蟲 +++ act.2


どんな享楽にも 飽くことなく
どんな幸福にも 満足せず
移り変わる姿を ひたすらに追い求め
最後に くだらない空っぽな瞬間を
哀れにも 引き止めようと願った

ゲーテ「ファウスト」



アベルが、己を『アベル』であると自覚したのは、いつの事だったか、それはよく覚えていない。同時に生まれた、全く同じ顔をした子供に、『カイン』と『アベル』の名を与えたのは、彼らを生んだ母親だったと、彼らの父に当たる白い羽を持った男は言った。男が彼らの母について口にしたのは、たった一度だけ。
以来、アベルにとって、会った事もない母は、己に運命を運んできた存在そのものとなった。
大善神ハ・サタンの祝福を受けた者『カイン』と呪いの印を刻まれた『アベル』
母は何を思い、生まれた子供にこの名を与えたものなのか。
誰が、彼らを選別したのか。一瞬の取り違え。それだけで、容易く運命は入れ替わる。祝福の子と呪いの子。
それでも、彼らは正しかった。一度も、間違わなかった。アベルはいつでも、『アベル』であり、カインは常に『カイン』だった。
恐らく、刻印は魂になされるものなのだ。どんなに取り繕おうとも、アベルは決して『カイン』になれない。あの輝かしい存在には。
目も鼻も口も、アベルと全く同じ材質で作られた兄は、それでも、全くアベルのようではない。
希望に溢れんばかりの瞳は、いつでも生き生きとしていた。悪戯っぽく唇の端を持ち上げるようなその笑いは、アベルの顔に浮かべられた事などついぞない。
生きる力に溢れる、太陽のような人。
アベルは兄が好きだった。しかし、その表現は、あまり当を得ていないような気もする。そんな言葉では、兄に対する感情を説明する事などできはしない。
物心ついて以来、外にも出ず、人とも交わらず、存在を抹消されたも同然のアベルにとって、兄はたったひとり、彼の相手をしてくれる存在であり、世界の全てでもあった。
時に優しく、時に冷たく。彼を支配する気紛れな神。
ひどくアベルを打ち据える事もあったし、部屋に籠もりっきりのアベルの元へと土産を持ってきてくれる事もあった。それは、森で掴まえたというつやつやと光る昆虫であったり、河原にあったという丸い石…それは、周辺に住む子供の行動範囲からは大きく外れていて、そこまで出かけてきたのだ、という事それ自体が、勇気ある英雄的行動、という事になるらしかった…であったり、野原に咲いているという花であったりしたものだ。外の季節を感じさせてくれる花は、アベルにとって、最も嬉しい贈り物であったが、兄はそんなアベルを「女のようだ」と軽侮した。それでも、アベルがそれを喜ぶ、と知ってからは、土産は大抵、花になった。
時に兄は、アベルを強く抱きしめた。己と彼とを隔てるほんの少しの空気さえ閉め出してしまおう、という意図すら感じられるその、抱擁と呼ぶには激しすぎるような行為は、時としてアベルの体のあちこちに痣を作ったが、アベルはそれが決して、嫌ではなかった。
こうして、硬く抱き合って、相手の肩に顔を埋めて、そして、ひとつになってしまおう。
だって、彼等は本当は、ひとつの存在として生まれてくるはずだったのだから。
アベルの頬を包むように触れた兄の手は、そのまま、彼の首筋へと移行した。その手にゆっくりと力が加えられ、彼の首をそのまま締め上げていっても、アベルは驚きはしなかった。
全く同じ顔を持つ彼の兄弟。まるで、鏡に映したかのようにそっくりな。
目の前には、ものに憑かれたような恍惚とした表情がある。それは、兄の顔だろうか。それとも、彼自身の顔だろうか。彼等は本当は、たったひとりの人間に過ぎないのではないだろうか。同じ顔を持つ兄弟の存在など、本当は夢か妄想に過ぎないのではないか。
暗い部屋にたったひとり、大きな鏡の前に立っている。映ったのは、彼を見返すもうひとりの彼。
彼等のどちらかは、鏡像なのではないだろうか。
首に掛かる力は、徐々に強くなる。頭に体中の血が集まって、沸騰しそうになる。息をするのも苦しくて、大きく喉を喘がせる。
もう少しで、鏡に映った幻は消える。
朦朧とした意識の中、一際大きく彼自身の顔が微笑う。
いつ、切ったりしたのだろう、重ねられた唇は、しょっぱい血の味がした。



あれは、夢だろうか。それとも、今が夢だろうか。
ぼんやりと、ただぼんやりとアベルは思う。
唇にそっと手を当てる。記憶の中の兄がしたように、兄の唇が辿ったように、己の唇の端を指の腹で辿る。
血の味などしない。どころか、口を吸い上げられた後に残る、あの腫れ上がったような感触すらも。
夢だ。
喉の奥から、沸き返りそうな嗤い。アレは、悪夢か。それとも、幸福な夢か。
「…カインは、もういない」
そう。祝福の子はもういない。どこにも。
何故?
アベルが殺したから。
『アベル』の呪いは、『カイン』にも及んだ。だから、兄はもういない。
「…眠れ。それでまた、全て忘れる」
忘れる、なんて、できるはずがない。
そもそも、何で今まで忘れていられたのだろう。手にしたナイフが肉に沈む感触。飛び散った血は、アベルと同じ血。アベル自身の血。ぽかんと、まるで呆れたように目を見開いて、自らの腹から生えた不思議な物体を見つめていた、アベル自身の顔。
…ああ、そうか。あの時、死んでしまったのは、『アベル』の方だったんだ。
意識が吸い込まれる先は、虚無の果てか。それとも、新たな夢だろうか。
ぷつり、と。記憶はそこで途切れた。



「要するに、今回、『生贄』として選別された子供は、偽物であった、という事か?」
涼やかな声だった。その柔らかさから、女であると判る。高雅な、人に命ずる事に慣れきったような、女の声。声の質はひどく若そうで、だけど、ひどく落ち着いたその響きは、まるで年老いた老婆のようでもあって、アベルはただ、困惑する。
「ああ。しかし、時読みの占者共を責める訳にもいくまいよ。まさか、同じ場所、同じ時、同じ女から生まれた子供が、今一人在ろうなどとは、思う者もいなんだろうからな」
年古りた、まるで枯れたような、それでも、力在る男の声。
「…して、どうするのだ?」
「どう、とは?」
「愚問であったな。『カエサルのものは カエサルに。神のものは 神に』というところか」
呪われた〈聖書〉の言葉を事も無げに口にする。ただそれだけで異端であると告発されて当然の所行に、アベルは思わず息を呑む。が、相対した女はそれを聞き咎めた様子もなかった。
「偽物と判れば、あの子供にはもう用もない。本物と取り替えればすむだけの話だ」
「取り違えられた子供、か。哀れなものだな。それとも、『生贄』の運命から逃れられたその子供には、祝福か?選ばれし本当の運命の子にとっては、『呪い』そのものであろうがの」
取り違えられた子供。祝福と呪い。
不思議な類似性。まるで、己と兄との事を話しているみたい。勿論、生まれてこの方、カインとアベルが取り違えられた事などなかったのだけれども。
分厚い緞帳越しに、会話だけを漏れ聞いているかのような現状も、不思議と言えば、不思議だった。
そういえば、今、己は何処にいるのだろう。二人の声の主は、今、何処にいるのだろう。
真っ暗な何もない空間にふわふわと浮いて、どこか知らない場所で話す二人の会話を聞いている。この人達は、一体、何者なんだろう。
「奴を引き戻そうとするのは、そなた達の妄執だ。それは、判っておるのだろう?」
沈黙。女の応えはない。
やがて、聞こえてきたのは、男の含むような嗤い声。
「私はな、楽しみなのだよ。楽しゅうてならん。あやつは黄泉還るのか?己の力と心とを鎧に宿らせる事も決してせなんだ、死して後の復活など決して望まなかったあやつが、魂還る事などあるのか?その結果を見届けるためだけに、今、生きているのやもしれぬよ。それは、あの〈不死者〉も同様であろうて」
「…〈死なずの者〉、か…」
「ああ、あやつが契約により、死すべき定めより解き放った、この地上にたったひとりの『人間』…」
声は急速に遠くなる。目の前に下ろされていた緞帳が一気に開かれた。溢れた光に目が眩む。それ以後の記憶はない。



カチ、カチ、カチ、カチ…。
旧世界の匂いすら発するその柱時計は、あまりにも古く、まるでこの世の始まりから存在しているかのようだった。
カチ、カチ、カチ、カチ…。
少しの狂いもない永久運動。
世界が終わるその日まで、時を刻み続けるのだろう、荒野の果てにぽつんと立つ小さな家の古い時計。まるで、時間の凍結したような、その世界。
カチ、カチ、カチ、カチ…。
それはまるで、この家そのものの鼓動の音。ここに居さえすれば、何物からも護られる。それでも、ほんの少しの不安を抱き続けたのは、この家にとって、己は異物なのだと知っていたからかもしれない。
この家は、しばらくの間、アベルが滞在する事を許してくれただけ。まるで、家の主の分身のように、やんわりと、だけど、はっきりとアベルを突き放す。アベルが、何かを勘違いするようになる前に、彼らに焦がれるようになる前に、そう言ってくれるのは、親切だったと、アベルはそう思っているけれど。
今、テーブルを挟んだ目の前には、当の家の主が座っている。
元は淡い金色だったのかもしれない、白を混ぜたような藁色の髪は長い。深い知性は、深淵の域にまで達し、彼の瞳を底知れぬものへと映させる。彼が何歳なのか、アベルは知らない。一体、どれ程の時を生きれば、このような目の光を持つようになるものなのか。
ふと。ひっそりと彼を盗み見ていたアベルは、こちらを向いた彼と視線が合いそうになって、慌てて目の前の帳面へと意識を戻す。
この家にある本を読むために、字を教わっている途中だったのだ。古語、と呼ばれるその言語は、一般的に使われる共通語の基礎となった古典語だ。現在では、教養言語として、聖書などを記す場合にのみ使用されているものであるが、この家にある本の殆どは、古語で書かれたものなのだ。
アベルは、顔を上げぬまま、視線のみで男を見上げて、そして、すぐに目を手元へと戻す。この人を意識しない、というのは、無理な話だった。
旧世界の失われた知識を記した、おそらくはとんでもなく貴重な本の数々を、目の前のこの人は、ただの塵だと言う。知識を己の血肉とした後は、本はただの塵となるのだと。
まるでそれを喰らうが如く、この世の全ての知識を己のものとする隠者。しかし、それだけではない。長衣の下に着けられた鎧は、かの人の戦士としての出自を物語る。
鎧を身につけるためには、背の羽を引きちぎらなければならない。戦士に羽の色はない。ただ、生き残るに足る強さが在るだけ。それが戦士の倣いだった。
だけど、アベルは知っている。この人の背には、羽がない事を。
引きちぎったからではない。多分、初めから存在しない。過去、一度だけ見た、筋肉の張った綺麗な背中には、過去に存在したであろう羽の痕を示すものは何もなかった。
一体、彼は何者なのだろう。
戦士であり、隠者。気の遠くなるような過去の知識を持ち、背のあるはずの羽を持たない。
アベルに、文字を教えてくれる人。この人は、アベルが欲する知識を与えてくれる人だ。
それだけで、いいのかもしれない。
その時。目の前の景色が、急に切り替わった。



落ちる。
底の見えぬ闇に閉ざされた大穴を、ただ落ちていく。ひんやりとした湿り気を帯びた冷気が顔に吹き付けた。耳元で切る風の音は、次第につく加速度に比例してごおごおと渦巻く。
せめて、翼を広げられたらと思うのに、羽は全く動かない。恐怖?驚愕?何らかの大きな感情の揺らぎは、体の感覚すらも麻痺させるのか。落下風に煽られ、振り回されるアベルの羽は凍り付き、常の如くに邪魔にならぬよう、背に張り付くように添わされているものか、風に対する抵抗も何も感じ取れなかった。まるで、もうそこに存在していないかのようだ。
背の傷が疼いた。遠い昔に失った羽が、まだ存在していた頃の記憶を主張しているかのように。
いや。羽を失うのは、これからだっただろうか。遙か未来の記憶を今、垣間見ているのか。
落ちる。落ちる。落ちていく。
この感覚は、一体どこまで続くのか。
終わりなどないのかもしれない。
凍り付いた意識さえ、朦朧と霞む、そんな永い永い時間を経て、落ちていく先に、アベルは遂に、漆黒の闇以外のものを見た。それは、この世界に永遠など存在しない、という事の実証であったかもしれない。
虚無にさえ、果てはある。
闇の凝ったような闇の中。吸う息さえもがとろりとした濃度を湛えた暗黒の中。
ソレは、光り輝く闇、そのものだった。



磨き抜かれた闇の結晶は、濡れるような溶けるような光を放つ。
アベルは、そんなものを今まで、見た事がない。事実、あまり外の世界を見た事のないアベルだったが、それでも、このような存在が世界に在るのだと思った事など全くなかった。多分、アベル以外の誰であっても、その意見には賛意を示してくれただろう。
目を限界まで見開いて、息をする事さえ忘れて。やがて、鳴った喉に、空気と共に唾を飲む。
ソレは、人の形をしていた。
肌は蝋のように真っ白で、まるで血など何処にも通っていないかに見えた。頬に掛かる黄金の睫毛は繊細で、通った鼻梁も綺麗な曲線を描く唇も、完璧、としか称せない。白皙の美貌を縁取るのは、身の丈を全て包み込む程に長い黄金そのものの色をした髪。
それでいて、ソレを表現できるのは、闇、という言葉だけなのだ。
この場を占める、自身以外の存在に気づいたのだろうか。ソレは、ゆっくりと瞼を上げる。永らく持ち上げられた事などなかったのだろう、如何にも緩慢な動作で。
痺れた体。痺れた意識。
ああ、瞳も黄金の色をしているんだ。
ここは何処なのか、ソレは何なのか。何故、己がこの場所にいるのか。ソレは何故、この場所にいるのか。そんな事ももう、どうでもよかった。ただただ、目の前の存在を綺麗だと思うアベルの意識は、もはや、現実を認識する力さえも失いつつある。
星が人の目を奪うように、月が人を惹き付けるように、ソレはただ、美しかった。

「…まだ早い」

ソレが口を開き、洩れた掠れ声が脳裏に浸透して、そして、アベルは正気に返った。まさに、正気に返った、という形容がぴったりだった。
二度三度。
目を瞬いて、目の前の存在をまじまじと見遣る。ソレが…声を聞いた今、ソレが男性であると判っていた…言葉を発した事実は、初めにアベルを仰天させた。何故か、ソレ…彼…が生きているとは思ってもいなかったのだ。先程、彼が動き出した後も。

「まだ早い」

彼はもう一度、同じ言葉を口にした。
しかし、彼が何を言っているのか、判らない。言葉は理解できる。その言葉の意味がわからない。
幾度となく、目を瞬いて、困ったように周囲に目を向ける。今まで、一心に目の前の存在を見続けていたので、この場の景色など全く目に入っていなかったのだ。
きょろりと一渡り。少し、視野が広くなった。
この暗黒世界に、仄かに光が灯っている事にも、だから、彼の姿が見えるのだという事にも、ようやっとアベルは気がついた。
光の粒が宙を舞う。それは、地に敷き詰められたような白いものから浮かび上がってきている。目を凝らして、それが羽である、と気づいた時の驚き。
大地を覆い尽くす程に巨大な白い羽は、彼の背から生まれていた。
目の前のこの人が、白き羽?
再び、彼の顔を仰ぎ見る。彼の上、天上いっぱいに広げられた黒い翼。
白い羽と黒い羽。
彼の背には、六枚の羽があり、それは彼の周辺全てを覆い尽くし、広がっていた。
彼は支配するもの。全てを喰らうもの。彼こそは力であり、世界そのものである。
そういうモノを何と呼ぶのか、アベルは知っている。
アベルは、泣き笑いの表情を浮かべた。彼の存在は、アベルにとって、特別なものであったので。
地に落ちた白い翼。これ程に大きな羽だったなら、きっと飛ぶ事もできただろうに、白い翼は全て、途中からへし折られていた。ただ、背から垂れ下がり、大地を覆う白い羽。
黒い羽は、まるで彼を護るように広がっている。その端々に、たくさんの鎖を纏い付かせて。
だから、彼はこの場所から出られないのだ。アベルがここに来るしかなかった。
彼をこの場所から解放するために。
そのために、アベルは彼へと捧げられた『生贄』だった。

「お前が、ここにやってくるのは、もう少し、先の事だ」

アベルの思いを読んだかのように、彼は言の葉を繋ぐ。時間など存在しないかのような世界の果てで、紡がれる運命。黄金の瞳に呪縛される。

「今度、お前がやってきたら。その時は、共に話をしよう。我らには時間がある」

ただ、呆然と見つめるアベルを前に、彼はうっとりと微笑う。その美しさ。

「十月十日の時を経て、再び、世の光を浴びるのは我らのうちのどちらとなるのか。決めねばなるまいからな…」

脳を芯から痺れさせるその微笑みに、アベルの意識は暗くけぶる。
そして、また落ちた。いや、もしかしたら、上昇したのかもしれない。アベルを揺さぶり、突き動かし、一気に現実へと引き戻す、ひとつの声があった。



『お前のせいで!』
何が起こったのか判らなかった。
カインは、選ばれたのだと、そう聞いていた。だから、もうこの家には帰ってこない、と。
全てを無くしたアベルは、呆然とその言を聞いて、そして、それからの日々をただ、ぼんやりと過ごした。いつものように諦めて、そして、これからの余生を思った。そんなに長くなければいい、と。
なのに、ある日、カインは戻ってきた。代わりにアベルを差し出せ、と、黒き羽を持った役人が言っているという。まだ、状況についていけないアベルの前で、カインは叫んだ。
『お前のせいで!』
その顔は憎しみに歪んでいて、カインにそんな顔をさせてしまったのは、己なのだと、そう悟る。
だから。
アベルは体の力を抜いた。カインが向けたナイフの前に、無防備にその身を晒す。
これで全て、終わりにしよう。それをカインが望むなら。だって、アベルはカインの物なのだから。
カインは、アベルの全てだった。カインがいなければ、カインがいなくなれば、アベルもいなくなる。アベルを求めたのは、カインだけだったから。アベルとカインは、ひとつの存在だったのだから。
「…アベルにそこにいて欲しい者は、他にもいる。カインだけじゃない」
いない。そんな者はいない。カインだけだ。カインがアベルの存在を認めたから、だからアベルは存在した。カインがいなくなれば、アベルも消える。カインがアベルの記憶から消えたら、アベルはどこに行ってしまう?
カイン。カインは何処へ行ってしまったのか。
ああ。アベルが殺してしまったから。『アベル』は、アベルをも殺してしまった。
カイン。カイン。兄さん。今、貴方にここに居てほしいのに。そして、アベルは存在していると、そう言ってほしいのに。カイン。
手を伸ばしても届かない。深い霧の中に立つ遠い影。
だけど、指先に何かが触れて、きつく握りしめられて、それで誰かの存在を知る。
カイン、そこに居るの?
だけど、与えられた口吻は、ただ触れるだけのもの。優しさと慰撫だけに満たされたそれが、カインからのものであるとは思えなくて、暗闇に閉ざされたアベルの惑乱を誘う。
「お前は、俺の傍にいればいいんだ!そう言っただろう。俺の傍にいるって、言っただろう?!忘れたのかよ!」
哀しげな声。悲痛な叫び。この声を知っている。アベルは、この声の主を知っていた。
胸が痛くなる。彼を想うだけで、まるで胸が潰れてしまいそうに痛い。
忘れるわけがない。忘れるわけがないのだ。
カインが、己と同じ顔をした兄の影が、自身の鏡像がふと遠ざかる。アベルはひとりだった。今、たった一人の存在だった。
そして現れる、銀の髪。くるくるとその表情を変える、紅玉の瞳。時に熱く、時に冷たく。痛くて堪らない時もあった。苦しくて、息ができない時も。それでも、死んだようにただ生きてきたアベルにとって、それは『生きる』という事そのものだった。
アベルに、感情をくれた人。
胸が潰れる。息が苦しい。目からはただ、涙が溢れた。
「…ゼロ、様!」


* * *



ぽっかりと見開いた目の前に、その人はいた。
「………あれ?」
軽く混乱する。何故、己はベッドに横たわっているのだろう。確か、洗濯物を取り込んでいる最中だったはず。
「そうだ、洗濯物!」
外に干したシーツ、タオル。早くしないと、湿ってしまう。
「もう、俺が取り込んだよ!とっくだ、とっく!」
慌てて起きあがったアベルに対して、彼は殊更に不機嫌そうに言い募る。
ぱちぱちと。幾度か目を瞬いて。
顔を窓へと向ければ、確かに日も落ちて久しいのだろう空の色は、夕暮れを通り越して、既に夜の闇に近い。
それに、今までアベルが寝ていたベッドに掛かっているシーツは、確かにアベルが洗った覚えのある物で。
「あの」
何がどうなっているんだろう。何で今まで、寝ていたんだろう。判らない事ばかりであったが、結局、彼を働かせてしまったのは事実のようで。
「………」
アベルは、まず自分にできる事、すべき事から始めることにした。
「…ごめんなさい」
つまり、それは、たくさんの迷惑を掛けてしまった事は明々白々であるゼロに対して、謝罪する事だった。



「全く、お前はよー」
「あの。ごめんなさい。本当に、何も覚えてなくて」
どうやら、アベルは庭先に倒れていたらしかった。夕暮れ時に帰宅した彼がそれを見つけて、家へと運び込んでベッドに寝かせてくれたものであるらしい。
何も覚えていない身としては、ひたすらに恐縮するばかりだ。何しろ、彼に「何があった」と問われて、何も答える事ができないのだから。
ゼロは言う。面倒を掛けさせるな、と。だけど、それはアベルを心配しているという意味なのだと、今ではそう理解しているアベルはつい、微笑む。頬がぱりりと強張って、それで気がついた。顔に、涙の跡がついていた。
全く、判らない。本当に、一体、何があったのだろう。
眠っている間に、ひどく長い夢を見たような気がする。だが、その内容は全く覚えてはいなかった。
飛沫となった血が、白いシーツを赤く染める。そんな絵ばかりが脳裏に浮かぶのは、夕焼け空があまりに鮮やかに赤かったからだろうか。
今日の夕焼けなんて、見てもいないのに。
それとも、本当は目にしているのかもしれない。忘れてしまっているだけで。
血か。夕焼けか。
見たのがどちらなのかは、判らないけれど。
そこで、アベルはくすりと笑った。
シーツは今まで、アベルが下敷きにして眠っていた。血になんて、少しも染まっていない。
全部、夢。
「じゃあ、夕飯にでもするか」
アベルから、何か話を聞き出すのは諦めたのか、小さく息をひとつついたゼロは、軽い身ごなしで立ち上がる。
アベルが目覚めるのを待っていたのかもしれない。その推察は、多分、当たっていて、アベルはまた、その身を縮こませる。あまりにも申し訳なくて。
ゼロが作った夕飯は、暖かくて美味しかった。その時、ふと、軽い違和感を覚える。あまりにも小さなその感覚は、指の間からこぼれ落ちる砂のように、気づいた瞬間にはもう、手の中から消えていて。
洗濯物を取り込もうと外に出た時には、早々にその日の夕食を作り終えていた事実は、既にアベルの記憶からは失われていた。



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