IN PARADISUM〜天国にて act.3


その時 戦いが起こり
天堂の花園は 戦場と化し…

ジョン・ミルトン「失楽園」より



彼は、毎日やってきた。朝早い時もあったし、薄暗くなりかけた頃の事もある。時間帯はまちまちだったが、共通しているのは、決して長居はしない事。
いつも、通りがけにほんの数分。立ち止まって、声を掛ける。別に、アベルの返事は期待していないかのように、答えがなくても構わない類のことを、二言三言。それでもアベルは、彼を真っ直ぐに見つめて、話を聞いていたし、その事は彼も承知していたのだろう。言いたいことを言い切ってしまうと、ふいと背を向けて去っていく。
そして、また翌日に現れる。その繰り返し。
黙って聞いているだけのアベルも、様々なことを学んだ。
彼は、焼き栗が好きらしい事。(前にくれた焼き栗は、彼気に入りの露店で購入したものであるらしい)
暑さよりも、寒さの方が耐え難いのに、厚着は嫌いらしい事。せっかちで怒りっぽくて、だけど、笑うと、ひどく優しい印象になるという事。
そして何より、『話す』というのは、今、心の中にあるものをそのまま口にしてもいいのだ、と知った事。
ここ数年間、彼の知る唯一の存在は、あまりにも博識であるが故に、発する言葉というもの全てに深遠なる意味が込められていた。言葉を交わすという事は、相手の言葉の深意を探る事でもあったし、更には、相手に教えを請うという行為に他ならなかった。
しかし、彼の話しはそうではなかった。ただ、表情豊かな心だけが、その言葉に乗っていた。時に熱く、時に冷たい。まるで、めくるめくような色彩の乱舞。常に一定温度に保たれたモノクロームの世界をしか知らないアベルにとって、それは時に物理的な痛みさえ伴うようなもので、だけど、アベルはそんな彼との時間が嫌ではなかった。
決して、嫌ではなかった。



今日は、彼が口をきいた。別に、どうといった言葉でもない。ゼロの話に小さく微笑って、ふと洩らした、相槌にさえ近いもの。
最近の彼の表情は、どことなく柔らかい。ゼロの姿を目にした瞬間、その目元が小さく綻ぶようになった。ただ、それだけの事が、こんなにも嬉しいのは何故だろう。
ゼロは、己の口元を掌で覆い隠した。唇が無意識のうちに微笑を形づくっていた事に気がついて。
誰もいない部屋である。だけど、何者かに知られたような気がして、どうにも落ち着かない。
あの少年と出会ってから、己はどこかおかしい、とゼロは思う。
冷静に考えれば、どうでもいいような事で、わくわくしたり、そわそわ、どぎまぎ。それでいて、ゼロをあんなにも悩ませ、苛立たせる者もまた、存在しないのだ。
あの白い羽の少年と同じ場所にいる、という、ただそれだけで、不可思議な充足感とアンバランスな不安感。こんな感じを味わった事は、今までに一度だってなかった。
それとも、遙かな昔、姉に対して時に感じた事のある思いに、少し、似通っていただろうか。
周囲の子供達の間では大将格だった姉は、勝ち気できかん気で、時として高圧的で、それでもやっぱり、彼にとっては姉だった。…他の子供達にとっては、恐るべき暴君であった事だろうが。
ゼロは、深く考えぬままに、つらつらと過去を思う。
特に姉とはそりが合わなかったらしい金髪の少女は、いつも彼女に苛められていたものだ。あのふわふわとした髪を飾るピンクのリボンが、彼女の気に障ったからだったが、当の少女は最後までそれに気づかなかったらしい。いつもびくびくと怯えて、彼女に泣かされて…。泣かされて、いただろうか?
ふと、疑問が過ぎる。一瞬甦ったイメージ。大きなピンクのリボン。姉の髪をひっつかんで、彼女の頬に爪を立てる金髪の少女。
ゼロは軽く頭を振った。当然、そんな事実はなかった。あの筋金入りの『弱者』だった少女に、そのような度胸がある筈もない。
どうにもおかしい。最近、昔のことばかりを思い出す。とりとめもなく、しかも辻褄の合わない記憶の数々。いや、『記憶』などとは言えない。過去にあったはずもないそれは、既に妄想に近い。
疲れているのだろうか。
洩れた溜息は、思いの外大きかった。



そこに現れたのは、最近ではすっかり見慣れてしまった、ポスターの中の剣闘士ではなかった。徐々にアベルの中で大きくなっていく、何とか言葉を返したい、という願望。しかし、それでも、何をどのように話していいのか判らずに、結局、その後ろ姿を見送るだけの彼。彼とは同族である黒い羽の男は、しかし、彼のようでは決してない。
周囲を眺めるともなく眺めたついでのように、アベルへと視線を流す。男の目には、己が物体としてしか映ってはいないのだろう事が如実に判って、アベルは小さく身を震わせた。
何故だろう。アベルは、その男の視線が嫌だった。
存在を意識されない、ただ、風景の一部としか認識されない、というのは、別に今に限った事ではない。いっそのこと、その方が気が楽なのも確かだ。しかし、アベルを物体としてしか見ていないのに、男は確かに、ある意識をもって、アベルを見ていた。
背中の羽が、緊張に強張っていた。身を固くして、できるだけ目に触れないようにと願って、膝を抱え込む。まるで、そうする事によって己が透明になれる、とでもいうかのように。
しかし、こういった場合、アベルの心の願いが叶えられる可能性は極めて低い。相手の視線に対する震えは、いっかな止まろうとしなかった。
「おい。そこの奴隷」
反射的に、びくりと肩が跳ねた。そろそろと顔を上げると、目の前に男が立っている。
「最近、こいつがこの辺に出没するって話を知ってるか?」
男が顎をしゃくった先は、壁に貼られたポスター。それは、何人かの剣闘士の絵と簡単な来歴が入っていたものであったのだけれども、アベルには男の言う『こいつ』というのが誰のことなのか、すぐに判った。
この男は、彼の敵だ。
少なくとも、彼に対して良い感情を持ってはいない事は確実で、それだけでも、アベルが目の前の男にマイナス感情を抱くには充分だった。加えて、感情とは別に、男を「嫌だ」と判断する部分が存在する。
アベルは、己を護るたったひとつの術を行使した。つまり、男に目を向けず、身を固くして、周囲の何に対しても無反応の人形となった。
殻に閉じこもったアベルに対して、相手は見下したように鼻を鳴らす。それでも全く反応を示さないアベルに関心を失った男の姿が、路地を曲がって見えなくなっても、アベルはそのまま、ただ前方の虚空を見据えていた。



夕刻、姿を見せたゼロに対して、アベルは、ほっとしたような顔をして微笑みかけた。
「…何かあったのか?」
数瞬の沈黙。
それから、アベルは軽く、二度三度と首を横に振る。どうしてそんな事を訊くのだろう、とでも言いたげな表情で。
そこまではっきりとした微笑みで迎えられたのは初めてだったので、驚いた、というのも、何だか少し気恥ずかしいような気がしなくもない。ゼロは、むっつりと唇の端をへの字に落とした。見ると、アベルが何だか少し悲しげな顔を見せている。それが己故だ、というのは、判っているのだけれど。
彼と会うと、いつもこうだ。結局、アベルに落胆に近いような表情をさせて、それで別れる羽目になる。決して、そんな事をしたい訳ではないのに。
思わず洩れた小さな溜息。それに敏感に反応して、アベルの背の羽が、軽く上下した。
ほんの少しの沈黙。
「…お疲れ、なんですか…?」
ゼロは、今度こそはっきりとびっくりした。通常、白き羽の奴隷が黒き羽の者へと先に話しかける事はない。それは、許されていない事だから。
恐らく、つい口をついて出てしまったのだろう。アベルは本当にゼロを心配しているようだった。…随分と的外れな問いではあったが。
そんな彼に、どんな表情を見せるべきだったのだろう。いつもだったら、不機嫌そうに顔をしかめる。他の相手だったら、冷笑を浮かべて、痛烈な皮肉の一つも言ってやる。本当に体調が悪かった場合ならば、特に。
決して、相手に弱みを見せない。それは、剣闘士という彼の生業に於いてのみならず、この世界に生きる全ての者に共通する真理だ。だから、当然、それに準じた何らかの反応を返すべきだったのだろう。
ゼロは、小さく微笑んだ。
「…かもな。最近、試合が詰まってっから」
頭では判っていた。そんな答えも、表情も、この場には似つかわしくない。しかし、それでもゼロのこの回答に、アベルの様子は更に親身なものになる。
「……あんまり、無理をしないで下さい…」
時には、無理でもやらなければならない。生き残りたいのなら。
それでも、彼を見つめて小さく言の葉を紡ぐアベルに、ゼロはただ、「ああ」とだけ答えた。仄かな微笑みの余韻を、その口元に残したまま。



「次の試合って、もうすぐですよね。相手は、すごく強いって…」
「何だよ。お前、俺がヤツよりも弱いとでも思ってんのかよ」
ゼロの揶揄に、アベルは大きく首を横に振る。
「とんでもないです。ただ…」
「ただ?」
言葉尻を捉えて、意地悪げに繰り返すと、アベルは項垂れて呟いた。
「……すごく、心配です。怪我でもしたらって…」
素直なその反応が楽しくて、ちくちくつついて遊んでいたら、思わぬところからカウンターが入った。
急にそんな事を言われても、返答に困るではないか。
「僕が心配するなんて、僭越だっていうのは判ってます。それに、勝てないんじゃないか、なんて思ってる訳でもないんです。だけど……」
ゼロの無言を別に意味に捉えたらしいアベルは、うまく説明できないのを、ゆるく首を横に振る事で示して、「ごめんなさい」と呟いた。
なので、取り敢えず大きく構えて、「気にすんな」と答えてやる。それが一番、自分にとって、穏当な判断だった。彼の勘違いの皮を剥いでしまうと、現れるのは、おたおたとみっともない自分の姿である、という事は、よく判っていたので。
「…だけどお前、色々詳しいな。俺の次の対戦相手の事なんて、どこで知ったんだ?」
そもそも、どこをどう見たって剣闘好きなようにも見えないのに。剣闘士でもない奴隷に対して、わざわざそんな知識を与えてくれる存在も、いやしないだろう。
「ポスターで見て…」
はにかんだように言う彼のすぐ側には、確かにポスターが貼られている。アベルと初めて会った時にも、それはあった。なるほど、と納得しかけて、ふと止まる。
ポスターには、次の試合の組み合わせと出場戦士の姿絵が、描かれている。それを見れば、確かにゼロが出場する事は一目瞭然だ。が、しかし。
ゼロの対戦相手の事を知らなければ、相手が「すごく強い」などという表現は出てはこない。…ゼロとは比べるべくもない、その体格から判断して、というのも、ないわけではないだろうが。
ゼロは改めて、注意深くポスターを確認した。
戦士達の来歴は、姿絵の脇に小さく記されている。しかし、当然ながら、こちらは絵ではない。
「…お前、もしかして、字読めるのか?」
アベルは、はっとしたように顔を上げた。ならば、初めに彼の名前を知っていたのも、どこかから聞いたという訳ではなく、直接、ポスターで読んだ、という事なのだろうか。しかし、一風変わったゼロの名前は、それ自体が広告となるように、古語で表記されている。遙か過去に生み出され、現在では死語であるところの古語は、完全なる教養言語である。黒き羽にだって、読めない者は数多い。施されるのは躾がせいぜいの白き羽が、読み下せるような代物では決してない。
しかし、真っ直ぐに見つめ返すその瞳に、ゼロは確信した。彼は、古語が読めるのだ。ならば、当然共通語の方もかなり理解できるのだろう。なにせ共通語は、古語から派生、発展した言語なのだから。
「何でちゃんと言わないんだよ、そういう事を」
目も声も、座っていたのは否めない。実際、ゼロは大層腹を立てていた。何故、こいつはこんなにも自己主張が薄いのだ。自身の権利を守る為に動かないなど、愚か者のする事だ。そして、愚かな者が長生きできるほど、この世界は甘くない。そんな基本的な事すら知らないのだろうか。
「自分にできる事は、主張しなけりゃどうしようもないだろう。今のままじゃ、とんでもない場所に売り飛ばされちまうぜ」
ああ、まただ。凪いだ瞳。全てを諦めてしまったような。
「…構わないんです。もう、どうでも…」
「どうでもいいって事はないだろう?!」
ゼロの激高に動じる様子もない。アベルの蒼い瞳はどこまでも静謐だ。
その時、唐突にゼロは悟った。彼は、今までの自分の主人を守るつもりなのだ、と。
古語を操る奴隷は珍しい。皆無であると言っていい。彼は評判になるだろう。高値がついて、奴隷にしてはそう悪くない境遇に落ち着けるかもしれない。しかし、彼に古語を教えた人物の方は?
白き羽に教育を施すなんて、気まぐれの一言で済まされるものではない。それは、異端者として処罰される対象となる。
喉の奥から苦いものが迫り上がってくる。それを押し戻すように、拳を固く握りしめた。
「…お前みたいに要領悪いヤツ、ベギルドあたりの闇娼館にでも売り飛ばされて果てにゃ、相手を絞め殺さなきゃイけない、なんて変態ジジイにでも当たっちまうのがオチだってんだよ。それでも、お前は構わねーんだな」
固い声音は、低い呟き。アベルは、ゼロから目を反らすと、膝を抱えてそっとその顔を伏せた。
「…構いません。だから、僕のことは放っておいて下さい」
再度、彼は繰り返す。もうその瞳がゼロを真っ直ぐに映す事はない。俯いた彼の視線は、檻の床の一点に据えられていたけれども、多分、実際には何も目に映ってはいないのだ。彼は、己の心の中に沈み込んでしまっている。恐らく、そこに存在するのは、彼の前の主人だけ。
目の前が真っ赤に染まる。眼球に燃えるような熱が集まって、くらくらした。
いっそ、殺してしまいたい。
吹き上げる欲望に息が詰まりそうになって、ゼロは彼に背を向けた。このままだと、本当にそれを実行に移しかねない己を知っていたので。
今まで、人を殺したいと思ったことは一度もなかった。闘技場でも、差し向けられた刺客を返り討ちにした時も。彼にとって、それは、しなくてはならない事であり、個人的な殺意や憎しみが内在するようなものではなかったのだ。
それが今やどうだろう。胸から喉奥にかけて凝ったどろどろとしたもの。凍えるように冷たいと同時に、吹き上げ燃え上がるどす黒いマグマ。そんなものに支配されて、冷静な判断力をすっかり失って、己こそとんだ愚か者のようじゃないか。たかが奴隷一匹に。なんてザマだ。このゼロ様ともあろう者が。
ゼロが己の掌を破りそうになるほど、固く拳を握りしめた時、彼は続けて言った。もう、何の望みもない。そんな声で。
「…もう、いいんです。僕は、誰にも何も言ったりしませんから」
「……何だって?」
彼は一体、何を言っているのか。困惑は、続く言葉によって目まぐるしく変化する。衝撃。驚愕。一瞬の空白。
「捜査官が来ても何も証言する気はないし、誰も僕にそんな事を求めたりしません。…元々僕は、しゃべれないんだと思われてるんです。だから…」
そして、憤怒。
「…お前、そんな事のために俺が今までここに来てたと思ってたのかよ…」
我ながら、感情の抜け落ちたような声だった。こんなにも怒りに燃えているというのに。それとも、だからこそ、か?アベルが驚いたように顔を上げた。彼の前に立つ己は多分、声そのものの表情をしている。
ゼロがアベルの元へと通っていた理由。それは、ゼロの犯した殺人の目撃証言ともなりうる情報を、彼当人がそれと知らずに握っていたから。そして、場合によっては、ゼロは彼を始末しなくてはならなかったからだ。
確かに、初めはそうだった。あくまでも、初めは、である。いつしか、そんな事実すらも忘れ果てるほどに、ゼロはアベルと会うという事、それ自体がとても楽しくなっていた。
「俺が何を考えてるのかなんて、勝手に判断するな!」
何に対して、こんなにも腹を立てているのだろう。目的を忘れた自分の間抜けさ加減。彼の行動の理由を、アベルは見透かしていたという事。それでも、何も知らない振りをしていた事。
純粋に楽しかった今までの時間は、偽りで塗り固められたものだったという事。
まるで、心の奥底の柔らかい部分を土足で踏みにじられたかのような思いがする。
それとも、そんな柔らかい部分を、自身が持ち合わせていたという事それ自体が、腹立たしいのだろうか。
それ以上、ゼロには何も言えなかった。言いたくもなかった。ただ、体を芯から震わせる怒りを視線に転化して、彼を睨み付け、そして彼に背を向ける。
もう止めた。
もう、こんなヤツはいらない。もう、あの裏路地には決していかない。
彼は知らなかった。己が感情の奴隷となって、徐々に愚かなモノになっていく。そんな心の動きが、一般的になんと呼ばれているものなのか。









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