IN PARADISUM〜天国にて act.2


誰が誘惑するのだろう
…暗く 底のない 無限の深淵に?

ジョン・ミルトン「失楽園」より



「野良だったんですよ」
外の檻にいる奴隷について知りたい、というゼロの言は当初、その商店主に過剰な期待を抱かせたものであったらしい。が、少し興味が湧いただけだ、というのもまた、すぐに納得したようだ。彼はあっさりと、それでいて客になるかもしれない相手に対する媚びをその営業用微笑に滲ませつつ、そう言った。
「…の割りには、随分とお行儀がいいな」
「だけどね。何しろ、鑑札をつけていなかったもんで」
白い羽には、二種類の階級しか存在しない。つまりは奴隷か、下民か、だ。ただし、下民は滅多にいない。剣闘士奴隷が、5年間無敗を守るか。あるいは黒い羽への忠誠を誓い、特に取り立てられるか。いずれにしても、ほんの一握りの存在に過ぎないし、あの少年は決して、そのような下民には見えなかった。
しかし、鑑札をつけていない奴隷もまた、存在しない。
一度つけた鑑札は、基本的に外せない。奴隷業者が持つバーナーで焼き切る以外には。しかしこれも、飼い主が変わる時のみ行われる事で、飽きられ、業者に売りに出された奴隷が、運良く新たに飼い主を得た時には、また新たな鑑札を与えられる事になっている。
ようするに、あの少年は一度鑑札を外された後に、業者から逃亡した、という事なのだろうか。
「どこからの逃亡奴隷だったか、問い合わせたりは…」
ゼロは、そこで言葉を切った。商店主のしたり顔を見るまでもない。愚問だった。
一度拾ったら、それは拾い主の物だった。逃げられる方が間抜けなのだ。
ひょいと肩を竦める事で、話を打ち切る意を伝える。それを受けて、商店主も肩を竦めてみせた。
「だけどねぇ。あれが、とんだ半端物でしてねぇ」
別に元手がかかっているわけでもあるまいに。
ゼロは、かなり冷淡に見下ろしたが、相手は全く気にしていないようだ。溜め息混じりに、更に愚痴をこぼし出す。
「使役奴隷にするには、力も体格も足りない。愛玩用で売るには、年を取り過ぎてる。勤労用にするにもね。全く、反応が鈍くて。しゃべりゃしないし、こっちの言葉も判ってるんだか、ないんだか。性奴隷にするにしても、高くは売れないよ。傷物じゃね」
「…別に、傷があるようには見えなかったが?」
ゼロは、先程の少年の姿を思い出す。短衣からすんなりと伸びた足にも、肩からむき出しの腕にも、染みひとつ、青痣ひとつ存在しなかった。奴隷にあるまじきその物珍しさもまた、ゼロの目に留まった理由のひとつだったのだから。
しかし、商店主は重々しく首を振った。
「随分と古い跡なんですけど、ここにね」
己の左胸に指を走らせる。
「あれで生き残ったってのも、奇跡的だが。…前の飼い主は、アンゲルス教の熱心な信者だったんじゃないですかねぇ」
その指先の描き出した正確な十字を見れば、そのような結論に行き当たるのは当然だったろう。しかし、その時ゼロは、一瞬の目眩を感じた。何故だろうか、いくつかのイメージが脳裏に浮かぶ。
全く表情も判らない程に真深くローブを引き下ろした人々の群れ。壇上に立つ大神官と、祭壇に据えられた白き羽。心臓を取り出し、神への捧げ物となせ。
「…生け贄」
「ああ、そういう見方もできますか」
そこでゼロは、我に返った。己は一体、何を言っているのだろう。
「生け贄。生き残った生け贄、か。成る程、面白いかもしれないな。そういう方向で、売りに出せば…」
しかし、商店主は狼狽混じりのゼロの挙動に目を向ける様子もない。目を輝かせて、何やらぶつぶつと呟いている。口早に辞去の意を示して座を立ったゼロにも、気づいていないのかもしれない。しかし、ゼロが扉を閉めようとした間際、店内が慌ただしく動き出した気配があった。結局、彼の何気ない一言があの少年のその後の運命を左右してしまったようだが、まぁ、そんな事もあるのだろう、と己を納得させる。人は皆、何かに影響を与え、また与えられて存在している生物なのだし、結局のところ、彼は奴隷に過ぎないのだから。
その時、ゼロは首筋にちりちりとしたものを感じた。強い視線というのは本当に、物理的な刺激を伴って感じられるものなのだ。その方向に顔を向けると、案の定、檻に収まった先程までの話題の主が、こちらを見ている。ゼロが気づいたと見て、慌てて顔を伏せたが、当人を目の前にすると、先程の自分の所行というものにちょっとした罪悪感を覚える。
彼が再び「生け贄」として売りに出されるきっかけを作ってしまったのは、確かに自分なのだ。
しかし、何も言うべき言葉は見つからなかったし、その必要もまたなかったので、取り敢えず、己の欲求に忠実に従うことにする。
彼に背を向け、それと判らぬように意識的に歩調を押さえて、それでもできる限りのスピードで、その場から逃げた。



地を震わせる歓声、あるいは怒号。周囲を圧する強烈な感情の波動に背中を押されて、胎道のように細く暗い通路を通り、控え室へと戻るという行為はまるで、戦闘の狂気のみの支配する世界から日常へと還る為の儀式のようだ。一歩、歩む毎に意識が鮮明になっていく。訓練で身につけられた反射と生存本能とに彩られた無意識からの緩やかな帰還。その瞬間が、ゼロは結構好きだった。
「先だっては、世話になったな」
背後からかけられた声に、足が止まる。一気に精神の高揚が失せていく。思わずついてでそうな舌打ちを噛み殺して、ゼロはゆっくりと振り返った。さっきから、通路に立っていた男。ここが関係者以外立ち入り禁止の場所である、という事実を踏まえれば、男が何者かについては自ずと絞られる。
ここまで入れるのは、闘技場関係者と剣闘士本人。そして、剣闘士の飼い主。しかし、黒い羽の剣闘士はゼロ以外にはいない。そして、闘技場の職員でもない。制服を着ていないのに加えて、ゼロは男に全く見覚えがなかった。更に言えば、男は飼い主である程、金持ちには見えない…怠惰な体つきをしていない…ので、その護衛といったところだろうか。
護衛。傭兵。それも、場合によっては、暗殺も請け負う、か?
「何のことだ」
しかし、ゼロは何食わぬ顔で男と相対した。
「とぼけんな。こないだ、お前が殺ったヤツの事だ。あれは俺の同僚でね。請け負った仕事も一緒だったって訳さ」
想像通りの展開である。捻りも何もありゃしない。なんてまぁ、素直な。
「ああ、そう言えば、つい最近、路地裏で死体が見つかったってな。喉を一掻き、身元を示す遺留品もなし。可哀想にな」
「よくも、ぬけぬけと…!」
ゼロの軽く放った餌に迷わず食いつく。これは、刺客としては3流だ。やれやれ、これでは遊び相手にすらなりそうもない。
溜息を押し殺しつつ、ゼロは無表情という表情を作ってみせる。彼等自身の立場というものをきちんと理解させなければ、ただただ、うっとおしい事になりそうだ。
「もし万が一、俺が何か知っていたとしても、一体、お前達に何ができる?」
ゼロが殺害に係わったという証拠はない。ただ、殺されたのが彼に対して向けられた刺客だった、という状況のみがあるだけだ。それを証拠として成立させるためには、ゼロに対する殺害未遂を立証せねばならず、それは彼等にとっては自ら首を絞める行為に他ならない。
言葉もなく、奥歯をきりきりと噛み締める男に、ゼロは喉の奥で嗤った。
「…命は大切にするもんだぜ。なんせ、ひとつしかないんだからな」
口元だけを吊り上げる微笑。それが、とてつもなく酷薄に映るという事も知っている。そして、戦場では侮られがちな己の容姿が、こういった場合にはこの上なく有効に機能する、という事も。
武器となる物は、何でも使う。それが生き残るための常識だ。
後は一顧だにせず、ゼロは身を翻す。己に与えられた控え室まで戻り、後ろ手に扉を閉める。しかし、無頓着を装うのもそこまでだった。難しい顔で部屋の中央に置かれた粗末なテーブルまで歩み寄る。椅子を引いて、腰を下ろしたのも、半ば無意識だった。
証拠はない。ひとつたりとも。
…ではなかった。ゼロは、犯行当日の行動をなぞり上げ、己を納得させる寸前に思い出した。
あの時、奴隷が見ていた。彼が件(くだん)の現場である路地裏から出てきたところを。
不思議な印象を残す、蒼い瞳の少年。ゼロがその後の悲惨な運命を決定づけたも同然の。
「………最悪だ」



再び、この店の前にくる羽目になるとは、思いもしなかった。
「お前、…ええと」
何という名だったろう。ああ、そうだ。
「…アベル」
檻の中のアベルが、ぴょこんと頭を下げた。
鉄格子を挟んで、白い羽の少年と相対する、という状況は、あまり一般的なものであるとは言えないのだろうな、と思いながら、腕組みをしたままのゼロはアベルを無表情に見下ろした。
アベルの白い羽は、やはり軽く空を掻くように上下している。戸惑い。そして困惑。しかし、ゼロ当人としてもそれは同じようなものだ。己の陥ってしまった至極面倒な状況に、目眩すら感じてしまう。が、このままここでこうしていたって仕方がない。あまり人目に付きたくないのは変わらないわけだし、嫌な事にはさっさと手をつけてしまった方が早く終わるというものだ。
「やっぱり、お前をどこかで見た事があるような気がするな」
全くの口実であったその言葉は、また全くの真実である事を、彼は口にした瞬間に思い出した。
「今まで、何処にいたんだ?」
深く考えぬまま、すんなりと口をついて出た問いには、『捕まるまでの間』という意が隠されている。しかし、アベルは目を伏せたまま、そっと首を横に振った。
「ちゃんと言えよ。…喋れるんだろうが」
初めて会った日、彼はゼロの名を呼んだ。その事実に基づいて付け足された言葉である。そして、それは彼にもすぐに判ったらしい。アベルがゼロを仰ぎ見た。澄み切って深い蒼。太陽を失った瞬間の空のような、あるいは夜明け間近の海のような。しかし、ついと目を反らすと、再び俯く。
「ごめんなさい」
声は、小さく掠れていた。
「…何が?」
「真っ直ぐに人を見るのは、いけないってそう言われたんです…」
「バカ言ってんな。俺は、相手から目を反らすようなヤツは嫌いだ」
ゼロのこの言葉に、アベルは大急ぎで顔を戻す。ゼロは、自身には思いも寄らないような素直な行動に、つい吹き出しそうになったが、それは堪えた。
「『喋るな』ってのも、言われてるのか?」
皮肉混じりのこの問いも、彼は真っ正直に受け止めたらしい。再び、しかし、今度は目を伏せずに首を振る。
「話すのが苦手なんです。だから…」
おずおずと、といった調子で綴られた言葉も、そこで途切れた。
躊躇している事を示すような間。
「…僕は、人のいない場所で育ちました。だから、お会いした事はないと思います…」
それは、最初のゼロの独り言に近い疑問に対する答え。少なからず、ゼロは面食らう。言動それ自体は理に適っているようだが、どうにも会話そのものが噛み合わない。どうやら、根本的にテンポが違うらしいのだ。
「人がいない?」
成る程、これじゃあ『鈍い』と評されても仕方がない、と思いながら、ゼロは彼独特の会話テンポに合わせて、更に水を向ける。そうでもしないと、また、彼は黙り込んでしまいそうな雰囲気だったので。そして、その作戦は正解であったらしい。アベルは、たどたどしくも口を開いた。
「こんなにたくさんの人を見るのは、初めてです。…みたいなものです」
彼の飼い主は、他者との接触を断って、人里離れた山奥にでも引きこもった世捨て人の類いだったという事だろうか。そういう人間は、確かに存在する。稀にではあるが。しかし、そういう者は普通、ある種の単語で表現される。
「そりゃあ、変人だな」
ゼロが、最も一般的かつ端的な評価を与えると、アベルの眉がハの字に下がった。
「…別に、お前がってんじゃねーよ。お前の飼い主の事言ってんだ。…そんなに気にする事じゃねーだろ」
しかし、アベルはこれにも、しかも今までとは違い、断固たる調子でもって、首を横に振った。
「僕は本当に、皆が知ってるような色々なことを何も知らなくて、ここに来てから初めて知った事がたくさんあって、だけど、それはあの人のせいなんかじゃ全然なくて、全部、僕が…」
「だから、それはお前の今までの主人が変人だったからだろ?」
あまりに一生懸命に反論するので、何だか意地悪をしてやりたくなってきた。肩を怒らせながらの彼の弁は、一刀両断、切って捨てる。奴隷のしつけは、飼い主の務めである。その奴隷が何も知らないというのだったら、それはしつけた飼い主が悪いのだ。
ゆったりと腕を組み直し、目を眇めて彼を見下ろす。なおも言い訳できるのならば、言ってみろ、とばかりに。しかし、その言葉に対するアベルの反応は、ゼロにはある意味、意外なものだった。大きく見開いた目は、衝撃を隠しきれず、幾度か瞬かれる。物言いたげな口元が小さく震えて…。
そのまま、人形と化してことりと落ちた。そんな気がした。
ぐうの音も出ないといった状況で、ゼロを恨めしげに見上げる。ゼロが期待したのは、その程度のものだったのに。
「…何だよ。言いたいことがあるんなら、言えよ」
気になってしまうではないか。まるで、弱い者苛めをしたようで。
凪いだ瞳が、ゆっくりとゼロに当てられた。そして、再び横に振られる首。諦観が滲んだ所作。
「何でもないんです。ただ…」
「ただ?」
「……あの人は、『今まで』の主人なんだなって、そう思って…」
諦観。それとも、絶望か。揃えて立てられた膝に顎を乗せて、彼の瞳は虚空を見据える。
あの御方ではなく、『あの人』で、御主人様ではなく、『主人』か。
当然取るべき奴隷との距離すら無視するとは、彼の飼い主はどうやら、相当な変人だったらしい、と半ば感心しつつも、ゼロの心に、ほんの少しの曇りが生まれた。
彼は本当に、前の飼い主が好きだったのだ。そして、今でも好きなのだ。捨てられ、またしても売買される身の上に堕とされた今でも。あまりにも赤裸々にその心が読みとれる彼の挙動は、莫迦らしいと思うと同時に、どこか胸が痛む。
「………しょうがねーだろ。そんな事」
不機嫌そうにぼそりと呟いたゼロに、アベルは小さく俯いて、それでも吹っ切るように頷く。だけど、寂しげな瞳の色は消えないのだ。それから後、言うべき言葉を見失って、まるで逃げるように帰るしかなかった自分が、ゼロは何だか悔しかった。



「おら。手ぇ出せ」
翌日、早々のゼロの言に、アベルはびっくり眼を見開いている。そもそも、何故、ゼロがまたここに現れたのか、よく理解できないらしい。対するゼロは、いらいらとした口調で更に言い募った。
「何もたもたしてんだ。とっとと出せよ」
ゼロが怒っているので、深く物事を考えるのは取り敢えず、後回しにする事にしたようだ。慌てたように、彼はゼロの指示通りに、その両の手を差し出した。
ゼロが檻の中へと差し入れた拳の下に、そっと伸ばされた彼の手が一瞬触れる。掠った程度のそれに、まるで感電したかのような小さな衝撃を感じて、思わず、拳を固く握りしめてしまう。そんなゼロに、アベルが顔を上げた。その面に浮かんでいるのは、小さな疑問符。
何をやってるんだ、俺は。
己の動揺は殊更に無視して、ゼロは握っていた焼き栗を数個、アベルの手の中へと落とし込んだ。
「食えよ。どうせ、ろくなモン食ってねーんだろ」
目を瞬いて彼を見返すアベルに、ゼロは顔を背けたまま、早口に続ける。
「別に、お前に食わせようと思って買った訳じゃねーぞ。さっき、俺が食った余りモンだ」
言い訳がましい、と我ながら思う。そもそも、何でそんな事を気にしなくてはならないのか。気まぐれで、奴隷に食べ物を恵む。それのどこが悪いという訳でもないのに。
しかし、それでも何でも、嫌なのだ。
ゼロは己が彼を心に掛けているなどとは、誰にも思われたくなかった。自身にさえ。決して認めたくなかったのは、それが紛う方無き真実だと、意識下では悟っていたからだろうか。
そんなゼロの心情を読みとった訳ではないだろう。しかし、その時、アベルが思わず、といった様子で笑った。
満面の笑みだった訳ではない。いうなれば、目元口元が少し綻んだという程度のものではあったのだが、その瞳にまっすぐにゼロを映して、恥ずかしげに頬を染めて。
「…ありがとうございます」
微笑ったのだ。
「……とっとと食え」
アベルに背を向けて、吐き捨てる。赤く染まった顔を決して見られたくなどなかったから。低く押さえたその声は、不機嫌そうに響いただろうか。いっそ、その方がいい。上擦りそうになるのを誤魔化すためだと知られるくらいならば。
それでも、胸の奥に生まれた、暖かく仄かな想いは、いっかな消え去ろうとはしない。彼がふと垣間見せた微笑とともに。









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