永遠の大地〜マルス

眼下を遍く覆い尽くしていた戦場の狂騒が、潮が引くように遠退いていくのが分かる。敵の増援部隊を分断させる事に成功し、各個殲滅に入った時分なのだろう。「戦は生き物だ」と言っていたのは、昔、軍略について講義してくれた教師であったろうか。当時、ただの言葉でしかなかったそんなものも、肌で意味を感じ取れるようになってしまった。
何か焦げたような匂いが微かに漂っている。むせ返るような血臭に混じったそれが、戦場の匂いというものなのだという事も、もう知っている。マルスは、周囲を草原に囲まれて聳える、オレルアン王城を仰ぎ見た。
王城に残ったドルーア兵を撃破し、現在掲げられているドルーアとマケドニアの国旗を降ろす事。そしてそれにより、反ドルーア勢力の存在を世に知らしめる事。
今ではそれは夢想などではなく、確固たる目的としてさほど遠くない位置に在る。
「申し上げます」
背後からの声に、マルスは振り返らない。誰であるかは分かっていた。そして、その報告の内容も。
「ドルーア・マケドニア連合軍ほぼ壊滅。これより、敗走兵の殲滅に入るとの事です」
機先を制して敵を削る事が役目の弓兵は、両軍が激突した時に戦線を離脱する。味方に矢が当たる危険があるからだ。その為、乱戦となった時点で最前線から退き、後方支援にあたるのが常であるゴードンは、本陣の守りに就くと同時に、伝令の役割を務める。彼は、マルスの背中に騎士の礼を取って伏す。
「我が方の被害状況は?」
「殆どございません」
そこで初めて、マルスはゆっくり振り返った。ゴードンは姿勢を崩さぬまま、王子を見上げている。部分鎧に覆われていない箇所の服地は所々裂けていたし、血の染みた部分もあったのだが、不思議と怪我をしている様子はない。
「今、シスターが治療の為に戦場を巡っております。皆、程なく戻る事でしょう」
怪我はしていたのだ。当然だろう。しかし、現在の彼らには僧侶がいた。国が創られるよりもずっと昔から、聖地ラーマンとの縁が深く、故に太古の神ナーガを守護神とするアリティアには存在しない、新しき神の僧侶が。
神に仕える彼女達は、『施術』と呼ばれる治療法を心得ているという。その成果なのだろうか、切り裂かれた袖から覗くゴードンの腕には、裂け目と同じ角度で薄い線のようなものが浮いているのが分かるのみである。マルスの視線の先に気づいたのか、彼はその線を指先で軽く撫で上げた。
「傷はもうすっかりついてしまいました。シスターは他の者の怪我も治してくれます。…大丈夫。皆、生き残っておりますから」
労るような笑みを浮かべたゴードンの言葉に、マルスの瞳の奥で固まっていたものが緩んで溶ける。
「…そうか。……よかった」
彼らは確かにタリスを出てから幾度となく戦闘をこなしてきたが、しかしそれは決して小競り合いの域を出るものではなかった。その意味では、今回が正規軍との初戦であり、初めてアリティアの名を正面に掲げてドルーアと対峙しする戦闘であったのだ。更に彼等は、数日間サムスーフに足止めされた結果、彼等がオレルアン入りするより先に、ドルーアに王城を陥とされる、という事態を招いてしまっていた。
だが、まだ希望もあった。聖アカネイアの王女とオレルアン公爵は無事であり、未だ砦を固めてドルーアの猛攻に耐えているとの報を受けていたのだ。しかし、籠城はそう長く続けられるものではない。彼等は、公爵の部隊に対するドルーアの包囲を少しでも薄くしなければならなかった。それも、一刻も早く。
今回の戦闘は、色々な意味で決して引けないものであり、激戦を予想するのは容易な事だったのだ。
「オレルアン公は御無事だったろうか」
「最後にお見掛けした時は、最前線で槍を握っておられましたが、それは勇壮な戦振りでございました。あれならば、生半可な相手に後れを取るような事はございますまい」
王弟であるオレルアン公爵は、民人に『狼』とまで呼ばれる風雲児だ。狼は、決して人に飼い慣らされない。聖アカネイアに於いては、孤高の矜持。そして、草原では荒ぶる力の象徴とされるもの。騎乗と武芸の腕では国一番との評判とも鑑みれば、彼がどのような人物なのか、自ずと分かろうというものだった。
マルスは、自身の思いへと頷きかける。
彼とその配下の騎士達は、大きな力となるだろう。それに、シスターの兄だという青年騎士。彼が現在、ドルーア帝国の片翼を担うマケドニア竜王国の騎士であるという事実は、きっと彼自身が思うよりもずっと大きな意味を持つ。そして、もう一人。
マルスはその時、周囲の風がはっきりとした方向性を持って流れているのに気がついた。いや、流れるのではない。引き寄せられている。轟々と音を立てて、風が一つところに凝縮していくような感覚。この、自然ではあり得ない肌触りには覚えがある。マルスのたった一人の姉が、ナーガ神の祭壇で祭祀儀礼を行う度に感じたものに、それはよく似ていた。
マルスの姉は『ナーガの巫女姫』と呼ばれ、生まれながらに魔法を操る、アリティアでただ一人の魔法使いだった。
ならば、これは魔法だろう。アリティアで二人目の魔法使いとなった彼の呼んだ魔法。
幸福の記憶の中にのみ住んでいた少年は、大きく成長し、それでも少しも変わらずにマルスの前に現れた。何よりも嬉しいと同時に、恐ろしい。戦乱の運命に、彼まで巻き込んでしまう。
人々が集う。そして、それは大きなうねりとなって、今度はマルスを飲み込んでしまうのだろう。
もう楽園は還らない。帰れない。それでも、世界は存在するのだ、彼等の前に。
END・
next:MAP5・
FIRE EMBLEM・
|