蟲 +++ act.1


どんな享楽にも 飽くことなく
どんな幸福にも 満足せず
移り変わる姿を ひたすらに追い求め
最後に くだらない空っぽな瞬間を
哀れにも 引き止めようと願った

ゲーテ「ファウスト」



その時、兄が彼に差し出したもの。それは、一匹の大きな芋虫だった。己が捕まった事も知らぬげに、ただ柔らかな緑の葉を食み続ける芋虫は一部、半透明に透けていて、そこに何か黒い影が映っているのが見えた。
「コレの中に、卵が産み付けられてるんだ」
兄は言う。
「そのうち、こいつの中身を全部食い尽くしたら、この虫が皮を食い破って出てくる。こいつは、食われるために生きているのさ」
それは小さな、芋虫に比べてさえ、ほんの小さな影にしか見えなかった。
芋虫は、草をただ食べ続けている。小さな影もまた、揺らぐ。
芋虫は、今、自分の居られる世界そのものである草をただ、黙々と貪り、そして、芋虫の中ではまた、別の虫が彼を貪っている。彼が草を喰らう毎に、中の虫もまた、育っていく。彼はただ、虫に己の血肉を差し出すだけ。近い将来、己の死を招く虫のために。
貪り尽くされるためだけに、生きている。
彼は、目が離せなかった。何かに魅入られたかのように。
昔の話。だけど、決して忘れられない話。






穏やかな午後だった。気持ちのいい風の吹くうららかな陽気は、洗濯日和であるとも言えた。裏庭で枝を伸ばす木々の間に渡されたロープは、彼がアベルの求めに応じて付けてくれたもの。よく風の通るこの場所は、この家における、アベルの数あるお気に入りのうちのひとつだ。
今日のように天気のいい日は、石鹸の匂いも心地よいシーツを両手に抱えて、アベルも庭に出る。吸った水を切りながら、張られたロープに一枚一枚掛けて回り、全て掛け終わった後、風に煽られて一斉に揺れるシーツやタオルを見るのが、アベルはとても好きだった。
最近は、彼もアベルが庭先に出る事を許してくれるようになった。何か状況か、それとも心境の変化があったのかもしれない。
アベルは、彼の言う事を聞くだけだったけれども。
それでも、こうして、大きな洗濯物を存分に外の風に当てて、乾かす事ができるのは嬉しい事だった。
柔らかな石鹸の香りが鼻孔をくすぐる。白いシーツは、不思議な生き物のように風に翻る。それをぼんやりと眺めていられる平穏。
うっとりと見つめるアベルの視界に、ふと、何かが過ぎった。それが何だったのか見分けられた訳もない。だが、何故かアベルの胸は、高鳴った。
不安と恐怖とに。
はためくシーツの影に、人がいた。いつ現れたのか、何故、こんなところにいるのか。そんな事は全く思い浮かばなかった。
鍔広の黒い帽子。裾の長い黒い長衣。風に煽られ、前袷の長衣が捲れ上がる。その下に存在したのは、アンゲルス教団の法衣。
戦慄く口を大きく開く。凍り付いた声帯は何も発さず、新たな空気を取り込む事すら拒絶したそれは、ただの虚ろな洞と化す。
顔も判らぬ程、目深に被った帽子の影で、その人物は嗤う。道化師のように大袈裟に、口角を大きくつり上げたその口元だけが、何故か鮮明に映った。
「いと高きところでは、神に栄光があるように」
歌うようなその言葉は、まるで何かの呪文のように、アベルの全てを呪縛した。



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