鳥となる花花になる鳥〜マリア


もう、おひめさまはなにも、もってはいませんでした。
めからは、なみだがぽろぽろとこぼれおちます。
そのとき、とおりかかったおうじさまが、おひめさまをみつけました。
「なんてきれいなひとだろう」
おうじさまは、ひとめでおひめさまをすきになりました。



赤に黄色、桃に橙。熱く燃え立つ空気の中で咲き誇る大輪の花々は、鮮やかな色彩で己を誇示する。例え夏でも、朝夕の風は肌寒く感じられる避暑地ディールには、如何にも場違いな事など歯牙にも掛けぬかのように。
熱くもなく、また寒くもないよう、適度に暖められた広々としたその室内を温室として、埋め尽くさんばかりの南国の花々が、今を盛りと覇を競い合う。
そこここにさり気なく置かれた調度品の数々は、どれも芸術的なまでに素晴らしく、甘やかな繊細さに満ちていた。そして、ふかふかのクッションと、よい香りのする紅茶。卓の上には、甘くとろけるチョコレート・ボンボンとふわふわとした舌触りの砂糖菓子。
淡い色調に整えられたそこは、明らかに女性の部屋だった。
一人の少女が、そこにいた。憮然とした表情ながらも愛らしい造作は見て取れて、後5年もすれば、大した美女になるであろう事を想像するのは、如何にも容易かった。長く伸ばしてさえいれば、それは見事であったろう深紅の髪は、悲しいかな女戦士のように肩口でふっつりと切り揃えられていたが、それでも身に着けた白い長衣は、彼女の華やかな色彩をこの上なく引き立てている。
しかし、軟らかな真珠の光沢を湛えた表地に、銀糸で細やかな刺繍を施されたそれは、長衣という形を取って、いたって簡素に作られてはいたが、粗末などと表現する者は、誰一人としていないに違いない。聖教団の僧侶であると同時に、大国マケドニアの王女であり、王妹でもある、という少女の社会的な位置を、ある意味、正しく現しているとも言える衣装である。
少女は、手の中で弄んでいた金平糖を周囲に無造作に投げ出した。ぱらぱらと床のあちらこちらに散らばったそれを慌てたように拾い集める侍女の事など、目に入った様子もない。
今度は、部屋中に飾られた花々から、赤いものを選び出すようにして、花の首を千切り取っては投げる。が、それにも飽きたらず、目の前の花瓶に入っている残りの花…赤い花だけがすっかり毟り取られたそれは、まるで虫食いのように穴が空いた状態だったのだが…を引き抜くと、そのまま盛大に頭上へと投げ上げた。
数瞬後、ばらばらと花は降ってくる。
「…マリア様」
「もう飽きた」
己の投げた花にまみれたマリアは、不機嫌さを隠そうともしない口調で言った。



「もう嫌。つまんないったらない」
友好親善大使として、グルニアの賓客となって、もうどれくらい経っただろう。少なくとも、部屋一杯の花と数々の珍しい菓子に辟易する程の期間。
「姫様、そのように駄々を捏ねられるものではありません。畏れ多くもあなた様は、兄上様にあられます国王陛下の御名代として、この地にまいっているのですよ。いつまでも子供のような我が儘は…」
「うるさいわね。ちょっと黙ってなさいよ」
祖国からついてきたたった一人の女官は、長年彼女の世話をしてきた者でもあり、マリアには気心の知れた存在である。流石に、グルニア側が用意した他の侍女達のように、マリアの癇癪に狼狽して右往左往するような事はない。ただ、クッションを抱えて背を向けたマリアに、深く溜息をついて見せただけだった。当然、それが意固地になったマリアには一番効果的である事を、彼女はよく知っているのだ。
しかし、今日のマリアはひと味違う。それにも怯まず、侍女に対して頑強に背を向けたまま、吐き捨てるように言い放つ。
「どうせ子供だもん!ほっといてよ!!」
「……姫様」
「いやったら、いや!」
「…あの…」
マリアが感情を爆発させたら、女官のみを残してすぐさま下がるという不文律をよく知っているはずの侍女が、おずおずといった様子で顔を覗かせたのは、そんな時であった。
「お取り込みのところ、申し訳ございません。…よろしいでしょうか?」
「構いませぬ。何かありましたか?」
「師団長閣下が、マリア様にお目通り願いたい、と…」
年若いグルニアの侍女の言葉に、女官は素早くマリアへと視線を走らせた。相変わらず向けられたままの背は、しかし、先程までとは違い、姿勢良く伸ばされている。その様に、女官は安堵の混じったほくそ笑みを洩らして、現在、この城の実質的な主である黒騎士に、入室の許可を与えたのだった。



「姫君に於かれましては、恙なくお過ごしでしょうか?今朝のご機嫌は…あまりよろしくはないようですな」
部屋に入ってくるなり、周囲の様子をざっと見渡し、ジューコフは床に散らばった花の一輪を、そっと拾い上げた。
「マケドニアの蘭の花は、マリア姫のお気には召しませんか?」
グルニアの黒騎士は、幾つかの小隊を任された司令官としての人間の大きさを示した鷹揚な様で、軽く身を屈めた。彼は常に、マリアを子供としてでなく、一人前の貴婦人として遇する。しかし、普段ならば彼女の自負心を心地よくくすぐるそれも、今日のマリアには通じなかった。
「私、アカネイアの城へ遊びに来たのだと思っておりましたのよ、グルニアの方。なのに、これでは、いつもと全然変わりませぬ」
大急ぎで侍女の寄越してきた扇をゆったりと受け取ると、軽く開いて口元を隠しつつ、つんと横を向く。その姿は、とびきり高慢で魅力的な宮廷婦人である。…その小型版、と表現した方が、より正確ではあっただろうが。
常の如く、微笑ましさについ口元が弛んでしまうジューコフだった。
彼女をどのように扱うべきか。団長閣下が彼に下した命には、マケドニアからの客人の待遇に関するものは一つも存在しなかった。異例の出世を遂げたグルニア黒騎士団長の、地位にそぐわぬ年齢故の、『前国王の御落胤』などという宮廷のお喋り雀共のお定まりの噂話など、彼等黒騎士団員は歯牙にも掛けない。その年齢と甘やかですらある容姿とに反した彼の戦士としての技量、団長としての器の大きさ、そして騎士道精神に根差した人間性とを、団員達は皆認め、敬愛していたから。
今回も、カミュ団長の厚意に深く感謝しつつ、ジューコフはマリアの前に片膝をついて、騎士としての礼を尽くす。
「これは失礼を。では、今宵からはアカネイアの花で、姫の寝室を飾らせましょうか」
マケドニアからドルーアへと送られる、と決定した時、彼女の立場が何と呼ばれるものであったかは知らないが、ドルーアからの要請でグルニア預かりとなった時点で、マリアはグルニアにとっては大切な客人となったのだ。それも、マケドニア現国王の妹という、生え抜きの姫君だ。国賓であると言っても、過言ではない。どれ程のもてなしも、過ぎるという事などあり得ない。
「ええ、そうして下さいな、ジューコフ殿」
こうして、姫君の微笑みを賜るという栄誉に浴したジューコフは、己の娘よりもなお幼い竜王国の王女の前に、深く頭を垂れた。



そもそも、ドルーアへと人質を差し出す、というのは、マケドニア王自らが表明した意思であったらしい。それを聞いたグルニアでも、マケドニアに後れを取ってなるものかという意図がありありと見える速さで、和平大使という名目の人質選出劇が繰り広げられたが、マケドニア側が、これ程に格の高い者を出してくるとは、全く予期していなかったのだろう。ジューコフの耳に覚えがあるような気がする程度の中流貴族の三男だか、四男だかがマケドニアへと送られていたはずである。
マケドニアから、グルニアへ。グルニアから、マケドニアへ。
だかしかし、ドルーアへと差し出され、送られるはずだった人質は、現在、互いの国が預かり、管理する、という不可思議な状況になってしまっている。
ドルーアは、他国人を国内へと入れる事を嫌う。どころか、己が外へと出る事すらも忌むらしく、ドルーアの名を背負った人間を見た事すら、ジューコフにはなかった。恐らく、何処の国のどんな人々でも、彼と大差はないだろう。
国には各々、顔ないし性格といったものが存在する。現在の同盟国マケドニアは、王太子ミシェイルが王座に就いてから見る見る内に、今までの大人しい鄙びた匂いを払拭して、強大な軍事力を背景に、迅速かつ冷徹に行動する、…そう、噂に辣腕家だと聞く国王ミシェイルそのものになった。滅びたとはいえアリティアなどは、未だに英雄アンリの国だったし、グルニアは、黒騎士団が顔である、と言えるだろう。しかし、ドルーアにはそれがない。
実際、そこに在る事は歴然としているのだから、見えないだけなのだろうが、あれだけの力を有した国としては、甚だ不気味である。
ドルーアは、魔道士とマムクートで成り立つ国。
そんな噂が立つのも、むべなるかな。魔道士もマムクートも、確かに存在していて、滅多に見る事のできない存在の代名詞であるのだから。
本来、飛竜の領域である密林地帯に忽然と現れた国に対する風評としては、とても似つかわしいと言えたかも知れないが。
「マケドニアでは、一年中花が咲くのだそうですね」
マケドニアは、ドルーアの隣に位置する。基本的に、暑い国だ。縦に長いので、気候の安定した地域もあれば、反対に気温差が激しい地帯もあるのだという。
全く、違うものだと思う。一年の半分を雪と氷で閉ざされる祖国グルニアとは。
「ええ。私の奥宮の庭では、花を絶やす事はありません。熱い場所の花も、涼しい場所で咲く花も…。……グルニアでは、花は咲きますの?花って、寒い時には咲かないって言うし、グルニアは寒い国なんでしょう?」
少し、口調が砕けてきた。どうやら、姫君言葉は長時間持続させる事ができないらしい。微笑みながら、彼はマリアへと頷き掛けた。
「我がグルニアの春は、とても遅く短いのですが、アリティアの薔薇や姫君のお国の蘭に負けぬほどに、春を告げる林檎の花は美しいものでございますよ」
「林檎というのは、赤い実ではなかった?私、知っているわ。何度か、食べた事がある。……なんで林檎が花なの?」
花が結実すると実をつける。それが人の口に入るのだ、という知識が、マリアからは抜け落ちてしまっているらしい。一瞬、どう説明するべきか、ジューコフは迷った。姫君の知識の誤りを指摘する、というのは、非礼に当たるかも知れない。しかし、ジューコフが口を開くより先に、背後に控えていた女官が、如才なく言葉を添えてきた。
「林檎の木に花が咲き、実がなるのですよ、姫様」
「木?木に花が咲くの?」
「ええ、白い小さな花が」
マリアの瞳が、好奇心にきらきらと輝き出す。
「今日は、林檎の花が欲しい。部屋中、その白い花で埋めたいわ」



それは、香り、などという度合いのものではない。室内は、むせ返らんばかりの濃密な匂いが充満していた。
一面の白百合。
一面の白百合。
一面の白百合。
部屋中を埋め尽くした白百合は、ある意味、圧巻であるといえる。
「…聖王国の花なんて、大っ嫌い…」
部屋の窓を全て開け放っているのに、この状態なのである。マリアは、グルニアの騎士が「生憎、林檎の花は御用意できないので、せめてこれを」と白百合と共に差し入れてきたクッションに顔を突っ込んだ。よく乾かした林檎の皮が中に混ぜられているというクッションは、甘酸っぱい香りがして、それはすぐに気に入ったのだ。
マリアは、クッションを抱えたまま、豪奢な寝台の上をごろごろと転がった。端から端まで、たっぷり3回転はできる大きなベッドで、それは与えられた部屋の中でマリアの最も気に入っているものでもあったのだが、何よりもそこくらいにしか、花のない場所がなかったのである。
「あーあ、つまんなーい。…いつになったら、マケドニアに帰れるの」
そして、話は振り出しに戻ってしまう。女官は苦笑を洩らしながら、たった今、マリアが作ったばかりのシーツの皺を出来うる範囲で伸ばし、彼女に蹴落とされた数個のクッションを拾い上げて、軽く叩いて形を整えた。
「もうすぐ、ですよ。もう少ししたら、国王陛下が呼び戻して下さいます」
「それ、昨日もその前も、そのその前も聞いたわ」
ぷいとマリアはそっぽを向いた。つまり、『昨日もその前も、そのその前も』同じ駄々を捏ねている訳なのだが、それについての自覚は当然ながらない。
クッションを抱え込んだまま、深い溜息を吐く。
「私って、まるで囚われのお姫様ね。悪人達に捕まっていて、逃げられないの。それでその内、噂を聞いた王子様が助けにきて下さるのよ」
黒騎士ジューコフは、すっかり悪人役にされているらしい。騎士の親切に報いるには、甚だ失礼な物言いではあったろうが、退屈を持て余した少女の夢想くらい、彼はきっと笑って許してくれるだろう。
「ええ、そうですね。そして王子様は、美しいお姫様に心奪われて、姫をお国へと連れ帰って下さるのですね」
〈そして、二人は結婚して、仲良く国を治めました。めでたしめでたし〉というのが、昨夜、マリアの枕辺で語った寝物語の内容である。
「勿論、兄様よりも優しくって、姉様よりも凛々しい王子様なのよ。そうでなくっちゃ、駄目なの」
マリアの力説する王子像は、知らない人間には何処か奇妙に映るかも知れない。そもそも、『凛々しい』のが兄であり、『優しい』のが姉であるというのが、通例である。しかし、彼女の兄姉である国王と赤竜将軍をよく知る女官は、感心したように息をついた。
「それは、難しいかも知れませんよ。あのお二方以上の王子様など、どこを探してもいらっしゃらないでしょうから」
不良王子であり、赤竜将軍であった時代から、その統率力とカリスマ性で人々を引きつけてきた国王は、その冷徹な政治的手腕とは裏腹に、女性に対しては過ぎる程に親切で優しい。そして、現在の赤竜将軍は、鬼姫とさえ称される苛烈な気性ながらも、戦士としての技量は一流であると言われる。更に、彼等は二人とも、マリアを深く愛していた。
末妹を溺愛する兄と姉は、マリアにとっては最高の守護騎士なのだろう。
「…じゃあ、しょうがないから、同じくらいでもいいわ。兄様と同じくらい優しくって、姉様と同じくらい凛々しい王子様」
暫く難しい顔をして考え込んでいたマリアが、恐らく精一杯妥協したのだろう答えに、女官は微笑って頷いた。内心、それでもまだ難しい、と思ってはいたのだが、そこまで現実を直視させなければならない道理もない。
「それでは姫様、ベッドからお降り下さい。ドレスが皺になりますし、髪もくしゃくしゃです。何しろ、王子様が助けに来て下さるのは、『美しい』お姫様なのですからね」
女官の言葉に拗ねたように唇を突き出したマリアは、しかし、今度は大人しくベッドから滑り降りた。女官は、百合の谷間を抜けた先の大鏡の前へと、マリアを誘う。
鏡の前に自分から座ったマリアの髪を、女官はブラシで軽く梳いた。癖のない髪はそれだけで、元の滑らかさを取り戻す。
「…ねぇ、本当に、王子様は来て下さると思う?」
その呟きに顔を上げた女官と鏡越しに目線を合わせて、マリアは恥ずかしそうに俯いた。
「だって私、姉様みたいに、綺麗じゃないし」
仄かに赤らんだ頬をして、長衣の銀刺繍を爪で引っ掻くマリアの様子に、ほんの少しの不安を見て取って、女官は微笑う。
「大丈夫。マリア様はその内、どんな宮廷婦人だって太刀打ちできない位、美しいお姫様におなりです」
姉姫のように美しく、姉姫にはない優雅さとたおやかさを持った貴婦人に。
「ですからね」
女官は、安堵の笑みを見せるマリアに微笑い掛けながら、続ける。
「刺繍を爪で弄ってはいけません。それは、貴婦人のする事ではありませんよ」



いつか 王子様は やってくる
彼女の扉を 小さく 叩く
そう それは
明日かも知れない 今日かも知れない



END







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