風のしろしめすは贖罪の荒野〜バヌトゥ


救いは ない
赦しも ない
贖いも もはや届かない
今はもう亡い貴方故に



「好きにすればいい。あの娘が気に入ったのなら、連れて逃げてしまえばいい。あの娘は遺伝子操作を受けていないから、ものの500年もすれば、おまえと同じ程度の年齢になる。人間共の手の届かない山奥にでも籠もって暮らせ。少しずつ、似合いの二人になっていくだろう」
初めは、祖父と孫のように。そして、父と子のように。やがては老夫婦になって、彼女の寿命が尽きるまで。
とろりと四肢に絡みつく、この身に染みついた義務感も良識も奪い去る誘惑。
「もう一族なんて、とっくに滅びてしまっているんだ。その方がお前もあの娘も、幸福に過ごせるってもんだろう?」
優しげな囁きの語る内容は、あまりにも甘美だった。
まだあどけなささえ残るような少年の姿をした者が嗤う。御使いのように冷ややかに、妖魔のように艶麗に。
常の人間であるのならば、十代も半ば過ぎ、といったその外見を裏切る、年古りた微笑。
彼はこの少年の素性を知らない。少年からは一族全ての者の特徴である、地水火風の四霊気の匂いはしなかったが、彼が同族であるのを疑った事は全くなかった。自分よりもずっと年上なのだろう事を確信していたからだ。もう既に斜陽を迎えていた一族の滅びを一気に加速させたと言われる『同族殺し』と呼ばれる戦いとその後に続く混乱期が、彼の記憶の大半を占めていたが、目の前の少年はそれ以前、穏やかで美しかった時代をも知っているに違いない。
たくさんの人がいたのだという。行き交う星船(アストラル・シップ)、発達した転移網(ネットワーク)は、人と物の往来を活発にしたという。一族を、その広大な帝国を治める、万世一系の皇帝と偉大なる4人の王。生み出される幾多もの魔道技術(アート)と科学技術(テクノロジー)との示す可能性は果てもなく、叶わぬものなど何もなかった。全てが生き生きとしていた時代。
今となっては、別世界か夢ででもあるかのような、遠い話だ。
厚い氷に覆われた、遙かな過去の遺産。それだけが、夢物語を真実として語る唯一の材料だった。
吹き抜けの回廊は壮麗な石造り。この巨大な岩盤一つ支えるのにも、計算された科学技術が必要だ。どんなに細い廊下にも対応された、歩を進める方向を先回りするように照らし出す『永久ランプ』は、彼等の遺跡の基本設置装置の一つである。この神域が造られた当初から灯されているそれは、遺跡が砂に還る瞬間まで機能し続ける事だろう。
それはひどく、彼等一族の最後に相応しい光景であるように思える。自らの時を止めてしまった彼等の曖昧な存在(生)と、もっと曖昧で緩慢な終末(死)
水の神域であるこの場所は、火の守護を持つ彼の力を著しく削ぎ取っていて、今現在の彼はまるで人間と同程度の力しか持っていない。だから、不安になるのだろうか。
だが、ここを動く事は出来ない。現在でも使用可能な冷凍睡眠装置はもうここにしか残っていないのだ。
装置の中で永遠に眠り続ける赤ん坊の監視。それが、皇帝より与えられた彼の役割。
もう何百年、ここにこうしているのかも忘れてしまった。
雪と氷に閉じこめられたこの世界で、毎日毎夜、変わらぬ姿の赤ん坊を見守り続ける。その間、人が訪ねてきたのは2回だけ。そして、この少年に会うのも今回で2回目だ。
赤ん坊が目覚めたら、どんなだろうか。どんな風に笑うだろう。…その時、彼の世界は変わるだろうか。いつしか胸奥に芽生えていた幻想は、少年の言葉で渇望へと変化する。
「今ならば、逃げられる。…こんな機会はもう二度とないかも知れないなぁ」
抗う事などできようもはずない。それは、運命そのものの声だった。



穏やかに、月日は流れていく。赤ん坊は、驚異的な速さで成長していく。知識としては認識していた事ながら、遺伝子操作によって、老化現象、つまりは細胞の生成を止められていない個体は、時間の長さと比例してその外見が変わっていくのだ、という事を感覚的に失念していたに等しい彼にとって、赤ん坊と暮らす毎日は、まさに驚きの連続だった。
赤ん坊が初めて、言葉を発した日。初めて、立ち上がった日。それは喜びに彩られた、光り輝く日々。彼女はやがて歩き出し、明るい声で笑い、今では外を走り回っている。
雪と氷の世界は、今の彼等の生活にはもう届かない。このままずっと、平穏な幸福に包まれて暮らすのだ。
何の根拠もない妄信の崩れ去る日。それは再び、運命の声を聞いた日。



「メディウスの野郎が、堕天した」
「そんな馬鹿な!まさか、地の一族の王ともあろう方が!そんな馬鹿な…」
堕天。それは『暗黒化』といわれる、彼等の文明末期に現れた病である。
徐々に知性も理性も腐り堕ち、破壊衝動に捕らわれた狂獣と化していく。純粋な気を持った彼等一族の者は、闇の気に一際染まりやすい。
妬み。嫉み。憎しみ。ありとあらゆる負の感情が、闇の種。種はあっという間に芽を葺き育っていく。彼等の体を苗床にして、彼等を闇そのものに染め変えて。
そして、一度染まれば二度と元には戻れない。体を、ではなく、魂を蝕む病であった故、治療の術は一切なかった。
「よく保った方さ。他の奴等は、かなり前にあっさり堕天してやがるからな」
地の一族最後の一人。たった一人、完全に暗黒化する前に封じられて永の眠りについた自らの民を、その墓標である祭壇を守り続けていた、高潔な、最後の王。
「…何故、そんな…」
「『何故』?500年前、封印の盾が失われてからずっと、あいつは地の連中の眠りが解けないように、封印の綻びを繕うのに全精力を振り絞っていて、理力の基礎レベルが落ちていた。元々、あいつは地の守護を持っていたから、人間の撒き散らした闇に捕らわれやすかった。人間の属性も地だからな。最近、人間の数がまた増えてきて、吹き上げる闇の量も半端じゃない。おまけにあいつは、固くて真面目な石頭。つまりは、順応性が欠片もない。まだまだあるぞ、理由らしいものなんて。だけど、そんなものには今更何の意味もない。価値があるのは、結果だけだ。『メディウスが堕天した』という、事実だけだ」
「…もう、止められないのですか?」
「出来ないこともない」
一条の光を見いだした彼の心に、冷水を被せるかのような、続く言葉。
「人間の数が増え過ぎたのが原因なんだから、間引けばいいのさ。そうすれば、闇の種を体内で凍結させる事ができるかも知れない。元々、900年前の『同族殺し』だって、地の奴らの目的はそれだったんだから」
地の一族が人間を襲い、絶滅寸前にまで追いやった。それが全ての発端だった。しかし、地の一族の暴挙ともいうべきその行為に、他の三つの一族と皇帝一族は抗議し、理を尽くして話し合い、結局は実力行使に出ざるを得なかったという。
帝国が割れ、一族の間で争い合った。それが、かの悪名高き『同族殺し』だったが、彼は、地の一族の暴挙の裏に何があったのか、全く知らなかった。多分、当時の大多数の一族の者達も、知らなかっただろう。
「メディウスは『皇帝』を名乗って、帝国を起てた。…『ドルーア帝国』だそうだ。暗黒化がどこまで進んでるのか判らんが、まだ記憶はしっかりしているらしいな」
ドルーア帝国。
その名に逆らえる者など、彼等一族に存在するだろうか。あまりにも美しく、凶暴な情動さえ伴うほどに甘美な郷愁に彩られたその名。彼等のたったひとつの帝国。
「もう、生き残った一族の者を集めたいってのが、見え見えだよな…。…お前はどうする?メディウスの所に行くか?そこで早急に人間の間引きを進めれば、もしかしたらあいつ、助かるかも知れないぞ?」
行ったかも知れない。彼が『皇帝』を名乗っているとさえ聞かなければ。数度顔を合わせた事があるだけの彼の目にも、豪放で潔い気質のかの王はすこぶる魅力的だった。彼を助ける事が出来るのなら、その可能性があるのなら…。
しかし、帝国の主はたった一人だけだ。それはメディウスではない。彼女の存在を知らない他の一族の者達は、メディウスを新たなる皇帝とする事に異議はないかもしれない。しかし、彼は知っていた。
過去、彼が皇帝から託された、生まれたばかりの赤ん坊。それは、皇帝のたった一人の娘。彼女だけが、ドルーア帝国の唯一の主だ。
彼はゆっくりと、しかし、しっかりと首を横に振った。
数瞬の沈黙。あまりに情を欠いたその選択故に、呆れられたのかも知れない。彼のそんな惑いも、しかしすぐに起こった笑いにかき消された。その笑いは、嘲りも侮りも全く含んでいないことの明白な、純粋に楽しそうなものだったので。
「…全く。楽しませてくれる。そうこなくてはな」
彼は、静かに腰を折った。言葉の意味はよく分からなかったが、そうすべきであるような気がしたのだ。
「ま、それもいいだろう。あのフォルセティだって自分の立場全部放棄して、とっとと遁走しやがったんだ。ナーガの従者だったってだけのお前が、そこまで巻き込まれる事はない。…あの無精者の真似をしろ、とも言わないけどな」
伝説に残る風の一族の王は、『同族殺し』の後、行方知れずとなったという。死亡説、堕天説、その他諸々の説があったが、それはどれも当たってはいなかったようだ。…無精故に家出した、というのもあまり信じたくない話ではあるが。
「…貴方は、どうなさるのですか?」
本当は、こんな事を訊けるような立場にいる人ではないのだろう。恐らく、4王と同等、或いはそれ以上の位にいる存在である、という確信が今ではある。
「俺には、関係のない話だ。メディウスには何の義理もないしな」
何でもない事のようにあっさりと言い放つ。その台詞に、更に頭を低く垂れる。
「たらたら流れるだけの時間もこれで終わりだ。これからは、退屈だけはしなくてすみそうだ。その事については、メディウスに感謝しなくちゃならないかもな」
近づく争乱の気配。永い間、錆びついていた何かが、その身を軋ませて動き出す予感。心底嬉しそうな、いっそ無邪気でさえあるその微笑。
「面白い事になってきたよなぁ」
彼は尚一層に腰を屈め、深く深くその頭を垂れた。



「おじいちゃま?…誰かきてるの?」
如何にも眠そうな目を擦りながら現れたのは、彼の小さな宝物。
「いいや。誰もおらんよ。…一体、誰がいるというのだ?」
この小さな小屋に、彼と少女の他には誰もいない。月に一度程、生活に必要な最低限の品物を得るために山を下り、人間の里に近づく事以外、彼等の日々に内在する他者の存在など、あり得なかった。
「ううんとね。何だか、懐かしいような優しい感じがしたの。何でかな」
彼は小さく微笑む。地水火風の四元素を従える、光の守護を受けた少女は敏感に、同族の気配とさえいえないような微かな息遣いを察知したのだ。
先程、何の前触れもなく現れた立体映像(ホログラフィ)は、また唐突に去っていた。受信先の座標軸を設定する事によって音声と映像を飛ばす遠話装置が、どこかの遺跡に生き残っていたのだろう。しかし、手元に装置もなく、ましてや相手の現在座標など知る由もない彼からは、茜色の髪の少年ともう一度通信を持つ事など不可能だった。
少年は、どうやって彼等の隠れ住む場所を知ったのだろう。…何程の事でもないのかも知れない。かの運命の使者の前には。
「さぁ、もう一度お眠り。ずっとついているから」
「うん。…おじいちゃまは、まだ寝ないの?」
「ああ、…もう少ししたら眠れるかもしれない。お前は先に眠りなさい。ちゃんと、起こしてあげるから」
戦乱の世になれば一層、闇の気が濃厚になる。多分、彼でも息苦しさを感じるくらいに。あまりにも純粋な光の気に満ちた少女に、影を落としてしまいかねない程に。
「もう一度、眠るのだ。夜が明けるまで」
この闇が、晴れるまで。
彼の言葉に魅入られたかのように、少女はゆっくりとくずおれた。
もう水の神域には戻れないし、戻る気もない。冷凍睡眠装置も使えないが、地の王メディウスは500年の間、数千の民人を封じ続けたのだ。少女を一人、眠りで封じる事くらい、微少の力しか持たない自分にだって出来るはず。
それ程にはかからないだろう。地の王が人間を平らげ尽くしてしまうのには。
1年か、2年か、或いはもう少し。
程なく、それとは知らず、失われた封印の盾を持つ人間の若者が、彼等の出てきた水の神域を訪ねる事。そこで若者が、一族にとって神にも等しい皇帝の血とその化身を手に入れる事など、神ならぬ身の彼に判ろう筈もない。
ましてやその100年後、若者の血族から彼等の皇帝の意志代行者が現れ、人間と彼等一族の新たなる絆を結ぶ事になるなどとは。
彼は己の鋭い爪が少女の柔肌を傷つける事のないよう注意して、静かにその額に掛かった髪を撫でつけた。
「…おやすみ。良い夢を」



せめて、安らかな眠りを守り通そう
この闇が晴れるまで



END







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