ここにくる、という事それ自体が、多分、ひどく危険な事だったし、それに、彼はここにいる間、いつも何かしら腹を立てていた。アベルと会うという行為は、彼にとって、負担だったのだから。早く言ってしまえば、彼にこんなに手間を掛けさせなくてもよかった。
だけど、言えなかった。今日は言おう。明日こそ告げよう。そう思いながらも、なかなか言い出せなかった。ようやっと、伝える事ができたのは、つい先日の事。こんなにももつれ込んでしまったのは、少しでも長い間、彼に会いたかったから。告げたらきっと、二度とここへは来てくれないだろうと判っていたから。
慌てたような顔。憮然とした表情。そして、時たま見せてくれた、あけっぴろげな笑顔。自身にとって、彼がどれほど救いであり、支えであったか。
目を閉じると浮かんでくる、銀の髪の守護天使は、いつの間にか、口の悪い少年へと姿を変えていた。遙かな過去の幻影として、アベルの胸に長年住み着いていた、夢の少女は消え果てた。今回は、実在の人物であっただけに、ダメージが大きい。新しい住人である彼が、心の中からいなくなる事など、決してないような気がする。
その時だった。表通りの方から、声高に話す男達の会話が耳に入ってきた。
「…やっぱり、今、勢いはヤツにあるよ。あんな細っこいナリして、つえーったら…。あのデカいシロを一撃だぜ」
一瞬にして物思いから立ち戻ったアベルは、風に乗って届いた話の切れ端に耳をそばだてる。
「相手のシロも、だらしねぇなぁ。やっぱ、血統として、シロじゃあ勝てないって事かね」
「そりゃあ、下等民族とは違うだろ。何たって、『高貴なる黒き羽』だ…」
やはり、話題の主は彼だった。おそらく今日は試合…多分、例のとても強いという白い羽の剣闘士との…があって、そして、どうやら勝ったらしい。
アベルは、体の力を抜いた。勝つだろうとは思っていたけれど、こんな時はやはり少し緊張する。
だけど、よかった。彼は無事なのだ。
なにか暖かなものが、じんわりと心の奥底に広がる。
もう、邪魔はしないし、迷惑も掛けないようにする。だから。
想っているだけなら、いいよね。



今日も勝った。前評判ばかりが先行するタイプだった相手は、くり出された槍の一撃で地に沈んだ。彼が体を温める間すらも保たず。いささか、あっけない程に。
ゼロは、癇性な仕草で己の頭をがりがりと掻いた。愛用の槍を壁際へと、半ば放るようにして立て掛ける。血の付いたままにしておいたら、錆がふいて切れ味が鈍る。常だったら、まずしない事ではあったが、今は何もやりたくない気分だった。
今日で3日目だ。
彼のところに行かなくなって、もう3日。
どちらかというと、まだ3日か、と、ゼロは、自嘲気味に笑う。
もう会わないと、忘れてやろうと決めたのに。気にしない、と思えば思うほどに、彼の姿が脳裏にちらつく。
彼は、もう己の事など気にもしてはいないだろうに。
彼にとって、最も大切なのは今までの主人のみで、他はどうでもいい存在なのだから。
彼にとって、どうでもいい存在である、という事実が、何故、こんなにも胸に重たいのだろう。
馬鹿馬鹿しい。どうでもいい事だ。
このまま、何もせずにいれば、労もなく、彼は目の前からいなくなる。運が良ければ、少しはましな飼い主のもとへ、あるいは、彼が前に商店主に示唆したように『生け贄』として、もぐりの宗教団体にでも下げ渡されるか、闇娼館に使い捨ての性奴隷として売られるか。
時間が経てば、記憶も風化する。全て、忘れられるだろう。
そして、もとの生活に戻る。
己が望んだのは、理想としたのは、心の強さ。彼さえいなくなれば、それが手に入る。
冷徹な判断力を持ち、何事にも動じない、最強の剣闘士になれる。
ゼロは、自身の両の手の中へと顔を埋めた。
早く時間が流れてしまえばいい。
さっさとこの幻影が消えてしまえばいい。



「何だ、随分とヘタれてるじゃねーの」
揶揄する声が掛けられるより前に、手にはナイフが握られている。振り向きざまに投げつけて、その眉間に突き立ててやってもよかったのだが、取り敢えず、それはやめにした。
「死相が出てんぜ。お前ももう、先行きがなさそうだよな」
このままでは手が出せぬと見て、絡みにきたか。こちらの隙を狙って、あわよくば、という。
本当に、判りやすい。
「お前、運命論者か。それとも、占いにでもそう出てたか」
視線だけで見遣って嘲笑う。どこぞの刺客である男は、鼻白んだようだった。
「死相なんか出てたって、勝ちゃ生き延びるんだよ。強ければ勝つ。弱ければ負けて死ぬ。俺が死ぬのは、負けた時だ。闘技場でも、それ以外でもな」
生憎、今日は機嫌が悪い。挑発に乗ってやっても構わない。もうひとつ、身元不明の遺体が増えたところで、誰も困りはしないだろう。
殺気を感じたのか、男が退いた。ゼロは、闘技場関係者以外立入禁止区域内などという、すぐに足のつきそうな場所で犯行に及ぶつもりなど、毛頭なかったのだが。
鼻で笑う。そんな思惑にも気づいたのか、男はその顔を強張らせた。
しかし、ゼロからはもうすっかり、男に対する興味は失せていた。
今まで通りの歩調でまた歩き出す。今日の夕飯は何にしよう、などとつらつらと考える彼の思考が読めた訳ではなかろうが、男の事はもうどうでもいい、と思っているのは明白なその様子に、男はどす黒くその顔を染めた。
「…路地裏の商店の奴隷」
思わず。
足が止まる。
「低脳みたいだけどよ。素地はよさそうな外見してるし、買ってもなかなか面白そうだ。とことんまで抱き壊してやりたいと思うようなお人形だよな」
それは、ほんの一呼吸ほどの間だっただろう。
ゼロは、再び歩き出す。しかし、その足取りには、つい先程までの無関心さはもうない。
男の嘲笑は、どこまでも追ってきて、その背を射すかのようだった。



その人が路地裏に入ってきた時、アベルは少し驚いた。そこが、あまり治安の良くない一帯であるという事も、もう何となく判っていたし、そんな場所には、普通、女性が一人で足を踏み入れるものではないからだ。まだ、若い女性だった。ずいぶんと若い。つややかな黒い羽はしっとりとした光沢を放っていて、その凛とした印象と相まって、アベルは彼女がとても綺麗だと思った。
その時、彼女がアベルを見た。…しかし、ただ『見た』という表現は、能わなかったかもしれない。アベルと目が合った瞬間、彼女は、ずっと探していた物をようやっと見つけ出したかのような顔で、微笑った。









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