天使再生 +++ 中編


今からのち、代々の人々は
わたしを幸いな女というでしょう

ルカによる福音書−第一章48



朝方、彼に頼んだ薪が届けられたのだと思ったのだ。
だから、アベルは叩かれた扉を開いた。不審に思うべきだった。この辺りでは決して聞かれない、品のよいその叩き方に。
そこにあったのは、配送業者で使役されている白い羽ではなかった。足下まですっぽりと覆う黒い長衣と、目深く被った黒い帽子。
男は、優雅に帽子を取った。
その顔に、あまり、特徴はない。しかし、どこかで見知った顔であった。
ただ呆然とするのみのアベルの前で、軽く膝を折る。まるで、貴人に対するかのように。
その時、長衣の前の合わせが小さくはだけて、下に着込んだアンゲルス教団の法衣に気づく。男が微笑う。柔らかくも、冷酷に。甘く滴る毒を滲ませて。
「恐れる事はない。貴方は、神から恵みをいただいたのだから」
男が優しく囁いた、その瞬間に、目の前の顔と記憶の中の顔が合致した。



意識せぬまま、体ががたがたと震えた。その震えを押さえようと、身を抱えた手がまた、激しく震えていた。それでも、視線を外せない。目の前の男に魅入られ、吸い寄せられたかのように。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」
それは、呪詛の言葉。アベルの世界の終わりを意味する言葉。
今までは、それほど重要ではなかった。いつか来るはずのものが今日来た、というだけの事に過ぎなかっただろう。だけれど、今のアベルにとって、それは何よりも恐ろしい言葉であったのだ。
「…ど、…どちら様、ですか…?」
意味のない言葉だった。男が何者なのか、何をしにやってきたのか、アベルはよく理解している。しかし、それを認めない事、ただそれだけが、アベルにとって、眼前の現実に対してしうる唯一の抵抗といってよかった。
回らぬ舌と強張った唇は、アベルの望みに反して、彼の言葉をひどく揺れさせ、掠れさせた。動揺など、表に出したくはないのに。だが、そんなアベルの煩悶など全く意に介さぬように、男はアベルの前に膝を突く。
「先触れの使者の栄誉を受けた私が、初めに主の栄光を頌える儀、お許しあるように」
アベルは、玄関扉に飛びついた。自分でも驚くくらい、体は迅速に動いた。今の今まで強張り、凍り付き、震えていたのが嘘のようだった。早く、扉を閉めるのだ。この家は、アベルと彼と、二人だけの家だ。こんな恐ろしいものなど閉め出して、世界から遮断して、そうすれば、元に戻る。暖かさも幸福も、全て戻ってくる。
だけれど、それは予想の範疇にあったのか、扉は閉まりきる前に、その身を割り込ませた男自身の体と広げられた腕でもって防がれた。
凍る外気が、家の中へと吹き込んだ。快適に暖められた部屋の空気に、刺すような触感を呼び込んで。家に入り込んだ男が、ゆっくりとその扉を閉めても、暖かさは戻ってこない。おそらく、もう二度と。
その時、左の胸が、どくりと脈打った。握りつぶされそうな圧迫感と切り裂かれるような痛み。一瞬にして吹き出る汗。目の前の視界が暗くなる。
こんな時に起こるなんて。
蒼白になった顔は、先程とそう変わっていなかっただろう事だけが、アベルにとっては救いだった。
今、倒れる訳にはいかない。
ほんの数分、もしくは十数分で、現在の状態を脱する事は、過去の経験上、判っている。そして、この間さえ乗り切ってしまえば、何事もなかったように回復する事も。
足元がふらつく。しかし、今なら目の前の男は、それすらも動揺故、と受け取ってくれるだろう。
力無く壁に体を凭れさせる。それは、観念したかのように映るだろうか。それでもいい。〈目覚め〉の近い状態に気づかれ、このまま、連行されて再び〈初めの牢獄〉へと籠められるよりは。
「時間がないということは、解っています…」
ぼつりと呟いた、ただ事実のみを語る己の声が耳に入った時、何故か、心の奥底で凍え、死んだように固まっていた感情が膨れ上がり、続く言葉が胸奥を押し潰した。
「解ってる!解ってるんだから、だから、お願いだから、放っておいて!あの人は、関係ないんだ。関係ないんだから…」
一息に言い放った後は、くらくらした。まるで酔ったかのようだった。実際、吐き出した思いのあまりの濃密さに、あたったのかもしれない。
彼に知られたくない。知られたくない。知られたくない。兄が、全てを捨てても、と欲した呪い、アベルが身に背負う事になった呪いを、彼にだけは知られたくなかった。
彼だけは護りたい、と思う心の裏側にある、それも真実。
そんなアベルの反応が意外だったのか。男は数呼吸の間、ただ立ち尽くした。先までの優雅さも装おう様子もない。その時の男は、死刑宣告人などではなく、ごくごく普通の人に見えた。
実際、彼らとて特別な存在である訳ではないのかもしれない。
多分、己と同じように、笑い、驚き、感動し、大切な何かのために涙する。
可愛くて可哀想な生き物たち。
鋭い胸の痛みに、我に返る。
なにか、おかしな事を思っていた。全てが同じだ、と感じるなんて、正気じゃない。
アベルはひどく混乱していたが、そもそも、感情はあまり面に表れない。折りにつけ、彼にからかわれる、感情に正直な背中の羽は、麻痺したように垂れ下がったまま、固まっていた。
男も自身の素顔を晒す事を失態と捕らえているようで、アベルの混乱を気に留める余裕もなかったようだった。
ほんの少しの沈黙の後、小さく咳払い。それで元通り。
男は再び、優雅な仮面を被り直した。
「…よもや、ご存じない?貴方の選んだ者が、『たまたま』巻き込まれた、などとお思いか?」
己の優位を知る者特有の傲岸さを滲ませて、男は微笑む。
「我らが神に讃えあれ。これこそが、主の御技、というものか」
高らかになされた勝利の宣言は、最後通牒でもあった。
何に対しての?
アベルが今まで信じていた世界への。



耳の奥で、音が鳴っていた。何かが落ちて転がり反響する音。
「主の御技に『偶然』などというものは存在しない。かの者は、我らが教団の次代様の候補のひとりであり、そして、貴方はかの者をお選びになった。その時、決まったのだ。かの者が、次期教皇、黒き聖母の後継者、次なる神の代理人となる事が」
男の声など、聞こえない。何を言っているのか、わからない。
どんどん大きくなっていく耳奥の音で、頭が割れるように痛かった。凍えるように冷たくなった指先を手のひらに滲んだ汗と一緒に握りしめた。爪が手のひらに食い込み、食い破るほどに強く、硬く。
「故に」
男が、軽く体を折って、お辞儀をする。王を前にした騎士のように。
吐き気がした。
「かの者が処罰されるような事などない。どころか、あなたとかの者とが、引き離される事もない。ただ、場所を移すだけだ。共に〈約束の地〉にある宮殿で、世界を統治する役目に就く」
悪くはないだろう、と男は軽く眉根を持ち上げてみせる。
「今よりも、ずっと贅沢な暮らしができる」
そんな事、望んでなどいない。
蒼白のまま、ただ、首を横に振るアベルを、意外そうに見つめる。まるで、アベルが欲望を持たないかのように見えたのかもしれない。
だけれど、欲望ならばある。誰にも負けぬほどに、強く激しい欲望が。
ただ、彼と一緒にいたい。この家で、ずっと二人で暮らしていたい。
そのためならば、どんな事でもするだろう。
しかし、当然、男も持ち合わせているであろう一般感覚では、アベルの心情など理解できるはずもない。そう思われたが、じりじりと後退るアベルを見つめる奇異の視線が、不意に解かれる。
「おお、そうだった。もうひとつ、これもまた、知らされていないのかもしれないな」
ひとりごち。
「心配する事はない」
鷹揚に腕を広げてみせる。
「神と教皇との間には、原罪にも似た感情が存在する。次代であるあなた方にも、それはまた」
既に気づいているだろうが、と男が嗤う。
「故に、あなた方の間にある感情も、唾棄すべきものとはならない。それは、あなた方が神の祝福を受けたという証だ。あなた方は、そのように造られているのだから」
呆然と、目の前の男を見上げる。既に、逃げ隠れする気持ちも湧いてはこなかった。
人に対する執着が〈悪〉であるこの世界で、今、彼と共にいたい、と望むアベルは、悪そのものだった。神を降ろすためのみに存在する身で、悪に染まった己がどのような処遇を受ける事になるのか、と怯えていると受け取られたらしいことも、当然と言えば当然だ。それが、この世界の常識なのだから。
多分、アベルの方が異常なのだ。
実際、目の前の男は親切なくらいだ。何も知らない子供に、噛んで含めるように物事を教え込もうというのだから。
そして、男の言う事が誤りではない、という事も解っていた。知っていた、と言ってもいい。男の語る言葉は、するりと己の身に染み込んで、そこに何の偽りもないのだという事をアベルに教えてくれた。
造られた存在。
決められた未来。
定められたままに出会い、定められたままに惹かれ合った。己の意志などどこにも内在せず、ただ、宿命だけが二人を結びつけた。
誇り高い彼は、きっと、アベルを赦さないだろう。
「なんと幸福な方だろう。その身に神を受け入れる事で、原罪さえも許される」
そんな事、望んでなどいなかった。いつだって、アベルに与えられるのは、望まない事ばかりだ。アベルに許されるのは、ただ、諦める、という事だけだった。
そして、それは現在もまた。



主は遂にお目覚めになる。永き眠りより目覚め、遂にこの世界へと降臨される。
神は偉大なり。神は偉大なり。神は偉大なり。

吐き気がする。



彼と一緒にいたい。この家で、ずっと二人で暮らしていたい。



そのためならば、どんな事でもする。









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