はじまりの終わりはおわりの始まり〜マリク


神とは その存在について考える時にのみ 存在する
つまり 殆どの場合は 存在していない



しんとした夜が世界を支配する。先程までの喧噪が嘘のように、今ここは静かだ。風は水気を含んで、天鵞絨のような手触りをその身に残す。見上げれば、満天の星空。どんな魔道の眼も触手も、一片の匂いすらも感じさせない大気は澄み切っていて、少し困る。ここでやろうとしている事によって、世界がしゃらしゃらと音を立てて砕けてしまいそうで。
マリクはゆっくりと鼻から息を吸い、それを口から細く吐き出した。数度繰り返すと、体内が浄化されると共に奥深く脈打つものの存在を感じ取れるようになる。やはり、草原の風に含まれる気は豊かだ。皆が寝静まった頃を見計らって、寝室からこっそり抜け出した甲斐もあろうというものだ。夜気は冷えきっていたが、周囲の気を取り込んだ体奥は既に暖かである事だし。
軽く指先を閃かせて、己の体内の気が充実している事を確かめながらマリクは天を見上げた。雲一つない空の降るような星々から道標となる星を見て取って、方角を読む。
星々の運行から大きな世の流れを読み取る事は、白魔法士、魔道士を問わず、魔法使いの基礎的な技能である。そこから更に緻密な事象を読むには、流石に高度な技術を要するし、そういった星読みのできる者は、学院の賢者達の中にも稀であったが、星の位置から正しい方角を見つけ出すくらいの事は、魔法使いならば皆できる。
そうして速やかに方位を見出した彼は、早速作業に取りかかった。懐から取り出された短刀は鞘から抜かずに、そのまま地を引っ掻くようにして東西南北を指し示す線を引く。その線を囲むようにして円を描き、円から更に延びる線を描く。そうして図形は、次第に幾何学的な模様と化していく。手と膝を着いた姿で一心に地面に向かっていたマリクであったが、短刀の鞘飾りにすっかり土が詰まった頃になって、ようやっとその身を起こした。そして間を置かず、再び懐から諸々の物を取り出し、地の模様に沿って置いていく。
小さな杯に注ぐべき水は、筒に入れて持ってきてある。これは狂いなく北へ。手にしていたランプは対角線上の南側。そして、東に当たる場所には、軽く地を掘り起こして、小山を作る。そこまで済んだら、それらの品に囲まれた中心点に立ち、真っ直ぐ西に体を向けた。
手や長衣の裾に付いた土を叩き落として、もう一つ大きな深呼吸。静かに眼を閉じたまま、マリクは静かに唱え始める。
「大気を統べる西の王、我が召令に疾く答えよ。我、汝を支配する者なれば」
己の口から出る言葉が呪となって自身の気を高め、自身の気が大気をゆっくりと動かし始めるのが判る。西に溜まる大気は強い。これを巧く御していかなくてはならない。
「右手に水の王、左手に火の王、我が背に地の王。正面より来たれ、風の王」
北の水気、南の火気、東の土気はそれぞれ、西の大気に匹敵するほどに強く純粋だ。これならば、三方の気が大気の暴走を押さえつつ、更にそれを純化する事ができるはず。
マリクの予想に違う事なく、大気は大きくうねりつつもその場に留まり続け、更に刻々とその厚みを増していく。息を吸うのも苦しいほどに濃くなった大気の中、マリクは手にしたままだった短刀の鞘を抜き払って、高く中空へと掲げた。
刹那、刀身それ自体が光を放ったかのように見えた。銀色の光が空を切る。マリクが短刀を薙ぎ払うと同時に、その刀身を核として集まった気が解き放たれたのだ。四方に拡散される事なく、ただ一点に収束されて放たれた熱量は爆発的な力でもって中空を走り、振るわされた大気は下方の草生えの大地にその衝撃を一瞬にして焼き付ける。反動に2、3歩よろめいたマリクは急いで姿勢を立て直し、何か焦げたような匂いを残す大気の中、大地の向こう側を仰ぎ見た。
何処で途切れたものかも判らない軌跡が、真っ直ぐに草原を突っ切っている。
「…畜生」
彼の立場に相応しからぬ台詞と共に、舌打ちする。如何にも悔しそうに。
カダインを出る時、彼の恩師が「餞別に」と持たせてくれた魔道書は、全くとんでもない代物だった。
風よりも速い風を呼び、全てを切り裂く大気の刃。
初めてこの呪法をものした時には、その威力に驚愕したものだった。…真の力の半分にも遠く及ばぬその威力で。
そう。これが他の魔道の匂いのない純粋な気、草原の豊かさ、そして理想的な精神集中の場と確かな触媒という条件が重なり合った、ほぼ完璧に呪法の発動した結果なのだ。今日、戦闘中に呼んだ呪など比べものにもならない。マリクは唇を固く噛み締める。
戦場の狂騒の中であった事など、何の言い訳にもならない。魔道の匂いのない気がある事の方がよほど珍しいのだし、そこから己に必要な気を呼び込む事ができない者に魔道士の資格はない。どのような場所にいようとも、一瞬で気を呼び込める事。触媒の存在に頼らず、気を支配すること。全て、基本的な事なのだから。
悔しさにともすれば震えがちになる拳を握りしめ、平常心を取り戻す為、殊更に大きく静かに深呼吸をした、その時だった。
「…マリク」
背後からおずおずといった調子で掛けられた声に、マリクの息は途中で止まった。
ひゅうと高い音を立てて吸い込んだ息が喉に絡んだらしい。次いで、激しく咽せ込み出す。驚愕に止められた息はそのままだったので、ひたすら咳き込み続けたマリクは文字通り、死にそうな羽目に陥った。その間中ずっと慌てたように、しかし優しく背をさすってくれる温かい手の持ち主の存在は、こんな状況にも関わらず、マリクにはひどく嬉しかったのもまた事実なのであるが。



「ごめん。そんなに驚くとは思わなくって…」
マルスが如何にもすまなそうに、マリクを覗き込むようにして屈んで言ったのは、蹲ったままの彼の咳がようやっと収まった後の事だった。が、それでも顔を上げようとしないマリクに、不安な面持ちを隠さず、更に彼へと被さるように身を屈める。
「本当に、悪かったと思ってるよ。ごめん、マリク。…まだ何処か苦しい?」
それでも、マリクからの反応はない。なので、取りあえずマリクの前で同じように蹲って、それでも顔を埋める事はせずに彼の様子を窺う。
沈黙。
この状況をどうしたら打破できるのか、真剣に悩んでいたマルスの耳に、何か呟きが届いたような気がした。
「え?なに?」
マルスは愁眉を解いて身を乗り出し、その耳をそばだてる。
「…いつから、見ていらっしゃいました?」
くぐもったその言葉に、マルスの目が小さく泳いだ。そして少し迷ったようにそわそわとした素振りを見せたが、やがて小さく息を吐いてこう言った。
「マリクが部屋から抜け出した時から。…僕の寝室の窓から中庭を横切るのが見えて、それで追いかけてきたんだけど、ずっと声を掛けそびれてた。……ごめん」
濃く淀んだ魔道の気は、人の気配を拡散させる。だから、マリクが気を動かし出してからならば、王子の存在に気づかなかった理由づけはできる。しかし、王子は最初からいたのだという。ここにはそれより以前に魔道の気はなかった。ここまで匂いのないのは稀であろうほどに澄んだ気の中で、人の気配を見逃すはずがない。ならば何故、王子の気配に今まで気づかなかったのか?
マリクは、確かに己の未熟を痛感していたが、決して魔道士として無能ではない、という自負も持ち合わせていた。ただ単に気づかなかったなどとは思えないし、思いたくもない。
しかし、常日頃彼の行動を完全に支配している『理性』が、その脳裏に刹那に流し付けた冷徹な現状把握は、その後すぐに襲ってきた『感情』にあっと言う間に駆逐される。
情けない様を晒してしまった。よりによって、一番知られたくない人の前で。
現在のマリクの中に存在するのは、ただその一点の思いだけである。しかし、ますます身を縮込ませてしまったマリクの様子を、王子は全く別の意味に取ったらしい。慌てたマルスは地に手を着いて、更に彼へといざり寄る。
「本当にごめん!ずっと覗いてた、なんて、気分悪かったよね!ごめん。ごめんなさい!」
王子の声は、純粋に謝罪の意のみに溢れている。如何にも深刻そうなその様子にマリクは、顔は上げられないままではあったが、己を叱咤して、何とか言葉を絞り出した。
「…謝らないでください。マルス様の所為じゃありません。別に怒っているとか、そういう訳でもないんです」
それでは、何故顔を見せてくれないのか。マルスの疑問に先回りして、マリクは更に言葉を続ける。
「…恥ずかしくて、マルス様の顔が見られないだけです」
そんな簡潔な説明でもマルスは納得したようだった。少なくとも、マリクの混乱振りだけはよく理解できたのだろう。困惑と、多分マリクに何をどう言えばいいのか迷っているのだろう、そんな気配の後、王子は小さく呟くように言った。
「…ごめんね」
「いえ。だから別に、マルス様の所為じゃあ…」
「だって、僕がマリクを見てた事が原因だろう?」
「違います。僕自身の問題です」
「違わないよ。僕の所為だよ」
耳にほど近いところで響く、淡々としたマルスの声はマリクの心中とは全く対照的に静かだった。そして、彼の声が静かであればあるほど、マリクの困惑はますます大きくなる。
そんなつもりではないのだ。王子に負担をかけるのが嫌だという、ただそれだけなのに、何故現在、王子にこんな沈んだ声を出させる事になってしまっているのだろう。
「マルス様」
勢い込んで顔を上げたマリクの目にまず飛び込んできたのは、夜のように暗い髪に縁取られた、白い顔だった。そのあまりの距離の近さに、彼は思わず後ずさろうとしたが、それは現在の姿勢をあまりにも考えない行動だった。当然の結果として、ぺたりと尻餅をついたが、それでも視線は外せないままだったマリクの前で、青灰色の瞳が悪戯っぽく煌めいた。
「やっと顔を見せてくれた」
屈託なく笑う王子に対して、きっと間抜けた顔を晒している事だろう。しかし、未だ呆然としているマリクはそのままに、マルスは膝を伸ばして立ち上がる。そして、彼に視線を戻すと、ふと小さく笑んで、言ったのだ。
「誰でも、一日で大人になる訳にはいかないよ」
それは、マリクが全く見た事のない顔だった。達観した賢者のように、薄く唇に笑みを掃いたその表情は、優しさの中に半ば硬質的な冷たさを混ぜ込んだ、古い神像のようだ。か弱く見えるほどに優しく、甘えたがりの幼い王子が、マリクの脳裏に蘇る。彼はいつからこんな顔を持つようになったのだろう。
マリクはゆっくりとその身を起こす。極自然に差し出されたその支え手の主が誰か、という事も自覚せぬままに、迷いなくその手を取って。
何故だろう、今の王子は、彼の姉である王女の姿を彷彿とさせる。確かに、面立ちはよく似通っていた。しかし、あまりにも印象の違う姉弟であった。少なくとも、7年前までは。それは、全く同じ色をしたその瞳さえも、空と海ほども違うと思わせるほどだったのに。
マリクの表情に、そんな心境が現れてしまっていたのかもしれない。マルスは一つ瞬きすると、またマリクのよく知る王子の顔に戻って微笑う。彼の現在の年齢よりもひどく幼い、マリクのよく見知った表情で。
「埃が付いてるよ、マリク」
マルスが少し身を屈めて、彼の身に着けたマントを軽く叩き出した時、マリクはようやっと我に返った。
「っ、すいません!」
言いざま、身を引く。しかし、マルスはすぐに返す。
「こっちこそ、ごめん。転ばせちゃって、マントも汚してしまって…」
「いえ、これは先程土を扱った時に付けたんです。王子のお手を煩わせるようなものではありません」
「…そう?」
マルスは、少し困ったような顔をする。きっと自分も同じような表情をしているのだろうと思う。友人同士であり、主君と臣下でもある彼等二人。7年前に別れた時はまだ幼くて、その曖昧な関係に何の疑問を抱く事もなかった。
だけど、今は?
きっと彼等はお互いに、自分と相手の踏み込んでもいい位置が把握できていないのだ。昔のように話し合える関係を求めながら、そうである事が許されるのかが分からない。
らしくもない。
マリクは努めて普通を装って、彼等の立つ丘から眼下に広がる草原を見下ろした。夜闇の沈んだ草原はまるで暗い海のようで、風がひっきりなしにざわざわと潮騒の音を立てた。
「いい風ですね」
「本当に」
王子が、風に相対するように顔を向けると、風はその髪をなぶって通り過ぎていく。
「草原の風は、気持ちがいいね。タリスのとも、アリティアのとも違う。どんな本にも、風の匂いなんて書いてなかったから。……本当はこんな事、思っちゃいけないんだろうけど、ちょっと嬉しいんだ。世界をこの目で見てみたいっていうのが、僕の夢だったから」
そうだった。王子はたった一度だけ、こっそり秘密を打ち明けるようにしてマリクに語った事がある。
世界中を旅してみたい。
叶えられる事のない夢だと、打ち明けられた者と同じく、きっと打ち明けた王子にもよく分かっていた。ごく普通の少年になら許されただろうそれは、大陸でも有数の、権威に満ちた王国の跡継ぎには、決して許されない。
何故だろう。他のどんな人間だって望むべくもない身分。約束された権力。望みさえすれば、どんな物でも手に入る、そんな地位は、マリクの知る限り、一度だって彼に幸福を運んでなどこなかった。邪魔な物でしかなかった。だから…。
「…タリスは、いい場所でしたか?」
宮廷ではない場所で初めて過ごした2年間は、彼に望みのものを与えてくれたのだろうか。マルスは、穏やかな笑みを浮かべたまま、言う。
「平和で、だけど活気のある国だったよ。だけどね、何故こんなに勢いがあるんだろう、驚異的な国力の増加の秘密はどんなところにあるんだろう、とか知らない内に考えちゃってるのに気がついて。…何処に行っても、僕がアリティアの王太子でなくなる事なんかないんだな、ってそう思った」
何と返答するべきなのか、分からない。
王子は決して、歴代のアリティア王のような剛の者ではない。しかし、きっとその誰よりも『王』に向いている。
支配者には、自身が万能である必要性はない。秀でた能力を持つ者をまとめ上げる統率力をこそ、持っていればいいのだ。逆に言うなら、まさにそれこそが基本であり、名君と呼ばれる王の必要絶対条件でもある。
今の王子は、それを持っている。当人の望むと望まざるとに関わらず。…何よりも、不幸な事に。
マリクは思わず、マルスの手を取ってその場に膝をついた。
「すみません」
「…マリク?」
「すみません」
マルスの望みは、叶えられない。…不可能なのではない。叶える事ができないのだ。彼等アリティアの民には、王が必要だった。そして、それより何より、マリクはマルスに行ってほしくなかったのだ。
たった今、辿り着いてしまった恐ろしい推察。
アリティアにはマルスが必要だけれど、マルスにとってアリティアは、必ずしも必要ではないのではないか。どころか、それが重荷になっているのではないか。…彼にとっては、ない方がいいものなのではないのか。
マリクは今まで思いつきもしなかった。マルスに見捨てられてしまう事など。…考えたくなかったから、固く目を瞑っていたのだ、きっと。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。だけど、お願いです。
どうか、置いていかないで。
だけどマリクは、胸中に沸き上がる思いを口に上らせるのに、たった一つの言葉をしか選択できなかった。
「すみません」
マリクの縋ったたった一つのものが、固く握り返された。確かな存在感を持ったマルスの手は強く、暖かだった。
決して置いていかない、と約しているかのように。
その手に縋ったまま、そっと顔を上げると、マルスは元気づけるような笑みを見せた。
「落ち着いた?」
何だか少し、照れくさい。マリクは口の中で何か、謝罪だか言い訳だか自分でもよく分からない事をもごもごと呟いて、立ち上がった。きっと顔は赤く染まっているだろう。
その時、マルスが小さなくしゃみをした。それが、話の接ぎ穂を見失ってしまったマリクにとっては救いとなった。
王子は昔からよく風邪を引いていた。今のこの場の状況は、あまり体にいいものではない。
「マルス様。そんな薄着で外に出るなんて…」
「マリクがこんなに遠くに来るなんて、思わなかったんだよ」
マルスは小さく唇を尖らせた。昔と少しも変わらない仕草で。胸奥に不思議な安堵の思いを噛み締めながら、マリクは己の身を包んでいたマントを外すと、マルスの肩に羽織らせた。驚きに見開かれたマルスの瞳と合った彼は、目端だけで小さく微笑う。
「風邪を引きますよ」
「それは、マリクもだろ」
王子の非難めいた視線の先を辿って、己が寝間着にマントを羽織っただけの姿であったことを思い出したが、マリクは軽く笑んだまま言う。
「僕は寒くないんです」
まるっきり信用していない事を明白に示す王子の眉根が緩んだのは、続く言葉の故だった。
「魔道の気がまだ体内に残っているので、暑いくらいですよ」
「…魔道って、そうなの?」
「ええ。寒国出身の魔道士が多いのは、そういうところに理由があるのかもしれませんね」
大仰に顔を顰めて頷くマリクに、マルスが面白そうに微笑う。その期を逃さず、マリクは畳みかけるように突っ込んだ。
「魔道士のマントなんて滅多に着れませんよ。特にそれ、戦衣にもなる本式の物ですから」
伝家の宝刀であった。好奇心旺盛な王子がこの攻撃に耐えうるとは思えない。マリクの完全勝利は今や目前である。そんな己の性向を正しく理解している王子は、それでもそのまま言い負かされてしまうのが悔しいのか、むくれたように唇を尖らせたが、すぐに大きな溜息をついて、マントにその身をきちんと包み込んだ。
「すぐに帰ろう」
ちょっと不機嫌そうなマルスの、せめてもの妥協点に逆らうような事はしない。幼い日、その賢さ故に、遊び相手という名で次代の国王の側近候補として取り立てられたマリクは、引き際は心得ていた。



「思ったよりも、ずっしりしてるんだね、このマント。もっと軽いもんだと思ってたよ。それに、何だか不思議な匂いがする…」
オレルアン王城へと帰る道すがらの王子の沈黙も、長くは続かなかった。そもそも、魔道士のマントに興味津々だったのだから、それを無視し続ける事などできるものではなかったのだ。見るからにわくわくした様子の伺えるマルスに、マリクは微笑う。
「裏に銀糸で、魔力による攻撃を緩和する呪言を縫い取ってあるんです。あちこちについた隠しにも、呪法の媒体が入っていますから、匂いはそのせいかもしれません。…お気に障りますか?」
「そんな事ない。嫌な匂いじゃないよ」
マルスが胸元に掻き集めるようにして身を包んだマントをちょうど押さえた辺りで、かさりと何かが音を立てた。枯れ葉のような触感だ。それに、ひどく甘ったるいような香り。決して嫌な匂いではなかったが、胸の奥に溜まるようなそれは、如何にも不思議な感じだ。
「この感じ、さっきの会談で預かった物に似てる。何となく」
「…預かった、とは?」
「王女殿下から下賜された物だよ。今もここに持っているんだけど」
言いながらマルスは、首に掛けられて、服の下にしまい込まれていた細鎖を、マントの上に引きずり出した。
「…それは…」
言葉に詰まったマリクを後目に、マルスは全く悪びれない。
それは、掌にすっぽりと入ってしまう程の大きさで、その中央に不可思議な曲線で描かれた文様は、まるで炎そのもののように波打って見えた。
「…炎の紋章…ですか?もしかして」
「らしいね。僕も話に訊いた事はあっても、実際に見るのは初めてだけど」
それは、思ったよりもずっと小振りだった。伝説の中、初代アカネイア王が『神』から授かり、この紋章の力で以て大陸を統一したとされ、また英雄アンリが聖王女アルテミスから預けられたとされる、世界を征する覇者の証。しかし、そんな言い伝えなどよりも、魔道士にとって重要だったのは、この紋章が、世界の黄金律をも歪めかねないほどの力場を発している、という事実のみであった。
「すみません。…ちょっとだけ、手に取ってみてもいいでしょうか」
「いいよ。ただ、身につけて離さない方がいいらしいから、このままでね」
マルスがそれを首に掛けたまま、マリクの方へと差し出す。マリクは恐る恐る、首飾りの先端部に当たる紋章をその手に取った。ひんやりと冷たいそれは、掌に吸い付くような感覚をもたらす。
この神器は、魔法都市カダインでは、他国の人々から見た一般的な価値とは全く違った認識で捉えられていた。
遙かな過去の『神』という存在。その存在を疑問視するには、あまりにも異質に過ぎる、アカネイアに残されたその遺産。炎の紋章と三種の神器と呼ばれるもの。
アカネイア聖王家に幾度となく申し入れたそれらの品の借入要求は、全く受け入れられなかった。それも当然だろうとマリクは思う。不用意に貸したりなどして、無邪気な魔法使い達が国宝級のそれらをどのように扱うか、など考えたくもないのだろう。世界が乱れた時のみ使用が許されるといい、つまりは少なくともここ100年間は門外不出の代物だったはずだ。
カダインに学院が作られてから、50余年。それ以前、魔道が体系立てて研究される事はなかった。だから多分、この紋章を実際に手に取った魔法使いも、他にはいない。
マリクは、手の中の紋章にそっと指先を滑らせる。マリクの全く知らない物質で作られたそれは、艶やかな、まるで金属のような光沢を放っていた。
カダインではそれは、ほんの少しの情報から導き出された推論によって、おそらくは魔道器、それもアカネイア王国成立以前、魔道学の黎明期に、当時の最高水準の技術で作られた物だというのが定説となっていた。
そう。それは、確かに魔道器だった。マリクの知る範囲に入る物ではなかったが、これがただの飾り物であるはずはない。
本来、魔道器とは、魔道の力を封じ込められた道具を指す。故に、当然それらは、魔道の気配を色濃く漂わせているものだ。しかし、この紋章にはそれがない。更に、魔道器以外の道具の当然纏っているべき気配もない。…時間を経た物ほど色濃いはずのそれを、これほどに長い歴史の中、存在していた物が持っていないなどと言う事はあり得ない。
これは、自身の持つものを含めて、周囲全ての気を吸収していた。
今ならば、分かる。何故、間近い場所にいた王子の気配に気がつかなかったのか。これが、王子の発する気をも吸い取り、内包してしまっていたからだ。他にもありとあらゆる気を吸収しているはずなのに、これは何よりも純粋だった。純粋すぎて、何ものにも染まらないという白絹に似ている。
「…そうだ。姉上に似ているんだ」
どきりとした。顔を上げた先、マルスは少し唇を引き上げただけの笑いをマリクに見せた。
「姉上に似ているよ、これ」
今度は己に言い聞かせるようなマルスの呟きは、マリクの脳裏に深く静かに浸透する。
マルスの姉は、艶やかな暗灰色の髪に青灰色の瞳の、大陸で最も麗しいと言われたほどの美姫である。しかしこの場合、そういった外見上の事を言っている訳ではないというのは分かり切っている。それは、彼女と他者とを隔てるもう一つの特性に根差したものだ。
ナーガの巫女姫。
太古の神ナーガの寵愛を一身に受けたとされる彼女の持つ魔力は、確かにこの炎の紋章と同じ匂いを宿していた。
『神』から得たとされる炎の紋章と三種の神器。そして、太古の神ナーガの巫女姫。
この符合は、どういう事だろう。
そして、アリティアにも一つ、『神』から得たとされる剣があった。やはり、門外不出とされ、アリティア国王の戴冠式にしか使用されない剣で、マリクは未だ見た事はなかったが、…刃の部分が潰されており、何も切る事はできないのだと、昔、聞いた覚えがある…その剣もまた、同系列の魔道器、なのであろうか。
何かが見えそうだった。
マリクは、天空を見上げた。降るような星が、そこに瞬いている。
この戦いが終わり、王子の元に神剣ファルシオンが戻った時、きっと何かが見えるだろう。だから、今は。
「帰りましょう、マルス様」
進む先には、きっと全ての答えがあるのだ。
彼等の前は、暗闇に閉ざされてはいたけれど、今は遠く、確かな光がちらついている。彼等は真っ直ぐ、王城に向かってその丘を下っていった。



END


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