黎明のレチタティーヴォ〜マルス


この世界の果ての果て
永遠の国は あるという
老いもなく 病もなく
貧困も争いも 存在しない
ならば 永遠の国のその果てには
一体 何があるというのだろう



それは、言葉というよりも、力に満ちた波動そのもののようであった。
老人の口から出されているとはとても思えない。人ならぬ何者かが、その口を借りてでもいるかのような。
先程まで、戦闘の熱気を余韻のように漂わせていたノルダの街を、今は全く別の物が支配していた。
勇気と好奇心と無鉄砲さに秀でた幾人かが、それでも恐る恐るといった風に遠巻きにしているが、大抵の街の住人は、家中に閉じ篭もっているようだ。
集まった戦士達の物々しい姿もさる事ながら、彼等の作る人垣の中心、街の中心に位置する広場に描かれた複雑な幾何学模様と、更にその中心に存在する暗い色の重々しい長衣を纏った老人。そして、彼から発せられる、大気を振るわせる振動は確かに、彼等のよく知っている世界からあまりにもかけ離れたものであったろう。
絶え間なく続く詠唱の中、老人は指先でまじないを切りつつ、懐から小さな瓶を取り出すと、目の前に蹲る子供のように小さなものへと、その中身を無造作に滴り落とした。
影のように彼から半歩下がった場所に立つ、これも同じような長衣のしかし細身な姿も、平伏した影も、身じろぎ一つしない。
三者を力場として、不思議な緊迫感がその空間を覆い尽くしていた。



「側近くに御寄りにならなくても、よろしいのですか?」
久方振りに聞くその声に、自然と口元が綻ぶ。彼は、周囲に彼等以外の人間の目が存在する時には、決してマルスに近付こうとしないのだ。それが、マルスの立場を護ろうとする心遣いだと、理解してはいるのだが。
「側に寄り過ぎると、細かい一部分しか見えなくなってしまうから。ここからの方が、全体が見えるだろう?」
魔法陣とそれを警護する為に取り囲む戦士達から目を離さぬまま、まるで独り言のように洩らした言葉は、しかし、確かに返答だった。
人の輪から少し離れた、広場の外れに近い場所で、マルスと彼は現在進行形で展開される儀式を見守っている。
魔道士の認証儀式など、滅多にお目のかかれるものではない。本来、カダインでしか行われないこの儀式を施行できるのも、現在ここに、学院長代理としての聖アカネイア王女…本来、学院長こそがアカネイア聖王代理として果たしている役割なのであり、これを更にニーナ王女が代理、というのも、本末転倒ではあるのだが…がいたからなのだという。
そして、導師としての賢者ウェンデルが儀式を執り行い、介添人として、魔道士マリクがそれに付き従っている。
ノルダの街で非合法の奴隷商人に捕らえられていた少女は、世に名高い三大魔道士の一人ミロアの娘であり、偉大な父親からその魔道書を譲り受けていた。が、正式な魔道士とならなければ、魔道書を扱う事は許されていない。それは、規約としての意味のみならず、実際、認証儀式を受けた魔道士と受けていない魔道士とでは、魔道の発動状況というものが格段の差となって現れる、らしい。
マルスにとって、魔道は全く未知の領域であり、当然、マリクに教わるまではそんな事もまるっきり知らなかったのであるが、少女が魔道士としての基礎は身に付けているという事、伝説級の魔道書を埋もれさせておくには忍びない事、そしてこれはマルスにとっても切実な問題として、軍内に魔道士がもう一人いれば、戦略的にも幅ができ、マリクの負担もかなり軽減できるという事。その他、諸々の事情により、今回のノルダ制圧後急遽の儀式施行の運びとなったのである。
「面白いね。あの魔法陣の部分からだけ、陽炎が揺らめき立っているよ」
「地熱が、大分高くなっているようですね」
「ノルダの街は、随分と長い間、奴隷市が立ってきた場所だから、大地に染み込んだ記憶が善いものも悪いものも凄く濃厚なんだって、そうマリクが言ってた。だから、それを一部昇華させて、場を浄化する踏み台にするって」
マルス自身、その言葉を全て理解できている訳ではなかったが、目の前の状況が何よりも如実に、理屈ではないものをマルスに教えてくれる。
『大地の濃厚な記憶』とは、どういうものか。それを『昇華させる』とは、どういう事なのか。
しかし、彼の意識はマルスと違って、魔道についてには全く向けられていなかった。軍の中で、魔道というものにここまで無関心なのは、ナバールと彼だけである。興味がそちらに向かない…ナバールのように…のか、それとも自身、魔法のような神秘的な雰囲気を纏った彼には、そんな事は驚くにも能わないような事なのだろうか。
「奴隷市」
噛み締めるように呟くと、彼は続けてこう言った。
「人間が人間を売る、というのは、少し驚きました」
まるで生真面目な生徒のように神妙な様子で語る彼に、マルスはつい苦笑を洩らす。そういえば、彼は人間ではなかったのだ、と忘れがちな事実に幾度も思い至る自分に対して。
「奴隷というのは、他者を商品として扱う、というのではなく、自分で自分を売るものだったんだっていうよ。本来は」
そこで、小さく肩を竦めた。『本来は』という注釈に、聖王国が滅んで以来、もしかすると以前からも、それが単なる建前になりつつあるという現状を、彼ならば当然、読み取った事だろう。
「諸々の事情で財産を無くしてしまった人が、最終手段として、自分を労働力として売るんだ。だから、負債を返せば当然、奴隷ではなくなるし、その期間中に幾らかの労働報酬も得られるし。…少ないけどね。そういった物を元手に、またやり直す事ができるんだって」
税免除の例外的な存在として、王宮時代に教師から得た机上の知識ではあったが、実際にそんな人々を目にすると、そんな言葉も妙に生々しく現実味を帯びてくる。
「だけど、子供を売るのは、固く禁じられている。例え、親であろうとも」
しかし、需要があるなら、それを供給するというのは、どんな商人でも同じ事だ。非合法である事は承知の上で、彼らが子供を欲しがるのは、価格ないし労働報酬にいわゆる適正値というものを反映させる必要がないから。つまり、使い捨てにできるからだった。
穴蔵のような場所に、押し込められた子供達。入り口を解放した途端、噎せ返るような臭気が鼻を刺した。何も現さない虚ろな目は、マルス達と奴隷商人の区別もついていないようだった。その虚無の淵にあるものは、ただ絶望だけ。
ノルダで子供を売っていたのは、聖王国が滅んでからの事か、それとも統治時代からであったのか。今となっては全く判らない事ではあるのだが、マルスが初めて眼前にした現実は、あまりにも衝撃的で、その心に重く深い痼りを残した。
「…人の欲には、限りがないね」
「欲望の強さは、そのまま生きる力そのものに繋がります。それも、人間という種の生命力の強さ故でありましょう」
その時初めて、マルスは声の主へと振り返った。常のように冷静で論理的な口調の中に、哀切以外の何かがほの見えたからであったのだが、背後のバヌトゥは、普段と全く変わらぬ端正な様子でそこに佇んでいた。
「……君達は…」
マルスの呟きに、バヌトゥは問うような視線を向ける。
「ううん、いいんだ。何でもない」
彼等の一族は、そのような強さを持ち合わせていなかったのだろうか。『生きる力そのもの』が希薄な彼等の一族は、一体、どうなってしまったのだろう。欲望というものがなく、恐らく、相争う事もない、物語の中の幻のような彼等の一族は。
一陣の風が吹いた。その中に含まれた、マルスには全く感じ取れない何者かの匂いでも嗅ぎ分けたかのように、バヌトゥは風を追って、中空に視線を泳がせた。
「あの山の向こう」
その視線を追って、マルスも又、遠く聳える山の方角へと目を転じる。
「人間以外の気配がありますね。どうやら、私の同胞がいるらしい」
山の向こう。そこには、パレスがある。
アカネイア・パレス。それは〈聖都〉とも呼ばれる、この大陸世界に冠する聖アカネイアの王都であり、巨大な王城を中心に、城壁を張り巡らせた内側に形成された、貴族達だけが住まう社交世界であり、そして、大陸全てを治める偉大なる聖王の御座ます城そのものをも指している。…正確には、指していた。聖王国が滅亡するまでは。
現在では、ドルーア連合軍が駐屯する基地にして、軍総司令部が置かれている、旧聖アカネイア領地区最大の心臓部だ。そこに彼の同族がいる、というのなら、捕囚であるなどという事はないだろう。
「…陛下の御心を踏みにじる愚か者が」
バヌトゥのこんなにも感情の露わな言葉を聞くのは、初めてだった。思わず、彼の顔を覗き込んだマルスだったが、途端に、バヌトゥは目深くフードを引き下ろすなり、極自然な仕草で彼の傍らから退いた。一見唐突な彼の行動が何を示すのか、マルスはよく知っている。視線を転じると、丁度マリクがやってくるところだった。
マルスに小さく会釈を残して、静かに歩み去るバヌトゥの後ろ姿に、マリクは全く関心を示さない。マリクがバヌトゥに気付かなかった訳はないし、マルスと何らかの会話を交わしていた事も知っている筈だが、マリクはその立場上、常にバヌトゥとの接触を極力避ける方向性を守っている。
実は、彼がバヌトゥの存在に強く興味を掻き立てられている、という事も、マルスはとうに気付いていたのだが。
「マリク、もう儀式は終わり?」
「いいえ。だけど、僕の仕事は終わりです。後は、聖王女殿下とウェンデル教授が仕上げを施せば、新たな魔道士の誕生ですよ」
認証儀式が終わったら、すぐさまパレスに向かって進軍を開始する事は、既に決定されている。
マリクは、バヌトゥとの会話については、何も訊かない。マルスも、何も言わない。それが、バヌトゥという存在を軍に内包する事への危惧を口にしつつも、マルスの決定を尊重してくれた彼とマルスとの間の暗黙の了解だったのだが、この時、マルスは無性にマリクの意見を訊きたい気持ちになっていた。
人間に対して抱かれた、彼の複雑な心情。
その欲の深さと生命力を羨んでさえいるらしいのは、彼個人だけだろうか。それとも、彼の一族の者は、皆そうなのだろうか。
欲望の希薄な彼が、たった一つ執着を見せる『陛下』とは、一体、どんな存在だったのだろうか。
同族の者と戦わざるを得ない現状を、彼はどのように思っているのだろう。
しかし、結局、マルスの胸中を渦巻いた疑問の数々が、口を突いて出る事はなかった。吹く風に相対するように、マルスは遠い山並みの方へと顔を向ける。
連なる山の端は、白く光を弾いて見えた。
聖都パレスは、もうすぐそこに存在している。



END


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