EDEN +++ 前編


「あなたは 園のどの木からでも
心のままに 取って食べてよろしい
しかし 善悪を知る木からは 取って食べてはならない
それを取って食べると きっと死ぬであろう」

創世記・第二章16、17より抜粋



ゼロは今まで、知らなかった。
誰かがいる家、というのは、こんなにも暖かな光を宿すのだという事を。
家に近くなると、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。できたての夕食の存在を約束する、確かな証。
今では、いつもの事ではあったが、それでも、未だに奇異な思いに囚われる。
何年も前から空き屋だった場所が、日一日と、人の住む家へと変貌していく様は、ゼロの目には驚異だった。今まで己の暮らしていた、箱のような部屋の中でも、このような変化を感じた事はなかった。それはただ、寝るために帰る場所であり、『家』と感じた事は一度もなかった。少なくとも、今、目の前に存在するような意味合いにおいての、家、というものは。
それなのに、これはどうした事だろう。
この、甘く暖かな情景は?
「……た」
ただいま、と続けるべき言葉は、口の中に消える。
しかし、玄関の扉の開く音でも聞こえたのか、帰宅の気配を感じたのだろう、小走りに駆けてくる音がして、アベルがひょいと顔を出した。
遠慮がちに怖ず怖ずとした、それでも、嬉しそうな微笑み。
「…お帰りなさい」
それに対して、「おう」だの「よう」だの、毎度のように何やらもぐもぐとした応答をして、ゼロは家へと上がる。我ながら、何だか頬が赤くなっているような気がして、顔を上げられない。アベルの目も、正面から見られないような有様だった。
ゼロは、現在の状況というものに対して、未だ慣れることができなかった。非常に困惑していた、といっていい。
そもそも、家に帰ってきて、『ただいま』なんて口にするのは、どうだろう。言うべきなのか?言ってもいいのか?こんな、こっぱずかしい事を!
朝、目覚めてすぐ、同じ家に人がいる、というのは、物心付いた頃にはそこにいた孤児院を出て以来、である。そこでだって、こんな純粋な好意の乗った対応を受けた事はない。
そう。
好意である。
頻繁に女から、まれに男からも向けられるような、欲情も、執着もない。ただ、日だまりのような暖かさにだけ溢れた、好意。
そんな感情を向けられるのは、生まれてこの方初めての経験で、どうしたらいいのか、判らない。
ああ、もう。
「…勘弁してくれよ…」
ついた溜息は、思いの外、深かった。



この変化は、彼が怪我をした日以来、だったと思う。彼が、ゼロを『ゼロ様』と呼ぶようになった、あの時からだ。
それまでの彼は、自発的に家の掃除をしたり、料理を作ったりしながらも、まるで、急に見知らぬ場所に連れてこられた犬か猫の子のようで、本当は、どこか居るべき場所、帰るべきところがあって、今はただ、仮の宿として、ここにいるだけなのだ、とでもいうような、そんな顔を見せていた。
実際、表情に表れていた訳ではない。
それでも、ゼロには、歴然とそれが読みとれて、何よりもそれが、苦しかったのだ。
悔しかったのだろうか。やはり、彼が主人だと思っているのは、彼を捨てた前の主人、人里離れた辺境に、彼と二人、籠もっていたという変人だけで、己はただ、彼を買っただけなのだ、とそう認識されているのだろう、という事が?
奴隷が現状をどのように感じていようとも、そんな事は、飼い主に関係などありはしないのに。
奴隷の『気持ち』を気にする、なんて。
なんて、愚かな。
自分でもよく判らない。どこか、おかしいのではないかと思う。それでも、苦しくて。
こんな事なら、あの時、彼を買ったりしなければよかった、と何度思った事だろう。
あの時、何故、あの檻の中にいた奴隷を見つけてしまったのか。
会わなければよかった。
話しかけなければよかった。
再び、会いに行くべきではなかった。
やはり、あの時、殺してしまうべきだった。
そんな事を考えてたのは、そう遠い過去の事ではない。
それと今と、どちらがよりよい、と言えるのか。
ゼロには、やはり判らない。居心地の悪さ加減では、現在の方が上で、それでも、2、3日前までの苦い感情はないから、今の方がマシ、というところなのだろうか。
己の事ながら、何やら納得できないが。
「ほら、これ」
「ありがとうございます」
嬉しげにアベルが受け取ったのは、一冊の本。
今回、ゼロが購入したのは、色絵のふんだんに使われた、料理の本である。結構な有名人でもあるゼロは、本屋に足を踏み入れた瞬間から、殊更にカラフルな料理本を選び出し、それを精算所まで持っていくまでの間、周囲からさんざっぱら奇異の視線を浴びる羽目になったのだが、しかし、アベルを責められない。
アベルが、己の料理のレパートリーが少ない事を気に病んでいて、つい、料理本を見ればいい、というような事を口にしてしまったのは、ゼロ自身だったし、アベルに『外に出るな』と厳命したのも、当のゼロだった。それを守るならば、アベルには、本を買いに行く、などという行動は許されない。
結果として、ゼロは奴隷(アベル)の為に、あれこれと働く、という、不可思議な状況になってしまっているのだが、それでも、丁寧にゼロに礼を言って、本当に嬉しそうに頬を紅潮させたアベルを見ていると、それはそれでいいような気になってくる。
そんな彼をずっと見ていたいような、それでいて、見ていたくないような、不可思議な気分に襲われる。
アベルは、受け取ったばかりの本を、待ちきれない、とばかりに喜々として開く。
なにやら、現在のアベルは、凝った食事を作る事に拘っているようなのだ。今までのあっさりとした味付けや古風な盛りつけでも、ゼロは全く気にしなかったのだが。
アベルは、単語ひとつひとつを指で差し追うようにして、大切そうにその文章をなぞり上げる。そうして、熱心に読み進めながらも、ある箇所に差し掛かった時、その手はぴたりと止まる。
どうしようか、と迷っているのがありありとわかる、それでも、ほんの少しの間合いを置いて、幾分か、遠慮するような、それでいて、期待するような視線をゼロに向けるのだ。
ここ最近の、ゼロがアベルに本を買い与えるようになってからの、約束事のようなその仕草。
そこに言葉がなくても通じる、決まり事。
ゼロが、いつものようにアベルの指の指し示した単語の読みを口にすると、アベルは、何度も口の中で転がすようにその単語を口ずさんで、これもまた、ゼロが与えた白い紙を閉じただけの帳面に書き写す。そして、ゼロには読み解けない文字…多分、古語…で注釈をつける。
アベルが、共通語の読み書きに長けていない、というのは、ゼロには、いささか意外であった。が、驚くには能わないのだ、と思い直す。実際、白い羽根の者は、当初から、ある特殊な労働力として育てられでもしない限り、教育など施されないものなのだから、読み書きなど、できなくて当然なのだ。
古語ならば自在に操れる、という方が、ずっとおかしい。
アベル自身、何も言いはしなかったし、古語があれだけ使えるのならば、共通語だって、使えるのだろう、と思いこんだのは、ゼロだ。ただ、アベルはあっという間に、それこそ、スポンジが水を吸い込むように、というのだろうか、驚くべき速さで、共通語の知識を身につけていく。それはやはり、古語、という基本言語を知っているからなのだろうか。
彼は一体、今まで、どのような生き方、育てられ方をしてきたのだろう。
古い傷や痣のようなものは、なかった。少なくとも、見える部分には。いや、そうではなかったか。心臓の真上に、十字の傷がひとつ。…そう、彼を売っていた店の店主が言っていた。
後は、ゼロ自身が巻いてやった包帯の下に、多少、深かった切り傷。
手足は、白くて細い。皮膚も、女子供のように薄く、柔らかだった。外で日に当たるような仕事、きつい力仕事をしてきた訳ではなかっただろう。
何よりも、初めてアベルを見た時に思った。
なんてよく、手入れをされた奴隷だろう、と。
身につけていたものも、古くはあったが、不潔ではなかった。黒に近い栗色の髪が、油染みている事もなかった。多少、埃っぽかったのは、捕らえられ、あの檻に入れられてからの事で、それ以前には、えらく衛生観念の発達した暮らしをしていたらしい、という事は、見て取れた。
多少…いや、大分…、常識外れではあるが、間が抜けて見える程に素直。これは、今までの主人とやらの育て方の影響だろうか。
そのくせ、伏せた視線は、ひどく考え深げで。
何を考え、どう思っているのか。
ゼロ、という新しい主人をどう感じているのか。
知りたいけれど、知りたくない。
何やら、胸の奥がぞわぞわとして。
自分で自分が信じられない。
他者の事が、気になるなんて。しかもそれが、白き羽の奴隷だなんて。
そう。彼は、白い羽の奴隷。劣った血の発露だとされる、白い鳥類の羽を持っている。
何よりも不吉だとされる、邪神を象徴する色をしたその羽は、彼自身よりもずっと正直に感情を写すその羽は、それでも、ゼロの目には、何よりも綺麗にさえ、映る。
今まで、どこの誰に対しても、そんな風に思えた事なんて、なかった。
彼以外の白き羽の、例えば、ゼロがこれから殺さなければならない剣闘士にも、ゼロの外見や肩書きにすり寄る、豊かな胸と腰を持つ黒き羽の女にさえも。
彼だけだ。
初めて出会ってからさえ、まだ、十数日しか経っていない。共に暮らし始めて、ほんの数日。ゼロの手の中で、その剣の一降りで、呆気なく事切れるだろう、己の身を守る術ひとつ持たぬ白い羽の少年だけが、ここまで、己の心を動かす。
ゼロは、ふと、気付いてしまった事実に、愕然とする。
知りたいけれど、知りたくない。
それは、何よりも、聞きたくないからだ。彼にとっては、ゼロよりも、前の主人の方が大切なのだ、と。
彼が、前の主人の事を本当に好きだったのだと、ゼロは確かに知っていたのだから。
ゼロに買われて、ゼロの奴隷になってから、彼は前の主人の事は、一切、口にしていない。だけど、今までの経緯の中で、その拙い言葉の端々で、彼が、前の主人をどんなに大切に思っていたのかは、ゼロの目には歴然としていた。
彼は、今、ゼロに向けるような好意を、前の主人にも注いでいたのだろうか。同じような微笑を向けて。同じように、心を傾けて。
それとも、より以上の感情を?
ふと、アベルが本から顔を上げた。ゼロの注視に、気付いたらしい、問うような視線をこちらに向ける。
黒と見紛うような、藍の色。日の光の下でのそれは、まるで深い海か、宵の空のような蒼い色である事をゼロは知っている。
初めて会った時、どこかで見たようなこの瞳を、その色を、とても美しいと、そう思ったのだ。
「……もう寝る」
絶対、おかしい。
絶対に変だ。
こんなの、間違ってる。こんな気持ちになるなんて。
「でも、あの、夕飯…」
「いらねー」
予感はあった。前から、思ってはいた。
こいつに係わったら、厄介な事になるだろうと。
だけど、最終的なところでは、自分の力を信じていた。どんな状況に陥ったって、大丈夫だと。己は、絶対に切り抜けられる。それだけの自信があった。
己の力で、何でもやれる。何処へでも行ける。己ひとりでならば。
「…ゼロ様?」
アベルが見つめる。そこにあるのは、戸惑いと心配と。
ただ、ゼロを気遣う、瞳。
こんなの、絶対、間違ってる。


やっぱり、あの時、殺してしまえばよかった。


アベルの視線を背に感じながら、ゼロは自室へと逃げ込んだ。現在、この家の中で、唯一、アベルの匂いのしない場所へと。



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