海の底に眠る星〜マルス

救いの神は 現れない

「こんなところにいたんだね」
マルスの声を受けて、暗褐色の長衣を纏った長身が振り向いた。
どおどおと絶え間なく、波の逆巻く音が響く。夜の海は、伝説にいうこの世の果てそのものだ。殊に今日のような闇夜には、海面は墨を流したような黒一色で染まる。
「このような闇夜、お一人でこんな場所にいらっしゃるものではありませぬよ。万が一、海にでも落ちたら、何となさいます」
「それは、お互い様だよ」
皆の寝静まった船室から、甲板へと上がってきたマルスは、穏やかなたしなめを軽くいなして、この場で唯一の光源である手の中のランプを掲げた。
皮膚の下に暖かな血潮の流れを感じさせない、まるで死人のように透き通った白い顔が、浮かび上がる。彼は、己の尖った犬歯を見せ付けるようにして微笑った。
「私には、近付かない方がよろしいでしょう。お側付きの方々に、そう請われはしませんでしたか?」
「言われた。だけど、もういいんだ。判ってもらったから」
本当に、長い道のりだった。マルスにとっての最終手段である『命令』の一言が通らない、通したくない数少ない人物であるマリクには、兎に角、認めてもらうより他になく。
今では『譲歩』という言葉で理解を示してくれたマリクも、他の人達も、やっぱり心情的にはマルスが二脚蜥蜴であるバヌトゥに接する事を快くは思っていないのもまた、理解していたし、その事についてはまた考えなくてはならないのだが、取り敢えずは第一歩である。
マルスは、ランプを掲げながら、バヌトゥのすぐ横に自分の立ち位置を確保した。
「ナーガのお使い星が見えているね。それじゃあ、ペラディはあっちだ」
指差した当座の目的地の方角は、今は何も見えない暗黒の空間だ。
ペラディを経由して、街道沿いをディールへ。
それが、マケドニア王女ミネルバとの取引に応じた彼等の、今後の道程となる。…そう決めるまでには、随分と論議が白熱したものだったが。
ワーレンでの休日を、予定外の戦闘で中断させられた彼等の前に、その天空騎士は突然現れた。ワーレンの東の城での、今後の進路について話し合う会議の場に、梢を渡る強い風のような音、硝子が砕け散る音と共に、降って湧いたように…これは、文字通りの意味だったのだが…現れたのだ。
恐らく、鍵部分を剣の柄で力任せに叩き壊したのだろう人物は、まるで何事もなかったかのようにその窓を開け、しかし、外へと張り出したバルコニーから室内へは立ち入ろうとはしないままに、その場に片膝をついた。反射的にマルスと彼女の間に立ちはだかったカインとアベルが目に入った様子もない、宮廷儀礼に則った騎士の礼で。
そして少女騎士は、使者の口上を述べ出した。
送主は、マケドニア王女にして赤竜将軍、ミネルバ。
「火急の用向きにて、最も早く王子御自身のお耳に入る方法を取らせて頂きました。無調法者故、数々の失礼の段、お許し下さい」
その口上の思いも寄らない内容に、呆気に取られて口も利けぬままの面々を前に、そう締めくくった少女は、バルコニーの手摺に身軽に飛び乗って立つと、再度マルスに一礼し、そのまま、手摺を軽く前に蹴り出すようにして、その身を中空へと躍らせた。一瞬で掻き消えたその姿が、巻き上げられるように上空へと急浮上する。我に返ってバルコニーへと殺到した彼等が見たのは、空高く飛び去っていく有翼馬の姿だけだった。
その後の会議の紛糾振りを、どのように表現するべきか。血管の切れそうになったジェイガンが強く訴えたように、確かに罠という線も無きにしも非ずであるが、それにしては、随分と理屈に合っていないという事が、マルスには気に掛かる。
あの申し出の示した条件は、マケドニアの益にはならない。そして、マルス達の益にもならない。マルス達、アリティアの者にとって、敵はあくまでもドルーアである。ドルーアと同盟を結んでいる、という関係上、敵対状態になっているグルニア、マケドニアの2国とは本来、戦う意思はない。この2国も、ドルーアに対する建前として、討伐兵を出しているはいるが、本心から彼等を排斥しようとはしないだろう。恐らくどっちつかずの状態のまま、この戦を終えて、より大きな国益へと繋がる道を模索したい筈だ。それを理解しているからこそ、マルスも今まで彼等の領域には立ち入らなかったし、彼等も大部隊を編成してマルス達に当たったりはしなかった。
しかし、ディールは違う。
ディール城の現在の主は、黒騎士団に所属するというグルニア貴族。グルニアの領土であるとすら言える場所なのだ。
グルニアの城から、マケドニアの王女を略奪する。その行為は、この2国に手袋を投げつけるに等しい。それは、現在のマルス達にとって危険な事だが、2国にとっても、決して望みの状態であるとは言えないだろう。彼等に、特に聖アカネイアの分家筋に当たるグルニアに、主家の王女を抱えた同盟軍を滅ぼす気があるとも思えなかった。
彼等を敵に回す理由がない。故に、これは2国の罠ではあり得ない。
では、マケドニアからグルニアへと張った罠である、という可能性は?グルニアとの間に戦端を開く口実として、王女の警護不備を挙げる為、彼等が実行犯として生贄にされた?
それもない、多分。現実問題、マケドニアにそんな余裕は、精神的にも経済的にもない。
では、ドルーアから2国に対する罠?2国が土壇場で裏切る事がないよう、彼等を共通の敵に仕立て上げる、という。
それも答えは、否、だ。それには、ドルーアが負けた場合を想定する、という条件がついている。しかし、今まで見てきたドルーアの行動に、そのような計画性など皆無であった。あれは、執着と妄念とに突き動かされているような存在だ。やはり、それもあり得ない。
他、幾つもの可能性が潰され、或いは疑問符付きのままに小さく書き残され、しかし、最後は結局のところ、勘、だった。
彼女は恐らく、己の欲するものの為なら、何でも犠牲にできる人なのだ。地位も権力も、己の家族すらも。同盟軍ですら、彼女にとっては駒の一つに過ぎないのだろう。しかし少なくとも、彼女の欲しているのは、マルス達同盟軍の壊滅ではない。
マルスは、鬼姫と呼ばれるミネルバの苛烈な気性を、有能な将軍だという彼女の判断力を信じる事にしたのだ。
マルスは、その身を反らせるようにして、大きく潮の香りを吸い込んだ。
「あの星を、『ナーガのお使い星』というのですか?」
「アリティアではね」
マルスは、バヌトゥとの会話に意識を戻した。ようやっと、言葉を交わせるようになったのだから、純粋にその時間を楽しみたい。
「ずっと変わらず北の空に控える、光神ナーガの忠実な従者だっていう言い伝えなんだ」
「そんなに、忠実ではありませぬよ」
とんと突き放された、冷たい無表情な声。マルスは思わず、横のバヌトゥを振り仰ぐ。
「己の望みの為に勅命を破り、臣下の誓いを破った。そんな逆臣なのですよ、彼は」
嘲笑うように彼が言う。それなのに、そんなバヌトゥはひどく悲しく辛そうに、マルスの目には映る。彼の目の淵にあるのは、深い深い絶望だ。
「…従者の望みは、叶った?彼は幸せだったのかな」
その一瞬、彼の目に暖かな光のようなものが灯ったような気がした。
「ええ。…この上なく幸福でありましたよ、恥知らずな事に」
「だったら、ナーガも許して下さるよ。従者が幸福になったんだったらね」
安堵の笑みを浮かべ、如何にも当然といった様子で、マルスは請け負った。
「従者の幸福を喜んで下さると思う。臣下を大切に思わない主君なんていないから」
バヌトゥは、何と返答していいのか判別に苦しむ、といった風情で見つめている。
「何というか、その、王子殿下はまた、随分と、……変わった方でいらっしゃる」
「…そうかな?」
バヌトゥの反応の方をこそ理解できないらしい。首を傾げるマルスに、バヌトゥも思わず苦笑を洩らす。
「しかし、そうですね。…そういう考え方も、あるのですね」
「そうだよ。星は、今でも北の空に在るんだから」
全てが免罪になる、と思い上がるつもりはない。氷竜神殿の主の目から、いつまでも逃げ切れるとも思ってはいなかった。元々、彼の主君亡き後、皇帝代行者として一族を束ねていた程の〈力〉に満ちた男なのだ。人間に混ざって動いたりしたら、その不安定な理力の流れを、彼ならすぐに感じ取るだろう。
それでも、こうする事しかできなかった。彼女を捜し出す為には。
彼の宝物を、その為にこそ主君を裏切った、彼だけの宝玉を捜し出し、取り戻す事。
どうか、それだけは許して欲しい。全ての責めは、自分が負うから。全てが終わったら、その時こそきっと、皇帝の元に行って、己の背信を罰せられる事ができるだろう。
星は、今でも北の空に輝いている。
「……殿下のお言葉を伺っていますと、本当にそうであるかのような心持ちが致しますよ。星の輝きなど、自らを燃やす恒星の発する熱量の副産物。そのようにしか、思うた事はありませんでしたが…」
目の前の少年の言葉には、不思議な説得力がある。無条件に相手を信じさせてしまう、そんな安心感は、遥かな時間の流れの彼方に存在する彼の主君の持っていたのと同質のもの。そしてそれは、その二人と同じ程に重い真実味を感じさせるのに、二人とは全く対照的に、不安感を掻き立てる、そんな存在を思い起こさせる。
こんな風に、特定の人を思い出して懐かしむという事自体、滅多にないので、何だか不思議な気もするが、王子が、かの茜色の少年の姿を取った運命の使者と出会ったら、どんな事になるやら、想像するのもまた楽しかった。
といっても、ざっと見積もってもここ百年、バヌトゥは使者の姿を見てもいない。『気紛れ』という言葉の代名詞のような存在に、王子が本当に会えるとも思ってはいなかったが。
「君達には、あの星は何と呼ばれているんだい?」
〈使い星〉に対するバヌトゥの表現に興味を引かれたマルスは、何処か表情の軽くなったような気のする彼に尋ねた。
「Ursa Minor -α。…そう、後二千年近くは、あの星が極となりまするが、もう千年程前には、その隣の小さな星が、北極星と呼ばれてもおりましたね」
あれがそうです、と、空を見上げて指差したバヌトゥの年老いた顔の中に、不思議な若々しさが存在する。
「……君達は、僕達よりもずっと長い時間、生きているんだね…」
それは疑問ではなく、確信だった。
「そうですね。永い、永い時を、生きて行かねばならないのですよ…」
「そして、一度死んでも、復活する?」
遠かった彼の瞳が、不意に現実に引き戻されたかのように、はっきりした。
「……暗黒皇帝メディウスは、君達の同族なんだろう?」
暗黒皇帝。それは、百年前のドルーア帝国の皇帝だ。現皇帝メディウスと、暗黒皇帝を結ぶ糸などない。〈ドルーア〉の名以外には。
「…竜、などという生物は、もうこの地上に生きてなどおりませぬよ」
昔語りに存在する竜達は、人間社会がくっきりとしてくるのに反比例して、どんどん姿の薄い、霞のような存在へと変貌していった。現在、彼等の住めるところは何処にもないのだ。
「確かに、一般的にはそう言われてる。暗黒皇帝が竜である、というのは、暗黒皇帝の騎竜だった飛竜との混合から生まれた、お伽話だってね。だけどね、アリティアの者は皆、竜の存在を信じているんだよ。…と言うよりも、竜殺しの勇者である光の公主を信じているから、竜の存在も信じている。…光の公主に授けられた光神ナーガの剣の伝説と共にね」
それは、とても危険な話だった。他言無用の機密事項なのも、重々承知の上だ。真実が知れたら、彼の同族が狩り出されて虐殺、などという事になりかねないのだから。
「勿論、これは僕の勝手な推測だよ。だから、間違っていたら言ってほしい。でないと、僕はずっとそう信じている事になると思うから」
マルスは、暗い海へと顔を向けた。寄せては返す波の音。そして、船首が波を押し退け作り出した新たな波が、それにぶつかり弾け、白い飛沫を上げる。
世界の全てが眠りに就いたような静けさの中、影そのもののようなバヌトゥが闇に溶け込むような錯覚すら起こさせる、沈黙。
マルスはその場に立って、ただ、闇に沈んだ海を見つめていた。
バヌトゥが無言のまま、不思議な優雅さで、そっと一礼して去っていった後も。
END・
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