深淵のアリア〜リンダ


真実は 常に目の前に存在する
しかし 何故か常に目に映らない



薄暗い幕内は、ひどく静かだ。そこここに身を寄せ合って蹲った子供達は、ぴくりとも動かない。もう「助けてくれ」と哀願する者も、急に己を襲った暴虐な運命に怯え泣く者すらも、存在しなかった。そんな事など、何日も前から充分過ぎるほどに実行済みであり、その上、全ては徒労に終わる、という事も、既に身を以て知っていたからである。今はただ、諦めを湛えた空虚さだけが支配している空間で、むせ返るような臭気の中に、特有の腐臭が混ざっていない事だけが、その場の人間達の生を教えてくれる。
ぱらぱらと天幕を叩く不規則な音がした。それに反応するように、隅に積まれていたぼろ布が、もそもそと蠢いた。布の狭間から、筋張った細い手が現れる。目深く被っていたそれをほんの少しだけずらして、薄汚れた布に埋もれた子供は、そっと息をついた。空気中に含まれた冷気が幕内に差し込んで、周囲の臭気を少し払ってくれた。そして、それに代わるように、水の匂いを風は運ぶ。
雨が降ってきたのだ。
しかし、この天幕に押し込められた哀れな子供達に雨が恩恵を与えるのも、初めの内だけだ。その後、この湿った風は、彼等のなけなしの体温を奪い去る無慈悲な存在へと変貌する。
一人離れて蹲っていた子供は、ぼろ布を更に硬くその身に纏いつけた。もう何日もろくに食べ物を口にしていない体はふらふらで、普通ならば何程の事もない雨風でも、今の己には致命的である事を、子供はよく理解していた。垢染みた顔はげっそりとやつれていたし、布から覗く鳶色の髪も縺れきって、子供の姿は、まるっきりの浮浪児であったが、ぎょろりとした眼はそれでも、理知的な光を放っていたし、少なくとも未だ、自らの命を守ろうとする冷静さを失ってはいなかった。
子供は、体に楽な姿勢をとって、再び蹲った。少しでも、体力を温存する為に。そうして俯く横顔に、驚く程に端正な、少女めいた容貌が浮かび上がる。それを隠すように、子供は目深に布を被り直して、そっと目を閉じた。
あれは、もう何年前の事になるのだろう。
突如現れた訪問者。父親の湛えた、不思議に透明な微笑。そして、雷。周囲の闇を切り裂く、素晴らしく巨大で、この上なく美しかったその稲妻。
雨が降っていた。あの時も。



篠突く雨が、世界を閉ざす。闇が隔てた向こう側には、何も存在していないかのような錯覚に囚われる、それは奇妙に静かな夜だった。如何に外れとはいえ、隣の家が目に映らぬ程に、村から遠い訳ではないのに。
リンダは、開け放たれた木窓から、四角く切り取られた黒い世界を眺めやった。家の中は煌々と明かりが照らされていて、彼女達のささやかな城を暖かく彩っている。昔のように豪華な館ではなかったが、素朴な風合いの家具を、村の親切なおかみさんに習ったように、木綿の布の端切れで飾っていくのはとても愉しかったし、何よりも二人だけで住むものとしては、現在の家で充分であると思う。
そう。二人で住んでいるのだ。今では父は、仕事で何日も家に帰らないという事はない。
現在、父は、村の子供達に読み書きを教えている。稀に、病人が出たりすると、医師として村へと出かけていき、子供達の授業は、臨時にリンダが受け持つ。子供達もやはり、多少は父が恐いのか、リンダが教師を務める時は、何だか嬉しそうであるし、リンダも、たまの先生役を楽しむ。父は、仕事の話をリンダにしてくれるような事はなかったから、どういう経緯でもって、今までの職を辞する事になったのか、よく知らなかったが、リンダは現在の生活に至極満足していた。
家事だって、嫌いではない。縫い物や掃除も、我ながら上手にこなせるようになったと思う。後は、もう少し料理の腕が上がれば、言うこと無しなのだが、やはり人には向き不向き、というものもあるのだろう。しかし、できるなら、ここにいられる間に、せめておかみさんの眉の縦皺が緩むくらいの物が作れるようになりたいものだった。無言で全て平らげてくれる父の為にも。
雨が、横なぐりに変わってきていた。部屋の中に降り込むそれを避ける為、木窓を閉じようと窓辺へと歩み寄る。その時、リンダは見たのだった。
闇夜の中から、今その場で分離したかのように、それは忽然と現れた。その証拠に、全く雨に濡れそぼった様子もない。雨自身も、その存在に対して、自分が影響を及ぼす事ができるなどとは、夢にも思っていないのではないだろうか。そんな印象すら抱かせる、幻影のようなそれは、まるで闇そのものが凝って、人の形を取ったかのようだった。
呆然と見つめるリンダに向かって彼は、その姿に如何にも相応しく、滑るような足運びで近づいてくる。
黒い長衣が静かに揺れた。それが、魔道士固有のものである、と目の前に来るまで気付かなかったのは、何故だろう。
「ミロアは、こちらに居るのかな?」
白々とした薄い唇から零れた声は、意外にも涼やかだった。彼の言葉は何処までも静かで、目深く被ったフードの奥にある白い面は皺深い老人の物だったが、その眼光は鋭く力に満ちている。
リンダとて、過去の父の仕事の関係上、同年代の他の子供に比べれば、破格といってもいいくらい、多くの高位の貴族、政府高官ら、国政に携わる人々を間近にする機会を持っていた。王女殿下の遊び相手として、聖王宮に行った事もあるし、その折りに聖王陛下にすら拝謁した事がある。にも関わらず、現在、目の前の老人のような存在など、今まで垣間見た事すらなかったのだ。
これ程までに、純粋で鮮烈な気を発する人間など、存在するのか。本当に人間なのか。人の形を取った神、もしくは妖魔である、と言われたら、それでこそ、と納得してしまった事だろう。
思考の一部分が不可思議に冷静なのに反して、リンダの体は少しも思うように動かない。老人の眼差しに射竦められた彼女の胸奥では、言葉という言葉が全て凍り付いてしまったかのようだった。
しかし、対する老人は、他者を圧するその強烈な存在感に対する自覚が全くないらしい。返答のない事に訝るような視線を向ける。それでも、必死の思いでリンダが口を開いたその時だった。背後の扉が荒々しく押し開かれたのは。
リンダの背後を仰ぎ見た老人は、一点に視線を据えると、思わず、といった様子で薄く微笑を浮かべた。そうすると、眼前の怜悧な老人は驚く程に柔和そうに見えた。懐かしげな優しい笑みの先には、リンダ以外のこの家の住人がいるはずだ。
先程まで自室で本を繰っていた父が、突如出現した強大な気を読み取って、駆けつけてきたのだろう。背後の父が、どんな表情をしているのかは判らない。それに、小さく息を飲むような気配はあったが、結局、何の言葉も発しなかったと思う。だから、リンダには目の前の老人と父がどのような間柄なのか、全く読み取れなかったのだけれど、薄暗い影の中、老人は、少し寂しそうな顔をしたように見えた。
「私が判らないか?…そうだな。それも、仕方がないかも知れない。私は随分、変わってしまっただろうから」
背後から届く、啜り泣きのような、か細い息遣い。
「………私が、貴方を見誤るなど、本当にあるとお思いか?」
父は実際、泣いていたのかも知れない。
「ならば貴方は、御自身の魔道気と私の力量と、双方共に過小評価していらっしゃるのだ」
ふと、虚を付かれたように目を見開いた老人は、次の瞬間、心底嬉しそうに破顔した。
「その物言い。お前は、全く変わらないな」
リンダの脇で風が動いた。窓辺に佇む老人に向かって。窓から身を乗り出した父は、目の前の老人に縋るように、硬く抱きついていた。窓を挟んで、比較的大柄な父に覆い被されたような形になった老人は、困ったような、宥めるような様子で父の肩口辺りを軽く叩く。リンダには、いつも物事に動じない父のそんな行動もさる事ながら、そうしていると、老人がその存在感に反して、ひどく小柄なのだ、と実感される事もまた、大きな驚きだった。
しばらく父に、無言で抗議の意を訴えていた彼も、その内、諦めたように体の力を抜いたようだった。
「…久しいな、ミロア。元気そうではないか」
対する父の、迷子の子供のような頼りなげな呟きは、それでも辛うじてリンダの耳に届いていた。
「ガーネフ殿…」



リンダの父親は、リンダに自身の過去を語ろうとはしない人物だったが、それでも、彼の口から〈ガーネフ〉の名を聞いた事は、幾度かあった。しかし、それをここで名を耳にするとは、驚きだった。リンダは、老人を〈ガトー〉だと半ば信じていたのである。
魔道というものを初めて体系づけた、伝説の大賢者。彼の功績によって、妖術は魔道学となり、彼等は魔物憑きから、魔道士になった。
実際、魔法都市カダインの前身となる魔法学院の創始者である彼は、現実問題として、かなりの高齢であろうし、その姿を人目に晒す事のない大賢者が、本当に今も生きているのかどうかさえ、怪しいものなのであるが、魔道を学ぶ者達の〈ガトー〉信仰は、小揺るぎもしない。
現在のカダインは、同名の学院の為のみに存在する都市といって、過言ではない。つまり、魔法都市は、魔法学院都市とでも称するのが正しく、そして、魔法学院の創始者は、魔法都市の王であると同時に、魔道士達の神ですらある存在だった。
それならば、判る。あのあまりにも強大な力も、異質なまでに圧倒的なカリスマ性も。
だがしかし、そのように己を納得させかけていたというのに、老人は〈ガトー〉ではないのだという。これ程の魔道気を放つ存在ですら、大賢者の弟子に過ぎない、というのは、かなりのところ、リンダには衝撃的な事実だったのだ。
リンダは、木戸を軽く叩くと、応接間へと足を踏み入れた。返事を待っても無駄である、という事は、常日頃の経験から学習済みである。慎ましく目を伏せつつも、不意の来客に対するお茶を多少危なっかしい手つきで運ぶ間、どうしても抑えきれない好奇心が、父と老人…大賢者の弟子〈ガーネフ〉…の動向に過剰な意識を向けさせた。
「酒にしてくれんか、リンダ」
「いや、これでいいよ。暖かな物を口にしたいのでな」
ガーネフは、目の前に置かれた碗にすぐに手を伸ばした。両の手でそれを包み込む仕草は、暖をとる様そのもので、先程、雨に濡れていない、と見えたのだが、それは、寒さを感じない、という事にはならないものであるらしかった。
「しかし、お前がこのような所に居るとは思わなかった。少々、捜し出すのに手間取ってしまったよ」
「『手間取る』などと。御予定より、何分程余計に掛かったというのです?」
軽く睨みながらのミロアの言を、小さな微笑で受け流す。彼の前では、厳格な父がまるで子供のように見える。
「それに、どのような所に居るものと思っていたのですか?」
「聖アカネイアに居るだろうとは、思っていたよ。実状はどうあれ、現在、この国が大陸世界の盟主であるのは間違いないからな。ただ、お前は王室に程近い重臣になっているか、革命家にでもなって、地下に潜伏しているかのどちらかだと思っていた」
それは、〈大賢者の弟子〉たる所以を示すような、如何にも論理的で明哲な言葉であった。
確かに、国を、大陸世界をよりよく保ちたい、という理想を持つ者ならば、世界の中枢に位置する国の、更に中枢に入り込むか、既存の政治形態の破壊に走るか、どちらかであっただろう。実際、父はこの小さな村に居を構えるまでは、国王の顧問官兼王太子殿下の教育係という、それこそ老人の言葉通りの「王室に程近い重臣」であったのだ。
しかし、考え深く、冷静沈着な父は、一見現実主義に見えはするけれど、その実、はっきりと理想家である事を知る者は、極少数だった。父は、自分から他者と交わろうとする人ではなかったのだから。
それは、取りも直さず、大賢者の弟子と父とは、ひどく近しい間柄である、という事だ。それも、父の人となりを正しく理解する程の。
この一点だけを取っても、リンダが老人に好感を持つには充分だった。
その時、手の中の茶をそっと一口啜ったガーネフは、卓の横で何となく立ち去り難そうにしながら、二人に会話に耳をそばだてていた少女に、初めて気が付いたかのような視線を向けた。
「これは、お前の弟子か?」
「いえ、リンダは私の娘です。魔道の真似事のようなものは、手ほどきしましたが、弟子などと呼べるような代物では…」
この父の言い様には、少しむっとした。リンダにだって、自尊心というものはあるのだ。
「だけど私、もう少ししたら、カダインへ勉強に行くんです。そうしたらすぐに、一人前の魔道士になります」
渋る父を説き伏せて、ようやっと許しをもらったカダイン行だった。一人前の魔道士になるまで、帰るつもりはないが、いつまでも父を一人にしては置かれない。自分では、お茶の一つもろくに入れられない人なのだ。おかみさんに身の回りの世話を頼んだとはいえ、限度があるし、何よりも、家の中にたった一人、という状況は、あまりにも寂しい。
結果として、誰よりも何よりも早く魔道士になる、というのが、リンダの己に課した第一の責務であった。
「これは、頼もしい」
ガーネフの笑いに、からかいや軽侮の色はなかった。如何にも微笑ましい、といった様子だったのであるが、目の前の老人が、大賢者の弟子となる程に偉大な魔道士である事に思い当たったリンダは、身の程知らずの大言壮語を吐くひよっこのような自身の言動…事実、その通りだったのだが…を省みて、却って気恥ずかしい思いを味わった。
「初対面にも関わらずの御無礼、大変失礼致しました。…魔道士ミロアが娘、リンダと申します。初めまして、導師様。お噂はかねがね」
足りない裾を軽やかに摘んだ、それなりに優雅なリンダの礼を面白そうに見遣ったガーネフは、しかし、静かに言の葉を紡いだ。
「私は、導師などではないよ。弟子もいない。ただの、ものぐさな魔道士に過ぎん」
謙遜のようではなかった。ガーネフが、本心からそのように思っているという事も、リンダにははっきりと感じ取れた。
「弟子は、お取りにならないのですか?」
高位の魔道士にとって、己の得た知識を後世の者達に伝え残す事は、半ば義務に近い仕事の一つなのだと、そのように教えられたのに。
「そうさな…」
疑問の思いを露わにしたリンダに顔を向け、ガーネフは小さく口の端を持ち上げた。
「そなたが『魔道士になりたい』という希望を持っているのならば、弟子にするも吝かではないぞ」
瞬間、リンダの思考が止まった。
「ガーネフ殿、おからかいになっては困ります」
ミロアが、苦笑混じりに口を挟んだ。
ああ、そうか。そうよね、冗談よね。
リンダの中で凍り付いていた時間が、ゆっくりと動き出す。と同時に、一気に冷や汗が湧いて出た。彼の弟子になりたい、と切望して果たされなかった優秀な魔道士達が、恐らく、たくさん…魔道士という存在自体、そんなに多く在る訳ではなかったが…あっただろうに、そんな中で己が、大魔道士の弟子に、だなんて、考えただけで身震いがしそうだった。
助け船を出してくれた父に感謝しつつ、ほっと息をつくリンダの耳に飛び込んできた続く言葉は、しかし、更に彼女を困却の渦に叩き込んだ。
「何が『からかい』だ。お前の娘ならば、我が娘も同然ではないか。お前の他には身よりらしい者もない哀れな兄弟子を、少しくらい気遣ったとて、罰は当たらんだろうに」
「娘の先行きを案じるならば、敢えて厳しく当たるが正道というものでしょう。甘やかして、どうなさいます」
真っ白になっていたリンダの耳には、対するミロアの切り返しは殆ど入っていなかった。
兄弟子?兄弟子って、兄弟子って、何だろう?父様と〈ガーネフ〉が、兄弟弟子?
兄弟弟子とは、同じ師を持つ者同士である、という事だ。そして、〈ガーネフ〉は伝説の大賢者〈ガトー〉の弟子だ。ならば、父ミロアの師というのは?
リンダは、頭痛を感じ始めていた。今夜は、あまりにも色んな事があり過ぎた。得た情報を整理し、考え、理解しなければならない事は、あまりにもたくさんあって、どうにもリンダの許容量には追いつかない。なので、リンダは全ては明日の朝、考える事にした。明日ならば、己の混乱も少しは収まっているだろうし、最終的に父にぶつける疑問の数々も、筋道立てて考える事ができるだろうから。
場を下がる時の挨拶に、どんな言葉を選んだのか、よく覚えてはいない。ただ、己を暖かく包み込んでくれるベッドに潜り込む事だけを切望していた。それでも今夜は、この混乱は到底、去ってくれそうもないのだけれど。
リンダは全く気付いていなかった。
惑乱の夜は、未だ始まったばかりなのだ、という事に。



「あの娘は、幾つになる?」
「もう12になりましたか…。カダインで学んでも、ものになるか判りません。歳がかち過ぎていますから」
魔道士、白魔法士を問わず、魔法使いと呼ばれる存在になるには、基本的にカダインでのみ行われる特殊な教育を必要とする。それは、既成の概念に囚われない幼児の内に施した方がより、魔道気の顕現を容易にする、というのは、魔法に携わる者の間では常識であり、これである程度、将来的な魔法使いとしての格が決まってしまう事もまた、周知の事実であった。高位の魔法使いほど、魔法都市の外を知らぬ、という図式が、成り立ってしまう程に。
「だがお前は、あの娘に必要な事は仕込んであるのだろう?それこそ、物の判らぬ赤子の頃から」
「呼吸法や基本理論といった、極々初歩的な事ばかりですよ。魔道士にならずとも、役立つ事もあろうという程度の」
その力量にも関わらず、前述の図式の当て嵌まらない二人の魔道士の会話は、淡々としたものだった。反対に彼等は、魔法都市を殆ど知らない。師である賢者の座する古代遺跡で共に暮らし、魔道を学んだ彼等は、殆ど魔道士としての正式な認定を得る為だけに、カダインの学院へと入学したに過ぎなかった。
「お前は余程、娘を魔道士にはしたくないと見える」
苦笑混じりのガーネフに、ミロアは憮然とした様子を隠そうともしなかった。
「当然でしょう。あれは、底のない淵へと沈むようなものです。娘が、そのような業の深い存在になる事を望む親など、おりませんよ」
「己の得たものを、継承させたいとは、思わぬ、と?」
「ガーネフ殿なら、どうなのです?」
畳み掛けるように返したミロアに、ガーネフはふと口を噤んだ。ほんの一瞬の間ではあったが、それは重く深いものを宿した沈黙だった。
ミロアの兄弟子にして、大賢者ガトーの一番弟子。溢れんばかりのその才は、〈神祖〉とすら称される師をも虜にした。過去、彼以上の魔道士はなく、また、これからも彼を超える者はないだろう、不世出の大魔道者。
ミロアよりも遙かに深く、多くのものを得ている彼にこそ、継ぐべき者が必要であろうに。
「…さて、な」
しかし、ガーネフのいらえは、それだけだった。彼はその手に包み込んでいた碗を静かに卓へと戻すと、ふわりと立ち上がり、火の煌々と燃える暖炉へ相対する形で、ミロアへと背を向けた。
碗の中の茶は、すっかり冷え切っていた。先程、注ぎ足したばかりとは、到底思えぬ程に。そして、ミロアは思い起こす。この手に、腕に感じた、骨張った彼の体は、その長衣の上からさえ明らかなくらいに、まるで氷の如くに硬く、冷ややかだった事を。
「…ガーネフ殿。何か、おありになったのですか」
リンダの歳より長い間、会う事もなかった兄弟子は、ひどく変わってしまっていた。内側が、ではない。中身は変わらぬばかりか、最後に会った頃より更に強大になった、大魔道士のガーネフだ。本質が変わらぬ以上、魔道士としての観相でいうならば、それは大した意味を持っていない。だからこそ、今までミロアも気に止めていなかったのだが、体質の変化まで招いているとなると話は別だ。それに、一般的な目で見るならば、確かに彼は変わり過ぎていた。
「久方振りに、弟弟子に会いたくなっては、おかしいか?」
「そのような事を言っている訳ではありません。お解りでしょう」
ミロアとそう年齢も変わらぬ筈の彼は、ひどくやつれ、彼等の師と並べてさえ遜色ないほどに年老いて見えた。暖炉の炎に照らされてなお、白々とした顔は、それこそ師と似通ってすら見える、透くような肌の質感だった。
背を向けたまま、ガーネフは動かない。ミロアも何も、言わなかった。答えを強要するつもりはなかったが、心配しているのだ、という事だけは、判ってほしかった。そんな心中が通じたのか、しばらく続いた沈黙の後、何の感情も差し挟まない声音で、ぽつりとガーネフは呟いた。しかし、その言葉をミロアは、すぐには理解する事ができなかった。
「…私は、禁呪を手に入れたのだ…」
「……禁呪?」
鸚鵡返しの呟きは、その調子さえもそっくり真似たように、単調で無感動だった。
「…よもや、ガトー様が神珠を媒体に創られた…」
「暗黒の神珠が孕んだ、外法呪」
その時、確かに時は自ら流れるを止めた。
彼等の師が手ずから創り出した呪法は、幾つか存在する。ミロア自身も、師より直接託された呪法を持っていた。しかし、これはあくまでも光の神珠の孫石…後天的にその属性を与えた貴石…から生まれたものであり、その神珠そのものから生み出されたものとの間には、大きな隔たりがある事もまた、事実だった。
しかも、五つの神珠の中でも、暗黒は最も御し難い。心に一片の闇も抱えていない人間など存在せず、そして、暗黒の神珠は全ての闇を育み、増幅させるものだった。当然、それを素に生み出された呪法もまた。
「………何故?」
人間の手に負えるものではない、と、そう、師は言っていたではないか。
胸内から絞り出す、ミロアの声なき慟哭にも、彼はやはり無感情だった。眉一つ動かさぬままに、唇の端だけを吊り上げてみせる。
「私は、指し示された道を歩む事しかできない。…お前には、決して判るまいな。生きる為の望みも理想も可能性も持ち合わせている、日の光の下を歩むべく生まれついたお前には」
冷笑にしか映らぬそれが、自嘲と悲哀を帯びていると見えたのは、錯覚だろうか。そして、確かに洩れ映る、己もよく見知った感情の色。それは、羨望ではなかったか。
しかし、更なる疑問に、回答が得られる事はなかった。爆発的に膨れ上がったガーネフの意志力に呼応して、気が震える。一拍の間をおいて、大気は歓喜の叫びを上げた。突如湧き起こった強風に、暖炉の炎が千々に乱れ飛ぶ。ガーネフを核として室内を荒れ狂う風に、防御壁を張る時機を逸したミロアは、数歩よろめいた。
「だが、もうそれもどうでもいい。既に道が定められているのなら、それをとことん猛進する、というのも又、一興というものであろうよ」
裾一つなびかせる事もない彼は、全く別の世界に存在する者のようにそこに在った。慈愛さえも含ませた微笑を浮かべて。



闇をつんざく破壊音に、リンダはすぐさま跳ね起きた。勿論、眠ってなどいなかった。しかし、それでもベッドからすべり降りる時、多少、足下が不安定だったから、自身の感覚に反して、多少うとうととしていたのかもしれない。
廊下に出る。しかし、後に続く音はなく、廊下は常の夜の如く、冷ややかに静まり返っている。リンダは寝間着のまま、先程音の聞こえた方…客間の方へと、そっと足を踏み出した。
父と客人は、未だ客間にいるのだろうか。そう。それは、いるのだろう。音が聞こえたのだから。古い知り合いのようだったから、色んな事を踏み込んで話すうちに、意見が対立して、喧嘩にでもなったのかも知れない。今まで見た事なんてないけど、魔道士同士の喧嘩は、きっととても派手で、それでこんな大きな音を立てたのだ。多分今頃は、二人とも仲直りをして、だから、もう何の音もしなくて、こんな格好で客人の前に出たら、それこそ失礼で…。
己を安心させる理屈をひたすら並べ立てる一方でも、胸を締め付けるような圧迫感は去らない。不安と焦燥に背を押されるように、最後は早足で客間の前まで辿り着いたリンダは、意を決して、その扉を押し開いた。
目の前には、外の夜闇が拡がっていた。リンダは、不思議そうに眼を瞬く。リンダが自室へと辞する前までは確かにあった、外と室内を隔てる壁がすっかりなくなってしまっていた。
「………父様?」
父は、そこにいた。部屋の中は、まるで台風でも通り過ぎたみたいに滅茶苦茶だったが、怪我をしている様子もない。しかし、新たに開けられた大窓に向かって、呆然と佇む背中に、恐る恐る掛けたリンダの声が耳に入った様子もなかった。リンダは、室内へと注意深く足を踏み入れた。闇に沈む虚空に向かって、何事か呟いているらしい父の元へと向かう。父の無事な姿を見れば、きっと安心できると思ったのに、焦燥感は増すばかりだった。
「……私の事が、羨ましかった?あの方が?」
闇に消える前にリンダの耳が捉えた呟きは、ほんの微かなもの。
「……私の方こそが、そうであったのに」
決して追いつけない兄弟子に対する憧憬と、親愛と、心の奥深くに確かに存在した、嫉妬。そんな己の狭量さを恥じ、どす黒い心を厭い、そんな辛苦を舐めさせる彼を恨み、そしてまた、己を憎む。常にそんな繰り返し。
だけどそれでも、確かに彼を敬愛していた。いつだって。
胸奥に渦巻くミロアの嘆きがすっかり理解できる程、リンダは大人ではなかった。それでも、気を通して伝わる彼の絶望は、彼女の焦燥感を恐怖心へとすり替えていた。
「父様、父様、父様、父様!」
ふと消え入ってしまいそうな父の背中に、彼女は思い切りしがみついた。このままでは、父の魂は連れ去られてしまう。何とかして、呼び戻さなければ。
そして、父を引き留める呪文をリンダは、それしか知らなかった。だから、ただただ父を呼び続けた。
どれ程の時間が経っただろう。永劫にも近い、多分、ほんの数分間。リンダの言葉がようやっと耳に届いたのか、それとも、力の限りに抱きつく腕が痛かったのか、今まで微動だにしなかったミロアの体から、静かに力が抜けていった。それを感じて、やっとリンダも父の胴に回した腕をそっと解いた。
雨は未だ止んでいない。冷たい風が、肌を刺した。壁のない部屋に、横殴りの雨が降り込んでいる事にも、ようやっとリンダは気が付いた。
「…あの方は、往ってしまわれたよ」
『あの方』というのが誰なのか、問うまでもなかったし、それはリンダも気付いていた。父の言う『あの方』は既に、まるで何処まで汚せるかに挑戦したかのような部屋の何処にも、存在しなかった。
「あの方は、一度決めた事は、決して翻したりしない。…そういう方なのだ。強情で、純粋で、そして何より潔い…」
虚空を見上げたまま、父は微笑う。しかし、その時の父の笑みの方が余程純粋だと、リンダは思い、そして、新たな恐怖に駆られた。狂気の中からしか生まれないようなその微笑に。
「……父様」
だらりと垂れた腕に取り縋る少女の手を優しく引き離して、ミロアはリンダに向き直った。
「お前は、ここに居てはいけない」
純粋で透明な、綺麗すぎる微笑。ただそれだけで、全ての疑問を正す口を噤ませるには、充分だった。
「お前は、…そう、カダインへ行きなさい。学院長への推薦状は書いておく。だから、急いで支度をしなさい。簡単にでいい。できるだけ、早く」
学院長への推薦状。リンダの『魔道士になりたい』という希望を喜ばず、カダイン行という望みも、ただ黙認しただけに過ぎなかった父が。
「これを預けておく。持って行きなさい。決して、無くしたりしないように」
そう言ってミロアは、一冊の小振りな魔道書を差し出す。輝耀の呪法を封じたそれは、父ミロアにとっては命にも等しい物なのだという事を、リンダはよく知っていた。
「………父様は?」
ようやっと口に上った問いに、ミロアは当然の事のように首を横に振る。
「私は、あの方を止めなくてはならない。それが、私の義務なのだろう」
『あの方は、一度決めた事は、決して翻したりしない』
そう言ったのは、父なのに。
「……何も心配はいらない。あの方と話をしに行くだけだ。全て終わったら、すぐに迎えに行くから」
嘘つき。



その後の記憶は、酷く曖昧だった。手の中には、小さな荷物。それとは別に懐には、父から預かった、かなりの額になるお金と、カダインの魔道学院への入学推薦状、そして一冊の魔道書がある。油を染み込ませたマントのフードを目深く降ろしていても、雨は顔に撥ね掛かったし、マントは水を吸って、重く冷たかった。空はもう白々と夜が明け初めていたのだが、鬱蒼と木の生い茂った間を縫うように続く山道は薄暗く、水を吸った足下は不安定で滑りやすい。いつもならば、かなりの恐怖心を伴うものだったが、今は何も感じなかった。歯の根は、かたかたと鳴ったが、それは寒さの為だろう。心は無感覚になっていても、体というものは、早々そのようには、なれないらしい。
山を越えて港へ行けば、客を乗せて定期的に航行する船がある。取り敢えず、最も本数の多いグラ〜アリティア行に乗れれば、カダインまではそう遠くない。
何も感じず、考えず、ただ父の言いつけ通りに行動するリンダの心は、凍り付いたままだ。ただ、泥に足を取られぬように歩を進めていたその足がその時、ふと止まったのも、やはり無意識の内だった。その時は気付かなかったが、大きな気の流れを感じたからだった。
天と大地とを結びつける、光の奔流。
それは、巨大な雷だった。大気を切り裂き、土気を鳴動させる、強大で、芸術的なまでに美しい。「魔道の創り出す雷が、自然を上回る事はない。それ程までに、自然は偉大だ。あれは神の御技なのだから」と、今となっては遙か昔に思える過去、そう言った父の言葉が、ふと蘇る。
今、神の御技を超えた魔道の雷が、聖都パレスに落ちた。
目の前の景色が、溶けて滲む。頬を伝う雨粒が、やけに暖かかった。



END







 ◆→ FORWARD〜PASCAL 9-2
 ◆◆ INDEX〜PASCAL