天使再生 +++ 前編


恵まれた女よ、おめでとう
主があなたと共におられます

ルカによる福音書−第一章28



幸福とは、失った時に初めてわかるものだという。人は、現時点での自らの幸福を自覚できない生き物なのだ、と。
けれど、そんな事はない。
何故なら、今、僕は自分の幸福を知っている。
自分が恵まれた存在なのだという事を、何よりも深く理解している。
今でも、これは夢なのではないか、と思う。あまりにも過ぎた幸運故に。



最近、風に雪の匂いが混じるようになってきた。窓越しに見上げる空は薄ら白く、どんよりと重い。
ここは、今までアベルのいた場所よりも、冬の訪れが早い。それとも、今年はたまたま、早いのだろうか。
この街の冬は、長いだろうか。あまり、厳しくないといいのだけれど。
幾呼吸かの間、空を見上げる。きちんと閉められた窓から、凍るような冷気が忍び寄り、アベルの期待を言外に否定する。
アベルは、溜息混じりに窓辺を離れた。
どうやら、望みは叶えられそうにない。
この冬、寒さの苦手な彼が、少しでも過ごしやすくあるために、アベルにできるのは、暖炉の薪を多めに用意する事くらいのようだった。
それも、結局のところ、彼に頼まなければならなかったのだが。
日々、新鮮なものが必要となる食料と違って、燃料は、一定量をまとめて購入する事が可能だった。ものが多ければ、自宅への配送を頼む事もできたし、何より、その方が経済的だ。先日、彼から得たばかりの情報である。
配送は、商店に直接出向いて、頼むしかない。そして、商店は街まで降りていかなければ存在しない。そしてアベルは、「外に出てはいけない」と厳命されている。
結果として、こんな事まで彼がする事になる。ついでだ、と彼は言っていたけれど。
彼は、週の半分は街へと出かけていく。仕事がある日は勿論、それ以外の日も。訓練を怠る事が、文字通り、命に関わる、そんな仕事だったから。
現在、売り出し中の剣闘士。まだ、デビュー間もない新人だったが、既に人気と実力は折り紙付きらしい。
新たなる皇帝。誰よりも強い黒き羽。そう呼ばれて、賞賛されて、だけどそれは、彼の大変な努力と訓練との積み重ねの上に成り立っている事を、アベルは知っている。
暖炉の炎は赤々と照らし、朝の冷気に浸食された居間を暖める。火にかけたばかりのスープもほどなく煮込まれ、食欲をそそる香りを漂わせるだろう。
そろそろ、彼を起こさなければ。
ここ数日の日課を思い、その大変さを思うと共に、アベルは暖かな気持ちになる。
彼の眠る寝室に入れてもらえる事、入れてもいい、と思ってもらえた事が、何よりも嬉しい。
「…ゼロ様…」
扉の前から声を掛け、返事がない事を確認して、アベルはいつものように、そっと扉を開けた。扉は小さく軋んで開いて、それでも、彼は目を覚まさない。その事自体が、彼のアベルに対する信頼の証のように思える。
微妙に傾いだ扉は、開けたままにすると自然と閉まって、それが大きな音を立てる。だから、いつものように手で支えて、ゆっくりと閉める。ベッドまでの数歩の足取りは、深夜の猫のようだった。これから彼を起こすのだけれど、それでも、できるだけ足音を立てぬように。
彼は目を覚まさない。
アベルは、不思議なものを見るような思いで、枕辺に立つ。
とても用心深く、本人の自覚のないところでも常に神経を研ぎ澄ましているような彼が、無防備に眠る。
少し、ほんの少しだけ、自惚れてもいい。そんな気になる。
そっとベッド横に跪く。小さな息さえ感じ取れるほど、近く。
「ゼロ様…」
もう少しの間、彼が起きないでくれればいい、という仄かな思いを写し取った、囁くような声だった。
もう少しだけ、ここにこうしていたいと思う。あんまり、彼の穏やかな寝息のリズムが心地よくて。
アベルは、彼を見つめる。溢れる思いを噛み締めながら。
今でも、これは夢なのではないか、と思う。この世界に、この人が存在する事。この人と出会えた事。今、この人と共にいる事。この人が、アベルの前で眠る事。それを、己が静かに見守っている事。
全てが奇跡のようだった。
細く通った鼻筋。薄く形の良い唇。小さな顔を縁取る銀の髪。印象的な紅玉の瞳は薄い瞼に覆われて、彼は驚く程、端正に見える。
灰色に近い睫毛が濃い影を落とす、まるで精巧に作られた人形のよう。
本当に、彼は綺麗だ。
だけど。
「ゼロ様、起きて下さい。もう、時間です」
だけれど、そこに凛とした光を宿す瞳があった方が、もっと綺麗だ。彼を何よりも魅力的にしているのは、その生命力と意志の力、覇気というものだったから。
アベルの、今度ははっきりとした声が耳に届いたのか、彼は小さく呻いて、もそもそと動き出した。アベルは、何とはなしに、息を詰めて見守る。その前でもう一度呻き、やがて、彼は背を向けた。
「ゼロ様!」
より強い声に、更に布団に潜り込もうとする。
「……あと10分ー…」
「駄目です。遅れます」
「…………あと5分ー…」
「ちゃんと時間通りに起こすようにって言ったのは、ゼロ様じゃないですか」
早くから焚き始めた暖炉で、もう家の中は随分、暖まっている。起きる事も、そう苦痛ではない、と思う。
いつものように、うーうー唸ってベッドを転がり、アベルから遠離ろうとする彼を追うようにして、声を掛け続ける。寝起きの悪い彼だったけれど、彼の言うように、5分ほど経てば、完全に目を覚ます。まるで、先刻までの姿が嘘のように、すっきりとした様子で。
既に、その5分も織り込み済みで、彼を起こす時間を設定できる程、慣れた仕事のひとつとなった、朝の日課。
だが、今日はいつもと少し、違っていた。ベッドの端から彼の手が伸びたかと思うと、アベルの腕を捕らえ、強い力で引っ張った。
アベルは、状況も判らないまま、ベッドの上に転がり込む。殆ど、上掛けに突っ伏す形となったアベルは、慌てて起きあがろうとした。が、彼は手を離そうとしない。
「ゼロ様!」
答えはない。ただ、絡む手は、アベルの腕をよりしっかりと押さえつけた。
これは、初めての経験である。一体、どう反応すればいいのだろう。
アベルは困惑する。ただ、それは殆ど面に出ない。ほんの少し、背の羽が上下しただけだ。
たっぷり、5秒ほど沈思黙考し、そして、アベルは口を開いた。
「…僕には、ゼロ様を引っ張り起こすのは、無理です」
しばらくの沈黙があった。
と思うと、いきなり、彼が身を起こした。バネ仕掛けのような動きに伴って、強く腕を引かれたアベルは、不意をつかれて、また突っ伏す。上掛けの上から、彼の足にもたれかかったような状態のまま、慌てて顔だけ上げると、びっくり眼を見開いた彼の顔があった。
ベッドで半身を起こした彼と、前のめりに突っ伏した姿から身を起こし掛けたアベルと。
未だ、捕らえられた腕を挟んで、間近に見つめ合う。
まだ、半分寝惚けているのだろうか。彼は、どこか放心しているようで、それがひどく子供っぽくも見えた。
そろそろと体を起こす。アベルがのし掛かったままでは、彼が重いだろうから。
こんな時、反射的に、ごめんなさい、と口について出なくなったのは、進歩だろうか。彼が、何にでも謝るな、とアベルを厳しく咎めた時は、やっぱり謝ってしまったけれど。
アベルは、にっこりと微笑む。
「おはようございます」
「…………………ああ……」
呆然とした声で、だけれど、腕を捕らえた手の力は緩んだ。それをそっと引き抜いて、ベッドから降り立って。
「お湯も用意してありますから、顔を洗ってきて下さい。僕は、朝食の準備をしますから」
湯につけておいた皿に、既に出来上がった食事を盛りつけるだけだ。彼が台所へと降りてくる事には、ちょうど用意できるだろう。
「…アベル」
未だ、心ここにあらず、といった声だったけれど、彼の声が耳に届かないなんて事はあり得ない。汚れ物を拾い集めて、部屋から出ようとしていたアベルは振り向く。朝の光を遮断して、未だ薄暗く沈んだ部屋、先程と全く同じ、ベッドの上に半身を起こした姿勢のまま、彼は小さく呟いた。
「………………おはよう…」
アベルは、目を二度三度と瞬いた。
微妙に傾いだ扉が、自然と閉まっていこうとする。徐々に狭まる視界の中、彼が急に、今し方の自分の言葉に気づいたかのように真っ赤になって。
大きな音を立てて、扉が閉まった。



アベルがどんなに幸せか、彼は知っているだろうか。
流れる時間も、過ぎる季節も、アベルにとってはいつも同じだった。彼に出会うまでは。
いつ死んだとしても、構わない。そう思っていたのだ、彼に出会うまでは。
それが今、生きていると感じる。生きていてよかった、と思う。世界の全ては、美しいとすら思う。彼が今、ここに生きているから。


人には、幸せが解らない、なんて、そんな事はない。
何故なら、僕は知っている。
今、僕がこんなにも幸福なのだという事を。





それは、見知った顔だった。
ゼロと会う以前の記憶は、遠く薄らぎつつあるアベルの中で、その姿は既に印象も煙っていたが、それでもまだ、すっかり消え失せるには至っていなかった。
男が笑う。嘲笑の形に口角を吊り上げて。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」
滴る毒に満たされたそれは、呪詛の言葉に他ならなかった。









 ◆◆ INDEX〜PYTHAGORAS