はじまりの終わりはおわりの始まり〜アベル


ひとりの小さな行動が 複数人の次なる行動を形づくる
ひとつの変革は また新たなる変革を呼ぶ
そうして 万物は流転する
そうして 歴史は作られる



石造りの壁のそこここに、オレルアン独特の精緻な幾何学模様を織り込んだ美しい布がいくつも掛けられた廊下を、アベルは足早に通り抜けていった。異国情緒あふれるその作りに感銘を受ける様子もない。
その色とりどりの布共が、つい先程まで戦場だったこの城に染みついた荒廃の後を隠すための物だということを、知っていたせいかもしれない。
ほんの数時間前。激戦の末、ドルーア軍のオレルアン駐屯指令だった将軍を討ち取って、アカネイア、アリティア、そしてオレルアンの王旗を掲げた時、オレルアンでの全ての戦闘は終わりを告げたのだった。
城を取り戻した。自由を、誇りを取り戻した。憎むべき侵略者は追い払われた。
沸き上がる歓声。手近にあるあらゆる物は、オレルアンの民人の手によって即席の打楽器と化した。大地を踏み鳴らす音が、地響きのように世界を包む。喜びに彩られた興奮の声、また声。
しかし、耳にまだ響いているような気がするそんな熱気の音も、今はもう過去の物である。彼らアリティアの者達にとって、このオレルアン奪回劇はほんの前哨戦にすぎない。オレルアンにとっては事後処理に当たるべきこれからが、彼らの真の戦いなのだから。
結局誰ともすれ違わぬまま、アベルは目的の、彼らに与えられた棟の最も奥まった場所に位置する部屋の前へとたどり着いていた。平和時ならばひっきりなしに廊下を行き交っているのだろう侍女の姿は、影も見えない。救国の英雄である、100年前の救世主の末裔達へのオレルアン王の感謝と喜びを映すかのように、当初、少なからぬ数の侍女達が彼ら付きとして設定されたらしいのだが、王子がそれらをきわめて穏便に断り、また彼女達がこの棟に極力近寄らないように腐心した賜である。
決して事を荒立てず、相手にそれを意識させないままに、大抵の事を己の思い通りに動かしてしまう。
それが、タリスでの夜以来、全く違った角度から彼を見つめ始めたアベルが改めて気づいた、マルス王子の顔の一つだった。
「マルス様。替えの衣装をお持ちいたしました」
「アベルかい?入っていいよ」
すかさず返された言葉はひどく気安い。しかし、そんな王子の返答を受けても、アベルの礼節ある態度は崩れない。木戸を押し開け、軽く一礼する。毅然としつつもなお、主君に対する敬意を感じさせる流麗な所作で。そのまま顔を上げてさり気なく周囲に視線を投げると、その目に水に濡れた半裸のマルスが飛び込んできた。彼の傍らには、色彩も豊かな大きな桶が一つ安置されている。
桶からその周囲に少し水が飛んでいるのを見るまでもなく、現在の状況を把握する。
「まだ湯桶をお使いでしたか。…ご無礼を」
熱い湯に浸かって体を洗うという風習の存在しないオレルアンでは、当然ながら風呂はない。しかし、オレルアンの重臣にも気の利いた者はいたもので、彼らに熱い湯と人一人何とか入れそうな大きさの桶を差し入れてくれたのだ。草原での戦い、城内戦と立て続けに大きな戦闘をこなした彼らは皆、泥のように疲れ切っており、これはどんな宝石よりも嬉しい贈り物となった。そして汚れを落としたら、後は体の欲求の命ずるままに、夢も見ない程に深く眠る。そうできたら、どんなに幸せだったか分からないのだが…。
彼らの王子には、本日最後の仕事が残っていた。ごく自然に目を伏せて、アベルは手の中の、オレルアン王との会見のために整えた礼服を、皺にならないように注意して、そっと卓に置いた。そのまま今潜ってきたばかりの木戸へと直行しかけたアベルの後ろ姿に、しかしマルスは笑って取りなすように言う。
「今出たところ。着替えを待ってたんだ」
無造作に彼に向かって差し出されたマルスの手が、服を所望しているのはすぐに理解したが、アベルは一瞬躊躇する。本来ならば、すぐにこの場を出るべきなのだ。王族の肌を見るなど、この上ない不敬に当たるのだから。しかし、王子はアベルが着替えの手伝いをする事を望んでいるらしい。この場合、礼節と王子の命では、どちらを優先させるべきなのだろう。
暫しの間の後、アベルは黙って、卓に投げ出されていた拭き布を差し出した。
「きちんとお体を拭いておかないと、風邪を引きます」
礼節なんて、『今更』だろう。
王子の酌で酒を飲んだという過去は、アベルの踏ん切りを異様に切れのいいものにしてしまっているらしい。
アベルの手の拭き布は、軽く使った後の物らしく少し湿っていたが、マルスは気にならないらしく、些かの躊躇もなく、それを受け取る。
「うん。折角の礼服が濡れてしまったら大変だしね」
そのまま素直に体と髪を拭き出した事を確認して、アベルは他に余分の拭き布はないかと周囲に視線を投げた。恐らくないだろうとは思うが、このまま王子の様子を眺めているのも、非礼に過ぎるだろう。…やはり、ざっと見た限りではないようである。
「だけど、ここへはカインが来ると思ってたけど…」
背後から掛けられたその言葉は、予測されていたものだ。
「カインは今…、ちょっと手が放せない用事がありまして…」
「またナバールと喧嘩したの?」
「…お分かりですか」
「そりゃあね。こんな時、いつものカインだったら、何があろうと自分で来るもの。…という事は、僕に顔を見せられない物理的な理由があるんだろ?」
「……おっしゃる通りです」
まさしく、であった。さすがに、誰が見ても一目瞭然な殴られた痕の付いた顔を、王子に晒す訳にはいかなかったのだ。
「二人とも、まだ一度も剣を抜いてはいませんが…」
二人に対する取りなしは、我ながら少々言い訳がましい。それを肯定するように、小さく肩を竦めたマルスの返答はにべもなかった。
「抜いたら、どちらかが死んじゃうよ。…多分、カインが」
おそらく、それも正しい。カインの剣技がそれ程劣っているとは思わないが、あの傭兵は、己自身を含めた人の生死の重みに対する感覚が、ひどく希薄なように感じられる。彼の剣には迷いがないのだ。数度、共に戦闘を経験したのみのアベルの目にも明らかな程、それは際だって見えた。
敵を『倒す』という事は、即ち『殺す』という事だ。戦場では、人としての情が足枷になる。黒髪の傭兵の枷はひどく軽いのに反して、カインの足枷は特に大きい。
「…何であんなに仲が悪いんだろう…」
溜息混じりの王子の呟きは、多分独り言だったのだろう。アベルから答えが返ってきた事に、如何にも意外そうな顔を見せていたから。
「それは当然、あの傭兵が王子の守護指輪を持っているからですよ。…性格的に合わない、というのも確かにあるとは思いますが…」
流石にそれだけでは、あそこまで反発したりはしないだろう。
「…だけど、あれは僕がナバールにあげた物で、別にナバール自身が何かをしたという訳ではないんだよ?」
「だから問題なんです」
理解できないらしいマルスは、きょとんとしている。その様子に、今度はアベルが溜息をついた。全く、政治的な事にはあんなに働く観察力と機転は、自分に向けられる他者の感情に対してとなると、まるで錆びついてしまうらしい。
「あの傭兵は、王子自身がお選びになった守護騎士ですから。…恐れながら、昔からずっと王子をお守りしてきたカインには、色々と思うところもあるんじゃないんですか?」
見返りを期待していた訳ではなかったろうが、内心忸怩たる思いがあるのであろう事は否めない。
「…守護騎士って、別にそんなつもりでは…」
言いかけたマルスは、そこで言葉を飲み込んだ。貴人の守護指輪を得た戦士…一般的には、姫君から指輪を賜る騎士…がどのような存在か、ようやっと思い当たったようである。
「……そっか。みんな、そう思ってるんだ」
道理で周囲の様子が変な感じだと思った、と、感心したように頻りに頷くマルスに、アベルは呆れて頭を振った。
「思っていないのは、当の王子と傭兵の二人だけのようですね」
そうなのだ。『悪魔の山』で加入した異国の傭兵が、協調性という言葉の意味など知らないし、理解する気もさらさらない、という意志のありありと見える型の人間だった為、しばらく気が付かなかったのだが、彼は王子の守護指輪を得るという事の意味について、全く気が付いていないようなのだ。…もしかしたら、彼の祖国には『守護指輪を持つ』という風習自体がないのかもしれない。
アベル自身も彼と同系統の人間と言えない事もなかったが、あそこまで徹底してはいない。かといって、カインと同じ世界を見ている訳でもない。しかし、ひどく中途半端なその位置故に、気づいた事や分かった事も多少はあるのだ。一本気で猪突猛進な親友に聞かせたら、きっと猛反発する事だろうが。
あの傭兵と王子は、不思議と似通った印象を抱かせる。
ひどく現実感がない。生身であるという事を感じさせない時すらある、その雰囲気。
闇色の髪をした異国の傭兵と、救世の伝説を背負う亡国の王子。
性格も、おそらくは育った環境も、何から何まで対照的な二人であるのに、そのただ一つの共通点故に彼らは同種の、同じ世界の人間なのだという気さえ起こさせる事がある。
恐らく、『救う者』と『滅ぼす者』は等しく同一のものなのだろう。どちらも、何かを超越しているという点に於いて、共通している。
「…王子。あの傭兵は何歳なんでしょう」
表情の読みとれない瞳の色と大陸外の人間特有の仮面のような顔立ちとが、取り敢えず年齢を超越して見させてしまうのだ。そう思考を切り替えたアベルに、童顔なのに時々ひどく大人びて見える、同じく年齢を超越した王子が目をぱちくりさせた。
「ナバールの年齢?聞いてないけど…、18歳から40歳までのどれかだと思うよ。何で?」
マルスの意見は間違ってはいないだろうが、この場合何の役にも立っていない。
「……カインが『坊や』呼ばわりされていたものですから…」
「それじゃあ多分、カインよりは上だね。23歳以上なんだ。範囲が狭まってよかったね」
「………そうですね」
あまりにも屈託のないマルスの笑顔を前にして、何だかカインが可哀想になってきたアベルだったが、気を取り直し、取り敢えず今できる事をしようと、王子の礼服を手に取った。
アベルの手によって広げられたそれは、聖堂騎士団の制服と同じ形をしている。ただ彼らのものよりも青みは強い。いわゆる、アリティアの蒼である。そして、袖口や襟元を飾る縫い取りは銀ではなく、金。それは正しく、アリティア国王に対して第一の臣下であるべき、王子としての装いである。
マントも裾の長い正式なものだが、やはり色は蒼。ただし、王子の髪の色に合わせて、少し明度は落としてある。
この一揃いは身につけた王子の青い髪を、さぞかし際だたせる事だろう。
王子は今まで国外に出た事がなかった故、彼を直接知る者は少ない。しかし、『アンリの印』と呼ばれるアリティアの王太子の青い髪を知らぬ者はおそらくいない。
彼の脳裏に浮かんだ皮肉な思いを察したのか、マルスは苦笑しながら言う。
「すごいだろう?如何にも、で。…だけど、そんな茶番が有効な時もある。戦場に到着する前に、出来うる限り有利に立ち回れるように、下準備をしておかなければね。…だけど」
ほんの時折、アベルに覗かせる王子の表情が、不意に子供っぽいものへと変化する。
「国同士の駆け引きって、本当に戦争みたいだなと思う事があるよ。血の流れない戦争だよね。…昔はそんな事、思いもしなかったけど」
「…ならば、戦争は血を流す政治、なんでしょうか」
「……戦争も政治も一つの根から生まれたものだからね。本来なら、そうであるべきなのかも知れない…」
ならば。
今、マルスが自分と同じ事を考えているようにアベルには思えた。
ならば、2年前のドルーア帝国によるアリティア侵攻は、戦争などではなかった。
あれは私怨、恨みから起こった単なる殺戮に過ぎなかったのか、と。
「だけど、僕達はこれから『戦争』をするんだ。それを忘れないようにしなくちゃ。そうでなければ、僕等もドルーアと変わらなくなる。そうなったら、泥沼だ」
恨みに飲み込まれてしまった時、互いに殺し殺されるのみの殺戮劇へとそれは移行する。
「あくまでも、アリティアの者達の立場は明確にし、その行動は正当化されなくてはならない。これから戦っていくのは、辺境の軍隊くずれのならず者なんかじゃあない。れっきとした軍隊だ。…僕等は平穏であるこの大陸に、新たな争いを起こそうとしているんだから」
「平穏だなどと」
「平穏だよ。…ドルーア帝国による支配を認めた国々にとっては、充分に」
管理飼育される平穏など、アベルは願い下げだったが、それでも他者の選択を非難する謂われなどない。不機嫌そうに口を噤んだアベルを励ますように微笑んで、王子は続ける。
「差し当たって、オレルアン王国は、味方につけるまではいけなくても、最低でも心情アリティア寄りの中立にはなってもらわなくちゃね。まず何よりも始めに、僕等が『元アリティア』じゃなく、現在でも『アリティア』であるという事を確認しておかなくちゃいけない」
個人で戦争は出来はしない。つまりは彼等が残党などではないという事をオレルアン王に、オレルアンという国に、そして全世界に認めさせる事こそが、彼等の戦いの第一歩となる。
そうでなければこれもまた、単なる仇討ち、私怨で終わってしまう。
「いよいよ、これからが本番だよ。僕等にとっては、ね」
その通りだった。決然としたマルスに、アベルは唇を引き締めて頷いた。それを受けて、マルスはにっこり笑って付け加えた。後に、この結論に辿り着きたかったが為だけに、こんなにも詳しく政治的な話をしたのではないか、と勘ぐってしまったものだったが、しかしこの時は、話の飛躍振りに呆気にとられて、全くそのような考えには及ばなかった。
「だからアベルも、騎士団の正装を着ておいて」
「…私も…ですか?」
差し出された手に、今度はちゃんと礼服を渡す。それらを手早く身につけながらも、『何故』と大きく描かれたアベルの顔に、マルスは更に続ける。
「やっぱり、正式な服装の方がいいだろ?聖堂騎士団の代表としてオレルアン王の前に出る訳だから」
一体、何の事だ。
一瞬混乱しかけたアベルだったが、常に己のテンポを守る事を旨とする彼故、立ち直りも素早かった。
「それは、ジェイガン卿のお役目なのではないでしょうか?私のような若輩者には務まるものではありません」
「ジェイガンは今日の戦闘で随分と疲れているみたいだったろう?できれば、ゆっくり休ませてあげたい。それに、今回の会談にはオレルアン公も同席されるっていうから、実戦闘員が顔見せした方がいいと思うんだよね。何といっても、ジェイガンは指揮官だし」
つまりは『王室会談』という事なのだろうか。…それは、ますます避けたいところだ。
自らの守り役に対する王子の気遣いはよく分かるのだが、…こう言っては何だが、やはりジェイガンよりもアベルの方が、若い分だけ余剰体力があるのもまた事実である…アベルは元々人前に出る事を好まない。護衛、側付きならまだしも、代表、なんてとんでもない話だ。
「しかし、私は王族の方々の前に出られるような身分ではありません」
「聖堂騎士団は、アリティア国王直属だ。アリティア国王以外に敬意を払う相手はいない。礼節のみを払えばいい。…そうじゃなかった?」
言葉に詰まったアベルに、マルスは向き直って真っ直ぐな視線を投げた。
「僕の騎士達に対して、誰にも文句はつけさせない。例え、オレルアン王であろうとも」
その言葉が彼に与えた感情をどのように表現するべきなのか。胸が詰まって言葉が出てこない。全身が震えだしてしまいそうな波が襲う。掠れそうな息を深く静かに吸うと、アベルは無言のまま、右腕を胸元に引きつけて騎士の礼をした。常よりも深く俯いた姿勢は、彼の感情から自然に出たものであると同時に、王子からその表情を隠したいためでもあった。
嬉しいのか、悲しいのか、それとも腹立たしいのか、自分の思いが全く分からない。ただ、苦しかった。息も詰まってしまうほどに、胸苦しかった。
数瞬、奇妙な沈黙が流れたように思えた。しかしそれは、自らの思いに胸が一杯だったアベルの錯覚だったかもしれない。彼の心境を知ってか知らずか、マルスは明るい声で言う。
「じゃあ、そういう事だから、支度は早めにね。この桶も使って。お湯の代わりはすぐに貰うようにして」
アベルは一瞬で復活した。…我に返ったといっていい。
このままでは、なし崩しである。しかし、他に言い訳を思いつけない。どうすればいいのか。
その思いは顔に出ないままにひたすら苦悩するアベルの救いは、ひょんな所からもたらされた。
「マルス様。入ってもよろしいでしょうか?」
「カイン?いいよ、勿論」
おずおずといった様子で顔を出したのは、如何にもカインだった。
「カイン、怪我は大丈夫なの?」
間髪入れずの王子の台詞に、カインはぎょっとしたように立ち竦み、そしてすぐにアベルに対して非難がましい視線を向ける。それに対してアベルは小さく、しかししっかりと首を横に振る事で答えた。そのやり取りに、マルスは小さく笑って付け加える。
「別に、アベルが言った訳じゃあないよ。僕が気づいただけ」
その言葉に、カインは少し項垂れたようだった。
「…怪我らしい怪我はありません。ただ、顔が少し腫れていただけで」
声そのままに、少し落ち込んだ様子のカインに、マルスは伸び上がって彼の首の後ろに手を添え、己の方へ引き寄せた。そして更に、驚きに硬直しているらしいカインの頬へと手を伸ばす。
「…あんまり目立たないみたいだけど…」
「……魔道士殿が…」
少し声を掠れさせたカインの心境が手に取るように感じられてしまって、アベルは二人に気づかれないように小さく溜息をついた。
やっぱりカインは可哀想な奴だ。…だけど、こんな事を理解できてしまう自分も、大概可哀想かも知れない、という気がする。
薬も過ぎれば毒になる。過ぎる忠誠心は、容易く狂信や盲信へと変化する。または、神聖なるものへの憧憬へ、…恋情に近い程に深い想いへと変化する。
しかし、やっぱり王子は何も分かっていないようであった。…いや。もしかしたら、全てを理解しているのかも知れない。何よりも、物事を深く見通す目を持った王子だから。だが、少なくとも何も分かっていないように見えた。
「マリク?」
それは、オレルアン国境付近で合流した、王子の幼なじみであり、親友でもある少年だった。アベル自身は全く面識がなかったが、カインには旧知の人物であったらしい。
ひどく印象的な少年だった。訓練によって身につけた仮面の下に、激しい感情の波が見え隠れする危うさ。…何だかカインに敵意があるように感じられたのは、気の回しすぎというものだろうか。
「そうです。マリク殿が、治療をしてくれました…」
確かにもう腫れてはいないようだったが、今度は、カインの頬にまるで凍傷になりかかったかのような赤みが見えるなどという事は、言ってはならない事なのだろう、きっと。
「マルス様。今回のお役目は、私よりもカインが適任であるように思います」
許せ、友よ。
全く話が見えないように(当然だ)きょとんとした様子のカインには心の内で手を合わせ、アベルはマルスの前に膝をついて上申する。その表情はあくまでも真摯。彼の個人的な思惑など、毛ほども感じさせない。対するマルスも、少し考える風に指を顎先に当てる。
「……そうだね。これなら、大丈夫かな」
やった。
「うん。それじゃあ、カインにも頼もうかな」
「…カインに?」
「そう。カインに
やたらと『も』を強調させるマルスの笑顔には、あくまでも邪気がなかった。小さな希望を抱いてしまった分だけ、更に脱力感が大きかったアベルは、もう何を言う気力もなく、まだ状況をよく理解しておらず、「いや、私は先程変わってもらった王子のお世話をアベルから引き継ごうと…」などと言っているカインの襟首を引っ掴んで、部屋から出ていった。その手に大きな桶を抱えていても、その扉が力なく閉められる前にマルスへと折られたその礼は、やっぱり騎士の流麗さを失ってはいなかったのだが。
アベルの耳には、扉を閉める間際のマルスの小さな微笑みと呟きとが、まるで呪文のように残っていた。


「どんな茶番も、押し通せば真になるもんだよ」


そう。如何にも茶番だろう。
失われた国の王太子。その王太子にのみ忠誠を誓う騎士。名ばかりで、全く実を持たない彼等。そして、そんな彼等の唯一の援助者は反対に、実は通すが、名を出す事は好まない。表だって動いて、ドルーア帝国を刺激したくはないから。
何とささやかだった事だろう、彼等の力は。
何と儚いのだろう、彼等の立場は。
しかし今現在、彼等の武器は、その『立場』しかありはしないのだ。
アベルは、手の中の桶を抱え直す。その耳には、状況の説明を求めるカインの声は、全く入ってはいないようであった。
後ほんの1、2時間の後、王子の戦いは始まる。立場のみを武器にして。…いや、王子にはもう一つ、何よりも強い武器がある。世界を見通すその目故に、王子は自身の魅力を最大限に利用するだろう。
人と違うという事、異質であるという事を、『特別』であるという事へと転化させ、その背後に聳える伝説までも利用して、きっと王子は勝利するだろう。
最終的な目標を達成させるまで。



祖国に還るという目的に向かって。



END







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