IN PARADISUM〜天国にて act.5


我々はひとつだ
一つの肉体だ
お前を失うことは わたし自身を失うことだ

ジョン・ミルトン「失楽園」より



その後のうつらうつらとした時間が、どれほど過ぎた頃のことだったろうか。
アベルは、それが夢か幻なのだと思った。だって、心の奥底にその姿を刻印されてしまったも同然の存在が、目の前をまっすぐに歩いてきたのだから。
アベルは、喉の奥で生唾を呑み込んだ。一体、何を言えば。一体、どんな顔をすれば。
ゼロはずんずん近づいてくる。アベルは思わず、目を瞑った。
しかし、ゼロはアベルを見ようともしなかった。彼を綺麗に無視して、店内へと入っていった。まるで、アベルがその場に存在しないかのように。
嫌悪の表情すらも、なかった。
仕方がない。許してもらえるなんて、初めから思っていなかった。アベルは彼をずっと騙していたようなもので、それで嫌われてしまっても、それは当然なのだから。
「………あれ?」
なのに、頬を伝う、この冷たいものは何だろう。
アベルは、大きく見開いた目からこぼれ落ちる涙を拭いもせずに、力の抜けきった手で己の体を抱え込む。
胸を締め付ける、この痛みは?苦しくて、張り裂けてしまうかもしれない。
その時、心臓がどくりと大きく波打った。まるで、彼とは全く別の生き物のように。



ゼロの突然の来訪に、商店主は目を見張ったようだった。
「ええと。前に、一度ご来店いただきましたっけね?」
途端に、前回の記憶が甦ったのか、目を輝かせて、仮面のような営業用の笑顔を作る。
「外の奴隷をお入り用で?生憎ですが、あれはもう、売約済なんですよ。本当に、一足違いでね。ちょうど、あんなのが欲しかったんだ、っていうお客さんが入って。…だけど、まぁ、アレですよ。あの奴隷に目を付けたのは、お客さんの方が先ですからね。どうしてもっておっしゃるんでしたら…」
得々と語る商店主を遮って、ゼロは吐き捨てるように言った。
「あいつ、読み書きができるみたいだぜ。多分、計算もな。捨て値で売るのは、勿体ないんじゃねぇかな?」
ぽかんと口を開けた商店主が何を思おうが構わなかった。
これが最後だ。もう、絶対に関わり合いにはならない。ただ、あの馬鹿が二束三文で性奴として売られたりしたら、寝覚めが悪い。そして、いつまでもそんな記憶につきまとわれては適わない。それだけだ。
言いたいことのみ言ってしまうと、むっつりとした表情を崩さぬまま、ゼロはすぐに店を出た。



その時、目に飛び込んできたのは、檻の中。地べたに這うようにして、投げ出された白い羽は、ぴくりとも動かない。胎児のように、己の身を庇って蹲る少年の顔色は、透き通るように白かった。まるで血の流れを感じさせない、白蝋のような、死人のような白い顔。
まるで、死人のような。
瞬間、激しい悪寒が背を這った。
「…アベル!」



ゼロが、檻に手を掛け、激しく揺さぶっている己に気が付いたのは、怖ず怖ずとしたその声が耳に入った時だった。
「……ゼロ…様」
途切れがちの声。
ゼロは、顔を上げた。檻の中には、アベルがいる。身を起こして、困ったような、戸惑ったような、それでいて、心配そうな顔をして。
相変わらず、顔は白いが、なんということはない。
生きている。
「…は…」
己の喉から洩れたのは、震える吐息の切れ端とも、嗤いの破片ともつかないような代物。力の抜けた手は、格子をずるずると滑って、膝はそのまま、地に付いた。
何も考えられなかった。
羽根の色を問わず、何人もの相手を死に追いやってきた。己自身も、幾度となく死地を潜ってきた。そんな自分が、目の前の少年が死んでいるのではないか、という空想に、我を忘れるなんて。
「ゼロ、様…」
再度、アベルが繰り返す。何だか、不思議な響きをもった言葉。
最初は、気づかなかった。が、少しして、思い至る。それが古語の発音によるものだという事に。
彼は、今までそのような呼び方をしていただろうか。覚えがない、との思考の結論と共に、更に気づく。
アベルの口から『ゼロ』の名が語られるのは、初めて会った時から数えて2度目なのだという事に。
何も言わないゼロの目の前で、白い羽は足掻くように幾度か上下した後、意を決したようにぴんと張った。
本当に、彼は正直だ。感情が全部、羽の動きに出てしまう。
ただ見つめるゼロの前、アベルは、静かに口を開いた。



「あの、…今まで、ありがとう…ございました。…僕、買い手が付いたんです。多分、もう少ししたら、この街を出ます」
途端に、ゼロの目が据わった。口角が下がり、引き締まる。急速に、夢から覚めるかのように、意識がクリアになっていく。
商店主が語ったのは、値を吊り上げようとする手ではなかったらしい。つまり、今回わざわざ足を運んでの行動は、全部無駄だったという事か。ゼロの醒めた目線の下で、アベルは続ける。出会ったばかりの頃を思い出させるような一所懸命さで。
「だから、ちゃんとお礼を言いたかったんです。ごめんなさい。だけど、もう二度とゼロ様を苛つかせるような事はないだろうから、安心してほしいと…」
「お前、本当に、馬鹿だよな」
黒き羽(ゼロ)に自分から話しかける、なんて、知れれば大きな懲罰の対象となるのに。
ゼロは、乱暴に己の頭を掻いた。大きな溜息混じりのその行動に、アベルは身を固くする。長めの前髪が乱されて、俯きがちの彼の表情はよく見えない。
胸が鼓動を打つ度に大きくなっていくような不安感を持て余して、ついもじもじと羽を動かしてしまう頃、ゼロがぽつりと呟くように言った。
「…お前と会ってからこっち、じたばたばっかしてるような気がするよ。妙に苛ついて、落ち着かなくて、怒りたくもないのに、怒って。…苦しいばっかりだ、お前といると」
判ってはいたが、息が止まってしまいそうな気がする。胸の奥で、言葉が凍る。だけど。
「………ごめんなさい」
だけど、伝えなくてはならない。多分、これで最後なのだから。
彼が、アベルの名を呼んだ。
驚いた。心臓が止まるかと思った。もうすっかり嫌われてしまったのだと、そう思っていたから。
恐る恐る、身を起こす。先程までの胸の痛みは、不思議と消えていた。
今度は、違う意味で、胸は苦しくなっていたけれど。
つい先程、彼が立ち止まってくれた事、そして、アベルの名を呼んだ事、その事に背を押されるようにして、口を開いた。そして、彼に話しかけるという一点のみで、アベルの勇気は既に尽きかけていたのだけれど、それでも残る全ての気力を振り絞る。この後には、何も残らなくていい。抜け殻になってしまったって、構わない。
今、心の中にあるものをそのまま口にする事。心を相手に伝える事。それは、彼が教えてくれた事だから。
「…だけど僕は、ゼロ様といると、とても楽しかった。…会える事が、嬉しかった、いつも」
震える喉を通って出た言葉は、掠れて消えた。対する彼が、怯んだような気配。だけどもう、顔を上げる事ができない。迷惑だ、とはっきりとその面に刻んだ彼を直視する勇気など、残っている筈もなかった。
「……………ごめんなさい」
固く目を瞑って、顔を膝に落として、アベルは小さく身を縮めた。決して、嫌な思いをさせたい訳ではなかった。ただ、伝えたかっただけ。
自分にとって、どんなに彼が大切な存在だったのか。
どれだけの間、そこでそうしていただろう。随分と長い間だったような気もするが、多分、ほんの数瞬に過ぎなかったのだろう。
彼が荒々しく身を翻す。そして、足早に立ち去っていく。そんな気配だけを肌で感じながら、アベルは急速な喪失感の傍らで、どこか穏やかな気持ちに包まれていた。それは、彼にとって、今までついぞ感じた事のない、まるで、幸福感とすらいってもいいようなもの。
ごめんなさい。ありがとう。さようなら。……大好きだよ。



結局、それからゼロと会う事はなかった。わざわざ彼が会いにきてくれるとも思えなかったが、何よりも、アベルは外の檻にいなかったのだ。
その後、アベルは外の檻から店の裏へとその居場所を移された。まるで物置のような場所だったけれども、吹きっさらしの風はない。正式に買い手が定まったことにより、引き渡しまでの間は、店側にアベルの生命を守る義務が生じたからだろう。
風がいくら冷たくても構わないから、最後まで、外の檻にいたかった。あそこは、アベルにとって、これから永く心に残るだろう思い出の場所だったから。
物思いに沈むアベルの元へ、入れ替わり立ち替わり、人が現れた。毎日のように打たれる注射は、多分、伝染病の予防接種の類だろう。彼を物のように扱う人々にも、アベルは全く頓着しなかった。実際、生きてはいない、心のない物になったような気がしていた。
そして、その日。アベルは物置から引き出され、その場に示された冷たい水で全身をくまなく洗うように指示された。その事で、アベルは、遂に買い手への引き渡し日がやってきた事を知った。



「お前の飼い主がお迎えにきてるぞ」
無造作に示され、アベルは小さく息を呑んだ。
新しいご主人様になる人が、来ている。どんな人か、聞いた事はない。わざわざ、奴隷にそんな事を説明するものでもないのだろう。だけど、アベルには既に見当が付いていた。
前に見た女の人。多分、あの人が新しい飼い主。
アベルと目が合い、綺麗に微笑したあの女性が店内に入っていってから、アベルの周囲の状況は一変した。周囲の人々の言葉の端々で、自分に買い手がついたらしい事を知った時から、アベルは買い手が誰なのかを確信していたのだ。
俯いて、その人の前まで静かに歩む。アベルの到着を待っていたらしいその人が、ゆっくりと立ち上がる。彼を支配するのは、不安と恐怖。どうすればいいのか、わからない。顔を上げるのが怖い。しかし、そこでアベルの脳裏にふと、ある言葉が甦る。
『俺は、相手から目を反らすようなヤツは嫌いだ』
ひとつ、大きく息を吸い、アベルは意を決してその顔を上げた。



受領書に手早くサインすると、早々に店を出た。ついてこい、と示した身振りに素直に従ったアベルは、何だかぼんやりとしている。未だ、状況が把握できていないらしい。足取りまでが、ふらふらとおぼつかない。
舌打ちを一つ。
そこで、アベルは糸に引かれるように、目の前で立ち止まった人を仰ぎ見た。
青みがかった銀の髪。つり上がり気味の紅玉の瞳。強い意志の力を秘めたその瞳は、笑うととても暖かく優しくなるという事も知っている。
あいにく、今現在、アベルに据えられている瞳の色からは、その印象を探すことはできなかったのだけれど。
「………なんで??」
譫言めいたアベルの言に、ゼロは思いっきり渋い顔をした。



ゼロは、むっつりとした表情のまま、アベルに向かって、広げたその手を突きつけた。
「…前渡しされてた半金の返却分」
思わず怯んだアベルの前で、親指を折ってみせる。
「一度取り結んだ、売買契約破棄の違約金」
更に、折られた指が一本。
「その上で、お前の代金だ。ちくしょー、あの親爺、足下見やがって。今までの蓄財、あらかた吐き出す羽目になっちまったんだぜ、おい」
何がどうなっているやら、アベルにはさっぱり判らない。
「…古語まで読めるくせして。お前、本当に馬鹿だよ。まだ判んねーのか。お前は、俺が買ったんだ。今日からお前は、俺の奴隷なんだよ」
もしかして。
アベルが売られると決まっていた相手、そして商店主と交渉して、結果、発生する代金は全て肩代わりする、という条件で、ゼロは己を買ったのだ、と。
そういう事なのだろうか?
「……どうして?だって…」
アベルは、まだ呆然としている。ゼロは、再び舌打ちした。
「だって、僕の事、嫌いなんじゃ?苛々するんでしょう?僕を見てると」
「ああ、苛々するよ。だけど、しょうがねーだろ。お前が俺の知らないところで野垂れ死んでるかと思うと、もっとムカつくんだから。だったら、俺の目の届くところに置いといて、苛々してた方が100倍もマシだ」
何だってこんな手間と金とをかけて、アベルを買ったりなどしたのか。理由なんて、本当に単純なものだ。それが、ここまでの労力を払う価値のあるものだったのかなんて、判らない。ただ、嫌だっただけだ。この馬鹿で不器用で、どうしようもなく生きるのが下手な少年が、世の常として淘汰され、ぼろぼろになって死んでいく、というのが。
その瞬間、己の心の平安よりも、アベルを選んでしまった。こんな単純な理由で。
吐き出すように言い切った後は、重い沈黙が降りてきた。気にしていない振りを装いつつ、そっとアベルの様子を窺うと、彼は何やら考え込んでいるようだ。
「…だったら…」
言葉は、随分後からやってきた。
「……僕は、ゼロ様の傍にいて、いいんでしょうか…」
「いなくて、どうする」
対するゼロは、即答である。
「今んトコ、俺の財産、お前だけなんだ。逃げようったって、逃がしゃしねーよ」
「逃げたりなんか、しません。絶対に」
アベルは、ゼロの言葉に驚いたように、首を横に振った。彼にしては珍しく、反射的なその反応は、考えるより先の、つまりは本心からのものである。ゼロは、にんまりと笑み崩れそうになる己の口元を努めて引き締めた。なんで、そんな事が嬉しいんだか。
「あの、…あの、僕…」
顎をしゃくって、言葉の続きを促す。それで、アベルは安心したようだった。
「…飼い主が、ゼロ様で、嬉しいです…」
絞り出すように呟いて俯いたアベルの頬は、ほんのりと赤く染まっていた。だけど、対する己の顔は、もっと赤かったに違いない。
ひどく恥ずかしくて。そこら中を走り回って、大声で喚き出したいそんな気持ち。
ああ、なんて厄介な買い物をしてしまった事か。
やっぱり、間違いだったかもしれない。
それは、これから長い間、彼を支配することになる懊悩の記念すべき一回目。
ゼロは、天を仰いで嘆息した。



闇の中から、ひとつの影が現れた。それはまるで、急速に影が凝って、人の形を取ったかのようだった。影は滑るように進み、奥の間へと膝を折る。淀みない一動作。
今までに数え切れない程に繰り返されてきた挙動。幾重にも緞帳の降ろされた奥の間に、巨大な椅子が据えられているのが判る。そして、そこに人が座っている、という事も。
「失われていた器が、発見されました」
「見ておった。なんとも不可思議なる縁(えにし)よの。…定められた宿命には抗えぬ、という事か」
「は?」
「よい。戯れ言じゃ。捨て置け」
平伏した存在に対して、降る声はいっそ、優しげですらある。
未だ年若い女の、しかし、命令する事に慣れきったような、高雅な声。
だが、影の何事か言い淀む気配を感じたのか、声の主は更に口を開いた。それはひどく珍しい事であった。
「何か、言いたい事があるのか。許す故、申すがよい」
「…例の者を処罰する事はできないのでしょうか。器を今まで見失っていたのも、本を正せば、あやつの勝手なる振る舞いの所為」
「それは、できぬ。あれは、我が庇護下には存在せぬ者。…ハ・サタン様ご自身の持ち物である故な」
反論は口にせぬものの、明らかに不満そうな意を漂わせていた存在は、声が何気なく付け加えたその内容に、小さく息を呑む。
(ハ・サタン)の持ち物、とは、一体、如何なる意味を持つものなのか。それは、立場としては、目の前の声の主と比較しても、何ら遜色のない者である、という事か。
その惑乱を戒める為にか、続く言葉は、鋭く引き締まっていた。
「任は継続して行うように。器の監視はゆめ怠るな」
「御意に。法王猊下」
闇の中から生まれ出た影は、再び、闇へと還る。残されたのは、絶対的な沈黙の世界。
現在在る世界、たったひとつの存在である声の主の身じろぎによって生まれた衣擦れの音のみが、緞帳を割って、さらさらと響く。
「…是非もない。所詮は、神なる者の御手の中、か」
細い吐息に、感嘆の色が滲んでみえたは、錯覚だろうか。
現在、全世界を支配するアンゲルス教団の最高権力者である教皇にして、大善神ハ・サタンの代理人でもある法王は、ひとりごちる。
天国の門からさえ、地獄へ至る道はあるのだ。
運命の糸は決して切れない。終末へと向かう予定調和は、歴然と存在している。



END







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