天使再生 +++ 後編


かの日こそ怒りの日なり
世界を灰に帰せしめん
ダヴィデとシビラの証のごとし

レクイエムより−ディエス・イレ(怒りの日)



「…遅くなっちまったな」
溜息混じりに洩れた呟きが、冷たい空気に反応して、白く凍る。
その言葉には、家で待つ存在への想いが隠しようもなく滲んでいて、ゼロは、思わず周囲を見回す。家へと続く一本道。薄暗く沈む郊外の静けさに、たった一人。聞く者とてない独り言、と解りきっていたのだが。
当たり前のように、周囲に誰もいない事を確認して、息を吐く。知られてはならない、と思っている訳ではない。だけど、知られたくない、と思っている。
己が、何よりも大切な存在を持っている、という事を。
弱点になるから。少し前までなら、そんな風に判断していただろう。そんな惰弱な、甘っちょろい感情など、このゼロ、黒き羽の剣闘士、血濡れのゼロ様が持ち合わせていていいものではない。
非情さも、冷酷さも、計算高さも。ただ、生きるためのみならず、自身で欲し、身につけた。
強くなる事。何者にも否定されない、誰もが認める存在になる事。
ただ、それだけがゼロの望みだった。
それが、今ではどうだろう。
ただ、ひとりの存在を大切に想い、そんな自身の気持ちを知られる事で、全てが汚されるかのように感じるだなんて。
全く、お笑いだ。
今朝、家を出る折り、薪の宅配注文の追加をゼロに頼んだ少年の、どこか申し訳なさそうな表情を思い出す。
一冬の燃料の必要量がどのくらいなのか、きちんと読み取れなかった事に恐縮しながら、「次の冬は、もっとちゃんと用意できるようにします」と言った少年が、そのさり気ない言葉がどんなにか嬉しかった事だろう。
ゼロと初めて出会った裏路地でも、ゼロに買われて、ゼロと共に郊外の家に入っても、彼はただ、そこにいた。いつだって、そこが仮の宿であるかのような顔をして。
ゼロの物になった事も、ただ、その場限りの事だと思っているみたいに。
その彼が、『次の冬』を語る。当然のように、ゼロと共にいる冬を。
次の冬も、彼は傍らにいる。その次も、またその次も。
その時の歓喜は、同じくらいの羞恥心を呼び起こして、どうしていいか判らなくて、逃げるように家を飛び出した。
彼自身が、ゼロの物である事を認めた。ゼロが彼を買ったからじゃない。ただ、彼がゼロに付随する事を認めた。
やっと捕まえた。彼は、本当にゼロの物になった。
それをはっきりと把握したのは、闘技場付属の練習施設で汗を流した後の休憩中だ。感情の混乱が収まって、冷静に物事を判断できるようになったら、じわじわと滲み出した、その感情をどのように表現したらいいのか、判らない。
満足。達成感。そんな言葉では言い尽くせない驚喜、または狂喜。
まだ、完全に、とは言えないだろう。彼は今でも、ふと、遠い目をする事がある。だけど、それも少しずつなくなってくる。彼をゼロで全部満たして、そして、いつかは完全にゼロの物になる。
もう、決して失えない。
柔で、ひ弱で、強固な想い。
この想いが、何かを生み出す事になるのか、それとも、何にもならないのか。
ただ、今は大切にしたいと思うだけだ。この想いと、そして、馬鹿で素直で強情な、白い羽の少年を。
ゼロは、そろそろ見えかけるはずの家に向かって、視線を投げる。白い羽の少年が、帰宅するゼロを迎えるために灯す光が、既に目にも慣れた暖かな光が、見えるはず、だった。
しかし、そこには何も見えなかった。何も存在しないかのように、家は、周囲の夕闇に溶け、沈んでいた。明かりが、ひとつも灯されていないから。だから、そんな風に映るのだ。少年はまた、掃除に夢中になって、外が暗くなってきたのにも気づいていないのかもしれない。こんなに暗くては、掃除する手元も見えづらくなっているだろうに。
ゼロは、走り出した。多分、大した事でもないのだろう。掃除をしているか、それとも、また、手元だけを燭台で照らして、本でも読んでいるのかもしれない。時間を忘れるほどに、何かに夢中になる事など、少年にとっては日常茶飯事だ。
よく判っているのに、何故だろうか、ひどく胸騒ぎがした。



朝と同じ顔をした家の前。しかし、荒廃の匂いのようなものが、そこにあった。明かりが灯っていない。ただ、それだけなのに、まるで見知らぬ場所であるかのようだ。
ここは、ゼロと少年とが暮らす、たったひとつの家なのに。
扉をそっと押し開ける。音を立てぬように、静かに。
敵の気配はない。少年の気配も、ない。まるで、空き家のようなその場所は、埃の気配さえ漂っている。毎日、少年が隅々まで掃除をするこの家で、そんなものがあるはずもないのに。
その時、ゼロは、もうひとつの、ここにあるはずもない匂いを嗅ぎ取った。
ゼロにとって、あまりにも身近な匂い。破壊の匂い。暴力の匂い。生暖かいぬるみさえ感じ取れそうな、死の匂い。
瞬間、ただ、体が動いた。何を考えるよりも早く、ゼロは、目の前の扉を開け放った。
そこは、台所だった。家の中で、少年が最も気を遣って、明るく清潔に、と調えている場所だ。磨かれたタイルとテーブルクロスと暖かなミルクの匂い、朝の光に満ちた場所。それが今、はっきりと姿を変えていた。それは、少年と出会うまで、確かにゼロが知っていた風景。
まるで、甘い夢を見たゼロを嘲笑うかのように、それはそこに在った。



夜の帳が降りかけた、暗い室内。だから、だろうか。より陰惨な印象さえ受けるのは。
ひっくり返ったテーブルと椅子。投げ出されたクッションやテーブルクロス。割れた陶器が散乱した床には、何かを零したのか、そこここに水たまりができている。
いや、零れているのは、水ではない。
血だ。
先程から発せられていたぬるい鉄の匂いが、それをゼロに教える。
狂ったように、周囲に視線を走らせた。実際、その瞬間、狂っていたのかもしれない。
敵がいるかもしれない、という緊張も、本能の域にまでその身に染みついた注意深さも、全て忘れた。今はもう、何者も存在しないかのようなこの部屋に、いるはずの、いなくてはならない存在を探して。
一体、どこにいったのだ。
登りかけた月の光が強くなってきたのか、それとも、目が闇に慣れてきたのか。
部屋の隅に、ぼんやりと白く浮かび上がるものがあった。
瞬間、息が止まる。心臓を鷲掴みにされ、肺から全ての空気が押し出された。
壁を背に凭れ、へたり込んだ少年は、まるで物言わぬ人形のように見えた。
生きているのかどうかも判らない。
何度か口を開き、戦慄く唇を湿らせた。現実を知る事への恐怖。
喘ぐように息を吸い、また、息を吐く。
月の光に照らされ、浮かび上がる、染み一つない純白の羽。
今となっては、遠い昔に思える、彼と初めて出会った頃。裏路地に繋がれた、見知らぬ白い羽の奴隷。
あの時も、彼はとても、綺麗だった。
「…アベル?」
そっと囁いた。吐息のようなそれに反応して、ただ中空に据えられていたアベルの視線が揺れた。
決められた動きをしてみせる人形のように、幾度か瞬きを繰り返し、そして、声のした方、ゼロのいる方向へと頭を巡らせる。
生きている。
止まっていた時間は動き出し、体内には急速に血液が巡り出す。詰められていた息を吐ききったら、体中の力が抜けた。何か空っぽになったような、全てが満たされたような、相反する思いが同居する。
彼は生きている。ただ、その事実だけを噛み締める。
「…お前、一体、何をして…」
障害物となっているテーブルを避けて、部屋へと足を踏み入れる。その瞬間、彼の前に転がる物体が眼に飛び込んできて、ゼロをその場に釘付けにした。
ゼロの足元に、帽子が転がっていた。ゼロの物でも、当然、アベルの物でもない、鍔広の帽子は黒い。高い地位を持つ存在が身につけるような、大仰なもの。
床に視線を滑らせる。アベルに、ではなく、彼の居る場所よりも奥まったところ、黒い固まりが影になって凝る部分へと。
ソレが影のように見えたのは、黒い長衣で身を包んでいるからだった。特に大きな体型ではない。小さい訳でもない。ただ、ソレは男であると判る。
血溜まりに沈む、物体にしか見えない男は、既に事切れている。常に戦場を生きるゼロの眼には、あまりにも明白だった。
仄暗い自然光に照らし出されて、その顔だけが白々と映る。あまり特徴のないその顔は、それでも、ゼロの記憶の中に確かに存在している。
アベルと初めて出会った裏路地には、奴隷を扱う店が数多く列していた。その中にひとつ、全く目立たず、周囲に埋没した、小さな店があった。それは、アベルを繋いだ檻を正面に据えていた店。
その商店主が、既に何も映さない眼を見開いたまま、転がっていた。



ゼロの記憶に残っていたのは、職業的な愛想のよさを滲ませた笑顔。ただ、それだけだった。
中肉中背の中年男。いかにも没個性のその顔は、普段、道ですれ違っただけならば、全く気づかなかったかもしれない。アベルと共に目にしたから、だから、思い出したのだ。
ゼロとアベルが初めて出会った、そのきっかけにも近い舞台を作り出した男。命の火が消えてなお、浮かべたままの微笑みは、しかし、ゼロの知るものでは決してない。
典型的な商店主の仮面の下から現れた、アンゲルス教団の法衣をまとった男。
何故、こんなところに、死体となって転がっているのか。
一体、何があったのか。
ゼロは、そっとアベルに近づく。彼を刺激しないように。
アベルは、ただ、ぼんやりとしていた。ゼロを認識しているのかどうかも判らない。
彼の前に膝をつき、投げ出された彼の手を取った。傷などどこにもない。血に染まった様子もない。常と違うところなど、少しもなかった。
何があったとしても、今はどうでもいい。
アベルは無事だった。ただ、それだけが、ゼロにとっては大切だった。
「…アベル…」
ゼロが、彼の名を囁く。それは、呪文として、彼の意識に作用する。まるで、眠りから覚めたかのように、飛んでいた意識が体に戻ってきたかのように、彼の意識は急速に浮上する。徐々に力の戻る瞳の色にそれを見て取って、ゼロは、不器用に微笑んでみせる。
常の、己の感情そのままの傍若さに溢れるものではない。
彼を安心させるために、ただ、それだけのために。
アベルはただ、ゼロを見つめていた。全く感情の色のない瞳は、どこか哀しげにも映る。それは、初めて会った頃、まだアベルという少年をよく知らなかった頃に、彼に対して抱いた印象でもあった。
アベルの手を引いて促したが、その腕に力が加わる事はなかった。ゼロの意を認識する事ができないのか、それとも、心に受けた衝撃から、体が自由にならないのかもしれない。
「…全く。しょうがねぇなぁ…」
微笑み、屈み込んだ。彼の背に腕を回し、肩を抱く。背の白い羽が硬直するのが判ったが、構わず、彼を抱き上げる。
身長はそう変わらないのに、アベルはひどく小さく感じられた。ゼロのように、戦うために作られた体ではない。硬く引き締まった筋肉もなく、女のように柔らかくもない。痩せて筋張った少年の体は軽く、そして、冷え切っていた。
「ほら、首に手ぇ回せ。落っこちるだろ」
少し強く言っただけで、彼は素直にゼロの首に腕をかけた。
いつもだったら、決してしなかっただろう。それ以前に、ゼロに抱き上げられるのを許容する事など、決してなかっただろう。
現状を把握しかねていたのか。それとも、まだ、意識が半分、眠ってでもいるのか。
ゼロは、身を固くしたままの、冷たい体を抱きしめる。
己の熱が移って、彼の体が温まればいい。そして、凍えた心も暖められたらいい。



ゼロは、作りたてのホットミルクを手に、大急ぎで自室に戻った。アベルは、先程、ゼロが毛布にくるんで、ベッドへと座らせた姿そのままで、そこにいる。
それが当然なのに、何処に行くはずもないのに、今にも消えてなくなりそうな風情を漂わせて、彼はそこにいる。
一瞬、かける言葉を見失ってしまった。
扉の前に竦むような自分は、ゼロ、強さを求めて生きる剣闘士のゼロ、黒き皇帝と呼ばれたゼロではない。そう叱咤して、ゼロは己の寝室へと足を踏み入れる。
俯いた彼の前にカップを差し出すと、彼は、虚空を見つめる硝子の瞳を幾度か瞬かせた。突然、視界に入った異物に困惑するように。
カップを手に持ったまま、ゼロは全く動こうとしなかった。ただ、アベルへと差し出した物を、アベルが自身で受け取るのを待った。
アベルのぼんやりとした視線が、ゼロとカップとの間を、ゆっくりと行き来する。彼が現状を認識して、ゼロという存在を認めて、彼の意をくみ取る。そんな心の動きが、手に取るように感じられる、その間、ただ、ゼロはアベルの前に立っていた。
ミルクも冷めかける、それくらいの時が過ぎた。
アベルはおずおずとカップを受け取った。
常だったらこんな時、すぐに苛ついた様子を見せていただろう。ゼロにも、己の短気さに対する自覚があった。それが、ただ黙って、アベルを見つめて、彼が己の意志で動いた事に喜びを感じて。
なんだかとても、不思議な気分だった。
アベルがカップを落としたりしないように、しっかりとその手に握らせる。もう、そんなに熱くもないので、直に手で触っても火傷をする危険もない。
アベルは、ぼんやりとカップに視線を落とす。
注がれているのは、ミルク。ゼロが、小さな、力のない子供だった頃、孤児院での夜、寝る前に出された一杯の暖かなミルクに、人の心をときほぐす作用があったのを、思い出して。
立ち上るミルクの甘い匂いが、その効能を発揮したのか、それとも、先程まで台所で散乱していたものと同じ型のカップが、記憶を呼び起こしたのか。
「…掃除しなくちゃ」
アベルがぽつりと呟いた。カップを手で包み込むように持ったまま、それでも、口はつけないままに。
正気に戻ってきて、最初に思うのは、掃除、なのか。
可笑しいのか、哀しいのか、怒っているのか。
そのどれでもあり、また、どれでもないような気がした。ただ、胸が詰まって、すぐには言葉が出なかった。
「…また、明日やればいい」
喉奥から押し出された言葉は、それでも、穏やかに響いた。
実際、急ぐべきものは何もないのだ。
「だけど、床に染みができるかもしれないから…」
「俺が拭いといてやるから」
だから、お前は、寝とけ。
ゼロに促されて、ようやっと、ブランデーの入ったミルクを飲み干すと、やがて、アベルはうつらうつらとし始める。その手からカップを受け取って、アベルをベッドへと横たわらせて、上掛けをかけてやって、それに抵抗はしなかったけれど、アベルは譫言のように呟いた。
「…ゼロ様の部屋で寝るなんて…」
「お前の部屋より、俺の部屋の方が暖かいだろ」
「……ゼロ様のベッドを使うなんて…」
「ああ、俺も寝るんだから、お前、真ん中にいるなよ。もっと端っこに詰めとけ」
この言に、可笑しそうに微笑って、それでも、アベルは本当に、ベッドの端へと身を寄せる。睡魔に飲み込まれそうになりながら。
実際、もう既に限界だったのだろう、彼が枕に頭を埋めて目を閉じる。糸が切れたように、その体から力が抜けていくのが判った。
喉を圧する感覚は、ゆっくりと移動する。肺に溜まるべき空気が、重くて硬い何かと化して、体内を下りてくる。
アベルは、返り血一つ浴びてはいなかった。
そもそも、非力な白い羽の少年がひとり、武器もなしで屈強な男を殺す事などできるはずもない。
しかし、そんな良識も、ゼロの本能に近い直感の前には、無力だった。
アベルが、殺したのだ。
全身を鋭利な刃物で切り裂かれたかのように、血まみれになって横たわる男。白い顔だけが奇跡のように傷もなく、その男が何者であるかを如実に語っていた。
しかし、実際、ゼロが、男が何者であるか、知っていたとはとても言い難い。特に、男がアンゲルス教団の法衣を着用していたという事実は、今もって、大きな謎である。
それでも、歴然と残る事実は、白い羽のアベルが、黒い羽の男を殺したという事。
これが明るみに出たら、極刑は免れない。
ゼロは、ベッドに横たわる少年を覗き込む。
疲れきったような、それでも、ようやく安心できる巣に帰ってきたかのような顔をして、眠る少年。
血にまみれた凄惨な現場で、月明かりに浮かび上がった白い羽。それは、何者にも侵されない、神聖さえ漂わせていた。
もう、俺は、狂っているのかもしれない。
おそらく、この感情は罪になる。間違っている、と人々は声高に非難するだろう。
けれど、それでも決めたのだ。ゼロは、自身で選び取った。彼を決して、手放さない、という事を。



僕は、彼を騙しています。
それでも、一緒にいたいと思う事は、罪でしょうか。
僕は、彼が僕を好いてくれているのだという事を知っています。そして今では、それが定められた事だから、決められた事だから、彼がそうであるのだという事も知っています。
彼は誇り高い人だから、自身が決めた事をとても尊重する人だから、これが操られた運命だという事を知ったら、きっと全てを捨て去ってしまう。
僕は、決して許されない。
そう知っていて、それでも僕は、彼と一緒にいたいのです。

これから、僕に残された時間、彼と共にいられる時間、僕はただ、祈るだろう。

どうか、最後まで、彼が気づかないように。


僕は、きっと、地獄に堕ちる。



END







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