EDEN +++ 後編


「あなたがたは 決して死ぬことはないでしょう
それを食べると あなたがたの目が開け
神のように善悪を知る者となることを
神は 知っておられるのです」

創世記・第三章4、5より抜粋



「…バカか、あいつは」
外には出るな、と厳命したのを、何故、聞けないのか。
ゼロは、家中を駆けずり回って、アベルが居ない事を確認すると、逸る勢いもそのままに外へと飛び出した。
彼に対して、外に出てはいけない、と言ったのは、伊達や酔狂ではない。とかく、ゼロは敵が多かったし、ゼロの奴隷だとバレたら、ただそれだけで、アベルは危害を加えられないとも限らないのだ。
ゼロに対する嫌がらせの一環として。
結局、己のせいじゃないか、と思うと、ますます腹が立つ。
その上。
『出ていく』だって?『出ていく』だって?『出ていく』だって?!
そんなこと、許されるとでも思ってるのか、あのバカは!
ゼロは、正規の手続きを踏んで、彼を買ったのだ。書類上の穴もない。その所有権は、明らかにゼロにある。
ゼロの中からは、今まで彼の事を手放そうと思っていたという事それ自体、すっきり抜け落ちてしまっていた。いや、正確には、そうではなかったかもしれない。理性という名のそれは、確かにゼロの中に存在していて、「ちょうどいいじゃないか、そのまま、放っておけばいい」と囁いたが、暴走した感情は、そんな理性の手綱を振り払って、踏みつけた。
『逃げたいなんかしない』って、言ったくせに。
『役に立ちたい』って、『ふつつか者ですが(全くだ)末永く』なんてバカな事まで言いやがったくせに!
逃亡奴隷がどうなるか。主に反抗した罪による罰がどのように課せられるのか。どのように処分されるのか。
知っているのだろうか、彼は。
…知ってる訳ないな。
彼と初めて出会ってから、ほんの数週間に過ぎなかったが、それでもゼロは、疑問を抱く事があった。彼は、普通生きていく上で取得するだろうある種の基本的な常識が欠落しているのではないか、と。そして、共に暮らした数日間で、それはまた、確信を深めるに至る。
知識としては知っているが、体で覚えたものではない。まるで、そういった風なのだ。
主持ちの奴隷、という己の立場について。
だから、バカだっていうんだ、あの野郎!
ゼロが走り抜けると、周りの人間が振り向いた。皆、一様に浮かべられた驚きの表情が、まるで決まり事ででもあるかのように映る。
嘘で塗り固めたような、この世界。解き放たれた生命のない人形が、定められたように動き、泣き、笑う。何者かによって造られた歪な箱庭のような舞台の上で。
こんな風に思うようになったのは、いつからだったろう。あの蒼い瞳の少年だけが、生きているのだ、と、己と同じなのだと思えるようになったのは。
一体、いつからだっただろう。
ゼロは走っていた。
何処に行けばいいのか、ゼロには判らない。何よりも、彼がこんな時に行けるような場所など、全く知らないのだ。ゼロが知っているのは、ただ、家中をぴかぴかにするのが使命だとでも思っているかのように一心に掃除をする、まるで一生の問題ででもあるかのように懸命に料理に取り組んでいた、不器用な少年。
それでも、ゼロは走っていた。
一度、足を止めてしまったら、己には彼の行き場所に対する心当たりなど全くないのだ、という事実の前に、その後、一歩も動けなくなるだろう自分を知っていたから。
いや。
違う。
ひとつだけ、心当たりがあった。
ゼロは、そのまま走り続けた。
幸い、進行方向は大筋のところ、合っていた。走って走って走り続けて、目標地に辿り着く。
目の前の扉を蹴破らんばかりに押し開くと、扉に備え付けられた小さな鐘が、ゼロの無体さを責めるように、がらがらと耳障りな音を立てた。
まるで押し込み強盗の如きその様子に、そこに居た相手はただ、固まっていた。腰まで抜けてしまったのか、いつも座っている椅子に掛けたまま、呆気にとられたように口を開いたまま、ゼロを見上げるばかりである。
それは全く目に入らないかのように…実際、目に入ってはいても、気には留まらなかったのだから、同じようなものではあるが…、ゼロは、未だ状況の判っていない商店主の前のカウンターに、勢いよく手をつき、その身を乗り出した。
「あいつ、どこで拾ったのか、教えてくれ」



アベルは、大通りの中央を、隅の細道の影から見つめていた。その様は、端からは、ただ呆然としているように見えたかもしれない。常のように、アベルはアベルなりに、色々と思ったり、考えたりしてはいたのだが。
あそこには、『あの人』の使う魔法陣に入る門があるのだ。そこを通って、アベルはこの街にやってきた。
いきなり目の前に現れた黒い羽の人々の群れ…相手にとっては、いきなり現れたのは、当のアベルの方だったろう…に、酔ったようにふらふらになって、それでもどうしたらいいのか判らなくて、何とか道の隅に逃れてへたり込んで。
後の事はよく覚えていない。たくさんの人の手や乱暴に引っ張られた事、小突かれた事、鉄格子が閉められた時の硬くて冷たい音だとか。
色々な事がいっぺんに起こりすぎて、怒濤のような印象が残っているだけだ。
人間という存在には、最初から、その身に降りかかる変化というものの限界点が決まっているのだ、と、アベルはそう思っている。
長く続く安寧の中で、少しずつ少しずつ、その変化が現れる者もあれば、嵐のようなうねりに晒されて、短い期間で変わってしまう者もいる。
アベルにとって、これまでの人生は、あっという間に通り過ぎる怒濤と、その間を埋めるような平穏とのつづら折りだった。今までのアベルの『変化』は大きくて、大きすぎて、もう、人に許される一生分は、使い切ってしまったように思う。
彼がアベルを買ってくれたという奇跡。きっと、それで全部使い果たしてしまったのだ。
続く、鮮やかに彩られた彼との生活の中で。
彼と出会う前、ほんの数週間前まで、何年も続いた平穏な生活も、今となっては遙かに遠い過去に思える。
あの、風ひとつそよがぬ、色のない世界。
『あの人』の手によって〈牢獄〉を出た後、仄暗くひんやりとした無風地帯で、アベルは殆どの時間、本を読んで過ごした。『祝福されし者』という名の『あの人』は、アベルを見る事も殆どなかったが、それでも、己は恵まれていたのだと、そう思う。
本を読んだ。有史以前の禁じられた知識の数々に触れた。『あの人』のような存在も在るのだ、という事を知った。そして何より、大多数の白き羽のように鞭打たれる事もなく、穏やかに、静かに暮らした。成長した。『アベル』という存在として、充分に生きた。
だから、もういい、と。
そう思っていた。
彼に出会うまでは。
アベルは、大通りの中央に視線を巡らせる。
あそこには、『あの人』の使う魔法陣に入る門があった。
それも、今は使えない。試してみた訳ではなかったが、何故かアベルには、それが当然の事のように思えた。
既に作動しなくなっているだろう、平穏の鳥籠への扉。
もう、『あの人』の元へは還れない。
多分、それを確認するために、ここへやってきたのだ。



「ええ、ですからね。逃げられた、というのは、お気の毒な話だと思いますけれどね。でも、ちゃんと売買契約書に書かれてありますように、商品がそちら様の手に渡った時点で、こちらには賠償の責任はなくなっているんですよ、ええ、本当にお気の毒ですけれど」
本当に気の毒そうな表情を浮かべられて、ゼロは商店主の喉笛を切り裂いてやりたい衝動をやっとの思いで押さえ込んだ。
「…だから、弁償してもらいにきた訳じゃ、ないんだって、言ってるだろうが」
一言一言、区切るように言葉を紡ぐ。声を荒げないように、苦心しながら。
アベルを購入する前の事だ。彼を売っていた店の主人が、アベルは「鑑札もつけずにふらふらしていたところを捕獲」されたと言っていた事を思い出したゼロは、まっすぐ、この店に飛び込んだのだった。
アベルがどこから来たのか、が判れば、今どこにいるのか、探す足掛かりくらいにはなるかもしれない。
そう思ったゼロだったが、さすがに、数日前に相場の数倍にあたる金を払って、半端物の奴隷を買っていった物好きの顔は、商店主もしっかりと覚えていたようだった。が、しかし。
商店主は、模範的な黒き羽だった。渡した先の事にまで、責任は持てないと言い切っていたが、対するゼロの、苛々とした気持ちを抑え込みつつの説明を受けて、それでも、頑として首を横に振った。
非合法故の秘匿事項。または、己のみの知る捕獲地の穴場。
美味しい蜜の味わえる場所は、人に明かしたら、たくさんの同じ穴の狢達に踏み荒らされてしまうのは、必定なのである。
確かに、それは理解できない事もない。
できない事もなかったのだが。
「ええ、本当にお気の毒ですけれどねぇ」
いささか、大仰すぎる溜息付きで、重々しく、本当に重々しく言われて。
ゼロの中で、何かがぶっつりと音を立てて、千切れ飛んだ。
「…なかなか、いい商魂だな、親爺…」
喉を震わせるのは、不穏な笑い。しかし、その目は決して、笑ってはいない。
「…よぉし。その度胸に免じて、これが最後だ、選ばせてやる。大人しく口を割るか、それとも、ここで寸刻みに刻まれた屑肉になるか。どっちがいい」
商店主は、模範的な黒き羽だった。
己の身の安全が、一番、大切だった。



それは、この街の中心近くの大通り。もうそろそろ、昼間と夕刻との人通りが入れ替わる時間帯故に、大した混雑はしていない。適度に流れる人波は、整然としている。
何事もなく、日の過ぎる、常と変わらぬ風景。
さすがのあいつも、前に捕まった場所に舞い戻る程、迂闊じゃなかったということか。
商店主が快く教えてくれた通りへとやってきたゼロは今、ただ、漫然と立ち尽くしていた。呆然と、と言っても過言ではなかった。
実際、もう手掛かりなど何処にもない。
しかし。
何故、あいつはこんな大通りをふらふらと歩いていたのか。
いきなり、協力的になった商店主は、アベルを捕獲した当時の様々について、聞いてもいない事まで次から次へと口にしたが、それは、実際にアベルを知らなければ、幾ら何でもそれはないだろう、と呆れ返ってしまっていただろう話だった。
鑑札もつけずに。
大通りを歩いて。
逃げようともせず。
道ばたに蹲って。
引かれるままについてきて、言われるままに、檻に入った。
…やっぱり、あいつはバカなんだ。
「…お前みたいな大バカ、俺以外の誰が使ってやれるっていうんだよ…」
洩れた呟きが、何故かひどく力なく己の耳に響いて、それでゼロはびっくりする。
何だっていうんだ。何だろう、この弱々しさは。まるで、アベルがいなくなったという事実に、もう見つからないかも知れないという現実に、とんでもないダメージでも受けているかのようだ。
いや、ダメージだったら受けている。
そうだよ、あいつは高価(た)かったんだから。
胸に空いた大穴。空虚さ。喪失感。
全て、失ってしまったという思い。
それも全て、そのせいだ。あいつが、俺の全財産だったから。
だけど、ゼロはこれからも、闘技場という舞台の上で勝ち続けていくのだし、勝ち続ける以上、金はまた、幾らでも入ってくる。
失ったものは、取り返せる。財産はまた、作れる。再び、一からの積み上げだが、あっという間に今まで以上の物を手にする事ができるだろう。
はにかんだように微笑った、白い羽の少年。
何も知らなくて。何もできなくて。それでも、何かしようと懸命に働いていた。
ゼロのために、何かできる事を探して。ゼロのために何かを覚えようと、努力して。
「…本当に、大バカだぜ…」
失ってしまった何かは、ひどく大きく、大きすぎるような気がした。
もう二度と、この胸の大穴は埋まらない。どんな大金でも、例え、世界中の黄金を積み上げたとしても。
そう思える程に。



薄暗くなった道を、ただ、とぼとぼと歩く。眠るためにのみ存在する箱へと。当て所もなく、ただ街中を徘徊して、間の抜けた白い羽が捕まったという話も見つけられず…実際、奴隷が幾人捕らえられても、それが話題になる事などあるだろうか…、それでも帰る場所は家しかない。独りでは広すぎる家は、闇に暗く沈んで、ますますその無機質な冷たさを剥き出しにして、ゼロを迎える事だろう。
もう、あの暖かな光は、どこにもないのだ。
目線の先には、真っ暗な、今では「家」などとはとても思い難い入れ物がある。
顔を上げ、見るともなく視線を目的地付近へと移したゼロは、反射的に走り出した。
目を射る家の光。漂う夕食の匂い。人のいる気配。
それが何を意味しているのか、考える間もなかった。ただ、早く辿り着かなければ、と思った。早く辿り着かなければ。消えてしまう前に。
早くしなければ、きっと夢か幻のように消えてしまうから。



「…ザけんなーーーーーーーーーっっ!!」



ああ。
失敗した。
「何でこんなとこいやがんだよ!てめー、ザけんじゃねーっ!」
目の前では、彼が怒っている。真っ赤になって、火を噴かんばかりに。
大失敗だ。
「ご、ごめんなさい。あの、でも、夕飯、作らなくちゃと思って。…えっと、昨日、本買ってきていただいたし、最後にちゃんと食べられる物、作って、それから出ていこうと思って…」
もっと、上手に行動できると思ったのに。
予定では、もっと早く、作業を終えられるはずだったのに。彼が帰ってくるより前に夕食を、今度はきっと口に合うだろう夕食を作って、それでそっと出て行けるはずだったのに。
本に書かれた通りの料理。黒い羽の人達が、いつも食べているのだろう味付けで、最後に彼を喜ばせたかった。顔を見せるつもりなんて、本当になかったのだけれど。
料理本の中の単語という壁は、最後までアベルの前に立ちはだかった。
本当に、情けない。
「あの、ごめんなさい。でも、もう料理も出来上がりましたし。すぐ出ていきますから」
その時、アベルは頓挫してしまった自分の計画の事で頭が一杯で、彼の顔を見る事もできず、ただ、身を固くして、できるだけ早口で、告げなければならない、と思った事を、もつれがちな己の舌を叱咤しつつ、口にしていたのだが。
「出ていく出ていく、言うな!」
遮る彼の声音が、何だかひどく悲痛に響いて、アベルは虚をつかれたように黙り込んだ。
その後に続いたのは、疲れたような沈黙。漂う胸苦しさは、彼の感じているもの?
そっと顔を上げると、彼がひどく傷ついたような目をして、アベルを見つめていた。
何故だろう。
彼には、いつも微笑っていてほしかったから、だから出ていこうと思ったのに。
どうしてこんなに、上手くいかない。
ゼロは、へたり込むようにして、その場に座り込む。その様は、今まで怒り故に漲っていた体中の力の全てが、すっかり抜け落ちてしまったかのようだった。
「……もお、いい…。勝手にしろよ、もう知らねー…」
両の手が、彼を強く印象深く見せる視線を覆うと、彼の体は一回り小さくすら見えた。隠された表情は、見えない。ただ、哀しげで、投げ遣りな声音。
「そんなに出ていきたけりゃ、いけばいんだよ。好きにしたらいいだろ」
何だか、不思議だった。
ひどく、不思議な気分だった。
アベルは『出て行きたい』のではなく、『出て行かなければならない』と思っていたのだが、彼はアベルが『出て行きたがっている』と思っていて、その事実に傷ついている、ように見える。
アベルは今まで、己が相手をどう思っているか、相手のために何ができるか、ただそれだけを大切にしてきた。
他者が、己をどう思っているか、については、気にならなかった。アベルにとって、己が己として認知されないのは、あまりにも当然の事だったので。
こういった場合、アベルの意志、などというものは、他者にとっては、どうでもいいものなのだ、とそう思っていた。
「…本当に、好きにしてもいいですか?」
彼にとっては、違うのだろうか。
肩を落とし、背を丸めて、顔を伏せた、まるで叱られた子供のようなこの人は、アベルが彼を思うように、アベルの事を思ってくれるのだろうか。アベルの事を知りたいと、アベルの言葉を聞きたいと、そう思ってくれるだろうか。
意志。
自分の願望。
その我が儘を、口にする事は許されるのだろうか。
「だったら、この家で、貴方のお世話がしたいです。煩くないようにします。邪魔だったら、目に付かないようにもします。だけど…」
最後の願い。
告げたかった一言。
望みはいつだって、ただひとつだけだった。
「…貴方と一緒にいたいんです…」
しん、とした沈黙の帳が下りた。
ゼロは、引かれるように顔を上げる。
彼は、ただ、そこにいた。ゼロの前に膝をついて、何故か、今にも泣き出してしまいそうな、それでも、微笑んでいるのだとわかる、不可思議な表情をその面に浮かべて。
彼は今、何と言ったろうか。
本当に簡単な、簡単な言葉だった。意味を取り違えようもない程に、単純な構文。
アナタト、イッショニ、イタイ。
ただ、それだけ。


その時、ゼロも理解した。ゼロも、同じだったという事を。
もう、とっくに手遅れだったのだ。多分、この少年と初めて会った、あの蒼い瞳を初めて見た時に、決まってしまっていたのだ。ただ、ゼロはそれに気付かなかった。ふと我に返った時には、既に退っ引きならない状況に陥っていて、現状から抜け出そうと足掻いて。
彼という存在を切り捨ててしまいたかったのも、決して囚われたくなかったから。
そんな事をしたって、無駄なのに。
もう、こんなにも深く囚われてしまっていたのだから。
羽根の色なんか、どうだってよかった。
この少年と一緒にいたかった。だから、彼にもそう、思っていてほしかった。
ゼロが彼を想うように、彼にもゼロを想ってほしかった。
彼がゼロよりも前の主人の方が大切なのだと思うのが辛かったのは、きっと、ゼロが彼の事を何よりも大切だと思っていたから。
その事実が何よりも辛くて、彼を殺してしまおうと思った。
彼が己から離れてしまう前に。
絶対に、離れたりしないように。


この感情は、何だろう。
この妄執は、何なのだろう。


ゼロは、ゆらりと手を伸ばす。アベルは、一瞬、躊躇するような仕草を見せたが、それでも構わず、その手を捕らえる。逃げるように泳いだ手を、押さえ込むようにして握りしめると、彼の手は一度小さく跳ねて、しかし、それ以上、ゼロを拒もうとはしなかった。
包帯に包まれた彼の手は、まだ、傷を抱えたままだ。ゼロ自身の手でそれを巻いたのは、ほんの数日前の事。
指先まで硬く強張らせて、それでも伝わるこの湿り気は、彼が緊張しているからだろうか。
それとも、掌に汗を滲ませる程に緊張しているのは、ゼロ自身か。
俺は多分、とんでもなく意気地なしなんだ。
アベルひとり、掴まえておく自信もない。強くなりたい、だなんて、笑わせる。
だけど、それでも。
「…お前は、俺の物だ」
幾度か、唾を飲み込み、己の口中を湿して、それでも出た声は、低く掠れた。
アベルが、こくりと頷く。身を固くしたまま、まるで子供のような仕草で。
「ずっと。…ずっと、だぞ」
対するゼロの言いようも、余程子供のようだったから、それは、お互い様、というものだったかもしれない。
アベルは、泣き笑いの表情のまま、震える唇で言葉を紡ぐ。
「ずっと。…僕が生きている間、ずっと、僕のご主人様でいて下さいますか?」
ゼロは、アベルの手を更に強く握りしめる。包帯の端に血の滲む気配があったが、それでも、その力は緩めなかった。
それが、彼の意志。紛う方なき、肯定。


それでも今、本当に強くなりたいと、そう思う。
彼を手放せないのならば、手放さなければいい。
決して、離れないように縛り付けて。
前の主人が迎えに来たって、絶対、返さない。
欲しいなら、こいつを掴んだ俺の手を切り落とせ。
それでも、この手は絶対に離さない。
絶対に、渡したくないから。
この手を離さないですむだけの強さがほしい。


例え、こいつ自身が、俺から離れる事を望んだとしても。


ああ、だけど、力が抜ける。
離したくなんか、ないのに。

ずるずると、脱力したゼロは、アベルの手を握りしめたまま、再びへたり込む。
「…ゼ、ゼロ様?」
「………………腹減った…」
「…はい?」
「……ちくしょー、よく考えたら、昨日の昼から何も食ってねーんだ…。…なんか食いもん…」
「あ。夕飯!すぐ暖め直します!」
手の中から、アベルの手がするりと抜けそうになるのを、反射的に握りしめて。
彼からの問うような視線に、初めて、己の行動に気付いて、赤面する。
アベルは困ったような顔をしている。それはそうだろう。ゼロのために、料理の支度に立つところだったのだから。
なのにこれでは、まるで、母親から離れたがらない子供のようじゃないか?
それでもやはり、その手は放し難くて、何を言ったらいいのか、判らなくなってしまったゼロは、ただ口を噤む。
自分がどんなに愚かな事をしているか判っているから、気恥ずかしくて、アベルの顔も見られない。
それでも、本当にアベルがここにいるのだ、という事を、感じていたいのだ。もう少しの間でいいから。
これが、決して都合のいい夢ではないのだという事を。
この手を離したら、彼が消えてなくなったりするような事など、決してないのだ、と、納得できるまで。
その時、手の中にあった無抵抗の指先に、ほんの少し、力が加わった。離れ掛けたそれをゼロが追うよりも前に、彼の手が、そっとゼロの手に触れる。指先を絡ませるようにして。
ただそれだけの事なのに、心臓が、止まるかと思った。
全神経が彼の触れた指先に集中している。まるで、彼の指の触れた部分だけが、熱を持っているかのようだった。体中の血が頭に集まって、沸騰する。おそらく、もう顔は真っ赤になっているだろう。
それは、ほんの一呼吸ほどの間の事に過ぎなかったのだが、ゼロにとっては、永劫とも思えるような甘い責め苦の時間だった。
彼の手は、ゼロを慰撫するかのような優しい感触を残して、静かに去っていった。それを惜しむような、それでも安堵したような不可思議な気持ちのまま、ゼロはその場に呆然とへたり込んだままだった。
台所からは、再び、暖かな匂いが漂い始めている。
彼を一種の虚脱状態から立ち直らせたのは、既に空っぽになって久しい彼の哀れな胃の訴えだった。しくしくと痛み始めてさえいる胃袋の辺りをさすりながら、ひどく暖かな思いを抱えて、ゼロはその場に寝転がる。
アベルによってかきたてられる、この甘やかさを含んだ痛み。
これに、慣れる事などあるのだろうか。
台所からは、何かを刻んでいるような規則正しい音がする。
身を危うくする毒薬は、きっととろりと濃密な甘さを湛えている。
ゼロは、そっと目を閉じる。


きっと、己はこれから幾度も、手放せばよかった、殺してしまえばよかった、と思い続けて、この家で彼と二人、暮らすのだろう。
だけど、手放さなくてよかった、殺さなくてよかった、と思う事の方が、ずっとずっと多い。
そんな気がするから。


命を奪う毒であっても構わない。


もう、絶対に手放さない。
今、手の中にある、この黄金を。





「…お前、このスープに砂糖入れただろ」
「え。でも、本に書かれた通りの味付けで…」
「……その単語は、『塩』だ」
「ええっっ」










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