はじまりの終わりはおわりの始まり〜ニーナ

『それは、旧世界最後の王と新世界最初の王が相対した
歴史的瞬間であった』
文献によると、光皇マルス一世が皇帝ハーディン、悲劇の王妃ニーナと
初めて顔を合わせたのは、第二次ドルーア戦役下『オレルアンの戦い』
として知られる、オレルアン王国解放戦の後であると思われる。
当時は、第一期アリティア王国が滅亡した直後であり、彼は亡国の王子
という立場にあり、同時期に滅びた聖アカネイア王国の王女である
ニーナ、ハーディンは未だオレルアン王国の王弟であった。
アリティア王国中興の祖にして、大陸規模での文化経済発展の基礎を
作ったアカネイア連合初代盟主である覇王と、皇帝を詐称した聖アカネ
イア最後の王とその王妃の出会いとしては、甚だ地味なものであったが
だからこそ興味深いといえるだろう。
この時、互いに何を感じていたのか、今となってはもう、知る術もない
のだが、彼等がその後、互いを滅ぼす者滅ぼされる者となる事も知らず
無二の同盟者として出会ったのだから、運命の皮肉を感じずには
いられない。
『〈アカネイア年代記〉に関する考察』より

「全く!ガゼルのような見かけをしていながら、中身はジャッカルだ、あの王太子殿下とやらは」
憤然とソファに身を投げ出したハーディンは、勢い片足をテーブルに掛けて、いらいらと体を揺する。余程、機嫌が悪いらしい。そもそも、堅苦しい事を好まないハーディンが、自国の王とアリティアの王子との会談に同席する、という事自体、先の見えた展開というものだったのかも知れないが。
「確かに、随分とほっそりとした方だとお見受けしましたが…」
しかし、いくらなんでも『ガゼル』はないだろう。
そんな心情の見える苦笑を浮かべて、ロシェは捧げ持っていた盆から、テーブルの上、ハーディンの足のすぐ横に碗を移した。
ガゼルのように優雅な姿態。ガゼルのような優しい瞳。
『ガゼル』は、確かに賛辞の言葉である。…女性に対して、であるならば。聖アカネイアのような中央の国ではどうか知らないが、少なくとも、オレルアンに於いてのそれは男にとって、『軟弱』以外の意味を持たない。内面もそれに類する人間であったのならば、ハーディンにとっては、まるっきりの問題外。反ドルーアの看板、単なる飾り物であり、適当にあしらっておけばよいだけの存在だったのだが…。
「…俺は好かん。ああいう輩は」
「その人の肩書きと人間性を一緒に判断するのは、お止めになった筈じゃありませんか?」
ロシェの一瞬投げた視線の先を確かめるまでもない。彼が先日のニーナ王女の一件を指して言っている事は明白である。だが、しかし。
「肩書きの分は充分に割り引いた。それでも気に入らないんだ」
唸るように言って、碗を手に取る。
多分、今晩の会談は、全てあの王子の計算通りに運んだのだろう。随分と若い二人の騎士を従えて広間に入室してきた瞬間から、あの空間は彼だけの物になった。まるで人ならぬ者のような匂いを発する伝説の王子の前に、周囲の者達は明らかに随臣へとその存在を堕していた。そう、オレルアンの王でさえ。
自身の雰囲気とはひどく異なる、穏やかな人好きのする笑顔とその話術とで、オレルアン側の戸惑いを誘い、終始折衝の主導権を己の側に保ち続けた。
相手の話を真っ直ぐに受け止める真摯な瞳、相槌を打つように軽く顎を引く仕草、小さく組み替えられる指。
そんな何気ないものでさえ人目を引く王子が、先の戦の加勢の見返りとして、オレルアンに物的金的保証を殆ど求めなかったのが、皆に多大な感銘を与えたであろう事も明らかだった。
何故、誰も気がつかないのか。あの蒼い王子が何気なく使った『両国の友好』という言葉の持つ意味に。それは、ドルーアの前に滅んだアリティアの立場をオレルアンは擁護するという事であり、今現在、事実上大陸の支配者であるドルーアに真っ向から敵対する行為だ。これでオレルアンは、アリティアと一蓮托生となってしまったのだという事実を、如実に示しているというのに。
王弟とはいえ、王の前では臣下に過ぎないハーディンには、この会談に口を挟む事など許されていない。当初からそれはよく理解していたし、元より政治向きの持って回った言動の類を蛇蠍の如く嫌うハーディンである。言われるまでもなく、何も喋らず、ただそこに同席しているのが義務と弁えていた。今回の場合、却ってそのお陰で、周りの流れがよく見えた、という事はあるのだろう。しかしそれでも、傍観者に徹する事に完全に成功していたとは言い難い。何度も拳を固く握りしめて、湧き起こる激情を堪えなくてはならなかったのだから。
まるであの幼い王子に魔法を掛けられてしまったかのように、全てが『アリティア』へと動いていく。聖アカネイアの覇者の証し、炎の紋章さえも。
先程のロシェの視線の先では、テーブルの斜め向かいに座ったニーナが碗を手に取って、静かにそれを啜っている。ハーディンは、自身の手の内の碗から立ち上る匂いでそれが何なのか分かってしまって、うんざりとした顔をした。
薬草を煮出して作った、鎮静効果のある茶である。体によい、とされるそれは、ハーディンの口には全く合わない。その事もちゃんと理解しているはずなのに、ロシェは何も気がつかぬかのような顔をして何度でもこの茶を持ってくるのだ。
そもそもこのような給仕自体、騎士のする事ではない。しかし、本来ならば小姓か侍女のやるべき仕事も、ハーディンが自分の天幕に側付きの小者を置こうとしないため、普段から何かと彼が手を回す、という構図が出来上がってしまった現在、ロシェに対して、あまり我が儘を言える立場ではないような気がしているハーディンである。ここは常の如く大人しく、茶を飲み下すことにする。
むっつりとした表情のまま、出された茶を一息に飲み込んだハーディンに対して洩らした彼の笑顔が、妙に満足げなところが気に食わないので、取り敢えずテーブルに掛けた足は降ろさぬままである。ささやかな嫌がらせのつもりなのだが、ロシェはそれには全く気がつかぬかのように、茶のお代わりを注ぐと再び、ハーディンの足の真横に碗を置いていく。
ハーディンは苦虫を噛み潰したような表情でひとしきり碗を睨み据えたが、結局2杯目の茶も呷らねばならない事になるのは、必定なようだった。
2杯目の茶をハーディンが、まるで苦い薬を思い切るかのように飲み干すのが、ニーナの目の端に映る。そんなにもアリティアの王子が気に入らなかったのだろうか。
アカネイア貴族の持つ豪奢な爛熟はなかった。人となりか、それとも水の王国アリティアの国民性を示すものなのか、それに代わるように彼の王子は、どこか水の流れを思わせる清浄さをたたえていた。それでも、幼少の頃から宮廷儀礼のただ中で生活してきた事を示す、自然と身に付いた優雅な物腰は、ニーナにはよく見知った懐かしいもので、それだけでも彼に好感を抱くには充分だった。
オレルアンの人々に不満がある訳ではない。国境を接するせいもあって、昔から聖アカネイアとオレルアンとは友好的な関係を築いてきた。しかしそれでも、文化も習慣も大きくかけ離れたこの国で、折に触れ異邦人である事を痛感させられていたニーナにとって、己と同じ環境で育った事を確信させるアリティアの王子は、やっと見つけた同胞だったのだ。
ニーナは先程の会談の席を思い出す。伴った聖堂騎士団の若い騎士が彼だけに敬意を示す事実は、目の前の少年がアリティアの王太子であるのだ、という事を改めて実感させた。
これまでに一度も会った事はない。しかし、ニーナは王子をよく見知っていた。それは、王子にとっても同様であったらしい。彼は優雅に腰を折り、ニーナの手を取ってこう言ったのだ。
「お初にお目もじ致します、聖王女殿下。…初めて、という気は致しませんが」
上品な儀礼の幕内から隠しきれずに洩れ出る、懐かしい旧友に会ったかのような笑顔が、言葉以上のものを語る。ニーナも目の端だけで微笑んだ。
そう。彼女にとってもそうだ。王位継承権がとても遠くにあった平和な時代、アカネイアの王女に相応しい夫の最有力候補の肖像画は、毎年その成長に合わせて描き直され、ニーナの元へと届けられたものだった。
髪は蒼を溶かした夜の空。瞳は明け初めた青灰色。王子は、絵の中で少しずつ大きくなっていく。彼女の見た最後の絵は、2年前。あの時の肖像画よりも少し大人っぽく、それでも絵の中の印象そのままに。
優しく穏やかな面立ちの、何より綺麗な王子は、ニーナの手を捧げ持ち、軽く己の胸元に引き寄せて、貴婦人に対する礼を尽くすと、そっとその手を離した。
今では、過去の国同士の約束事など、何の意味も持っていない。国は双方ともに滅ぼされ、現在はその国を取り返す為の戦時中。互いに何も持たず、他国の宮廷に身を寄せて、血生臭い戦争の話をするための会談の席で、初めて出会う。その奇妙な邂逅。
あまりにもあの頃とは状況の変わってしまった今が、何だかとても不思議な気がした。会話の内容の方は、世継ぎでも何でもなかった為、帝王学を学んだ事など当然なく、政治的な事にはとんと疎いニーナには半分も理解できなかったのだけれど、会談の席上、視線がずっとアリティアの王子を追ってしまっていたのは、だからだと思う。
しかし、あの時から、ハーディンの機嫌がひどく悪いという事には、何となく気がついてはいた。だけど、王子の話しぶりは穏やかで、なおかつ明快で率直だった。ハーディンの好む型の人間だとニーナには思えたのだが、王子のどこが気に入らなかったのだろう。
心当たりは、一つだけ。
ニーナは静かに碗をテーブルに戻すと顔を上げ、ハーディンへと視線を向けた。
「…炎の紋章を持っているのを今まで黙っていた事を、怒っているのですか?そして、それをアリティアの王子に与えた事を?」
思わず口をついて出そうになった言葉を無理矢理飲み込んだ喉は、張りつめた静けさの中でしゃくり上げる音を残した。ロシェは慌てて口元に手を押しつけて、その陰で静かに震える深呼吸を繰り返す。
自国では宮廷内に部屋を下賜される程の貴族、他国ならば王族とそれに準じる者以外とは、一切会話を交わさない、というのが、聖王家の慣例である。つまり、現在王女と会話する権利を持つのは、目の前の彼の主君だけなのだが、その主君のあからさまに機嫌の悪そうな様子ときたら、きっとどんな者でも声を掛けたい、などとは思わないに違いない代物である。それ故か、会談後、この部屋に下がってきてから今まで、慎ましく目を伏せたまま、何も喋ろうとしなかった聖王国の王女殿下の口から初めて出てきた言葉は、しかしとんでもないものだった。
『炎の紋章』
聖アカネイア初代国王が、その力で以て大陸を統一したとされる、伝説の神器。最も近い過去の持ち主は、『光の公主(スター・ロード)』と呼ばれたアリティアの勇士だったという。それは、大陸を統べる覇者の証し。
それが、アリティアの王子の元へ?
ハーディンはちらりと王女の方に視線を向けると、憤然とした様子で言う。
「別に、そういう訳ではない」
ハーディンは嘘をつくのが下手だ。
「…貴方に、渡さなかった事を?」
「言っておくが、そんな面倒な物、やると言われても受け取らん」
しかし、嘘が下手な分だけ、本当の事を言っているのもすぐに判る。
つまり、炎の紋章を持っている事を王女が黙っていて、それをアリティアの王子に渡した事は怒っている。だけど、自分がそれを欲しかった訳ではない、という事か。
政治的な配慮だろうか。アリティアの王子が炎の紋章を得たという事は、アリティアこそが反ドルーア連合の盟主となる、という事実に結びつく。ロシェにだって判る理屈だ。
しかしその理屈は、ロシェの知るハーディン像とは一致しない。ハーディンは政治には一切興味がない。そんな彼が、反ドルーアの盟主が誰になろうと気にするとは思えない。恐らく、「そんなものは飾りに過ぎない」と言い切って、相手との形だけの友好を保持しようとするだろう。相手に己の感情がまる判りになってしまっているのに気づかないのか、気にしていないのか、如何にも機嫌の悪そうな、むっつりとした顔のままで。
「俺は、怒ってなどいない」
そう言った当の様子を見て、彼の言葉をそのまま信じる者などいないに違いない。彼は、とことん腹芸というものの出来ない質なのだ。
そんなにも気に入らないのだろうか。アリティアの王子が。
ロシェは今回の会談に同席できるような立場ではなかったので、アリティアの王子の事は、戦場で遠目に見ただけである。子供のように細身な少年。それが唯一の印象だった。しかし、王子は少なくとも優雅さだけはお墨付きであるのだろう。何といっても、「ガゼルのよう」だとまで言われているくらいなのだから。
今はもう亡い、伝説に彩られた国の、英雄の血を引く王子。
それだけで、吟遊詩人の語り歌になりそうだ。劇的さでは、『聖アカネイアの最後の聖王女』に引けを取らない。
蒼の王子と黄金の姫君。
そんな二人が並んだら、さぞかし絵になる事だろう。まるで一対の人形だ。そう言えば、年齢も同じくらいのようだったし。
ロシェは憮然とした様子のハーディンを、ついまじまじと見つめてしまった。今現在、ふと脳裏を過ぎった思いつきに自分でびっくりしてしまって。
王女とアリティアの王子との関係に焼き餅を妬いていたのだったりして。
いや、まさか。そんな訳はあるまい。あまりと言えばあんまりな妄想だ。だってそれでは、ハーディンが王女を苛めていた…ハーディン自身は頑強に否定するだろうが、ロシェから見たあれは、完全な苛めっ子であった…のも、小さな子供のよくやるような「好きな子苛め」というヤツだという事になってしまうではないか。
そもそも、ハーディンの好む女性達は皆、勝ち気で気っぷのいい、豊満な大人の女ばかりだ。対して王女殿下は、…確かに勝ち気ではあるが。
今度はかなり控えめに、ニーナ王女に目線を移す。本当にか細い、優美な貴婦人というよりも、子供のように小さな姫君。ハーディンが殊更にがっしりとした大男であるだけに、一緒にいると本当にそのか細さが強調されてしまう。
ロシェはそこで思考を放棄した。
これは全部、気のせいだ。
静かにハーディンの前の碗を取って、茶を注ぐ。ハーディンがこの茶を好んでいないのはよく知っていたのだが、高ぶった気を静めるにはこれが一番なのだ。…もう、ロシェ自身も是非この茶を呷りたい気分になっていたのだが。
ハーディンが拒否しきれない、不可思議な迫力でもって差し出されるその茶が、茶会がお開きになるまでに、一体何杯必要になるのか。
全ての真実は闇の中に。
少なくとも、今はまだ。
END・
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