はじまりの終わりはおわりの始まり〜結


この世で最も大きな たったひとつの勇気
この世で最も大きな たったひとつの魔道



その部屋に足を踏み入れた瞬間、一種異様な感覚が襲う。まるで厚味も温度もない水に無理矢理押し入ったような弾力を備えたそれは、直接体の触れる床にまで及んでいて、妙にふわついた感触をもたらす。多分、雲を踏むような、とはこういう事を言うのだろう。床はすぐに元の堅さを取り戻したけれども、一瞬の酩酊にも似た感覚の後には、己の肌に新たに皮一枚、ぺったりと張りついたような触感だけが残った。マルスが大きなマントの端から出ていた手の甲を忙しなく擦る様を見て、彼の後から部屋に入ってきたマリクは苦笑した。
「すみません。結界を張っているって、言い忘れていました。気持ち悪かったですか?」
それはマリクにはよく馴染んだ感触であったのだが、初めての人間には不快感を喚ぶかも知れない。そしてマルスが今まで、魔道結界に触れた事があるとも思えなかった。アリティアにもタリスにも魔道士は存在しないし、王子はこの二国にしか居た事はないのだから。
「結界って?」
「魔道的に鍵を掛けておいたんです、誰も入れないように」
何しろこの部屋には、あまり人に触られたくない物が目白押しで、と、冗談めかして肩を竦めて見せたマリクの言葉を受けて、マルスの目線が部屋をゆっくりと映していく。
作り付けの棚の上には、小指の爪ほどの大きさの宝石の原石が幾つか。乾燥させた香草は、枯草のように見えるだろう。燻された木片は真っ黒に変色していて、生き物の干物さながら。
これらは魔道士にとっては重要な、呪法の媒体となる物の数々だったのだが、一般人の目には、訳の分からないゴミの山、と見えるであろう事もまた、マリクはよく理解してもいたので。アリティア、オレルアン、そして影ながらタリス、と大別して三種に分けられる反ドルーア連合軍の面々は、魔道士という存在に慣れていない点では大差ない。決して触れてはいけない物等の区別もつき難い訳で、マリクが自分の不在中の部屋に神経をつかうのも当然であったろう。
その事については言わずとも理解したと思しきマルスは、小さく首を傾げた。
「…でも今、僕は入れたよ?」
確かに奇妙な不快感は感じたが、何という程の事もなく、入室できてしまった。これでは、あまり意味がないのではないだろうか。
マルスの疑問は、その目の色に歴然と現れていた。
「マルス様は、炎の紋章を持っていますから」
しかし、マリクは即答する。如何にも当然といった様子で。
「……これ?これって、そんな事もできるの?宝箱を開けられるっていうのは、聞いてたんだけど」
「僕の見たところでは、炎の紋章は、あらゆる結界を中和してしまうみたいです。宝箱っていうのは、一種の魔道結界ですから」
マルスの顰められた眉根に現れた疑問は、先程よりも更に深くなっていた。マリクは苦笑を深くすると、先程まで使用していた道具類…銀杯やランプ、水筒など…を持ったままの手で、あまり広くはない室内の端に添えられたベッドを指し示した。
「ひとまず、座って下さい。話は落ち着いてからにしましょう」
そう言い置いて、部屋に据えられたテーブルに取り敢えず道具を置いて、まず初めに何をすべきか、と部屋を見渡したマリクに、マルスはふと思い出したように、手早く身を包むマントを脱ぎ出した。
「これ、ありがとう。助かったし、すごく面白かった」
マントを脱ぐのを忘れる程、魔道士(マリク)の部屋は興味深かった、という事だろうか。魔道士のマント…守護衣を大急ぎで脱いで、本来の持ち主に差し出すマルスに、彼は目端を綻ばせた。
「…『面白かった』ですか?じゃあ、今度また着てみます?」
「いや。もう着ない」
些かの逡巡もなく、マルスはきっぱりと首を横に振った。しかし、目の前のマリクの様子に、己の態度への誤解を感じ取ったらしい。困ったように付け加える。
「だって、これは他の人に着せたりするべきじゃない物だろう?魔道士の正式なマントだって言ってたよね。それって戦士にとっての剣みたいな物じゃないの?もしかして」
己の分身。魂の相方。マルスが言いたいのはそういう事であり、そしてその認識は、確かに正しい。
「だから、僕が着たりしちゃいけないし、マリクも人に貸したりしちゃいけない。あ、今回は本当にありがたかったんだけど」
言い募るマルスに、マリクは溜息めいた細い吐息を、気付かれないようにそっとついた。しかし、すぐに気を取り直したような微笑を作って、守護衣を受け取る。
「だけど、よく判りましたね、守護衣がそういった物だって」
「マリクと同じ気配がしたからね」
澄み切って純粋なその気配…魔道気…は、マリクにあまりにもしっくりと溶け込んでいて、このマントがマリク以外の者の為には存在しない事を如実に物語っている。
「だから、僕が着てると違和感みたいなものがあって、そんな所もちょっと面白かったんだけど。やっぱり、マリクが着てる方がいいね。しっくりくる」
守護衣を抱えたままの彼を前に、悦に入ったように頷くマルスに、マリクは小さく肩を落とした。
マルスが看破したように、守護衣はマリクそのものだった。要するに、守護衣の魔道気がマルスを包み込む図というのは、彼から見れば、マルスを守る自分の姿に他ならず、何だか初恋の少女と初めて手を結べた時のような、嬉しいと恥ずかしいの入り交じった、それでもやっぱり嬉しい、という幸福絶頂状態であったのだが、人の個性の色を読み取る、などという芸当をして見せてくれた王子は、流石は『ナーガの巫女姫』の弟、と評するべきか。そんなマルスの感性の鋭さがちょっぴり悲しいマリクの心は、当然マルスには伝わらなかった。



「少し待ってて下さい。今、暖炉に火を入れます」
しかし、一番最初にすべき事は決まった。それが守護衣である事とは関係なく、上着を脱いだら寒いだろう。王子は就寝前といった風情の薄い部屋着なのだから。
だが、ともかく手元を片付けてしまわない事には、何もできない、と、気を取り直すと同時に守護衣を抱え直したマリクは、マルスを見返りながら、守護衣の定位置であるところの棚の方へと移動する。
「いいよ、僕がやる」
しかし、そんなマリクに事も無げに返答して、暖炉の隅から取り出した火掻き棒で、燃え残りの炭を掻き回し出したマルスに、彼は目を丸くした。
「マルス様がそんな事?!」
マリクの驚愕の方が、王子には意外であったらしい。少しぽかんとした表情を見せたが、すぐにマリクの驚きの根本が『それは王太子のやるような事ではない』ということだと理解したようだ。
「大丈夫。僕、結構上手なんだよ」
にこやかに言い置いて、マルスは暖炉の脇に積まれた細い薪を手に取った。そしてランプから種火を取って、火を起こす。その一連の動作は、確かに慣れを感じさせるものだった。
「あれから、色々覚えたんだ。居心地の良い寝藁の敷き方とかね。今まで何も知らな過ぎた分、これからは色んな事をやっていかなきゃ」
そんな王子の本当に何気ない様子に、マリクは一瞬言葉を失った。それは本来、知らなくてもいい、アリティア落城などという事さえなければ、多分、生涯知らずに済んだ事なのだ。
己が感傷に走り掛けている事に気付いたマリクは、その口元を引き締めた。
マルスは2年前の事変を、前向きに受け止めている。それが記憶の中で風化している訳でもなく、ただ過去の出来事を事実として認めている。そして多分、そうあらねばならないのだ。国際政治の場に出て行くためには。
感情に走って論理など振り翳しては、あっという間に相手に食らい尽くされる。それが、国同士の駆け引き、国際政治というものだ。そして王子は否応なく、そういう世界で生きていかねばならないのだから。
それは重々承知の上であったはずなのに、感情が邪魔をする。そもそもマルスは、マリクにとっては数少ない、平静を貫けない人物なのだ。
こんな感傷など、王子に対してだって失礼だというのに。まだまだ未熟という事だろうか。
「ほら、早くそれ、片付けちゃいなよ。僕は早く、炎の紋章と宝箱と結界の関係を訊きたいんだからね」
急かすようなマルスの口調に、マリクは一瞬で思考を切り替えた。
感傷を切り捨てて、理性で行動する。できないはずはないだろう。何よりも得意であった事だ。そして、それは魔道士の基本でもある。
てきぱきと片付けを終えて振り向いた時、マリクの表情はもうすっかり元の落ち着きを取り戻していた。



火の調子も落ち着いた暖炉の前に陣取って、二人は座っている。さて、といった様子で向き直ったマリクに、マルスは居住まいを正した。
咳払いを一つ。
「魔道っていうのは、基本的に全て意志の力からできているんです。まず、扉を開けようという意志があって、手を伸ばして扉を押すという動作がある。これが『扉を開ける』という魔道です」
「…え?だってそれは、誰でも日常的にする事の一つで、全然特別な事でもなくて…」
「そう。極日常的な事です。魔道っていうのは、何処にでも存在しているものなんですよ。魔道士とは、そんな意志の力を強く持ち、更にそれを最大限に利用し、制御できる者の事をいうんです」
「……うん。判った。あんまり判ってないかも知れないけど、取り敢えず飲み込んだ、と思う。要するに、扉を開けるのと風を起こすのは、その意志があった上での結果、という点で、魔道士にとっては、どちらも区別なく魔道なんだね」
気分はもうすっかり魔道学初級講座である。マルスの優等生な飲み込みの良さに、俄か講師は嬉しそうに微笑む。
「その通りです。…で、ここからが本題なんですが、その意志力というのは物にも宿るんですよ。つまり宝箱は、初めから『閉める』という意志を前提として作られていますから、これを閉めた時、『閉める』という魔道が掛けられた事になる訳です。中に物を入れる時には、より強く閉める意志が働きますよね」
マルスは、大きく頷いた。
「強い意志力は、魔道を強固なものにする力です。そして『空間を閉じる』事を、結界といいます。そうすると宝箱というのは、立派な魔道結界という事になります」
「そして炎の紋章は、魔道結界を無効化する?」
「そうです」
ようやく本題に辿り着いた形になったが、しかし《迷いたいならば近道をせよ》とも言うし、ここは基本から説明した方が早道だったと思う。それに、所有者は己の魔道器の特性について熟知している必要がある。
マリクの目は、自然と王子の首に掛けられた鎖の先に存在しているはずの炎の紋章を透かし見るようなものになる。
マリクの作った魔法陣に付随して存在したはずの結界を苦もなく乗り越えた上、それを結界作成者であるマリクに微塵も感じさせなかった。
それが、炎の紋章の驚くべき特性の、多分一つ。それだけではない、という思いも強いが、現在詳しく調査するという訳にもいかない。
しかし、マルスは納得したらしい。今度は理解を込めて、深く頷いた。
「うん。よく判った。…でもそうすると、もしかして、宝箱以外のものも開けられるのかな、これ?それこそ、扉とか?」
本質の理解は、応用力を育てる。そして、それこそを期待していたマリクは、にっこりと笑う。
「扉は『閉める』と『開ける』を同じくらいの比率で持っていますから。…開かずの扉と言われるようになって、実際に100年近くも開けられた事がない位の扉だったら、周囲の人間の『開かない』という意志力が扉の持つ初期的な意志に付随されて、結界を作るという事もあるとは思いますけど…」
「…あまり現実的じゃないね、それじゃ」
「そうですね。やっぱり現実的に使うとなると、宝箱開封じゃないでしょうか」
王子自らが軍費増強に、文字通り奔走する、というのも、何やらすごい光景な気もするが。
「……おまけに、実用的でもあるし?」
己の想像にちょっと視線を飛ばしてしまったマリクに、マルスが悪戯っぽく笑う。
「これからはジュリアンに、色々教えてもらおうかな」
「…何を、です?」
「盗賊の心得、とか」
がっくりと肩を落としたマリクに、今度は屈託なくマルスは笑った。決して褒められたものではない会話の内容にも関わらず、マルスのそんな明るい笑いが、マリクには何よりも嬉しかったのもまた事実であるのだが。
《惚れたが負け》という言葉がある。それは恋愛関係にある男女以外にも、適用されるものなのかも知れない。
重くない溜息を一つ。
ふと見ると、火に掛けられていた鍋の中で、湯が沸いていた。おもむろに立ち上がり、部屋の隅の棚まで歩み寄って、取り出した枯草を先程の銀杯に摘まみ入れる。そして、それに湯を柄杓で掬って注ぎ込んでから、ようやっと王子に向き直った。
「どうぞ、マルス様」
銀杯が熱くないように、やはり棚から取り出された銀糸で縫い取り模様のある軟らかな布に包んで、という気配り付きで。
「香草茶です」
「うん。…でも、これってこういう使い方をしてもいい物なの?」
その口調に改めて見れば、マルスは神妙な顔。この銀杯を祭事器のような物だと認識しているのが、よく判る。そして、それも間違ってはいなかったのだが。
物には、独自の意思が宿る。故に、魔法使いは呪法具を大切に扱う。法具自身の意志力で呪法を強化する為、それこそ、呪法別に新たな法具を用意する者もいるくらいに。
しかし、マリクは悪戯っぽく微笑する。
「普段は、ただの道具ですから。僕もよくこれでお茶を飲むんです。これも、現実的で実用的な利用法だと思いませんか?」
他の魔道士が聞いたら目を剥くような事をさらりと言い流したマリクは、再度マルスに銀杯を差し出す。そして、軽やかに笑ったマルスは、今度は迷いなくそれを受け取った。
「疲れの取れるお茶です。大変な一日の締め括りに、長い話をしてしまいましたね」
マルスが頭を横に振ると、暖炉の炎に照らされた、普段は漆黒と映る髪が、本来の藍の色を一瞬露わにした。
「すごく面白かったし、勉強になった。だけど、マリクは疲れてるだろうに、すっかり長居しちゃったね」
「僕なんか、マルス様に比べたら全然大した事ありません」
それは、本当だった。確かに疲れていないと言えば嘘になるが、戦場での消耗はもう随分と抜けている。夜遅くまで、オレルアンとの外交折衝に当たっていた王子は、精神的にも肉体的にも、誰より疲れているはずだった。
しかし、マルスはそれを、彼に対する心遣い、と受け取ったらしい。再び頭を横に、今度は小さく振って、そっと銀杯に口を付けた。
「飲み終わったら帰るよ。明日もまた忙しくなるからね」
未だ子供っぽさの残るその横顔には、隠しきれない疲れが滲む。
「マルス様、今日はもう寝て下さいね」
ついマリクの口をついて出た言葉に、マルスは驚いたように眉を上げた。
「…変な事言うなぁ、マリクは。寝るよ、勿論」
「すぐ、ですよ。条約締結の文書に目を通して、署名して、なんて事はせずに、すぐ!」
瞬間、マルスは言葉に詰まった。そして、マリクにはその一瞬の間で充分だった。
「そんな事は、明日にして下さい。今日のマルス様は、もう充分過ぎるくらいに働いているんですから。いいですね」
カマを掛けてみただけだったのに、まさか本当にその気だったなんて。マルスに対する心配が不機嫌そうな声音になって現れてしまったマリクに、マルスは慌てて茶を飲み出した。さっさと飲み終えて自室に帰り、状況をうやむやにしてしまいたかったのだろうが、茶はまだ、猫舌気味の王子には熱すぎた。2、3口を付けただけで、諦めたように銀杯を再び両の手で包み込んで降ろす。それを立てられた膝に添えて、暫くそわそわと指を動かしていたが、やがて、恐る恐るといった風情で切り出した。
「……あの、明日は明日でやる事があるしさ。今日できる事は、今日中に済ませておかないと…」
「いいですね!」
マリクとて、一歩も引く気はない。マルス自身の体に関する事なのだ。殆ど睨み据えるが如きマリクに身を縮めていたマルスの肩が、微妙に揺れる。そして、ついに堪えきれず、といった調子で、声を立てて笑い出した。
「マリクらしいね。…というか、多分、これが今のマリク流なんだね」
「…褒めてます?」
「勿論」
マリクには、主君に対する臣下の立場を逸脱した、という自覚はある。王子は怒ってはいないようだが…怒るような人ではなかったが…、しかし、そんなに笑わなくても、と思うのだ。王子の笑いがからかいを含んだものではない事だけが、まだしも、である。
不服そうに黙り込んだマリクの横で、マルスは殆ど、幸せそうと表現してもいい程にこにこしながら、しかし、そっと口を開いた。
「…僕の話を聞いてくれるかな。僕はこういう事、あまり上手じゃないから、もしかしたらきちんと話せないかも知れないんだけど、それでもマリクに伝えたい事があるんだ」
戸惑いを含んだマリクの様子に、更にマルスの目に微笑が零れる。そして、彼は呟いた。
「……マリク、今の僕でも構わない?」
意味がよく判っていないのが顔に現れていたのだろう、マルスは続ける。
「僕は7年前から、随分変わったと思う。変わらなくちゃいけない状況もあったし、実際、変えたかった部分っていうのもあったしね。でも、マリクにとっては7年前の僕が『マルス王子』なんだよね。だからさ」
それは確かに、再会してからこっち、マリクがずっと感じてきた事であった。
「7年の空白を埋められないかな、なんて、考えたりもしたけど、そんな事は無意味だし、無理なんだよね、多分。僕にマリクのカダインでの生活を追体験するなんて、不可能だし、マリクもきっとそう。だけど、それでいいんじゃないかなと思って。始めから今の僕を見てもらった方がずっと前向きだな、って思ったんだ」
マルスは、取り敢えず言いたい事を全て言ってしまうつもりのようである。そうでなくても、マリクに口を挟もうという気は毛頭なかった。
「僕は、8才だったマルスは、9才のマリクがとても好きだった。それは絶対忘れないし、否定する気もない。だけど、今15才の僕は、16、…もう17才になってたよね…17才のマリクの事が好きだし、今の17才のマリクと友達になりたいと思う」
そしてその時、早く大人になりたがっていた、誰よりも高い矜持を抱えた少年は、現在のマリクと同化するだろう。甘えん坊の幼い王子は、目の前のマルスに溶け込むだろう。
7年振りの再会など、関係ないのだ。きっと、10年経っても20年経っても、その時また新しく知り合えばいい。
マルスの言葉は、どこか紗の掛かっていたマリクの意識を一気に明瞭にした。今まで、紗が掛かっていたという事すら、気がつかなかったのだ。
いつでも忘れた事などなかった。大切だと思い、守りたいと思い、そして、彼の為にこそ魔道士になりたいと願い、…それが、マリクの中でマルスの時間を止める事に繋がった。思い起こす王子の姿は、いつも8才の頃のまま。そして、それが離れている間の王子の成長から目を背けさせた。そして、王子はそれに気がついていたのだ。
マリクも、今では気がついていた。マルスの笑顔が、草原で見た時のものとは違っている事に。先刻までの無邪気な幼さの滲むものではない、素直ではあるがちゃんと年相応の、時には、年齢以上のものまで感じさせる微笑み。それはきっと『今のマルス流』のもの。
マリクはがっくりと肩を落とした。
「…マルス様に、御気遣いさせてしまって…」
つまりは、そういう事なのだ。本当に、王子の方が何倍も大人だ。
それでももう、悔しかったり自分に腹立たしかったり、といった感情は不思議と湧いてこなかった。マルスが『今のマリクが好きだ』と言ってくれたからかも知れない。
「マリクこそ、そんなに気を遣う事ないよ。別に、僕の臣下って訳でもないんだし」
しかし、そんなマリクの耳に、何だか聞き捨てならない台詞が飛び込んできた。
「…はい?」
「その事も、きちんと頼んでおこうと思ってたんだ。マリクが僕達に助力してくれるように。…カダインが永世中立を主張しているのは知ってるけど、でも」
「ちょっと待って下さい」
何か、大きな食い違いを感じる。
「どうして、僕がマルス様の臣下じゃないと思うんですか?」
「だってマリク、カダインに魔道の勉強に出かけていって、それでカダイン人になっちゃっただろう?だから、僕の臣下じゃあないんだよ」
基本的に人間とは全て、国に属している。そして、国に属する全ての者は、すべからく王の臣下である。しかし、例外はある。
僧侶と魔法使い。
僧侶は、ほぼ大陸中に根を張る聖教会の母体である聖教団に属しており、そして魔法使いは、全てカダインに属する。この二つの存在、殊に強大な力を持った魔法使いは、国という集合体に属するには危険すぎるのだ。権力欲。権勢欲。征服欲。魔法使い等自身とは無縁といっても過言ではない類の感情であったが、魔法使いではない人々にはそんな事は判らない。もし彼等にその気がなくても、利用もされるだろう。魔法使いが、そのような欲に関わる事など、あってはならない。故に隔離された。国と大多数の人々を守る為の措置ではあったが、勿論、魔法使い達は気にしなかった。渡りに船ですらあったろう事は、想像に難くない。これで、世情の些末事に捕らわれる事なく、魔道研究に没頭できる訳だから。
閑話休題。つまりは、魔道士は国に属さない。故に、魔道士となったマリクはアリティアに、次期王(マルス)に属さない。
正論である。これ以上ない程に論理的な意見であった。…マリク以外の魔道士にとっては。
「僕は、アリティア人です」
マリクの声は、カダインの住人が聞いたら皆が皆、耳を疑うであろう程に、感情の色が鮮やかだった。
「僕が今までに、アリティア人ではなくなった事なんて、一度だってありません。だから、今も昔もずっと変わらず、僕はマルス様のものなんです」
マルスは、少し悲しいような困ったような、そんな顔をしていた。別に、我儘を言っているつもりなどないのに。本当に、マリクにとってはそれだけが真実であったのに。
マリクの大好きな綺麗な姉弟。彼に初めて『魔道士』という道を指し示してくれたのは、その姉姫の方だった。元より、剣技の才能に恵まれなかったマリクにとって『魔道士』とは、彼等と共に在る為に選んだ立場であり、手段であった。故にこそ、他の魔道士のように、魔道の世界にのめり込みそうになる事を戒める、強固な自制心と客観性を保ち続けられたのだ。
全ては彼等のために。
なのに王子は、マリクがアリティア人である事を止めたのだと、王子に属する立場を捨てたのだと、そう思っていたのだ。今までずっと。
何故、信じてくれないのか。マリクの真実を。
涙が出そうになる程の激情に捕らわれた事など、過去そう何度もあった訳ではない。マリクは勢いよく立ち上がると、諸々の魔道具の仕舞われている棚に早足で近づき、そしてすぐ、半ば駆け足で戻ってきた。つられて立ち上がったはいいが、戸惑いに立ち竦んだ状態であったマルスに、ずいと手にしていた物を差し出した。
真紺の天鵞絨を張られた本。表面には、流麗な古代文字が銀で象眼されている。
「手を置いて下さい」
「…えーと」
「魔道士の僕と新たに契約を結べば、何の問題もありませんよね」
「……契約?」
「主従契約。別に今更だし、あまり意味もないんですけどね、元々、僕はマルス様のものなんだから。それでも、マルス様は気が楽になるでしょう?」
「…えーと」
「手を置いて下さい。…それとも、僕を臣下にするのは、嫌ですか?」
凍土を這う風の如きその声音に、マルスは慌てたように魔道書にそっと手を添えた。己の目が据わっているだろう自覚もあるのだ。本当に、我ながら大人げないと思う。
マルスの向かい側から同じく魔道書に手を掛けたマリクは、少し緩んだ瞳で王子を見遣る。マリクの理性は、王子は少しも悪くないのだと知っていた。しかし、王子は少し緊張した顔で、それでもマリクに不平を訴えるでもなく、そこにいる。マリクの望み通り、魔道書に手を置いて。マルスは気付いているだろうか。これが魔道士なりの剣の誓いだという事を。
『剣の誓い』で、従が主に強要して座に着かせた、など、未だかつて聞いた事もない。普段なら、マリクも決してしなかっただろうが、自分が思った以上に激している、という事だろうか。そして、マリクが普通の状態だったら、マルスもこのような座に着く事はなかっただろう。マリクが魔道士である、という理由で。
目を伏せ、呼吸を整える。身に付いた訓練の賜で、それだけで精神が沈静化する。
ならば、今現在の状況に感謝すべきなのだろう。マリクはずっとこうしたかったのだから。
「《我が肉、我が血、我が魂こそ、我が剣
 剣の主となるに異存なくんば、我が剣を受け賜え》」
『剣の誓い』の成句に、マルスは少し思案に暮れたようだった。やはり、拒否されてしまうのか、との思いが、去来したのも、一瞬の事。王子は魔道書に置かれたマリクの手を取って、その掌にそっと口づけた。こんな時、剣士相手だったら、差し出していただろう剣の刀身に口づけて返すべき状況で、マリクにはそれがなかったから、《我が肉》であるマリク自身に対するものとしたのだろう。
「アンリの短剣にかけて《確かにお受けした》」
王子のその行動に、驚きのあまり竦んでしまったマリクに、マルスの返礼が沁みてくる。『アンリの短剣にかけて』と、彼は言う。これは、アリティアの次期王とカダインの魔道士との、ではなく、マルスとマリク個人の『変わらぬ友情』から成立した誓いなのだ、と。
たった一日で、こう何度も泣きたい気分になったのは初めてだ。しかし、今度は先程までと違い、とても暖かな感じだった。
「マルス様。望みを一つだけ、おっしゃって下さい。僕は、それを叶える魔道を掛けます」
何だか自分でも気恥ずかしくなる程、感情の溢れたその声に、王子に気付かれぬ程度に顔を赤らめたマリクを、マルスの視線が追いかけた。
「…魔道を?」
「そうです。マルス様の意思を知り、同じ望みを持って支える。それが僕の誓いです」
マルスは一瞬、目を伏せた。
「マリク。聞いてくれる?僕は、今この瞬間だけでいいから魔道士になりたい。そして、実現するまで絶対に解けない魔道を掛けたい」
望みが『魔道士になりたい』とは、どう受け取ればいいのだろう。マリクは、慎重に目の前の王子を見つめ返した。
「……何ですか?」
「『僕達は、アリティアへ還る』」
真っ直ぐにマリクを見据えたマルスは、いっそ厳かであるとすらいえた。帰りたい、という望みではなく、帰ろう、という呼びかけでもなく、還る、と言い切る、その明確で決然とした意思。マルスは、それは自身がしなくてはならない事なのだと、確かに認識している。
叶わないはずもあろうか、これほどの確固たる意思力の前に。
「…マルス様、僕はずっとなりたかったものがあるんです」
「魔道士だろう?」
マルスの即答に、マリクは微笑って首を横に振る。
「それは、間違ってはいないけど、正確でもありません」
「…じゃあ、何?」
「アリティアの宮廷魔道士」
少し目を見開いた王子に、マリクは目端で笑い掛けた。
「…僕の長年の夢です。叶えて下さいますか?」
これもまた、魔道を強化する一つの術。
マリクの前で、マルスが微笑う。明るく、とも、屈託なく、とも言えない。透明な、それなのに不思議な力強さのある微笑。
王子は小さく、しかししっかりと頷いた。


きっと、望みは叶うだろう。それが、心からのものならば。
決して諦めないこと。
それが、この世で最も大きな、たったひとつの力。



END


next:MAP7
A port town WARREN






 ◆→ FORWARD〜PASCAL 7-1
 ◆◆ INDEX〜PASCAL