光咲く海遠い空〜カチュア


貴方のすべてを 手に入れたい



港町ペラディも先の戦役では、聖アカネイア行の交易船を襲って物資を奪い、アカネイアの抵抗力を削ぎ取る事を任とする者達の前線基地として、随分と活躍したものであるらしい。
不相応に高い地位と幾つもの勲章を得た海賊達は、報奨として約束された略奪品の半分で、存分に懐を潤した。出所がどうであれ、金は金、財は財である。金は物を流通させ、物の流通は人を集め、集まった人は街を富ませる。新たな船員の募集は新たな海賊を作り、海賊の街ペラディの噂は、より多くの傭兵、盗賊、博打打ちに娼婦、乞食といった裏社会の者を集めた。そうして、現在のペラディ、大陸中の人種の坩堝、悪徳と退廃の街ペラディは作られた。それでも、戦役中はこの街も、ドルーア側に多大な利益をもたらす存在であったのだ。あくまでも、戦役中は、の話であるが。
しかし、聖アカネイアが滅び、アリティアもグルニアも落ちた今となっては、彼等も無用の長物である。残った国、オレルアンは内陸であるだけに殆ど船を持たず、タリスは、海の獲物としては敬遠される。タリスの船は小さいので、積み荷が少なく実入りも小さい。小回りが利くので足も速く、逃げ切られる可能性も決して小さくはない上に、元は同業者であったタリス人は、海の戦巧者でもある。反撃に会う確率をも考え合わせれば、海賊にとっては、所謂、割に合わない相手なのだ。そして、ドルーアと取り引きした関係上、ドルーアの船を襲う訳にもいかない。
どんな武功を立てた戦士でも、戦場を離れればならず者と化す事もままある。そして元来、海賊達は、剛胆な荒くれ者であった。現在では狩るべき獲物も失い、海賊であるとも言えなくなった彼等は、文字通り、ただの暴虐なならず者だ。
彼等がドルーアとの約定を破って、ドルーアの船を襲った時。それが彼等の、この街の最後になるのだろう。多分、ドルーアはその時を、今やお荷物と化した彼等を片づける口実を彼ら自身が与えてくれるのを待ち、そして彼等もそれを知り、息を殺しつつも心の奥底では、その時を待っている。この張り詰めきった緊張の糸が切れ、全てが楽になる瞬間を。
頻繁に街角で起こる刃傷沙汰も、一部で行われる狂気じみたお祭り騒ぎも、ひどく神経質で、殺伐とした雰囲気と綱渡りのような緊迫感が、肌を刺す刺激にすら感じられそうな程、現在のペラディは追い詰められた空気を漂わせていた。それは、下町ばかりではなく、ここ総督府近郊であっても変わりなく。
品がいいとは言い難いが、贅を凝らしているのはよく判る館を眼下に捉えて、跨った有翼馬の手綱を引き絞る。上空で位置を維持しながら見下ろした先には、ごみごみとした街並みが広がっている。自然発生的に洩れた舌打ちは、自分でも驚く程に忌々しげだった。
熟れ過ぎて腐り落ちる寸前の果実。
この街の他に、そんな印象を抱かせた場所が、一つだけある。
平和な時代、たった一度だけ訪れた事のある、聖アカネイア王宮で催された貴族の宴。
勿論、外見はこの街とは似ても似つかない。比べるのもおこがましい程、あちらの方が豪奢で華麗だったが、周囲を支配する空気の何処か饐えたような甘さが共通している。それは多分、退廃という名の匂いであったのだが、清廉を旨とする少女騎士には許容し難いものであっても、仕方のない事であったろう。
実際、有翼馬に跨った彼女は、少女というには年齢が勝ち過ぎていたが、胸や腰に肉付きの薄い彼女からは全く女性的な匂いがせず、かといって少年のようである訳でもない。如何にも中性的なその雰囲気は、少女、と称するのが最も近かった。己の気に入らない事には一切、妥協の入る余地はない、という、あまりにもきっぱりとした気性をそのまま映した面立ちも、如何にも勝ち気そうで、生来の優しげな美貌を些か硬いものにしている。
足下には、彼女の目には悪趣味と映る総督府がある。ドルーアより派遣されてから今まで、街の住民の前に姿を現した事のない総督は、二脚蜥蜴であるという噂まで存在するのだ。
胡散臭い事この上なく、全くもって、気に食わない。
しかし、彼女のそんな心情は相棒である有翼馬に、伝わってしまったらしい。居心地悪げに身を揺するように、首を振る。慌てたように彼女は、手綱を片手に絡め、空いた手でそっと有翼馬の首を撫でさすった。
「ごめん。お前を怒った訳じゃあないのよ。落ち着いて」
優しい囁きに、すぐに大人しくはなったが、まだ気が高ぶっているようだ。空を掻くような蹄の動きに見えるように、オキュペテはこの街に来てから、ずっと神経を尖らせている。人間よりもずっと繊細なこの動物には、街全体を包む緊張感が実際の重量として感じられるのかも知れない。
「…ごめんね。だけど、もう少しだけ我慢して。多分、もう少ししたら、ここを出ていけるから。だから、今はみんなの所へ戻ろう?」
己の相棒の懇願を受けたオキュペテは、もう一度その身を震わせると、しかし、大きく翼を広げた。そして、眼下の白ちゃけた街のほぼ中央に位置する、総督府である館を捉えて、一直線に降下していった。



建物正面の広場へと舞い降りた彼女を待っていたかのように、小走りに進み出てきた者がいる。如何にも館の下男、といった様子のその男は、有翼馬を受け取って厩舎へと運ぶために来たように見える。が、彼女はその男を一顧だにしなかった。ゆっくりとその首筋を撫でさすりながら、自ら厩舎へと歩み出した彼女に、男は慌てたように口を挟んだ。
「厩へお入れしますので、手綱をこちらへ…」
「いえ、結構」
「そのような事では、私が主に罰を受けます」
「適当に叱られておきなさい」
目線の一つもくれはしないが、取り敢えず返事が返ってきた事に気を取り直して、男は矢継ぎ早に返すが、当の彼女は取り付く島もない。その様子に焦れたのか、男は半ば強引にその手綱を取ろうとした。手を伸ばして、ほんの一呼吸かそこら。有翼馬が竿立ちになったのと、男の鼻先すれすれに、馬用のものより細くて長い、有翼馬用の鞭が振り下ろされたのはほぼ同時のことだった。
「近づくな!この子は私にしか懐かない。お前の手は、必要ない!!」
その気迫にこそ鞭打たれたかのように立ち竦む男に冷たい一瞥をくれると、彼女は再び背を向け、歩き出した。元来、女性にしては高めだが、ぴんと伸びた姿勢の為、より一層長身に見える、すっきりとした立ち姿で。
有翼馬のみに向けられた、うって変わったように穏やかで、甘やかですらある声音と優しい仕草とは、まるでこの場には、彼女と有翼馬しかいないとでもいうかのように、綺麗に男を拒絶していた。



地に降りてからこっち、殊更に硬かった表情が初めて和らいだのは、自らの手で間違いなく厩舎にオキュペテを繋ぎ、館に入って暫くした後、頭上から聞き慣れた声が振ってきたその時だった。
「カチュア姉、おっ帰りー」
振り仰ぐと、階段を上がり切った先の張り出しの廊下から、無邪気な笑顔を覗かせた妹が、ぷらぷらと手を振っているのが目に入る。安堵の滲む無防備な笑みを一瞬で引っ込めて、カチュアは軽く手を肩口まで挙げて返礼した。
「大丈夫だった?オキュペテが騒いでたみたいだけど…」
軽く肩を竦めて、首を振る。何でもない事のように。
「下男みたいな、だけど見た事のない男が、あの子の手綱を取ろうとしたの。それだけ」
「…またかぁ」
対するエストは、呆れと諦めが半々といった心情のありありと判るしかめっ面で、子供のようにぷくりと頬を膨らませた。
「せめて、盗難の心配くらいしなくてすむといいんだけどね。ここも総督府なんだしさぁ、一応」
戦闘、運搬用のみならず、大きな白い翼を持つ有翼馬は、その美しさで観賞用としても珍重される。治安の悪い場所では常に彼等の身辺に注意してはいるのだが、最も警備の厳しかるべき総督府で白昼堂々の拐かし未遂は、この街に来た当初は、思わず感心してしまったりしたものだったが、こうも頻繁に起こるといい加減、うんざりもしようというものだ。
「一応、厩舎に入れてきた。オキュペテはまだちょっと興奮気味だったけど、アエロとケライノが守ってくれるし、今回は姫様のアズライルまで一緒だものね」
如何に大人しかろうと、飛竜は飛竜。厩舎の入り口付近に寝そべったアズライルは、盗人の気を殺ぐには充分過ぎる程に衝撃的だった。それに、カチュアの姉妹の相棒達は、オキュペテの姉妹達でもある。彼女達が共にいれば、オキュペテも少しは落ち着ける筈だ。
カチュアの言葉に笑顔で賛意を示した後、くりくりとした瞳を興味津々といった調子に輝かせて、エストは恐らく本人のつもりではかなり声を低めたのだろう様子で囁いた。
「それで、どうだったの?レフカンディは」
実際、よく通る上に地声の大きなエストのそれは、それなりに周囲に響いていたのだが。
「全滅。…やってくれるわね、反乱軍とやらも」
「すっごーい。全滅?!かぁっこいーい」
エストのいらえは、明るく軽い。
「…何でそう、俗物的な発想しかできないの、あんたは」
「だってぇ。これで、私達が敵前逃亡した事、知る人間もいなくなった訳でしょ?手間省けてよかったじゃない」
けろりとした顔で言い放った妹は、あくまでも天真爛漫である。カチュアの任務が、レフカンディの戦況調査の他に、ドルーア側生存者の後始末も兼ねていた、という事も先刻承知であったらしい。
「……まぁ、そうなんだけどね…」
溜息をつきつつ、カチュアは些か行儀の悪い仕草で頭を掻いた。
人馬一体、血塗れになって、それでも嬉々として槍を振るい続けるこの妹は、どんなに凄惨な戦場であっても、その無邪気な笑顔をほんの少しも損ないはしなかった。なのに、血に酔った状態に陥ると、自分と目の前の敵しか目に入らなくなる。たとえ味方でも下手に近づくのも危険な程に。そしてそれは、より一層エストの槍技を研ぎ澄まされたものにするのだ。
天性の戦士、とでも表現するべきか。戦場で敵を屠る度、冷静になっていく姉パオラとは好対照である。
「これから、どうするのかな?ミネルバ様、反乱軍に参加する気があるんだと思う?」
エストは、やはりよく響く声で言う。眉を潜め、素早く周囲に視線を走らせて、誰もおらず、彼女達の話を聞く何者も存在しない事を確認してから、怒ったような表情のまま頭上を見上げて、軽く人差し指を己の唇の前で走らせた。
一連のその動作に、口を両手で覆ったエストが身を縮めた。忙しく瞬く瞳が、雄弁に彼女の謝意を語っている。こんな時のエストは、耳を垂れた子犬のようだと、いつもながらにそう思う。カチュアは口の端で小さく微笑んだ。
「私は、ミネルバ様に剣を捧げてる。取り下げる気なんか毛頭ないし、当然、ミネルバ様についていく」
それだけが、カチュアの答えだ。
「反乱軍ってさ、格好良さそうな人多かったよね。それに、これからいっぱい戦えるんだろうなぁ。いいなぁ、面白そうだなぁ…」
これもやはり、エストの答え、というものなのだろう。
「……本っ当に、とことん刹那的よね、あんたって。もうちょっとくらい、もの考えるべきだと思うわ、私」
ほとほと呆れた、といった風に溜息を吐いてみせるカチュアに、エストは唇を尖らせた。
「ちょっとくらいは、色んな事も考えてるんですー。いいじゃなーい。つまんない、より、面白い、の方が楽しいし、綺麗なものや格好いいものは、みんな好きだわよ、私だけじゃなくって!カチュア姉だってそうでしょ?」
「…私は、綺麗、より、強い、の方が好きなんだけどな」
正確には、繊細なもの、たおやかなものよりも、力強いもの、芯の通ったものをこそ好ましいと思うし、綺麗だと思う。
例えば、野生の獣。風に翼を撓ませ、大空を駆けるオキュペテ。森の長老である、古い古い巨木。月明かりを浴びて、群れ飛んでいた飛竜達。
その辺りの感覚は、彼女の妹とは相容れないと知っているので、カチュアはすぐにその話題を切り上げた。
「そういえばさっき、エスト好みの優男を見たわよ。生憎、金髪だったけどね」
エストの好みは黒髪なのだ。三姉妹の中で、最も赤みの強い跳ねっ毛を持つエストはいつも、カチュアの癖のない深い栗色の髪を羨ましがっている。
「え?!どんな、どんな?!」
エストは目を輝かせて、カチュアの出してきた新しい話題に食いついてきた。あまりにも、予想通りである。この底の浅さ加減が、エストの可愛いところだとは思うのだが。
見るからに真剣な様子のエストとは対称的に、カチュアは興味なさげに肩を竦めた。
「アカネイア人。間違えようがないくらい、如何にもな純血種だったから、貴族かも。それだけで一財産って感じのえらくいい弓持っててね。路上強盗にでも遭わなきゃいいけど」
第一に格式、その次に血の清さ。それが、聖アカネイアの価値基準だ。美形が多い事でも知られる聖アカネイアは、殊の外、純血を尊ぶ。その美を守る為に近親婚を繰り返すのか、度重なる近親婚が、その繊細な美貌を生んだのか。
中でも、王族、貴族はその最たるもので、彼等の容貌は、カチュアには何処か歪んだようにすら映る、密な様式美というものを示している。
それを考えれば、街で見かけた男は、かなりましな部類ではあったかも知れない。確かに、外見は聖アカネイアそのものだったが、目の光は歪んでいなかった。恐らく平和時は、美術品か魔除けとして飾られた物ではないか、と思えるような、華麗な装飾を施された銀の弓を無造作にその背に負って、あれがペラディという街の治安の悪さを知っての上の事だったら、余程腕に覚えのある自信家か、それとも余程の馬鹿者かのどちらかだろう。
ふと先刻の記憶を追い掛けるカチュアを後目に、エストは焦れったそうに手摺を揺さぶった。…エストは、カチュアの真上に近い位置の廊下の手摺にへばりついたような状態で身を乗り出している。
「私も見たかったぁ!純血のアカネイア人!!あー、私もその場にいればなぁ。もー、カチュア姉、そういう時は、声掛けといてよう」
「……何て?」
「『そんな格好(なり)で歩いていたら、危険ですよ。よろしければ、私が送っていきましょう』」
これ以上ない程嫌そうに顔を顰めたカチュアに、エストは貴婦人に対するように腰を屈めて、手を差し伸べる仕草を見せた。
「あんまり面白くないわ、その冗談」
「どこが冗談なのよぅ」
腰の手を当てて唇を尖らせるエストから、あからさまに視線を外して、カチュアは中空を見上げた。今の言葉が冗談ではない、という、それが冗談なのか、それとも、本当に全部本気なのか、判別つかなかったのである。
「自分の身も自分で守れないような男には、興味ないの、私は」
なので、全て聞かなかった事にしようと決めた。エストとの会話にはこのように、なかった事にされる部分が、結構多い。
「格好良い人には、それだけで価値があるんだよ」
「馬鹿馬鹿しい」
大真面目な顔で左右に人差し指を振るエストを鼻で笑い飛ばしたカチュアの表情に、しかし侮りはない。明るく笑う彼女は、先程までの孤高の女戦士ではなく、ごく普通の17才の少女に見える。
「カチュア?帰ってるの?」
その時、エストのいる2階の張り出し廊下の突き当たりにある扉が静かに開いた。穏やかな優しい声と共に現れたのは、彼女達二人の姉だった。
「パオラ姉」
パオラは穏やかに笑んで、カチュアを見下ろす。
「ミネルバ様が、貴女の報告をお待ちかねよ。早くいらっしゃい」
「いっけない!…もう!エストが呼び止めたりするからよ!」
「何で私のせいなのぉ!」
階段を2段跳ばしで駆け上がったカチュアは、小走りにパオラの出てきた扉を目指した。エストと擦れ違いざま、小馬鹿にするように唇を突き出して見せたのと、エストが彼女に対して顔を顰めて舌を出したのは、ほぼ同時の事。…存外、気は合っているらしい。パオラには、うって変わった親愛と感謝を込めた微笑を投げ掛け、カチュアは軽やかな仕草で、扉へとその身を滑り込ませた。
その後ろ姿に舌を出しっぱなしだったエストは、パオラがじっと視線を注いでいる事に気付いて、慌てて居住まいを正した。
「…あのねぇ、別に私が無理にカチュア姉を引き留めたりした訳じゃあなくってね」
「判ってるわ。あの子を無理に引き留める、なんて無理だもの。あの子が留まっていたのなら、それはあの子がそうしたかったから。…エストを理由にしたのは、照れ隠しよ」
パオラの微笑にエストは、カチュアに向けるのとは少し違う、甘え混じりの仕草でむくれてみせる。お互い、たった1年ずつしか年の離れていない姉妹であったが、早くから親を亡くし、互いに手を取り合って生きてきた状況故か、三姉妹の長女はエストにとって『母親』の印象が強い。
「カチュア姉ったら、てんで子供なんだもーん。大体、あの年になっても初恋もまだなんて、信じられないよね。『ああいうの興味ない。こういうの嫌い』って、判ってないったらないよ。理想の男を好きになるんじゃあなくって、好きになった男が理想になるのに」
カチュアにとっては、この妹にだけは言われたくない台詞の連発であったろうが、パオラは面白そうに瞳を瞬かせた。常日頃、最も甘えっ子な末妹の恋愛論とでもいうべき物が、随分と真理を突いていて、微笑ましくも興味深かったのだ。
「じゃあ、エストは理想の男性像ってないのね?」
エストの瞳が、きらりと光を放った…ような気がした。
「私ね、私ね。頭がよくって、背が高くって、剣が使えるのは勿論だけど、色んな意味で強い人がいい!あ、顔もよくなくっちゃ、だけど。それに年上。絶対、年上!大人がいい、大人が!落ち着いた感じで、黒髪で、後、馬に乗れる人!私を一緒に乗っけて、草原を走ったりなんかしてー。空を飛びたい時は、私がケライノの後ろに乗っけてあげるのー」
エストの妄想に、果てはない。
「誰か、好きな人でもいるの?」
「ううん、今はいない。何で?」
悩みなど一欠片も存在しないような顔で、エストはぷるぷると首を振る。
「理想が、ものすごく具体的だから、実際の誰かの事を言っているのかと思って」
「いないよ、そんな人ー。いたら私、どんな手使っても、相手にへばりついてでも、モノにしちゃうって」
照れたように笑うエストに、パオラは真面目な顔で頷いた。
確かに、エストならそうするだろう。相手の男には、とんだ災難というものであろうが、エストの理想そのものだった己の身の不運を嘆いてもらうより他にない。
その後の、既に終わりのない淵へと入り込んでしまったエストの語り続ける、とことん具体的な男性描写が耳に入っている様子もないパオラは、街中では未だ珍しい、高価な硝子の填った窓から空を見上げた。
海の上には、どんよりとした灰色の重い雲が垂れ込めている。
彼女の主君であるミネルバが、国も責務も、寄せられる王の信頼も…ミネルバ当人は、意地と矜持が邪魔をして気がついていないマケドニア王の心を、パオラは自然に汲み取っていた…全て捨てるつもりである事は知っている。但し、それは今ではない。建前上はグルニアとの友好を深める為の賓客、その実、ドルーア帝国への人質として、保養地ディールへと送られた、彼女のたった一人の妹姫を取り戻さなくてはならない。
それには反乱軍…自分達も参加する事が決まっている現在では、同盟軍と呼ぶべきだろうか…の手を借りなくてはならないのだと、口元に冷たい微笑を刻んで、ミネルバは言う。そうしていると、彼女は兄であるマケドニア王にそっくりだと、いつもパオラは思うのだ。
何故、同盟軍にそんな事をさせる必要があるのか、今頃扉の向こうでは、カチュアが食ってかかっているかも知れない。保養用に開放的な作りになっているディール城になど、深夜、己が忍び込んで、無事、マリア姫を連れ出して見せる、と。
それに対するミネルバの反応も、また、容易く予想できる。先程、自身で受けたばかりのものであったから。
但し、そうせずにはおられない理由、というものがパオラには、漠然と、ではあったが理解できたが、恐らく、健全すぎる精神をしか持たないカチュアには判らないだろう。
愛情とも、憎悪ともつかない、激しすぎる執着、などというものは。
溜息混じりに仰ぎ見る、空は重い灰色。ディールの空も、そうであろうか。そして、同盟軍の上の空も。



END







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