月だけが知る風の行方〜ミネルバ

冥界の門
魔術師と魔女と妖魔とを 支配する者
雲間を飾る 光の鎖
幾多の顔を持つ 冷たく冴えた 夜の女王

人によって、女性の好みは多々あれど、マケドニアの一の姫の美貌を認めない者は、一人もいないに違いない。事実、〈鬼姫〉の持つ数々の悪評は、他国の宮廷にさえ鳴り響いていたが、彼女の容姿についてだけは、そのあまり好意的でない諸々の表現も些か力を失っていたものだった。ただ当人は、周囲の反感や反発と同じくらい、その賞賛についても興味を持たなかったので、張りのある深紅の髪は肩口で切り落としっぱなしだったし、薄い空気の中で気流に乗る竜騎士らしく少々荒れた己の肌も、全く意に介してはいないという無頓着振りだったのだが。
現在、眼前で展開されている、至極和やかな風景を観察しつつ、ミネルバはこっそり欠伸を噛み殺した。聖アカネイアの王女殿下主催の茶会は、出席者達が当たり障りのない話題を延々投げ合うという、ミネルバの趣味の範疇外にある代物だったのだが、何せ、初の御招待である。断るという訳にもいかなかったのだ。尤も、「堅苦しいものではないので」という、アリティアの王子の言葉を真っ正直に受け取っての、反則技の男装参加なので、非礼であるのに変わりはないかも知れない。
ディールの戦闘を終え、ミネルバが妹共々、同盟軍に参加するようになって、早、数日が過ぎていた。今でも、向けられる多少の不信を含んだ目の存在を感じてはいたが、それでも、彼女達は随分と受け入れられている。ミネルバには、人が良すぎるのではないか、とも思える程に。しかし、〈同盟軍〉と称する彼等が一つの軍として、思っていたよりもずっときちんとまとまっているという事が、内に入ってみると改めてよく判る。それは、彼女にとっては何よりの驚きだった。
アリティアの残党を主とした反乱兵の集まり。
それが、ドルーアを中心とする、マケドニア・グルニア・グラ連合の一般的な見解だったし、勿論、ミネルバ自身もそのように認識していたのだ。
〈アリティアの勇士とアカネイアの聖王女〉という旗印だけで、まとまっている訳ではないという事は、ディールの戦闘だけ見てもよく判った。名目上、ドルーア軍となっていても、蓋を開ければ殆どの兵士は、グルニア人かマケドニア人という内実を抱えた連合軍よりも、ずっと機能的である。余程、指揮官が優秀でなければ、あのように敏捷かつ的確に、統制の取れた動き方はできない。
同盟軍の指揮官。
ミネルバは、軍内の顔ぶれを思い浮かべる。
伝説の剣闘士オグマ。その剣技は流石の切れの良さだったが、何よりも彼は、同盟軍の部隊長である。地域戦闘を受け持ちながら、対局を臨むのは難しい。オグマと張る程の実力者ながらも、闇色の髪の異国の傭兵はあくまでも、実戦闘員でしかない。あの性格は、全く指揮官には向かない。
オレルアン公は、自身が一級の戦士だという話だったし、オレルアン狼騎士団々長でもある。
アリティア聖堂騎士団々長の、豊富な経験を生かした指揮能力も見逃せない。
そして、ひどく大人びた雰囲気を持つ魔道士の少年。
指揮官としては、この3人がかなり使えるだろう。つい先日まで、自国の将軍職に就いていたミネルバは、他者の力量を見抜く目には自信があった。
しかし、同盟軍全体を統括する存在というには、少々役不足であるように思えるのだが、さて?
その時、嬌声混じりの笑い声が、ミネルバの物思いを破った。確認するまでもなく、子供特有の甲高いそれは、妹マリアのものだった。
すっかりアリティアの王子に懐いたマリアは、彼のいる場に同席するという事が嬉しくてならないらしい。ちゃっかり、彼の隣の座を占めて、しきりと話し掛けている。大人ぶって見せたい心根がありありと判るその話しぶりも、それでも、自身の思惑を裏切る、興奮に紅潮させた頬も、おしゃまな笑顔も、マリアをとても愛らしく見せていた。
彼女が妹を、この上なく可愛らしい、と思うのは、外見を指しての事ではない。そもそもマリアは、基本的な造作はミネルバとよく似ているのだ。ミネルバには、自己愛の趣味は全くなかった。
性質の素直さ。如何にも女の子らしい華やぎ。ミネルバが、自身の中では少しも見つけられない、そんな部分をこそ、愛おしいと思う。
それにしても、アリティアの王子を挟んだマリアの横に座るタリスの王女も、先程から憮然とした様子で紅茶を啜っているのだが、マリアと王子の動向をひどく気にしているのは、一目瞭然である。何でもない風を装ってはいても、全身これ耳、といったところか。
アリティアの王子の方はといえば、マリアの一生懸命な言葉をひとつひとつ頷きながら、聞いている。如何にも微笑ましいといった微笑を絶やさずに。
タリスの王女は、腹立ち紛れらしく手元の紅茶をがぶりと飲んだ。
とても分かり易い図式であった。
その人間関係を頭の中に小さく書き込んで、ミネルバは更に周囲に視線を向けた。
先程から、必要以上の口を開こうとしないオレルアン公は、ニーナ王女の隣に座していた。マリア付きの女官が給仕として、彼等の間を縫うように歩き回っている。最終的にマケドニアへと帰れるように、と、ディールに残していくはずだった彼女は、マリア付きとしての己の責務を訴え、自身の命を盾にとって、同行を申し出たのである。誠に天晴れな女官魂ではあったが、その時、彼女に対して「ならば、死ね」と返したミネルバは、以来、女官を一切、その意識から閉め出していた。実際、アリティアの王子が止めなければ、彼女自身で切っていただろうが、どちらにせよその時に、女官の存在はミネルバの中で消去されていたのだ。
ともあれ、今回の茶会の出席者は、アリティアの王子、タリスの王女、主催者のニーナ王女、オレルアン公爵、そして、彼女達姉妹、マケドニアの二人の王女である。王族ばかりが集められた訳だが、これは不可思議な聖王家の慣習に則ったものなのだろう。曰く、〈王族以外の者とは、会話を交わさず〉という。
全く、下らない事だった。
「ところで、ミネルバ殿」
アリティアの王子が、ミネルバへと話を向けてきた。どうやら、一人黙っているのも限界らしい。できる事なら、茶会がお開きになるまでほおっておいてほしかった、という内心を気付かれないよう取り繕った無表情で、ミネルバは王子へと視線を巡らせる。
「貴女は、後悔してはいらっしゃいませんか。今、ここにこうしている事を」
その口調はまるで話のついでといった風だったので、初めは聞き流してしまうところだった。
紅茶に手を伸ばしかけたまま動きを止めたミネルバに、王子は何の裏心もないかのような微笑を向ける。それを受けて、彼女は何事もなかったかのように紅茶を取ると、内心とは裏腹のゆったりとした仕種で足を組み替えた。
「実は、少々」
そして、人の悪い笑みを作ってみせる。
「このような茶会の席は、私には向いていないらしい。些か、苦痛ではありますね。ご婦人方には、失礼ですが」
勿論、彼の真意を取り違えている訳ではない。しかし、姫君達の手前というものもある。他の者に対してならばいざ知らず、何よりもミネルバは、妹の前でだけは血腥い話をしたくなかった。彼女がこの同盟軍はおろか、妹をも利用したのだという事を、目の前の王子は見切っていると確信したからには、特に。
直感であった。
そして恐らくは、彼こそが同盟軍の統率者であり、指揮官でもある。これは、直感に基づく前提条件を決まりきった公式に当て嵌めて、導き出された解答であったが、まず間違ってはいない。表看板と裏の実力者が同一人物であるとは、考えもしなかったのは、その表部分があまりにも華やかだからであろう。
齢14で継ぐべき国を失った、かつての救世主の末裔。現在でさえ16にしかならない、思う様甘やかされて育ったのであろう、そんな者に、何ができるのか、という無意識の侮り。
ミネルバは相手に気付かれないよう、静かに深呼吸する。落ち着かなくてはならない。
たとえ、利用していても、何よりも大切な妹だ。綺麗なものだけしか見せたくない程に、大事な。決して傷つけたくない程に、愛おしい。
実際、彼女の返答から、姫君方は王子の言葉を取り違えて解釈してくれたらしい。彼女達の許しを含んだ微笑を確認してから、ミネルバは付け加える。
「しかし、まぁ、概ね満足しておりますよ。取り敢えずは、ね」
「それでは、貴方の御望みのものは、手に入ったという訳ですか」
不意打ちだった。極々自然に彼女の中に滑り込んできたその言葉に、つい何の気無しに頷いてしまいそうになって、ミネルバはぎょっとして顔を上げた。
目の前では王子が、ようやっと少し冷めてきたらしい紅茶に口を付けている。つい先程の言葉は、空耳だったのかと疑ってしまいそうな、如何にも子供じみた仕草で。
しかし、このアリティアの王子を見かけで判断してはならないという事を、既によく知っているミネルバは、目を眇めた。
「…何か、含むところがおありか」
「いいえ。純粋な興味です」
王子は、相変わらすの穏やかな微笑を浮かべて、紅茶を卓の上へと戻す。何を何処まで気付いているのか。敵方から寝返ってきた者の手の内は、全て明かして見なくては納得できない、といったところか。
確かに、統率者として正しい姿勢ではある。過去、多数の部下を持つ身であったミネルバは、不承不承それを認めた。
「…まだ、完全に、ではありませんが」
慎重に言葉を選びつつ、それでもミネルバは王子の言葉を積極的に肯定した。否定しない、という程度の消極的な対応を取って、相手に舐められるのは本意ではない。そもそもミネルバは、これ以上ない程攻撃的な性格であった。それに、隠さなければならない事でもない。彼女の思う通りに事の進んだ今となっては。
マケドニア本国がディールでの彼女の行動を揉み消す事も、もうできないだろう。その為に、戦闘中はグルニア兵の目に極力留まるよう、充分に配慮していたのだから。
彼女という存在を軽くあしらう事など、もう二度と赦さない。そして…。
ミネルバは、微笑を深くする。
如何に現在、彼女の指揮官である存在に対してとはいえ、手の内を明かされっぱなし、というのも、彼女の信条からは大きく反する。
「マルス王子。貴方こそ、父王がドルーアとグラの手に掛かって殺された、という事実について、どのようにお考えなのか」
鳥のさえずるような少女達のさんざめきが、消える。一瞬にして空気すらもが、その質を変えてしまったような沈黙。状況はよく判らないながらも、周囲の雰囲気の変化は嗅ぎ取ったマリアが、不安そうに王子を見上げた。彼はそれに答えて、居心地悪げに身じろいだ彼女の膝上辺りで握り締められた手を元気づけるように、しかし、姫君に対して非礼にならないであろう程度にそっと触れる。
王子は、困ったような顔をしていた。苦渋に満ちた、などという事はない。それは、難し過ぎる質問を前に、純粋に困惑している、といった風で、その横で顔面を蒼白にして、凍り付いたように動かないタリスの王女の方が、余程当事者らしく見えた。
「それは、意趣返しですか?」
「いいえ。ただの興味です」
これ以上ない程に、意趣返しである。己の言葉尻を返された王子は、小さな苦笑を洩らした。
「…『どのように』と言われても…」
「アリティアという国は、余程ドルーアに憎まれているらしい。その煽りを受けて、グラの立場はドルーア連合の中でも、非常に微妙なものですよ。長年、アリティアの陰に隠れ続けていた国が、その楔から逃れようとした一世一代の大博打であったろうに、結局はアリティアの名抜きには見られない。些か、哀れではありますが」
言いながらも、決してグラに同情している訳ではない事がありありと判る冷笑には、侮蔑の影すらほの見える。ミネルバは微笑を消すと、王子にひたりと視線を当てた。
「恨んでおいでか、ドルーアを。ドルーアの甘言に乗ったグラを」
畳み掛けて、切り込む。何しろ、これは戦いなのだった。自身の思惑を包み隠し、その言葉のみを武器にして、相手をねじ伏せる。
しかし、昔、兄に「鞘を失ったナイフ」と称された彼女の鋭い弁舌を、顔色一つ変える事なく、王子は真っ向から受け止めた。
「いいえ」
微笑みを絶やさぬまま、王子は更に続ける。
「元々、僕はその手の感情が希薄な性質のようなんです。何かに対して怒りを覚えた、という事は、思い出せる限りでは、ありません」
事も無げに返してきた王子の言葉は、当然、ミネルバには理解不能であった。それは、彼女自身の性質とは、あまりにもかけ離れすぎていた。しかし、ミネルバでなくとも、そのように思うものらしい。彼女のみならず、今まで黙って会話を聞いていたオレルアン公まで、不快感も露わに王子を見つめている。二人に睨まれた王子は、先程と同じ困惑の表情を再び見せた。
「だけど、こう言っても、ミネルバ殿もハーディン殿も、お信じにはなれない。だったら、どう言えばいいのかな…」
そして、王子はふと遠くを見るような目になった。
「…あの時、僕の側には騎士の一団がいたんです」
それは、アリティア国王コーネリアス一世戦死の一報が入った時。
「その報を耳にしてすぐ、騎士達は僕の前に膝を折って、僕に『陛下』と呼びかけた。…その瞬間、湧き上がった感情は、今でも適切な表現を見つけられないのですが、恨みや怒りといったものに近かったのかもしれません」
そうして浮かべた微笑は、決して16才の少年の持ち得るものではなく…。
神の怒りに触れ、時の流刑を受けて、永遠を彷徨う、という伝説の青年とは、彼のような存在なのかも知れない。らしくもない、と、その妄想を自嘲しつつ、ミネルバは彼から視線を外す事ができない。見入る彼女はその瞬間、目の前の脆弱そうな少年に魅入られた己を確かに自覚していた。
ようやっと、茶会がお開きになった後、ミネルバは自室への帰路を急いでいた。姫君方の前で、相応しからぬ話題を振った非礼を詫びて、すぐに退出するつもりだったのに、マルス王子…ミネルバの中で彼は既に、〈アリティアの王子〉という名の看板ではなくなっていた…が如才なく取り成してくれたせい…いや、おかげで、結局、最後まで椅子を暖め続けなくてはならなかったのだ。
しかし、そんな精神的疲労の分を差し引いても、今回の茶会は充実していたと言える。マルス王子という存在が、ほんの少しでも見えたというだけでも、ミネルバには大きな収穫であった。…更に見えなくなった、という気がしないでもないのだが。
えらく庶民的だが、高貴。素直だが、屈折している。やたらと子供じみているが、老成しており、感情を隠す事に長けているが、正直。如才なく振る舞うが、ミネルバのような立場の女に「今度は共に酒を」と誘われても動じず、すぐに笑って了承したところを見ると、それ程、良識家という訳でもない。
こういう人物は、何と称すればいいのか。
一、奥が深い
二、謎めいている
三、分裂症
ふと浮かんだ答えは、まるで三姉妹達の意見のようでもある。
(…やっぱり、分裂症かも知れない)
最も端的で身も蓋もないカチュア的見識が、ふとミネルバの脳裏を過ぎって通る。
確かに、王子は本心を語っていたのだろう。王子自身が、よく判らない、と言った感情。それは、確かに怒りである。但し、ドルーアに対する、若しくはグラに対するものなどではなく、彼にそんな定めを押し付けてきた運命に対する、または神そのものに対する怒りである。
救世主の末裔とやらは、実はとんでもなく気が強いらしい。しかも、本人の弁を信ずるなら、それに対する自覚がない。絵に描いたような外柔内剛であるが、しかし、これから本番となる、ドルーア相手の大勝負には、それくらいの方がいいのだろう。
どうせやるなら、勝ってやる。
無敵の負けず嫌いでもって、敵を蹴散らし突き進む。ミネルバは、そんな自分も嫌いではなかった。
END・
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