蟲 +++ act.3


どんな享楽にも 飽くことなく
どんな幸福にも 満足せず
移り変わる姿を ひたすらに追い求め
最後に くだらない空っぽな瞬間を
哀れにも 引き止めようと願った

ゲーテ「ファウスト」



「…ゼロ、様?」
「なんだよ」
「…………」
呼んでみただけです、なんて。
口にしたら、叱られてしまいそうな気がして。
「…これは、夢じゃないですよね」
「………はあ?」
見れば、彼はあからさまな呆れ顔。
こんな時、いつもだったらアベルに何某かの苦言を洩らす彼が、今日は何も言わないから。だから、どこか不安になる。
「あの。最近、僕、ぼんやりしているから」
いつもそうだろう、と言われるような気がしていると。
「いや、それはいつもだろ」
すかさず返ってくる言葉。
いつも通りの彼を確認して、それでようやっと安心する。だからこそ、そうでない自分が悲しくて、結局、自分の中にこの不安の種はあるのだと気づく。
彼は少しも変っていない。変わり掛けているのは、アベルの方なのだ。
「それは、そうなんですけれど。いつもの場合とは少し違っていて」
軽い苦笑を作って、まだ、今までのアベルのように、微笑う事ができるのを知る。
まだ今日は、大丈夫。まだ、『アベル』を保っていられる。
「あの、最近、失敗が多くて。物忘れも酷くなったし」
物忘れが酷い、どころの話ではなかったし、それは彼も気づいていただろう。だけど、単純な、簡単な話な風を装って、アベルは語る。
なんてことのない話だ、と、そう思いたかったし、彼にも思っていてほしかった。
必死に自分を掻き集めて。彼の前で、体裁を取り繕って。まだ、もう少しは、彼の傍にいられるだろうか。
自分の欠片がぽろぽろ零れていくような、この感じをどのように表現したらいいのだろう。
壊れ掛けている。端から、崩れ始めている。この感じ。
「…そのうち、ゼロ様との記憶も、な…、なくなってしまったら、と思って…、初めから、全部夢だったらどうしようって…」
彼の顔を見られなくて、俯いたまま、一息に喋りきる。きっと、彼は呆れたような顔をしている。自分でも言っている事が支離滅裂だと思うのだから、それは当然なのだけれど。
目を瞬くと、意識しない涙が零れ落ちた。
己の口にした事は、アベル自身にとっては、決して、荒唐無稽な妄想などではなかった。それは確かに、いつかは現実になるかも知れず、その事実はアベルには、何よりも恐怖を誘うものだった。
記憶は風化し、そして実体は消える。まるで、全てが夢だったかのように。
決して失いたくないと思ったたったひとつのものさえ、消え去る事の恐ろしさ。
だけど。
「…ごめんなさい。何だか最近、涙腺までおかしいんです…」
全然気にしない、と軽く笑ってほしい。
昨日に続く今日、今日に続く明日は、永遠に続くと、そんな事は当たり前過ぎて、考えるにも値しないと。
いつものように、笑って。
アベルの願いは、聞き届けられなかった。ゼロは、思いの外真剣な顔で、アベルを見つめていた。彼の手が伸びて、アベルの後頭部を支え、そして、アベルを引き寄せる。引かれるがままに、アベルは彼の胸の中に収まった。
「俺の名前は?…言ってみろ」
頭上に降る声は、ひどく暖かくて、アベルはまた、涙が零れそうになる。
「…ゼロ様」
「『様』はいらない。それは、名前じゃない」
「……………ゼロ」
「じゃあ、次はお前の名前。何だ?」
「アベル」
「それだけ覚えてれば十分だ。お前は『アベル』で、俺は『ゼロ』。後は、全部、俺が覚えといてやるから」
アベルはそのまま、顔を伏せる。温かな滴が、ゼロの胸元を濡らした。
彼に、アベルを忘れて欲しいと思ったのは、いつの事だったろう。遠い昔のような気もするし、ほんの数日前だったような気もした。
覚えている、と彼に言わせてしまった事が悲しくて、それを上回る程に、彼の言葉が嬉しかった。彼が、彼自身の生き方を変える事を、アベルは安堵し、喜んだ。喜んだのだ。彼が、アベルを捨て去らない事を。
なんて手前勝手な感情。



「そうだな。もし、お前が俺のこと忘れたら…」
アベルを軽く揺する、彼の腕。子供をあやすようなそれは、今まで生きてきた中で、アベルには与えられた事は一度もなかったもので、その暖かさは彼の声と相まって、アベルを酩酊にも似た想いに誘う。
「うんと優しくしてやる!」
彼が、そんな素敵な事を言うから。
「朝から晩まで、ずうっと俺が優しいんだぞ。どうだ、怖いだろう。…何で笑うんだよ」
また、涙が溢れてしまいそうだった。



貴方みたいに優しい人なんて、僕は他に知らない。
そんな事を言ったら、また、怒り出しそうだから、言わないけれど。



貪り尽くされるためだけに、生きている虫。
体の中の卵が孵ったら、それで終わりの命。


人は死んだら、どこへ行くのか。
命に意味などあるのだろうか。
少なくともアベルには、今まで幾度となく命を拾い、永らえてきたアベルには、己が生きてこなくてはならなかった意味、などというものを実感できた事など、一度もない。


なのに今、生きていたい、と願う。
何の意味もない命でもいい。



この人の存在しない世界になんか、いきたくない。



END







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