IN PARADISUM〜天国にて act.1


必然も 偶然も わたしを左右することはできない
わたしの意志の志すものこそが 運命なのだ

ジョン・ミルトン「失楽園」より



鉄柵越しに見る世界は、何故、こんなにも狭く映るのだろう。
しかし、確かに、そんなに広々とした物ではなかったけれど、似たような様式の建物が建ち並ぶこの通りは、整然と落ち着いた佇まいと言えなくもない。
喧噪に満ちた表通りから一本、脇道に入っただけだというのに、この辺りは随分と静かなものだ。あまりおおっぴらには言えないような品物を扱う商店が軒を連ねる、文字通りの裏通り、といったところだろうか。
どの店にも、店頭前に置かれた檻の中に、うつろな目をした幾人かの白き羽。彼等は、決して周囲を見ない。向かいの檻の中に、彼等と同じように入れられた同族の少年の事になど、全く無関心な様子だった。
アベルは、溜息混じりに己の膝を抱え込んだ。風は遮る物とてなく吹き付けて、彼の体から容赦なく体温を奪い取る。他の店と違って、彼の檻には彼一人しか入れられていなかったので。
しかし、それも幸運というべきなのかもしれない。例え、時を同じくして入荷した奴隷がいなかった、というだけの事であったとしても。同じ檻に人がいたら、きっとアベルはもっと深い孤独感を味わう事になったに違いない。
その相手と本当の意味で触れ合える事は決してない、と思い知らされる辛さは、物理的な距離とは反比例するものだ。
経験上、アベルはそれをよく知っている。
この数年間を共に過ごした人は、決して、アベルをその心の内に立ち入らせようとはしなかった。実際、その人は家を留守にしている事の方が多くて、本当に共に過ごした、と言える時間など、その年数の半分にも満たなかったのだけれども。
彼に牢獄から拾い上げられて、既に何年経っただろう。あの後、彼はそのまま、アベルを家へと連れて行ってくれた。それもやはり、アベルがあまりにも貧相で、哀れっぽかったからだろう。多分、ずっと迷惑だと思っていて、だから、ここにきて捨てられた、というのも、あるべき事が遂にきた、というだけに過ぎないのだろう。
自分がいるべきではない場所にいる、という事は、初めから判っていた。いつ、「出て行け」と言われるのか、と、どこかでずっと怯えて、暮らしてきたような気がする。結局、告げられる事はなかったが。
彼がアベルに背を向けて、扉から出ていった時。もう戻ってはこないのだ、という事が、アベルにははっきりと判った。もう二度と会えないのだろう、という事も。初めて会った時、彼が言ったように。
かくあるべく定められた宿命だ、と、彼ならいつものようにそう言うのだろうか。
そして、彼の家から出てきて、3日とかからず、現在の状況にまで堕ちてしまった、というのも、宿命というヤツなのだろうか。
アベルは、しっかりと己の肩をその両の手で抱きしめた。宿命なんて、どうでもいい。全てが、夢だったらよかったのに。




「お望み通り、これからはぐっすりと眠れるだろうよ。夢も見ないでさ」
喉首に真一文字に開かれた二つ目の口を、もの言いたげにぱっくりと開いた男が、返答する事はない。金輪際、永久に。
告げながら、ゼロは短剣を払う。血飛沫がいくつか周囲に散ったが、それで刀身についた血糊が完全に取れる事はなかった。しかし、剣の柄から先、彼の手には少しの返り血も散っていない。
ぬるつく血を手になど付けて、剣を取り落とすような危険は冒せない。一瞬の油断が生死を分ける世界で生きる彼にとって、手際いい殺傷は生き残るための常識である。
残った血糊は、足下に倒れた男の服の端で拭き取って、ゼロは短剣を元通り、懐にしまい込んだ。
さて、今回の刺客は、どこの者だろう。最近では、掛け金をすった腹いせに、因縁を付けて襲ってくる者も随分、減った。やはり、どこぞの金持ちに雇われた者、と取るのが定石だろうか。自分の持ち物である奴隷を倒されたのが面白くない、とでもいった理由の。
または、これから倒される予定だったのかも知れないが。
ゼロは、皮肉げに笑う。
ごく一般的な剣闘士である白き羽と違って、ゼロは、いわゆるパトロンを持っていない。彼は、誰の持ち物でもなく、自分の意志で剣闘士となった、最初の黒き羽だった。
物心付いた時から、いわゆる孤児院と呼ばれる所にいた。肉親と呼べる者は、同じ場所で育った姉一人だけ。子供の世界では、親がいない、という事実はそれだけで、『弱者』に近い位置に定義づけられる。定年に達した姉が先に孤児院を旅立っていった時、どんなに羨ましく思ったことだろう。じりじりするように己の時が流れるのを待ち、ようやっとここから出られるという時など、踊り出したくなるほどに嬉しかった。出院前日に送られてきた、「共に暮らそう」と書かれた姉の手紙は、その場で捨てた。そして、院を出たその足で、彼はかねてから思い定めていた場所へと向かったのだ。
つまりは、剣闘士訓練所へと。
実力のみが問われる世界ならば、己の『弱者』としての立場など意味を持たない。彼は、強くなりたかった。誰よりも、何よりも強く。
しかし、ここも完全なる実力のみの世界という訳でもないという事も、今では判ってきている。結局、剣闘士奴隷達は、飼われる身の上だったし、飼い主同士のつき合いとやらで、八百長が演じられる事もある。今回のゼロに対するように、腹いせに刺客が送り込まれるような事も。
だからこそ、如何に強大な飼い主、いわゆるパトロンを持っているか、というのがその戦闘能力と相まって、剣闘士の『強さ』と評される。が、しかし、ゼロは誰かに飼われるなど我慢がならなかった。結局のところ、抜きん出た実力さえあれば、それでやっていけるのだ、という事を自分自身に立証したかったのかもしれない。
物言わぬ死体はそのままにして、ゼロは踵を返した。既に、その場には何の興味もなかったし、そんなに長々と殺害現場に留まるというのも、犯人としては不都合でもあった。例え、相手から襲ってきた故の正当防衛だったとしても、殺人は殺人だ。逮捕されれば、処罰される。捕まる気など、毛頭ないが。
その路地裏から更に一本の道を経由して、何食わぬ顔で表通りに出てしまえば、それでいい。誰も彼を怪しみはしない。結局のところ、路地裏の殺人など、行きずりの犯行として迷宮入りする事もしばしばなのだ。今回がそうなってはならないという理由もない。
表通りまで、後少し。歩む裏路地には、奴隷用の檻が幾つか並んでいた。物体である奴隷達は、直接自分自身に係わる事以外の全てに対する関心が薄い。そこをゼロが通っていった事すら、覚えてはいまい。そもそも、捜査官が訪ねてくる頃、まだ同じ檻に入っている奴隷などいるとも思えなかったが。
運のいい者は売られていき、そうでない者は廃品在庫として処分される。ごく当たり前の光景。
ゼロはその時、彼へと向けられた明らかな視線を感じた。物体の、ではない。生きている、意思のある視線。ゆっくりと頭を巡らせる。慌てた素振りなど、ほんの少しも感じさせないように、殊更にゆっくりと。
それは、檻の中にいた。ぺったりと座り込んで、大きな瞳をまん丸く見開いて、ただ真っ直ぐにゼロを見つめていた。
そこでゼロは初めて、彼を見つけたのだった。




アベルは驚いていた。路地裏から現れたその人を、アベルは知っていたのだ。実際、アベルの檻の脇に貼られたポスターにも、その人の小さな絵が入っている。名前も。
史上初の黒き羽の剣闘士。最近、華々しいデビューを飾ったばかりのその人は、早くもスターの仲間入りを果たしているらしい。
彼の試合がある度、その勝利に賭けられる莫大な金額。それが示す、剣闘士としての彼の人気の程は、この街に連れてこられてまもないアベルにだって、容易く理解できた。だけど、彼の事を知っていたのは、ひどく気にかかっていたのは、彼が有名人だったからではない。朧な記憶に残る、夢の中の少女と同じ色合いだったからだ。
青みがかった銀の髪。切れ上がり気味の紅玉の瞳。獄舎の中で、思い浮かべた。何度も、何度も記憶を辿った。その生命溢れた顔だけが、暗闇の記憶の中の、唯一の色彩だった。
支え?縋る縁(よすが)?あるいは『夢』か。多分、少女は孤独なアベルの創り出した幻覚だったのだろう。けれども、確かに彼女はあの時、アベルの精神の均衡を守ってくれていたのだ。そんな守護天使に対して抱いた、恋とすらいえないような仄かな想いは、確かにアベルの中に残っていて、だから、彼に対しても、そんな気持ちになってしまうのだろうと、アベルはそう結論づけた。
ただ、彼は、紛れもない男性だったのだけれど。
「…ゼロ」
そっと呟いた名前は、口の中で転がるような不思議な響き。
それは、『なにもない』『存在しない』という意味の古語。
不思議な名前。だけど、とても綺麗な響き。アベルは、目の前の彼を見つめ返す。しかし、ポスターの中から現れた彼は、アベルには見覚えのない表情を作った。つまり、軽く眉根を寄せてみせた。その時、ようやっとアベルは気づいたのだ。目の前のゼロは、本物だった。
高貴なる黒き羽に対して、不躾な視線を送り、あまつさえ、自分は何を言った?
彼の名を、呼び捨てにした。
慌てて目を伏せる。そもそも、己の視線は相手に不快感を与えるのだ、という事は、最近、檻に入れられる身の上になってから、散々、思い知らされていた。謝罪するべきだろうかと思いつつも、奴隷である自分には、黒き羽に対して、話しかける事など許されていない。
どうか、彼が嫌な思いをしていませんように。
そう思いながら、アベルは立てた膝を抱え込んだ。己に目など止めず、そのまま、行ってしまってほしい。
しかし、そんなアベルの願いが聞き届けられる事はなかった。後日、思い返した折りには、あそこで彼が行ってしまわなくてよかった、とつくづく思いやったものだが、現在のアベルにとっては、目の前で立ち止まって、檻の中のアベルを見下ろす彼は、悪夢以外の何者でもなかった。




どこか懐かしいような、蒼い瞳。
しかし、素直な驚きだけを映した真っ直ぐな瞳は、あっという間に伏せられ、後には身を縮こませた白き羽の奴隷がいるばかり。
ゼロは、目の前の少年が己の名前を口にした時、感動にも似た思いが胸に溢れるのを自覚した。こんな声をしていたのだ、と。不思議なものだ。初めて会ったというのに。
彼は、改めて檻の中の奴隷を見下ろした。年齢は、16、7といったところか。栗色の髪。今は隠されて見えない蒼い瞳。白い頬は強張り気味で、どうやら、ゼロの視線に怯えているようだ。
やはり、見覚えはない。そもそも、ゼロの知る白き羽の者など、殆どが剣闘士である。しかし、眼前のひょろひょろした少年が剣闘士である可能性など、万に一つも存在しない。剣闘士になる以前、孤児院にいた頃に見かけた事でもあったのか、とも思ったが…。
「お前。…俺を知っているのか?」
少年がびくりと身を竦めた。しばらく、そのままでいたが、やがて、観念したかのようにソロソロと顔を上げる。澄み切って深い蒼は、一瞬、ゼロの顔に当てられた後、そっと反らされる。
そして、彼はこくりと頷いた。
「どこかで、会った事があったか?」
今度は、すぐさま首が横に振られる。ゼロが疑問を口にするより前に、彼の指は檻の脇へと向けられていた。その先に、一枚のポスターを見て、すぐにゼロは納得した。
ならば、やはり会った事はないのだ。心の何処かで落胆している自分を努めて無視する。くだらない。そのまま踵を返し掛けたが、ふと。立ち止まる。ほんの気紛れ。
「お前、名前は何ていうんだ?」
少年は、虚をつかれたように顔を上げた。いっぱいに見開いたこぼれ落ちそうな目を、幾度か瞬かせる。極度の緊張を示して、その羽は硬直したままだったが、その蒼い瞳には気負いも媚びもない。それでいて、しっかりとした意志を感じさせる、強い瞳だ。
全く卑屈さを感じさせない、奴隷らしからぬ少年。
結構、面白いかもしれない。ちょっとした気紛れは、そんな小さな興味を生んだ。
「お前は俺の名前を知ってるのに、俺はお前を知らないなんて、不公平だと思わねー?…奴隷でも、名前くらいあるんだろ?」
揶揄するようなゼロの言に、少年の視線が揺れる。その背の白い羽が軽く空を掻くように上下した。困惑の表現らしい。どうやら、自身よりもその羽の方が数倍、表情豊かなようだ。
沈黙。
元来、気の長い性質(タチ)ではないゼロの中で、待ちの苛立ちが小さな興味に勝りかけた丁度その時。まるで、彼の心の動きを読みとったかのように、少年は口を開いた。
「……アベル」
呟きにも似たそれは、ゼロの中に小さな、それでいて確かな刻印を残す。その時、小さな興味は、彼の中ではっきりとした方向性をもって決定づけられた。
不思議な雰囲気を纏った、蒼い瞳の奴隷へと。









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