風のしろしめすは贖罪の荒野〜ミネルバ


本当に欲しいものがあるのなら 何をおいても手に入れる
何を捨てても 誰を傷つけても
本当に手に入れたいものの為ならば 墜ちる事さえ厭わない
この感情を なんと呼ぼう



肌を切り裂くような鋭い風が、全身を襲う。それに、小さく息を詰めて、体を前倒し気味にして、足下に力を入れる事で受けて立つ。薄手に作られた革靴の滑り止めのついた底を通して、相棒である飛竜の肩口の筋肉が隆起するのが判った。一際高く、強く、風を切り裂くためにより大きく翼を広げる前動作に、片腕に絡めた手綱を小さく引いて合図を送る。すると、飛竜は撓ませていた翼を一杯に広げて、滑空し始めるのだ。それはまるで風と風の狭間を見つけて、そこに滑り込んでいくかのようで。
風を捕まえる。風の手綱を握りしめて、制御して、そして自身が風になる。
最も愛してやまない、その瞬間。



ミネルバの歩みは、いつも足早だ。女性らしからぬ大股で、男性らしからぬしなやかさで、常に確固たるリズムを刻む。そして今、その手の騎竜用の長手袋を外し、上着の袖を捲り上げながら、宮殿の廊下を進む間もやはり歩調は少しも弛まなかった。上空の冷気と薄い大気から身を守る為のその上着は、地上では少し厚すぎる。とはいえ、既にその半分は外されていた前開きの留め金といい、その様は、ただの竜騎士であるのならいざ知らず、とても一国の、それもマケドニアという強大な王国の王女のみならず、赤竜将軍というマケドニアの一翼を担う重鎮に相応しいとは、とても思われなかったのもまた、確かであるのだが。
「兄上は何処にいる?」
騎竜飛行から帰ったばかりのミネルバの目に最初に飛び込んできた通りすがりの侍女こそ、災難であったかも知れない。廊下を闊歩する彼女の姿に、慌てたように立て膝をつく程に深く腰を屈めた侍女は、その口の端から押し殺しきれずに滲む鬼姫の怒りに、すっかり震え上がっていた。
ミネルバの眉根が、不快げに寄せられる。
「知らないなら、知らないでいいから、さっさとそう言え」
兄と違って、女に優しくする主義という訳でもないので、憮然とした態度を取り繕うともしない。鬼姫と呼ばれるミネルバの気性の荒さは、マケドニア宮廷内ではつとに有名で、激越した彼女を押さえる事ができるのは、彼女の兄王子、今現在のマケドニア王のみだという噂を知らぬ者もいないほどだった。しかし、宮廷内の自分の評判などというものに全く興味はなく、周囲に対する気遣いとも無縁なミネルバにとっては、目の前で怯える侍女は苛立ちの種にしかならない。
「…今のお時間は、西翼の、私室の方にいらっしゃいます…」
幾度も息を呑み込んだ末の絞り出すような返答を最後まで聞かぬ内に、ミネルバは西翼へと踵を返した。それだけ判れば充分だったし、のたのたとした侍女の様子にもうんざりしていたので。
彼女の歩む先で、今まで忙しく廊下を行き交っていた侍女達が次々と平伏していく。しかし、まるでそれらは全く目に入っていないかのように、ミネルバは前方をしか見ていない。事実、その通りであった。今のミネルバの頭には、彼女の行き着く先にいるはずの男の事しか存在していなかったのだから。



「兄上!」
来訪の先触れを立てるどころか、戸を叩く事すらせず、ミネルバは怒声と共にその重厚な扉を蹴り上げるような勢いで押し開いた。そして、いきなり目に飛び込んできた光景に、言葉もなく凍り付く。
そこに、女がいた。胸元の大きく刳った、あまり上品とは言い難いドレスを身に纏った女が、ミネルバの兄であり、マケドニアの国王でもある男の膝に殆ど乗り掛かるようにした姿勢のまま、大きく開かれた扉の前で立ち尽くすミネルバへと目線を流していた。態と崩したように結い上げられた豊かな髪が幾筋か乱れて剥き出しの肩に垂れ下がっている様も、ひどく扇情的なその女が、真っ赤な唇をミシェイルの耳元に息も掛からんばかりに近づけて、一体何をしていたのか、想像に難くない。ミネルバの表情が、すっと消える。
完全な無表情の中でその瞳だけが感情を映して、燃える炎を吹き上げた。
「ミネルバか。無粋だぞ。…なんて格好をしている。赤竜将軍ともあろう者が」
ミシェイルは少しも悪びれない。ミネルバから視線は外さないまま、余裕たっぷりといった様子で、彼の目の前を滑る長い髪の一房をその指先に巻き付け、それに軽く口づけると、女の白い肩口を小さく押した。すると、それが合図であるように、女はミシェイルの前からゆっくりと退いた。ドレスの裾を持って腰を屈める仕草も、身を翻して奥の間へと下がっていく足運びも、宮廷ではあまり見られない、気怠い色気に溢れていて、彼女の職業を語るまでもなく示唆している。
「…貴方にだけは、言われる筋合いはありませんよ。王位に就くまで、今の私と同じ位にいて、なおかつ今の私よりももっと気楽な格好をしていた人間にだけは」
ミネルバの頬がひくりと引きつる。流石にその眼光の鋭さから、彼女の根深い怒りを感じ取ったか、ミシェイルは視線をずらして、些かわざとらしく咳払いをした。
「何か用があったのだろう。早く言え」
「…何故、マリアを人質などにしたのだ…」
絞り出すようなミネルバの言葉に、ミシェイルは大仰に肩を竦めて見せる。
「人質などと、人聞きの悪い。マリアは、静養に出かけただけだ」
「今!この国の状態で!ドルーア軍の駐在しているアカネイアの城に居を移す事が『静養』だと?!笑わせる!そんな話、誰が真に受けるものか!!」
「ディール城を守っているのは、グルニアの騎士達だ。グルニアとの友好のより強い結びつきとして、招きに応じてマリアは出かけていったのだ。暫くしたら、帰ってくる」
グルニアとの友好など、建前を取り繕う仮面に過ぎない。その背後に聳えるドルーア帝国に気づかぬ者などいるはずもないのに、淡々と返すミシェイルに、激昂のあまり息が詰まる。
「それに、マリアは聖教団の尼僧になった時点で、マケドニアの王位継承権を手放している。我が国にとって、人質としての価値は薄い」
薄いどころではない。マリアを人質にしたいのなら、それはマケドニアではなく、ミシェイル個人の肉親の情に訴えるしかない。ドルーアもそれを狙っているのだろう事は、想像に難くない。平和な時代からずっと、マケドニアの王子の妹思いは、諸国にも名高かったから。しかし、もうマケドニアに王子はいない。
ミシェイルは、故にマリアは人質ではない、という説明材料としてこの事実を持ち出したのだろうが、ミネルバには、それは全く違う意味に受け取れた。
ミシェイルは国王としての責務を優先させるだろう。マケドニアの不利益になるのならば、彼はマリアをあっさりと切って捨てるだろう。つまり、マリアの安全を保障するものなど、全く存在しないのだ。
頭がひどく重かった。このまま身体毎、床に沈んでいきそうな程に。ミネルバは、ともすれば落ちていきそうになる額を掌一杯に支え、必死の思いで擡げる。この男の前で醜態を見せる訳にはいかない。決して。
「……その為に、尼僧にさせたのか」
「まさか。あの当時で現状が予測できる訳がなかろうが」
「だけど、予想してはいた。可能性として」
マリアが尼僧になったのは、ミシェイルが王位を継いですぐの事。表向きは自発的なものとされているが、実際には、国王の意志が働いていた事は歴然である。10にも満たない少女の希望と引き替えに、国が政略の重要な駒の一つである『王女』を失うはずがないのだから。
他国、又は自国の王族か有力貴族へと嫁ぐ事。そして、両家両国の友好和平条約の生きた証となり、ゆくゆくは双方の血を引いた子供、それも男の子供を産む事。
結婚外交。それ以外、王女に求められる仕事はない。つまり、基本的に結婚を許されない身となったマケドニアの末姫は、王女であって王女ではなくなってしまったのだ。マケドニアという国にとって、これは大きな痛手のはずだ。それによって得たものはと言えば、幾つかの僧侶特権。国境を越えるのに、手形を必要としない事、そして、世俗的な事柄とは無関係であり、その体と精神は不可侵のものとするという条文。つまりは、もし何か不測の事態があったとしても、最低でも彼女の命だけは守られるだろうという保証だけである。そんな、神に捧げられた者への不文律だけでは、とても益になるとは言えまい。…そう思われていた。あの当時、2年前には。
躊躇なく言葉を返すミネルバの瞳は、あくまでも冷たくかつ激しくミシェイルを責めている。ミシェイルは溜息を吐きながら、頬に被さっていた己の長い髪を掻き上げた。
「…お前は、俺の事をとんでもない陰謀家だとでも思っているのか?それとも俺を少しも信用していないだけか?」
「私室に娼婦を侍らせるような男の言う事など、信用できるか」
拗ねたような物言いなど、ミネルバは歯牙にも掛けない。
「王位に就いたら、城下に遊びに行く暇もなくなった。だから、向こうから来てもらっている。それだけだ。別に周囲に迷惑を掛けている訳じゃないぞ」
「初めから、花街で遊び回ろうって方がおかしいんだ。国王のくせに」
吐き捨てるようなその言葉を受けて、ミシェイルの面をふと自嘲めいた影が過ぎった事に、丁度顔を背けながらのそれであったが故に、ミネルバは全く気づかなかった。
「…国王、と呼ぶか。ならば、国王に対する礼を取れ、赤竜将軍」
先程までとは全く違うその声音に、ミネルバの胸中の一部分が冷水を浴びせられたかのように冷えて、冴える。すると目の前にぶら下がる現実に、否応なく気づかされる。目の前の男は兄であると同時に国王であり、そして己は妹であると同時に臣下であるという現実に。
ともすれば忘れがちになるのは、それが腹の立つ事だからだ。己が兄の下に就く者であるという事実は彼女にとって、とてつもなく不本意で、思い起こすだけで不愉快になる事だからだ。
今日もミネルバは、そんな感情がそのまま表れた唇を真一文字に引き絞って、しかし、ミシェイルに対して片膝を付いて騎士としての礼を取る。騎士としてのマントも短剣もないので、あくまでも略式ではあったが。
「申し渡す。赤竜将軍、これからグルニア軍と合流し、反乱分子鎮圧の任に協力せよ。場所はレフカンディ。同行する部下の選出は、一任する」
レフカンディは、オレルアンと旧聖アカネイアとの国境に位置する、山間の小さな村である。通常、こういった旅人や商人などの往来する、人流れの激しい場所ならば、宿屋、諸々の道具を商う店々、そして、酒場に賭博場、娼館と場が開けて、次々に発展していきそうなものなのだが、険しい山に囲まれたその立地条件故か、それらは最小限しか存在せず、交通の要所であるにも関わらず、レフカンディは静かで平和な鄙びた村の顔を残したままであった。聖アカネイアが滅びるまでは。
オレルアンとドルーア帝国との関係の悪化に伴い、そこには幾つもの砦が築かれた。旧アカネイア領とオレルアンを結ぶ唯一の道であったが為に、そこは軍の常備駐屯地となった。今では旅人や商人の行き交う事もない、兵士と村人と砦以外、何もない場所だ。
そこで反乱分子の鎮圧とは、いよいよオレルアンに対する総攻撃を開始する、という事か。…いや、少しおかしい。ミシェイルは『反乱分子』と言った。オレルアンは、未だドルーアの軍門に下った訳でも同盟を結んだ訳でもない、れっきとした一国家なのである。それに対して、反乱などという言葉は相応しくない。ならば、ドルーア内の反対派?…それも、おかしい。そんなものの鎮圧の為に同盟国に協力を要請するなど、更に将軍位にある者を派遣するなど、絶対に有り得ない。それでは一体、何なのか。
ミネルバの疑問が解ける事はなかった。ミシェイルが有無を言わせず、退出を命じたからである。臣下が、王の命令に逆らう事は許されない。未だ腸は煮え繰り返っていたのだが、不承不承、引き下がらずを得なかった。
元より、仲が良かったとも気が合っていたとも言わない。言い争いも日常茶飯事だった。しかし、ミシェイルにはミネルバの意見に耳を傾ける意志があったし、ミネルバにもミシェイルの言動をある程度は許容する余裕があった。彼が国王となってしまうまでは。
兄と普通に…あくまでもミネルバの観点から見ての事ではあるが…話したのは、どのくらい前の事になってしまうのだろうか。何だか、随分昔のような気がしてくる。
あれは多分、冬も近い頃。もう何の為だったのか、理由も忘れてしまったが、彼の自室を訪ねた事があった。幾ら何でももう帰ってきているだろう深夜に、わざわざ侍女を叩き起こして明かりを掲げさせるのも面倒だったので自分の手にランプを握りしめて、真っ暗で少し肌寒い廊下を歩んだ。といっても、寒さなどを感じたのは帰りの時だけだったから、向かう道ではひどく憤慨していたのかも知れない。今日がそうであるように。
酒の匂い。ランプの炎の揺らぎ。人肌の暖かさとその存在の確かさ。
今でも、まるで異世界に迷い込んでしまったかの不思議な心持ちにさせられる、それは一夜の夢のようだった。

* * *


「兄上?」
鼻を突く匂いがした。この癖のある匂いは、恐らく火酒だろう。強烈さで知られた草原の国オレルアン産のその酒は、下町の酒場などでよく饗されている物で、一国の王子ともあろう者が口にする物ではない。それでも、兄が度々城を抜け出し、お忍びで夜遊びしている事を知るミネルバは、ただ少し眉を顰めただけだった。
「どうしたのだ?明かりも無しで」
ミネルバがその手に持っていたランプを掲げると、テーブルの上に無造作に置かれた酒壷と転がった椀、そして乱れ落ちる赤い髪が浮かび上がった。ミネルバよりも長く、少し癖のあるその髪は緩やかに波打っていて、まるで女の持ち物のように綺麗だとミネルバは思う。…彼には、一度も言った事はなかったが。
今、その髪は、テーブルの上で乱れ踊っていて、彼はぴくりとも動かない。ミネルバは、そっと近づいた。
「兄上?」
椅子に腰掛けたままテーブルに突っ伏すミシェイルのすぐ横に立った時、いきなり伸びた腕がミネルバの腰を絡め取った。仰天した。心の臓が喉から飛び出るかと思うほど。てっきり、眠っているものだと思っていたのに。
酔っているのか、寝惚けているのか、しっかりとミネルバを抱き込んだまま、ミシェイルは動かない。驚きに詰められたままだった息を静かに全部吐き切ると、ミネルバはミシェイルを引き剥がす方法を思案した。そして、握った拳を大きく振り被る。その間、ほんの2、3秒。しかし、その拳が勢いよく振り下ろされる事はなかった。ミネルバの不穏当な行動を予期したのか、ミシェイルがぼそりと呟いたからだった。
「…振られた」
「…誰に?」
ミシェイルは黙ったまま、なお強く彼女の腰を抱き寄せた。ミネルバは手に持っていたランプをテーブルに置くと、諦めたように息を吐く。
「……女なんて、幾らでも手に入るだろう。兄上なら」
大貴族の令嬢から歌姫、高級娼婦まで、自国の王子であり、優秀な竜騎士であり、赤竜将軍という高位にある若く魅力的な男に望まれて、否という女はまずいない。
「あの娘は、手に入らなかった。それじゃあ全然意味がない」
「…そんなに気に入っていたのか?」
「判らん。だけど、ものすごく気に入るんじゃないかと思った」
兄はいつも、女にとても優しい。時々、宮廷の夜会に訪れる愛人に対する彼の応対は、殊更に。そんな場所でしか兄の愛人など見る機会はないのだが、しかし、結構な速さでその顔ぶれが入れ替わっている事には気が付いていた。決して、一人の女と長続きしないらしいのも、ミネルバには尤もな事だと思われる。女に優しいミシェイルはその実、女を自分と同じ人間だと思っていない。女は、女という名の生き物だと思っている。
だけど、その娘は違ったのだろうか。彼を振ったという娘は、彼にとってただの『女』ではなかったのだろうか。
胸の奥から苦いものがこみ上げてきて、ミシェイルの頭に置かれていた手に、無意識の力が篭もる。まるで、抱き締めてでもいるかのように。
恋愛だったのかどうかも判らない。しかしそれは、ある種の一目惚れだったのだろう。恋人か、性別を超えた親友か、それとも、不倶戴天の強敵か。強い結びつきを持てる相手だと思ったのに、始まる前にその絆は断ち切られてしまった。その絆が本当に何かを生んだのか、一体何を生んだのか、もう誰にも判らないけれど、それはきっと彼にとって忘れられない傷になる。
それが、とてつもなく悔しい。
姫君らしく、と散々言われた少女時代。ミネルバはずっと、飛竜に乗って大空を飛んで見たかったが、それは王女には許されるべくもない事だった。王子でさえあれば、騎竜術は義務にすら近い技能で、ミネルバの願いが忌避される事など考えられず、それはむしろ歓迎されるものであったのに。
何で自分は、女などに生まれたのか。求められるのは、美しい挙動と慎みという皮を被った無感動。そして、綺麗な布にくるまれて男に差し出されるだけだ。まるで人形のように。
彼女が色々なもので縛り付けられて地を這うしかないというのに、たった1年先に生まれた男であるというだけの兄は、飛竜を駆って、文字通り天空を舞う。それは、許し難い暴虐であるように思えた。だからずっと、ミシェイルが嫌いだった。…今にして思えば、随分と我儘で一方的かつ失礼な話ではある。『男である』という、彼自身にはもう如何ともし難い理由でミシェイルを毛嫌いしていた訳だから。
ミシェイルは、知っていたのかも知れない。だからこそ、彼を嫌っている事を隠そうともしない、本来なら小憎たらしいに違いない妹を、あれほどに可愛がったのかも知れない。
彼に対するミネルバの感情が、嫉妬という名のものだという事を。そして、嫉妬は憧れの裏返しなのだという事を。
どれほど、憧れたことだろう。大空に、飛竜に、そして、彼の立場に、彼自身に。
恋人か、性別を超えた親友か、それとも、不倶戴天の強敵か。
多分、自分は彼にとってのそういったものになりたかったのだと思う。兄妹という枠に嵌まったものではなく、そんなものを超える強くて断ち切り難いものが欲しかった。
何故、こんなにも胸が苦しいのだろう。彼にそれを与えたかも知れない、そしてそれを断ち切る事によって、彼の中に決して消えない焼き印をつけた、名も顔も知らぬ女に対する嫉妬?…あまりにも馬鹿げている、そんな事は。
「…痛いぞ、ミネルバ」
どうやら、知らない内に随分とミシェイルの髪を引っ張っていたらしい。ミネルバは指に絡めていた髪を解くと、しかし、傲然と言い放った。
「でかい男が、いつまでもうじうじと、うっとおしいからだ」
乱暴な口調で、それでもミネルバは、多分辛そうな顔をしていたのだと思う。ミシェイルが微苦笑して、こう言ったから。
「お前の方が、よっぽど振られたみたいな顔してる」
そして、小さく息を吐いて、ミシェイルは彼女にもたれ掛かった。
「…ま、いいさ。今は、妹だけで充分だ」
そう。妹。妹なのだ、彼の中での自分の位置は。同等の者となりたいという彼女の思いは、決してミシェイルには届かない。理解すら出来ないかも知れない。女であり妹であるミネルバは、彼にとっては自分とは異なる生き物なのだから。
「私は、手の掛かる兄のお守りなど、まっぴらだな」
「ひどい言われようだな」
苦笑するミシェイルの髪を、再度ミネルバは引っ張った。平然とした振りなど、幾らでもしてみせる。この男の前で弱みなど見せる位ならば、死んだ方がましだ。
「そう思われたくなければ、いい加減離れろ」
「…………」
「兄上?」
「…お前も、いつの間にか育ってたんだなぁ…」
ミネルバの胸元に収まっていた頭が、更に擦り付けられる。今度こそ本当に本気で、ミネルバはミシェイルの横っ面を思う様張り飛ばした。

* * *


あれから、程なくして父王が死んだ。そして、ミシェイルは父の跡を継いで王となり、ミネルバはミシェイルの跡を継いで赤竜将軍となった。
王位についてからのミシェイルは、王子だった頃のような快活な笑みを見せなくなった。いつも何処か冷めたような顔をして、ひどく遠いところにいる人のようだ。
そして、ミネルバを見ない。彼が見るのは、妹であり、王女であり、赤竜将軍である、女。決して、ミネルバ自身を見ない。ならば、どうしよう。どうすればいい?
恋人か、性別を超えた親友か、それとも、不倶戴天の強敵か。
もう一度、よく考えてみよう。何が自分にとって必要で、何が不必要なのか。何が大切で、何がそうでないのか。
望みはたった一つだけだ。
そう思った途端に気が晴れた。彼女の進路は、とんでもなく明瞭だった。
ミネルバが軽く頭をうち振るうと、肩先までで切り揃えられた、女としてはかなり短い髪が散る。
取り敢えずは、レフカンディに行かなくてはならない。全てはそれからになるだろう。彼女の直臣である三姉妹が、きっとやきもきしながら待っている。マリアに対する兄の所行に激昂に駆られた彼女は、その報告を聞いている途中で部下達をほっぽり出してきてしまったのだ。彼女達にも、今回のレフカンディ行きを伝えなくてはならない。
パオラは多分、目を瞠って「まぁ。随分急なんですのね」などと、まるで困っているかのように言うだろう。本心からそう思っているのかミネルバには謎な、いつものおっとりとした口調で。エストはきっと、悪戯っぽく瞳を輝かせて喜ぶだろう。好奇心も強いのだが、子供子供した外見ながらも存外、三姉妹の末妹は好戦的だ。カチュアは、…怒るかも知れない。3人の中で最も現実的なしっかり者は、今回の命令の根底にある、女将軍への侮りを見取ってしまうだろうから。
さて、どうやって説明するのが、最も穏当であろうか、と思いを巡らせながら、彼女は、将軍の執務室へと足を向けた。やはり足早ではあったけれど、もうその足取りに怒りは滲み出てはいなかった。



「鬼姫様は噂通り、情の強い方でいらっしゃる。あれでは、外の国に嫁がれる訳にもいきませんわね」
「俺は、他国の軍備増強に手を貸す気は毛頭ない」
王があのような振る舞いを許すたった一人の人間に対する小さな嫉妬心が、その口調を侮りの滲むものにしてしまったのかも知れない。しかし、感情の殺ぎ落とされたミシェイルの返答に、女はすぐ息を呑んだ。
ミネルバは王女である前に、その錫の一振りで竜騎士団を動かす事を許された、マケドニアの赤竜将軍なのである。
「分を弁えろ。不愉快だ」
そして、彼女の国王の、最愛の存在。
「……申し訳ございません」
女は深く腰を折った。彼女は、今までの女達が何を誤って王に捨てられたのか、よく知っていた。王はとても優しいから、その内に女達は錯覚してしまうのだ。自分達が、王の中でかの鬼姫以上の位置を占める事ができたのだと。それこそ、分を弁えぬ傲慢さで。
王は、冷たい無表情で塗り固められた端正な横顔のみを晒している。こんな時、おどおどと泣きながら許しを乞うような真似は、尚更に王の心を離す結果になる。
女は馬鹿ではなかった。そして、己のすべき事を知っていた。故に、ただ静かにミシェイルの前に平伏していた。ミシェイルが、目線で女に先程…ミネルバが入室してくる前…までの報告の続きを促すようになるまで。
「…アリティアの王子がオレルアンに入り、聖アカネイアの王女と合流したのは、先程御報告した通りです、陛下。また、戦場からの報告によりますと、反乱軍には魔道士の存在が確認された由にございます」
そして抑揚に欠けるほどに冷静なその声音に、ミシェイルもまた内面を伺い知る事もできない冷徹さでもって頷く。
「聖アカネイアの王女を旗印にする限りは、聖アカネイアをドルーアから解放しなくてはならない。自分達の正当性を主張する為にも」
「はい、陛下」
「…しかし、魔道士とは。カダインの封鎖は終わった、と前回の報告にあったと思ったが」
「封鎖前に抜け出した者か、又はカダインに所属しない、もぐり魔道士かと」
「そういえば、そんな者もいたな。『血統書付きのもぐり魔道士』は、どうなった?」
「大魔道士の娘の行方については、未だ確認されておりません」
精緻な彫り物を施された木製の碗が、冷笑の形を刻んだ唇に触れた。ほんの少しだけ冷やされた『征服の酒』とも呼ばれる琥珀色の蒸留酒は、碗の中で温められ、その芳醇な香りを薫らせる。
「ふん。まぁ、よかろう。彼等にはこれから巧く、ドルーア帝国の力を殺ぎ落としていってもらわなくては困るのだからな」
ドレスの裾を摘んだ女が平伏する前で、手の中の酒の香りを楽しみながら、ミシェイルは静かに目を閉じた。
「褒美を取らす。先に奥へ行っていろ」
「はい、陛下」
女はドレスの裾を摘み、この上なく上品な貴婦人の如く腰を屈めて、優雅な仕草で奥の部屋へと下がっていく。しかし、そんな己の情報収集者に対しては一目もくれず、ミシェイルはゆったりと思考を巡らせる。
マケドニア島の北側は、気候も地形も起伏が激しい。険しい山の連なる合間は、みっしりとした熱帯樹林。山の上部では雪も降る。しかし、そんな環境こそが飛竜という生き物には必要なのだろう。マケドニアの北部は、このアカネイア大陸に連なる世界において、唯一、野生の飛竜の生息する地域であった。本来ならば、大陸に面した北部こそが、諸外国との交流に至便な絶好の場所であったのだが、そんな二重の理由でそこは人間の版図となる事を固く拒んでいたのだ。
しかし、それこそがマケドニアに空路を発展させる結果となったのだろう。比類なき赤と白の飛行騎士団を有するマケドニアは、この大陸世界の制空権を完全に掌握していたが、どこか大陸から白眼視される立場にあった。
見捨てられた大地。又は、聖別された領域。そして、飛竜の版図。
一体、いつからそう呼ばれていたのかは知らないが、この島も元は『ドルーア島』と言ったのだそうだ。しかし100年前、島の名を冠した国の暴虐が大陸全土を戦火の渦に巻き込んだ、かのドルーア戦役から、それはマケドニア島と名を変えた。しかし、記憶は残った。人々の中に。そして年月を経て、少しずつ記憶が薄らいでいこうとも、だからこそ凝り固まった思いのみがいや増して残るのだ。
呪われたドルーアの名と共に。
100年前に一つの国が生まれたのは、そんな場所で、であった。そして今、全く同じ場所で同じ名前の国が、もしかすると同じ野望を持って動いている。
まず始めに、聖アカネイアが滅亡した。そして、アリティアが陥落し、たった一つ残った三貴王国グルニアも、戦わずして落ちた。世界最強の呼び声も高い黒騎士団が、剣の一合、槍の一つも振るう事もなく。
そして、100年前にドルーアを倒した三貴王国は、全て解体された。新たにドルーアを名乗る国によって引導を渡されるとは、なかなか洒落が利いている。皮肉な微笑を送る程度にしか、これらの国々に対する思い入れも義理もないが、これ以上ドルーアを肥大化させる訳にはいかないだろう。
三貴王国の解体。
マケドニアが、ミシェイルがドルーアに望んだのはそこまでだ。聖アカネイアとアリティアの残党には、ドルーアの目を外側へと向けておいてもらわなくてはならない。最後のカードでマケドニアが全てをひっくり返すまで。
その為にこそ、彼等を見逃しておいたのだから。
「精々、役立ってもらうとしよう。我がマケドニアの為にな」
中空に碗を軽く掲げて、ミシェイルは『征服の酒』を一息に呷った。
自分にとって何が最重要事なのかについては、一点の曇りもなく理解している。
マケドニアを世界の覇者とする事。
それを獲得する為なら、どんなに汚い事でもするだろう。犠牲に出来るものなら、何でも犠牲にするだろう。
飛竜にももう、随分長い間乗っていない。風と同化する感触も、今はひどく遠かった。それを少し、寂しいと思う瞬間がない訳ではない。しかし、国王の責務という名の楔に繋がれたのは、自分でそれを望んだ結果だった。それが必要であったから。引き替えに自由を失った事など、大した問題ではないのだ。己の望みを叶える為なら。
碗を無造作に脇の卓に戻すと、ミシェイルはゆっくりと立ち上がる。金糸銀糸で縫い取った豪奢で重い上着を放ると、彼は奥に設えた寝室へとその足を向けた。



END







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