EDEN +++ 中編


「わたしたちは 園の木の実を食べることは許されていますが
ただ 園の中央にある木の実については
『これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないから』
と 神はいわれました」

創世記・第三章2、3より抜粋



今日の生活が明日も続くなんて、そんな保証なんて、何処にもないんだって、そんな事を、アベルを手に入れてからこっち、考えている。
強くなりたかった。何よりも、誰よりも強く。
なのに、あいつがいると、俺は弱くなってしまったような気がする。
暖かな灯火に包まれた家と。
俺の帰りに合わせて作られた、暖かな食事。
そして何より、俺の帰りを待っている存在。その、心の底から暖かな微笑。
そんなものに慣れてしまったら、俺は一体、どうなってしまうだろう。

もし、彼がいなくなってしまったら?
もし、前の主人が迎えに来たら?「買い戻したい」とでも言ってきたら?
彼は、どう思うだろう。そして、俺は?
どうするだろう。どうして、しまうんだろう。



今日も、夕飯を食べてもらえなかった。
本に夢中になってしまったのは、よくなかった、と我ながら思う。彼の帰る時間に合わせて作った料理も、少し、冷めてしまっていたし。
でも、彼がアベルの作ったものを口にしてくれないのは、今日だけの事ではなかったし、アベルだって、いつも本に夢中になって、料理を台無しにしてしまっている訳ではない。
やっぱり、美味しくないって事なんだよね…。
そもそも、アベルが料理を覚えたのは、前の主人である『あの人』の家に暮らすようになってからの事だったが、『あの人』は驚くくらい、食に対して無頓着だった。アベルが何を作っても口にしてくれたし、反対に、何も作らなくても、それはそれで、何も言わなかったろう、と思う。
何も口にしなくても、生きていられるような、どこか人ならぬ雰囲気を湛えていた。
そして、多分、その想像は当たっている。
『あの人』は、本当の意味では、人、ではなかったから。
だけど、その分だけ、アベルには、自分の料理の腕というものに対する自信が全く持てなくなっていた。何しろ、相手は何も言わずに食べてくれる。当時もやはり、書庫から料理に関する本などを引っ張り出し、自分なりに努力はしたつもりではあったのだが。そして、自分では、そんなに不味くはない、と、そう思ってはいたのだが、これでは、己の味覚の方が、少々、疑わしい。
先日、掃除中に手を切ってしまった騒動の前だったら、きっと、深く落ち込んでしまっただろうけれども、現在のアベルは、少し、前向きだった。
己の料理が彼の口に合わないのは、本当にどうしようもない事なのだ。だけどそれは、これから努力していけば、きっと改善される。彼の好むだろう味付けを、これから覚えていければいいのだ、とそう思っていたのだけれど。
無用のものとなってしまった食卓を片づけながら、アベルは思う。
最近の彼は、どこかおかしい。
料理云々の問題ではなく…それはそれで、大きな問題ではあったのだけれど…、彼は、アベルの事を見てくれない。それは、先日までと同じようでいて、少し違う。
先日の一件以来、アベルは、少し、自惚れてみてもいいのではないか、と、そのように思ってしまった。「嫌いじゃない」と、そう言ってくれたから。だから、彼にとって、何かできる事があるのではないか、と。彼にとって、居心地のいい場所を作る事だったら、自分にもできるのかもしれない、と。
やっぱり、そんな事、奴隷が考えるのは、おこがましかったのかもしれない。それとも、馴れ馴れしくしすぎてしまったとか?
彼が不意に本を買って帰ってきた時は、本当にびっくりした。
仏頂面をした彼がアベルに差し出した、一冊の本。それは、とても彼自身が読むとは思えない内容のもので、それだけでも、それがアベルのために買ってきたものだ、というのは、見て取れた。
あまりに嬉しくて、本を抱きしめた。だけど、本当はその時、彼に飛びつきたい、抱きつきたい、と思ってしまった事。
気付かれてしまったのだろうか。
アベルには、他者との距離の取り方が判らない。それは、生まれてこの方、アベルにとって、他者といったら、己にとってごく少数の大切なものと、大多数のそうではないものしか存在しなかったからなのだろう。
世間一般での常識も、実感としては、よく判らない。身近に黒き羽という存在が在る、というのも、アベルには殆ど初めて、といってよく、今までの、己にとっての大切な存在、例えば、兄や『あの人』に対するような接し方は、やはり、してはならないものなのだろうと思う。
本当の事を言えば、よく判らないのだ。彼と共に過ごす、という事が。
どうしたらいいのか判らないけれど、それでも判らないなりに、何とか、伝えていきたい、と思った。ここに、彼の傍に居てもいい、というのが、とても嬉しいのだという事。だから、ずっとここにいられたら、それはとてもとても嬉しい、という事。
だけど、多分、アベルは、やり方、伝え方を間違えた。
「嫌いじゃない」と、前に確かに、そう言ってくれた。
だけど、「見ていると苛々する」と言っていたのも、多分、真実。
彼は、アベルに対して、いつだって、本当の事しか言わない。嘘偽りなんて、言う必要もないのだ。
彼にしてみれば、アベルは手間が掛かって、疎ましい。そんなところなのだろう。
『お前は、俺の物なんだからな』
彼にとって、それはほんの気紛れの言葉だったのだろう。だけどそれが、アベルの心をどんなに勇気づけてくれたのか、彼は知らない。
その言葉だけが、今現在のアベルの支えだった。
彼にとって、居心地のいい場所を作りたかった。彼が微笑ってくれたらいい、と思った。アベルの憧れそのものである、生命力溢れた彼の姿を、いつだって見つめていたかった。だけど。
アベルがいない方が、彼の居心地がいいのなら、アベルは今、ここに居るべきではないのだ。
「…どうしたらいいのかな…」
思わず、口をついて出た。その呟きに返る言葉は、ない。



その朝、ゼロは、空腹で目が覚めた。
そう言えば、昨日は夕飯を食べていなかった。
元々、その日の気分によって、食べたり食べなかったりの生活を続けていたので、そんな事は珍しくはなかったのだが、よくよく考えたら、その前の食事、昨日の昼食も、なんだかんだで取っていなかったような気がする。
試合のない日は、大抵、闘技場付属の訓練場で日がな過ごすゼロだったが、訓練に熱が入り、ついつい、時間を過ごしてしまい、気付いた時には、昼食どころの時間ではなくなっていたのだ。
夕食時まで後少しだし、まぁ、いいか、と思っていたのが、昨日の帰宅前。
なのに、帰宅してからも、何だか物を口にするような気分にはならず、そのまま、ベッドに倒れ込んでしまった。
昨日の行動をぼんやりと思い起こす間にも、腹は激しく空腹を訴える。
さすがに、何か食べないとやばいか…。
ゼロは、のっそりと起き上がる。着替えもせずに眠り込んだせいで、着ている服はよれよれだったし、体の下のシーツは、何やら埃っぼくなっていた。
今まで、全く気にもならなかったのに、アベルが来てから、妙にこんな事が判るようになってきてしまった。
綺麗に掃除されたゼロの私室。日中、アベルはこの家中の掃除をしているらしく、ゼロの部屋も、今までの生活とはうってかわった、いかにも衛生的な空間となってしまっている。
きちんとプレスされたシーツと、ゴミの入っていないゴミ箱、そして、綺麗に掃き清められた床とテーブル。
それ以外の部分には、手を触れた形跡もない。それでも、確かに残る、アベルの匂いのようなもの。
ゼロはつい、顔を顰める。
意識する間もなく、ごく自然に、アベルという存在は、この家を、ゼロを浸食していく。
このままでは、いけない、と思う。
このままでは、ゼロの生活の中にアベルはすっかり溶け込んでしまう。そうしたら、退っ引きならない状況に追い込まれるのは、目に見えている。
あれはそのうち、己にとって、足枷になる。きっと、とんでもない弱点になる。
今ならば。
今、手放すのならば、傷は浅くてすむのではないだろうか。
そもそも、ゼロが彼を買った事、それ自体が間違いだったのだ。彼は、もっといい主人のところに落ち着けたはずだったし、そうすればゼロだって、現在のような状況に追い込まれなくてすんだのだ。
朝起きて、闘技場に行き。夕刻に帰宅して、ただ眠る。その繰り返しの生活。
心乱される事もなく、己を鍛え上げる。ただ、強く在るために。
何よりも、強く成るために。



常らしからず、体も精神もすっかり目覚めたゼロは、自室から廊下へと続く扉を開けた。途端に、暖かくいい匂いが、ゼロの鼻孔を覆って、殊更にその空腹振りを刺激する。
香ばしく焼けたパンと程良く溶けたバターの香り。
廊下には、アベルが作ったのだろう、朝食の匂いが立ちこめている。ゼロは、軽く深呼吸した。
現在、台所で食事の支度をしているだろう人物と心を落ち着けて、相対せるように。
今日こそは、アベルと対峙しても、たじろがぬように。冷静でいられるように。
よし、と心を決めて、ゼロは台所の扉を開ける。
香ばしく焼けたパンと程良く溶けたバターの香り。綺麗に片づけられた台所に差し込む朝の光と清浄な空気。
アベルが来た日から、ずっと変わらない朝の風景。
それでも、いつもと違う風景。
いつもならば、台所の扉の開いた音に、暖めたミルクポットを抱えたアベルが振り返る。ふわりと微笑んで、「おはようございます」と、ゼロのために整えた朝食の席を指し示す。
今日はそこに、誰もいない。
暖かそうな湯気を立てた朝食が並んだ、空っぽの台所。
一体、何が起きたのか。
思考停止状態のゼロが、テーブルの上のメモに気付いたのは、パンもミルクもすっかり冷めて、硬くなった頃、だった。
ゼロは機械的にメモを手に取る。そこに並んでいたのは、苦労して綴られたと思しき、如何にも書き慣れていない文字。確かにアベル自身の手による字。
何も考えないまま、ただ、ゼロの目は、文面を追っていく。その内容も、ただ、意識を上滑りしているような気がする。
今朝は珍しく、すっかり目も覚めているはずなのに。
まるで、まだ半分、眠ってでもいるような、これらは全て、夢であるような気がした。



もし、彼がいなくなってしまったら?






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