東雲のオブリガート〜ジョルジュ

神に選ばれたもうた 聖なる王
その御代は 永世に渡り続くだろう
その御位に 祝福を
神は 偉大なる王を その国を
愛し 常に守護るだろう

雨の日の空気は、身に付いた埃っぽさを洗い落としたように、湿やかな清浄感に満ち溢れている。それが、早朝ともなれば、尚のこと。
生まれたての朝の光に惹かれたのか、木々の狭間からは小鳥の妙なる歌声が、遠く近く響いていた。
「お取り次ぎを。どうか」
男は、先程から述べている言葉を再度、繰り返す。
殆ど昼夜逆転の貴族の生活時間を考慮した訪問どころか、一般的に見ても、人を訪ねるには些か早過ぎる時間帯であったが、彼には急ぐ理由があった。
「誠にあいすいませんが、主はただ今留守にしておりますので…」
対する女の返答もまた、判を押したように同じだ。
日が昇って未だ間もない早朝、昨夜から帰っていないというのである以外、彼女の主人が邸にいないなどという事は有り得ない。そして実際、ここ数日間、主人は何処にも出かけていない。
男がそれをよく知っているのだろう事を確信しつつも、女は慎ましく目を伏せ、目の前の客に対して、頭を下げる。それが、ここ数日間幾度となく繰り返してきた、彼女の主な仕事の一つでもあった。
しかし、その調子に機械的な惰性はなく、全くうんざりしたようでもなく、却って申し訳なさそうであり、かなり同情的ですらあったのは、男の誠実さの滲み出た一生懸命な物言いもさる事ながら、何より彼の外見によるところが大きかったのであろうが。
聖アカネイアの正統を示す金髪は少し茶色みがかっていたが、健康的に日に焼けた男の肌にはよく似合っている。あっさりとした色形の短衣は、豪華ではなかったが品は良く、鍛えられた体をよりすっきりと見せていたし、切れのいい瞳は少々甘さの残った彼の容姿に、きりりとした精悍さを与えていた。
女としては、好感を持つのに吝かでない人物であった訳だが、その好意の度合いを男に示すのには、些か時期が悪かった。
「…本当に、申し訳ございません」
言って、現在、唯一外と邸とを繋ぐ接点…小さく開けられていた表玄関脇の通用口の扉に手を掛ける。それで、当方の意思、というものは、取り敢えず通じる筈であった。
男は、そっとその濃紺の瞳を伏せた。そうすると、随分と子供っぽい表情が現れる。
「……ならば、仕方がない」
諦めてくれたか、と侍女のお仕着せを身に纏った女が、ほっと息をつきかけたのも、つかの間のこと。
「ジョルジュ!居留守使ってるのは、判ってるんだ!とっとと出てこい!!それとも、強引に踏み込まれたいか!!」
続いて響き渡った男の怒声は、女を体の芯まで射抜いて、その場に縫い付けた。
しんと静まり返った木々の間を、こだまのような余韻が染み渡る。周囲が先程までの落ち着きを取り戻した証拠として、再び小鳥の囀りが世界を彩るようになった頃。
「……何だ、アストリアか」
若い男の声が一つ、降ってきた。憤然と見上げると、頭上の小窓から、アストリア自身のものより、かなり白っぽい金髪が飛び出してみえる。
「お前、声が大きいぞ。少しは、近所迷惑ってものを考えろ」
誰のせいだ、と更に荒げかけた言葉を飲み込む。そもそも、パレス城壁内の一等地にあるまじき広大な庭の中に建つ屋敷で、『近所迷惑』などという言葉が成り立つのか、謎なところではあったが、ジョルジュの意見も一部では正しいのも又、事実であったので。
密かな深呼吸を数度繰り返すと、もう一度、通用口を叩く前に見た光景に間違いのない事を確認してみる。つまり、正面玄関は硬く閉ざされ、通りに面した側の窓も全て、分厚い緞帳がぴったりと降ろされているという、この邸の現状を。
「まぁ、取り敢えず上がってこい。だけど今、正面は使えないから、悪いが裏口の方へ回ってくれるか?」
それが、アストリアを軽んじているという訳ではない、という事を、勿論、彼は知っている。そのような意味合いでなく、正面口を使えない理由といったら、ただ一つ。
「お前、陛下に逆らったってのは、本当なのか!」
謹慎中である割には、肌の色つやもいい友人は、眼下のアストリアに向かって、彼に熱を上げている宮廷婦人達の誰も想像した事もないだろう、如何にも人の悪い顔で笑って見せた。
邸の中は、思ったより暗くなかった。あちらこちらに燭台が立てられていたし、そもそも内装も、白と金を基調とした瀟洒なものだったから、そう不思議でもなかったのだが。派手好み華やか好みのジョルジュにしては、随分と大人しい印象を与えはするが、アストリアの趣味に照らせば、今の方がより落ち着ける、とも表現できる。
侍女に邸内に入れてもらえさえすれば、勝手知ったる家である。友人の気に入りであり、いつも使われている、そして今現在も彼がいるであろう居間に向かって、ずんずん突き進む。
しかし、相変わらず豪華な邸だった。多数の一族、広大な領地を束ねる、遠く聖王家の血を持つ公爵で、王宮内でも要職を占める大貴族である彼の父親から譲り受けたものであるという話だったろうか。いや、王室から降嫁した母親からだったか?
彼の両親は、末息子の愛情を得る事を競い合っている節がある。
母親の美貌と父親の賢明さ、双方の美点をこれ以上ない程に色濃く受け継いだジョルジュが、彼等に特に可愛がられているのは理解できる。しかし、その溺愛振りを見る…感じるにつけ、アストリアは何だか空しいような気持ちになってくる。それはそのまま、ジョルジュが家族相手にさえも、猫を被り通している事を意味しているのだろうから。
アストリアは、居間へと続く重厚な扉に手を掛け、そのまま押し開いた。そこには、いつものように友人の見慣れた姿がある。聖アカネイアの純血を明かし立てる、白に近いような淡さの金髪。水色の瞳は、春の空の暖かさ、というよりもむしろ、切り裂くような冬の氷。
同じ金髪碧眼でどうしてこれ程までに違うのか、不思議なくらいに彼は、アストリアとは正反対の人間だった。外見も、趣向も、そして、中身も。
万事を優美にそつなくこなす、まさにその外見に相応しい、社交界の王子。
恋愛と結婚は無関係、というのは、貴族間の婚姻では常識であり、彼の両親の結婚も、いわば聖王家の分家としての血の保持にある事は明白である。そんな環境に生まれた彼は、まさに生え抜きの貴公子だった。王女の夫候補にも名を連ねる程の。
普通だったら、アストリア自身、あまり近付きたくないと思うであろう程の。
アストリアにとっては、社交場では必ず人の輪の中心に位置する人間など、最も縁のない存在である。それが現在、まさしくそのものである相手と無二の親友といっても過言ではない関係を構築しているのは、自分でも不思議な事実だった。更にはそんな彼が、社交界嫌いの変わり者として知られたアストリアを気に入ったというのもまた、謎である。彼は初めて会った時から、アストリアに対しては常に率直で正直で、ある意味では誠実だったのだから。
だからこそ、何の拘りもなく友人関係が築けたのであろうが。
「済まないな。あらかた侍女達にも暇を出してしまったもので、人手が足りないんだ」
言いながらジョルジュは、すっきりとした味わいで定評のある果実酒を棚から取り出し、それ自体美術品のようなゴブレットに手を伸ばしたところで、アストリアを振り向いた。アストリアは、軽く頭を横に振る。それを受けて、ゴブレットを一つ取り出すと、彼はどっかりとソファに腰を下ろした。アストリアもそれを追うように、彼の向かいに腰を下ろす。今更、儀礼を気にするような仲でもないので、座を勧められるのを待ちはしない。
「…で、何がどうなって、こうなったんだ?」
「『何が』って?」
「何で、陛下に逆らった?」
単刀直入に切り込んだが、しかし、ジョルジュはそれを鼻先で笑い飛ばした。
「『逆らった』などと、人聞きの悪い。ただ、ボア大司教を重用する事に対して、懸念を表明しただけだ」
「それがまずいって言うんだ、馬鹿野郎!」
アストリアは、更に言い募る。
「早く、謝ってしまえ。陛下は、お前に眼を掛けて下さってる。きっと許して下さるから」
「何を謝る必要がある。俺は、間違った事なんか、言ってないぞ」
目の前のジョルジュは、アストリアの叱責を気に掛ける様子もなかった。如何にも気のない素振りでゴブレットを弄んでいる。そして、アストリアの反駁を塞ぐように続けて言った。
「それに、まだ何の処分が下ったという訳でもない」
「……お前、謹慎処分中じゃあなかったのか?じゃあこれは、何だ?」
「まぁ、そのくらいは『しろ』と言われるだろうから、自発的に」
愁傷と言えば愁傷だが、嫌味と言えば、この上なく嫌味である。
「…というのは、表向き。親父殿からの使者がうるさいもんでね。謹慎中を理由にすれば、他のうっとおしい客の閉め出しもできるし」
「……それで、俺も閉め出してくれた訳か?」
「お前が客としてくるのが悪い。初めから名乗って、堂々と入ってくればよかったんだ」
ジョルジュは、事も無げに言ってのけた。小さなゴブレットに果実酒を縁ぎりぎりまで注ぐ事のみに、細心の注意を払いつつ。その一筋縄ではいかなさ加減が最も腹の立つ部分であり、確かに彼がアストリアの友人である、と実感させてくれる部分でもある。
種々諸々の感情が複雑怪奇に入り交じった深い溜息を一つついて、アストリアは己の髪の毛を些か乱暴に掻き乱した。
「公爵殿は使者を立てて、一体何を伝えに来たんだ」
「さぁ。一度も会っていないから。だけど、大体の予想は付くけどな」
それは、その通りである。現在のアストリアと同じ理由で訪れたのでなければ、一体何だというのだろう。アストリアは、もう一度深い溜息を吐く。今度は先程のものよりも重く苦しく、更に苦いものだった。
「お前が、聖教団にいい感情を持っていない事は、よく判っている。俺も、疑問に思わないところがない訳じゃあない。だけど、ボア大司教は、程なく緋色の法衣を纏われる、という噂もある。…もう口出しはしない方がいい」
彼は怒るだろう、とそう思っていた。そしてきっと、そんな忠告を持ってきたアストリアを軽侮するだろう、とも。しかし、アストリアの予想は、どちらも外れた。喉を打つ気配に、アストリアが目の前の友人へと視線を戻すと、背もたれに深々とその身を預けた彼は、堪え切れずといった様子で、小さな笑いを洩らしていた。
アストリアと真っ直ぐに視線を合わせ、唇の端に皮肉げな微笑を刻んだ彼は、アストリアには真似などできよう筈もない優雅さで、ゴブレットを空へと掲げて見せた。果実酒がその指先を濡らすような粗相など決して起こり得ないとすら思える、流れるような所作だった。
「枢機卿にね。聖王家を教団色に染め上げた報酬が、宗教界の王侯貴族の地位とは、神の御国とやらも、汚濁にまみれた我らが俗界と、そう大差ないらしい」
涜神の言葉を咎め立てる暇はなかった。一息に酒を飲み干した後、脇に無造作に投げ飛ばされたゴブレットが、床に転がる。残った滴が、高価な絨毯に血のような染みを残した。
「坊主に追従するなんて、俺はまっぴらだね。折角、家督を背負っている訳でもない、気楽な立場に生まれついたというのに、何をわざわざ」
決して、他者に腰を折らない。己が相手を認めぬ限りは。
あまりにも高い、高過ぎる矜持。
自分が聖アカネイア貴族そのものだという事に、彼は気付いているだろうか。
「ボア様は、悪い方ではないぞ。どころか、立派な方だ」
「ああ、ああ、陛下に次々と教会を建てるように示唆する、誠に御立派な方だよ」
「ジョルジュ!」
アストリアは声を荒げて、ジョルジュの言葉を遮った。そして強く睨み据えたが、対するジョルジュの一歩も引かぬ視線を受けると、やがて目を反らし、小さく俯いた。
「……俺は、お前をミロア殿の二の舞には、したくないんだ」
政教の分離を強く主張したが故に、王宮への伺候を差し止められ、事実上、中央から追放となった大魔道士。聖王に退けられる前は、宰相にさえ一目置かれたお目付役だったが、彼の務めていた『顧問官』という役職が、現在、ボア大司教のものとなっている、という事実が、聖王陛下の意思を如実に表していた。
「……判ってるよ。お前の言いたい事は」
しかし、彼が、どんなに人格者であろうと、それは全く関係ない。ただ、聖教団が〈聖アカネイア〉という枠組みに入らない存在である以上、教団に属する彼に政治的発言権を与えるのは、どう考えたって、誤りなのだ。危険に過ぎる。
宗教的人道主義よりも、国益が優先するのが、政治というもの。慈悲の心では、国は治められぬ。本質的に、政治倫理と宗教倫理とは、相容れないものであるのだから。
『悪魔の思想』と呼ばれ唾棄された、かつての重臣ミロアの意見は、正しく真理であった。
だが、それを周囲に、殊に聖王陛下に理解させるのは、甚だ骨の折れる作業になるだろう。あれも、良い人物ではあるのだが、その分、愚かだ。
聖王家に対する忠誠心と、聖王自身に対する敬愛とは、ジョルジュの中では、必ずしも一致していない。だからこそ、現在の聖アカネイアの基盤の脆弱さが、手に取るように感じられるのだ。恐らく、大魔道士ミロアも、今の彼と同じものを見ていたのだろう。
「大丈夫だ。俺は、ミロア殿と同じ轍を踏むつもりは毛頭ない。これでも、自分の身は可愛いからな」
実力才能よりも、血筋が勝る聖アカネイア貴族社会において、ジョルジュはかなり強い立場を持っている。当時の聖王顧問官ミロアよりも強い立場を。そして、この件については、聖王自身よりも、王太子から働き掛けていった方が、確実である、という事も知っている。
王太子は、打てば響くような反応の良さは持ってはいないが、充分に賢明な少年だ。その上、ジョルジュに懐いている。話せば、理解するだろう。
別段、急ぐつもりもない。王太子が聖王となるまでに、間に合いさえすればいい。
ジョルジュは、意識を目の前のアストリアに戻す。何の裏心もなく、ただ純粋に彼を心配してくれる、たった一人の友人へと。
彼の心配はとても嬉しかったのであるが、ジョルジュはそれを正直に伝えられる程、人間が素直にできてはいなかった。
「しかし、まさかお前が、こんなに常識的な事を言いに来るとはね」
わざと意地悪そうに言うと、彼は少し困ったような顔になる。
「…可笑しいか?」
「いや。ただ、驚いた」
納得のいかない物事を受け入れず、突っ走っていくのがアストリアで、それをこの聖アカネイア貴族社会から逸脱しないように引き留めるのがジョルジュというのが、いつもの彼等の役割分担。それを見越したジョルジュの意見に、アストリアは小さく笑って見せた。
「護るべき者が在れば、幾らでも変われるさ」
一瞬にして周囲の全てを凍てつかせた薄ら白い空気は、暫くの間、ジョルジュに呼吸すら許さない。
しかし、この程、ようやっと正式に婚約が調った男は、己の言動が周囲にどのような影響を与えたのか、全く気付いていなかった。口を半開きにして、余程の間抜け面をしていたのだろう。彼の胡乱げな表情にぶつかって、硬直からようやっと自由になったジョルジュは、鳥肌の浮いた腕を宥めるように擦り上げた。
「……本当に、こんな奴の何処がよかったのかねぇ、ミディア嬢は。聖騎士団の白百合が、もったいない」
王族女性の警護にもあたる、聖アカネイア騎士団ただ一人の女騎士は、騎士としての正装以外では、男装するという事もあまりないにも関わらず、不思議と男性的な雰囲気を漂わせた人物だった。華やかさはない。しかし、きりりと引き締まった骨太な気品、とでも称するような、他の宮廷婦人にはない、一種の潔さがある。なかなかの美女でもあったが、男性よりも、むしろ若い婦人達に人気がある、というのも、又頷けるところである。
そんな彼女とアストリアとは、幼い頃からの許婚者同士であったが、この二人の間には驚くべき事に、恋愛感情が存在しているらしいのだ。貴族の結婚は、家と家との結び付きである事実に照らせば、これがどんなに珍しい事か判ろうというものだったが、そんな家庭内恋愛というのも、この愛すべき朴念仁の友人には、似合っているのかも知れない。
だがしかし、ジョルジュのこの軽口は、会話を軽快に進める潤滑油とは成り得なかったらしい。何気ないこの言葉に、彼は不審に満ち満ちた眼差しでジョルジュを睨み上げてきた。
「………ジョルジュ。まさかお前、ミディアに」
本気である。ジョルジュは潔白を主張するように両手を肩口まで上げて、慌てて首を横に振った。
「よしてくれよ。幾らなんだって、親友の許婚者に言い寄る程、厚顔じゃないぞ、俺は」
流した浮き名は数知れず。恋愛遊戯のお相手には事欠かない、社交界きっての遊び人としては、少々信憑性に欠ける意見だ。実際に一度言い寄って、はっきりきっぱり袖にされたという過去を鑑みてみれば、特に。
本当なら、ここで笑い話として語ってしまえば良かったのだ。恋する男に、しかも友人に恋敵の疑念を抱かれる事ほど、割に合わないものはないのだから。ただ、ジョルジュにとっては些か不名誉な話だったし、その時も彼女とは言葉を交わしただけで、それ以上の事は全く何にも存在しなかったので、話す程の事ではないだろうと判断した。それだけだった。
そして、邪推に取り付かれた男に、その笑い話を白状させられる羽目に陥るような事にもならなかった。そんな時間は、彼等にはなかったのである。
仄かに明かりを透かすように作られた緞帳から、現実には起こり得ぬ程の白光が部屋へと叩きつけられる。ほぼ時を同じくして、耳を覆わんばかりの轟音と共に、大地を揺るがす衝撃が走り抜けた。
一瞬の静寂。誰かが、何かが鳴いているような、遠く遠い響き。
空気が啼いている。
そこには、何かただならぬ気配が充満していた。それが放心状態に陥り掛けたジョルジュを揺り動かした。最も光源に近いと思われる場所に降ろされた緞帳に飛びつくようにして、これを上げる。弾き飛ばす勢いで窓を開くと、肌を泡立たせる不快な気配は、更にその濃度を増した。
仰ぎ見る先には、一条の黒い煙が上がっている。
「……パレスが?」
何が起こっているのか、判った訳ではなかった。譫言めいた呟きが自身の耳に入って初めて、煙が王城の方角から上がっている、と気付いたくらいだった。しかし、これは虚脱し掛かっていたアストリアを一気に正気返らせた。
「パレスだって?!」
言うなり、ソファから跳ね起きる。
「ミディア!ミディアが、王城に伺候しているんだ!!」
アストリアは、振り返りもせずに部屋から飛び出した。普通ならば有り得ないような空白の短さで、彼が庭を走り抜けていく姿をジョルジュは目にする。正面玄関からだった。
謹慎中だから、玄関は閉ざしていると言ったのに、と、つらつらと考え掛けて、己がかなり混乱しているという事に思い至る。
正面口の方が、王城には近い。少しでも早く最愛の恋人の安否を確かめたい者ならば、正面玄関を使うのは、極々自然な行動であろう。
謹慎が何だというのだ。こんな大事に。
何が起こったのかは、全く判らない。しかし、何かが起こっているのだ、という事は、最早疑うべくもない、歴然とした事実だった。
ジョルジュは、改めて王城の方角を仰ぎ見た。
風はそよとも動かない。一条の黒い煙は真っ直ぐ、天へと昇っている。絶え間なく昇る煙が空を煤けさせ、闇色に染め上げていく。そんな錯覚。
この世界が崩壊する、そんな前触れのような、不吉な闇色の煙。
この胸を締め付けるものの正体は、何だろう。
窓を硬く閉ざし、再び緞帳をぴったりと降ろし直す。
アストリアは、真っ直ぐに王城へと向かった事だろう。が、恐らく中央地区は混乱状態だ。直接乗り込んでいっても、結局は何が起こったのかは、判るまい。ならば今、己にできる最良の事は、ここで出来る限りの情報を集める事だ。暫くして戻ってくるだろうアストリアに、現在の状況を上手く伝えられるように。
しかし、ジョルジュの予想は、半分しか当たらなかった。結局、詳しい状況は判らぬまま、夜が来て、また朝が来てもアストリアは帰ってはこなかった。
彼が600年の歴史を誇る祖国聖アカネイアの滅亡を知るまでには、まだ暫くの時を必要としていた。
END・
|