空のむこう〜ジュリアン

どんなに偉大な賢者も勇士も 皆 女の胎から生まれてきた
つまるところ すべての英知と力とは 女の中で育まれるのだ

目の前で、暖炉の炎がぱちぱちと爆ぜる音がした。
「…オレルアンとアカネイアの関所だって言うから、余程賑やかなところだろうと思ってたのに、当てが外れちまったよなぁ…」
誰に話し掛けた訳でもない。溜息混じりの独り言である。ここレフカンディで最も大きいという旅籠…といっても、他には二、三の宿屋しか存在しないのだが…に滞在しているのは、彼等アリティア混成軍だけであったが、遅めの夕食が供された後の食堂は、この手の宿の常では考えられない、閑散としたものだった。夜半の酒場営業をしない店であっても、通常、宿の者が厨房を空にするような事はないのだが、やっぱり軍の逗留というのは、小さな村の住人達にとっては、恐ろしいものなのかも知れない。彼等の王子が宿を徴収ではなく、借り上げという形を取ったのも、あまり効果はなかったようだった。
(…そりゃあ、『最低限の世話だけしてくれればいい』とは言いましたけどねぇ)
王子が、と心の中で呟くジュリアンは、周囲への気遣いを忘れないマルス王子にちょっぴり恨み言を言いたい気分になっていた。村人達の生活をなるべく脅かさないように、という王子の心配りの結果が、数少ない盛り場の、まるっきりの休業状態、宿の食堂兼酒場のこの状態なのである。
ジュリアンは溜息を吐きながら、やけくそのように暖炉に細い薪を放った。
確かに、昨日までの天幕生活に比べれば、きちんと屋根のある建物でしっかりした寝台…まぁ、多少マットが湿っていたり、その足はぐらぐらしていたりするのだが…で寝られるだけでも、天国であるとも言えるだろう。しかし、お堅い騎士様達とは違うのだ。その余裕がある時くらい、明るく楽しく遊びたい。
「何だ、お前の目当ては賭博場か?それとも娼館か?」
「そんなの両方に決まってるじゃないか。酒場で美味いもの食った後には、やっぱりさぁ」
背後から掛けられた声に明るくジュリアンは振り向く。せめて、周りに人がいるだけでも気持ちが明るくなろうというもの。その声で、背後の人物が誰だか既に判っていたし、その人物とはあまり仲が良いとも言えなかったのだが、この際、話し相手になるのだったら、誰でもいい。
しかし、振り向いた先でジュリアンは瞬時に凍り付いた。
「…っレナさん?!」
そこに、いつものように小首を傾げて微笑むレナが立っていた。先程声を掛けてきたマチスは、彼女のすぐ横にいたのだが、それは既にジュリアンの目には入っていない。
「レっ、レナさん!俺、別に娼館なんか…!」
「行きたいんだろ?行って来たらどうだ。押し掛けていけば、開けてくれるかも知れんぞ」
「だあ!本当に本当に、違うんだぁ!」
必死のジュリアンの訴えも、レナの耳に入っている様子はなかった。ただ、ジュリアンとマチスとの、喧嘩という程ささくれ立っていず、軽口といえる程に親密でもない、そんな角突き合いを、微笑って見ている。本当に嬉しそうに。
(…俺って、やっぱりレナさんから見て『問題外』というヤツなのだろうか…)
眉を潜めるなり、怒るなりしてくれた方が、ずっとましだった。がっくりと肩を落としたジュリアンには、貴族の令嬢から僧侶になったレナは、その手の事にはあくまでも純粋培養種であり、そもそも『娼館』なる存在に対する知識がすっぽり抜け落ちているのだという事など、思い当たろうはずもなかった。
抱えた膝の間に落とした頭を上げようとしないジュリアンの髪を、軽く引っ張る者がいる。マチスである可能性が皆無である…マチスだったら、髪を引っ張るにしてももっと強くするだろうし、そもそも薪の先で小突くというのが、ジュリアンへの扱いとしては最も彼らしいところだろう…以上、それはレナなのだろう。しかし、実際に顔を上げて確かめる前に、耳のすぐ近くで声がした。今まで全く縁などなくて、それでも現在では既に、すんなり耳に馴染んでしまった、上流階級特有のはっきりとして尚かつ滑らかな発音の、響きのいい声。
「この先のワーレンは、賑やかな所らしいよ。そこで、少しゆっくりする時間も取れると思うから、機嫌直してよ」
軍の盟主が、そこにいた。暖炉の前にぺったりとしゃがみ込んだジュリアンと同じ目線の高さに身を屈めて、にこにこと笑い掛けている。元々、港町の孤児から場末の盗賊への道を当然のように歩んだジュリアンにとって、同じ軍の仲間であるとはいえ、三貴王国(アリティア)の騎士は別世界に生きる人々であり、やはり何処か敷居の高い存在であったが、そんな彼に最も親愛の情を示してくれ、また最も普通に話し易い人物が、中でも最も身分が高いというのも、何だか奇妙な話ではある。
「…マルス様、一体何処から、いつの間に?」
マルスは、口元に指を立てて、マチスとレナを示した後、開いたままになっていた、宿の廊下に繋がる木戸を指差した。二人には、声を立てないように、と指示して、木戸から忍び足で入室してきた、と言いたいらしい。…しかし。
気配に全く気がつかなかったのは、何故なのだ。
(…うあー、素人の気配も感じ取れないなんて、俺、鈍ってんのかぁー?)
軍内にいるとはいえ、ジュリアン自身が今まで味わった事もないような穏当な人間関係と生活とが、盗賊としての感覚を衰えさせてしまったのかも知れない。もう、遊びたい、なんて考えている場合ではない、重大時である。
ジュリアンは、真面目に自身を鍛え直そう、と心に決めた。…実際、それは全てマルスの持つ『炎の紋章』のせいであり、マルスの気配がジュリアンの感覚に引っかからないのも当然であったのだが、それは少なからぬ月日が経った後、知る事実である。
「マルス様は、一人ですか?」
常日頃、誰か…大抵は赤毛の聖堂騎士、最近では幼なじみだという魔道士…が一緒にいるのを踏まえての問いであったのだが、王子は屈託なく笑って頷く事のみを返答として、逆にジュリアンを覗き込むようにしながら問いかけた。
「ジュリアンに訊きたい事があってさ。ジュリアン、色んな事知ってるから。マチスとレナも一緒にいるなんて、本当、丁度良かったかも知れない」
嬉しそうなマルスの様子に、ジュリアンは少し不安になってきた。確かに、彼が生業としているのは盗賊であって、その関係上、情報は彼の命綱ともなる貴重な物だ。しかし、それにも限度という物がある。ぶっちゃけた話、彼の仕事に関わりのない情報は、全くといってもいい程入ってはこないのだ。それに、マケドニアの貴族階級に属していた二人が一緒にいて『丁度良かった』とは、王子の質問の方向も、自ずと判ろうというものだった。
「マケドニアの一の姫について、知ってる事を教えてもらいたいんだけど」
当たりである。
「…王室関係の情報なんて、殆ど持っちゃあいないですよ。俺とは縁遠い世界の話ですからね。…あ、ただ…」
あからさまにがっかりした様子の滲む王子を目にして、慌てて付け加える。
「元々は王子様がやってた竜騎士団の親分に新しくなったのが、そのすぐ下のお姫様で、それが結構使えるらしい、ってのは、どっかで聞いた事ありますね。それは、マチスの方がよく知ってるんじゃないっすか?」
水を向けたマチスも、慌てたように首を横に振った。
「俺は、竜騎士団じゃあなかったから、詳しくは判らん」
「そもそも、王家の側近く寄れるような身分じゃあなかったんです、私達。実は、お顔もよく存じ上げませんのよ。却って、マルス様の方がよくご存じなのではないでしょうか」
続いて、マチスを補足するレナの言葉を受けて、マルスは立てられた膝に腕を預けて、その掌に己の顎を落とし込んだ。
「…そっかぁ…」
あまりに気落ちしたようなその様子に、ジュリアンは恐る恐るといった調子で口を開いた。
「そのお姫様が、どうかしたんですか?」
「今日、戦場にいただろう?だから、ちょっと気になって」
暖炉の炎に目を向けて、マルスはぽつりと呟いた。が、しかし…。
「…お姫様なんて、戦場にいました?」
「赤い鎧の竜騎士がいただろう?」
レフカンディは、草原から聖アカネイアへと至る唯一の関である。ドルーアにとっては、彼等を通す事など決してできない、言わば正念場であったはずだった。
聖アカネイアの国民が、己の支配者が聖王家である事を、忘れてしまうはずがない。〈英雄アンリ〉の名でさえ、あれほどの吸引力を有していたのだ。これが〈聖王家〉ともなれば、一体、如何ばかりの人々の心を縛っているか、想像に難くない。神の寵を受けた者に対する畏敬の念は、彼等の自負を肥大化させ、果てには自身を神と宣する王まで在ったという。
〈いつの世もこの大陸は、神の守護を受けた聖王家によって支配される〉とする、殆ど宗教であるとさえいえる妄信的教育は、既に洗脳の域である。そして、長年染み付いた〈教育〉は、一朝一夕に消え去るものでありはしない。
〈聖王家〉の名は、民衆の心にドルーアに対する新たな反抗の火種を生むだろう。弱く、小さく、しかし、逞しい民衆の抵抗ほど、始末に負えないものはない。それを恐れればこそ、聖王家の王女、そして彼等を一歩たりとも聖アカネイア領に入れたくなどなかったはずだ。だから当然、ドルーア側はこの戦いを鉄壁の布陣で望むだろう、とそう予想はしていた。
そして今日、マルスは初めて、大空を全力で滑空する飛竜を見た。マルスの知る飛竜とは、彼の幼い頃、何度かアリティア王城へやってきたマケドニアの使者が牽いていたものであり、また余興の一つとして緩やかに空を飛ぶものだったのだ。好奇心に瞳を輝かせた幼い王子を微笑ましく見やった使者の語ったところによると、飛竜とは、とかく気質は大人しく、臆病でさえあるという。しかし、今日目の当たりにした、戦場における飛竜の印象の強烈さは、騎竜した者の真紅の鎧の分を差し引いてさえ、凄まじいと形容できるものだった。
遠目にも鮮やかな真紅の鎧の竜騎士といったら、マケドニアの赤竜将軍しか有り得ない。そして、現在の赤竜将軍が誰であるのか、マルスは知っていた。
如何にも、ここでの赤竜将軍であるマケドニア王女という、いきなりの大物の登場は、戦略的には少しもおかしくはないのだ。しかし、戦術的には奇妙だったとしか言いようがない。砦に援軍を伏せさせておくには、初戦に彼等に当たる兵が、あまりにも手薄だったのだ。その為、戦闘の雌雄が殆ど決した後に現れた伏兵は、各個撃破の的にしか成り得なかった。まるで、前もって綿密に立てられていたはずの計画が土壇場で狂い、作戦の段取りを建て直す暇もあらず、そのまま決行された結果として、全てが後手後手に回ってしまった、とでもいうかの如き、ていたらく。
あそこで彼等を足止めさせ、多少なりとも戦力を削ってこそ、伏兵が生きる。もしあの作戦を行ったのが自分だったら、足止め隊としてもう少し、兵を投入したと思う。そう。できたら、足が速くて、敵の機先を制する事ができる、騎馬兵か、飛行兵。例えば天空騎士か、欲を言うならば、竜騎士。そう、今日見たような巨大な飛竜に跨った騎士ならば、その存在だけですら、敵の戦意を殺ぐ事も可能だろう。
マルスは思い返す。
両軍が激突する前の事だ。飛竜の背を踏み締めて立ち、遙か高みから彼等を女王然と睥睨した、真紅の鎧を身に纏った騎士は、暫しマルスに視線を注ぎ…それを確認するには多少遠すぎる場所にいた彼女が、己を見つめていた事を、マルスは確かに感じ取っていた…、そして、付き従うかの如き3人の天空騎士と共に、去っていった。ほんの少し、振り返るような事もなく。
彼女こそが、今日の戦闘で欠けていた駒だったのではないか?ならば何故、あそこで退いた?まるで、ドルーア側にとっての最悪の時を選んだかのような転進の理由は?
「……あの竜騎士、マケドニアのお姫様だったんですかぁ?!」
ジュリアンの呆れたような声が、マルスの思考を中断させた。顔を上げると、マチスも驚いた様子で、首を振っている。
「すると、一緒にいた天空騎士は、まず間違いなく〈三魔女〉ですね。やれやれ、引いてくれて助かった」
「…〈三魔女〉?」
マルスの疑問符を浮かべた表情に、眉を顰めて見せたマチスは顎を引き、何となく声を低めて言った。
「一の姫ミネルバ様の側近である三姉妹の事ですが、祖国マケドニアでは〈鬼姫配下の三魔女〉などと申しておりましてね。とんでもない女達ですよ。三人が三人とも手練れである上、情け容赦の一切ない戦い方をするとか。『惰弱な男共につける薬はない』などと言い切りますからね」
「…そりゃ、あんた相手にだったら、そう言いたくもなるだろうさ」
「…何か言ったか?」
「べっつにぃ」
ジュリアンは、横目で睨むマチスの視線をあからさまに外して、けろけろと言う。しかしマルスは、その話に如何にも興味深そうに瞳を輝かせた。
「ふーん、頼もしいね。面白そうな人達だねぇ。こんな状況でなかったら、是非会ってみたかったな」
「…マルス様の女の趣味ってのも、よく判りませんね。〈鬼姫〉と〈三魔女〉っすよ?どこがいいんです?」
嫌そうに顔を顰めたジュリアンに対する王子の、如何にも当然といった調子のその返答は、その場にいたマケドニア人達の度肝を抜いた。
「元々、マケドニアの一の姫は、アリティアの王妃候補に名が挙がっていた方だからね。興味があったって、おかしくないだろう?」
水底のような沈黙が、そこに横たわる。
「…えっっっ?!」
「…それって、マルス様の嫁さんになるはずだった、って事ですか?!もしかして!」
「……そんなに変?マケドニアは強大な国だし、アリティアが縁故を結んでおきたいと思っても、それこそおかしくはないと思うけど」
王子様と王女様の結婚話がおかしいとは、ジュリアンも思わない。偉い人は偉い人とくっつくものなのだ。実際、マケドニアの一の姫とやらを知らなければ、ジュリアンもこんなに驚いたりはしない。
マケドニアの一の姫、今日の戦闘で見た真紅の竜騎士は、王子とはまた別の意味で、ではありながらも、彼に負けず劣らずの強烈な印象を周囲の全てに放っていた。
「…やっぱり、ちょっと変な感じがしますけど、俺は。そりゃあ、周りがやいやい言うような事じゃあないですけどねぇ、マルス様とあの竜騎士では……」
確かに、二人で並んでいたら、さぞかし人目を引く事だろう。その迫力は、周囲に圧迫感をすら感じさせるに違いない。…それは、ある意味では、ものすごくお似合い、と言えない事もないのかも知れなかったが。
「だから、僕とミネルバ姫が、じゃなくて、アリティアとマケドニアが、なんだってば。それも、昔の話だよ。戦争が起こる前の話」
ジュリアンにとって結婚とは、惚れ合った男女が一緒に暮らす状態を指す。そこに内在するのは、互いの感情のみである。故に、国同士の結婚という感覚は、ジュリアンにはとんと判らなかったが、王子の話の後半部、『昔の話』である、という辺りはよく理解できた。現在の彼等は、はっきりと敵同士であるのだから。
「……私達も、知りませんでした、そんな事…」
「決定事項じゃなかったんだよ。他にも候補のお姫様がいてね。重臣達の意見も割れていたし、そんな状態じゃあ内外に話なんて出せないよ、危なくて。これが原因で、マケドニアともう一人の候補のお姫様の国との外交が不穏なものになっちゃって、万が一にも国交断絶なんて事になったら、アリティアの責任問題になりかねないだろう?」
もう何の関係もない話だから、言っちゃうけどね、と明るく笑って当時の国家機密を語る王子に、マチスは唖然とした様子で黙り込んだ。返す言葉を失ったらしい。その横からジュリアンは、ふと思い付いた事を訊いてみた。
「もう一人のお姫様って、何処の人ですか?」
「それは秘密」
悪戯っぽく返したマルスは、ジュリアンの返事も待たず、徐に立ち上がった。
「僕、そろそろ行かなくちゃ。すっかり長居しちゃったね。邪魔してごめん。色々教えてくれて、ありがとう」
あまりにも唐突なその様子に、ジュリアンは訝しげな視線を向ける。気のせいか、何やら慌てているかの如き風情まで感じさせるその様は、子供っぽく見えても常にどこか余裕というか、ゆとりのようなものを漂わせる王子には、ひどく珍しい事だった。
「マルス様、これからまた何か仕事でも?」
「いや。そろそろ、追い付いてくる時分だから、また場所移動するだけ」
ジュリアン達がその言葉の意味を理解するまで、そう長くはかからなかった。王子が彼等に軽く手を振って去ったほんの数分後、入れ替わるように、その特有の長衣を翻して魔道士の少年が飛び込んできたのだ。
少年は、ざっと周囲を見渡すと、小さく舌打ちした。彼が何を…誰を…探していて、そして如何に寸でのところで逃げられてしまったのか、その場にいた者全員に判っていた。
「…マルス様でしたら、つい先程までいらしたんですが…」
気の毒そうに言うマチスに、彼はまるで今始めて気がついたかのような視線を向ける。実際、マルスがいない、という事実以外、目に入っていなかったのかも知れない。
「これは、失礼を。…この後、何処に行くつもりか、というような事は…」
「何も言ってませんでしたね。何せ、マルス様ですから」
彼の言葉を遮って答えたジュリアンは、魔道士の真っ正面な目線にぶつかって、慌てて付け足した。
「ほら、マルス様って、ああ見えて、割と秘密主義というか、自分の判断でどんどん行動しちゃって、終わりよければ全てよし、というか」
もう既に、自分でも何を言っているものやらだったが、暫くジュリアンの顔に注がれていた彼の視線は、すいと外れて、今度はレナ達の方へとジュリアンの言葉を確認するようなそれが流れた。マチスも忙しなく、首を縦に振っている。
彼が魔道士だからなのか、それとも彼自身の資質に因るものなのかは判らない。しかし、この魔道士の少年には、何やら落ち着かない気分にさせられてしまうのだ。怜悧な緑の瞳が底知れない程深くて、なまじっか、穏やかそうな優しげな風貌をしている分だけ、その冷徹さを際立たせてしまっていて、何だか、黒髪の傭兵とはまた別の意味で恐い。
しかし、マチスの様子を見るに、どうやらそう思っているのは、自分だけではないらしい。
少しほっとしたジュリアンであったが、そう思わない人物もいたのだ、ここに。
「マルス様と喧嘩でもなさいまして?」
レナは、常の小首を傾げる癖を見せたまま、魔道士の少年に微笑み掛ける。それをどう受け取ったのか、彼は口の端を引き締めて、レナへと向き直った。
「ちょっとした意見の食い違いです」
しかし、彼の直視にレナは全く怯んだ様子もなく、小さく頷き掛けると更に問い掛ける。
「私の手助けは、必要ですか?マリク殿」
「…ああ、貴女は新しき神の僧侶でしたね、シスター=レナ。しかし、僕はアリティア人ですので…」
アリティアで信仰されるのは、太古の神ナーガである。光を司り、世界の全てを治めるというその神の存在は、聖教団の教えとは対立するものの筈だ。
しかし、レナはマリクに軽やかに微笑み掛けた。
「それは、関係ありません。私に、有用な助言ができる、とも限りませんし。だけど、誰かに話すだけでも、考えがまとまったり、気が休まったりするでしょう?」
「いいえ」
間髪を入れずに返答したマリクであったが、己の言葉不足に気がついたのか、少し冷徹な仮面を崩して、微笑らしきものを浮かべて続けた。
「僕は自分で、マルス様の言葉の意味を考えなくてはいけない。人の助けを借りてはいけないんです。……でも、…そうですね。マルス様が僕に会ってくれないのも、そのせいなのかも知れません。自分でも気がつかないところで、マルス様に甘えていたのかも」
後半、半分独り言のように呟いたマリクは、決然と顔を上げた。
「ありがとうございます、シスター。僕は少し、一人で考えてみます」
レナの前、謝意を示した礼に腰を屈めたマリクに、レナは慈愛の微笑を掛ける。
「〈貴方の上に主の恩寵がありますように…〉」
「〈貴女の魂が永久に光の版図でありますように…〉」
この聖教徒への成句には、皮肉げな笑みとナーガ神教の成句で返して、ジュリアンとマチスへ軽く礼を残すと、先程とはうって変わって落ち着いた様子で身を翻す。優雅な流れを描いた魔道士の長衣は、彼の退室まで少しも乱れなかった。それを皆、ただ無言で見送ったのだが、男達とは対照的に、レナは如何にも楽しそうな様子であった。
「とても聡明な方ですのね。魔道士という人達は、皆そうなのかしら?」
感嘆の息と共に、誰にともなく語りかける。
「それに、マルス様の事が大好きでいらっしゃるのね。お可愛らしい」
あの魔道士に対して、如何にも微笑ましい、といった表情を崩さないレナを、ジュリアンは思わず尊敬した。
END・
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