まどろみの呪文硝子の剣〜マリク

「どうか私に その光り輝く剣を与えてください
悪しきものどもを切り裂く光の剣を」
「これは 光の剣ではない
これは 人の心の内を示す 硝子の剣
こうやって光り輝いているうちは 金剛石よりもなお固い
だけど 覚えておおき
これが 闇を映すようになったら 刃はそのまま硝子となって砕け
お前を傷つけ 苛むだろう
覚えておおき
それは お前の心を糧とするのだ」
昔語りより抜粋

この場が狭いのか、それとも広いのかさえも判らぬ程に、その闇は濃厚だった。変に甘ったるくしつこい匂いが鼻をつく。まるで闇自体の匂いででもあるかのように、濃密でとろりとした質感を思わせるそれ。
幻覚作用のある植物を少量混ぜ込んだその香は、白魔法士の遠見呪法の強力な媒体となる。が、あまりに強すぎる故に身の毒ともなると、学院から多用を固く禁じられている物だった。それが今、燻る炉から立ち上る香気は逃げ場所を失って周囲に渦巻き、場に深く重く沈殿していく。そして、呪を呟き続ける女の声は香と縺れ、絡み合うようにその空間を這いのたくった。もうとっくに意識は混濁しているのだろう、女の声はますます粘着性を帯びてくる。荒い息づかい。次第に高まる呪言。女は悲鳴に似た息を吐く。一種、狂的な雰囲気が一杯に張りつめた瞬間、玲瓏とした鈴の音がその空間を切り裂いた。
「星が動きました」
闇の中から、女の声が響く。涼やかに落ち着いた、先程までの女と同一とはとても思えぬ、しかし確かに同じ女の声だ。
「小さな小さな光です。だけどそれは、周囲に数多の星を群れ集わせる王者の星。彼によって、集う星もまた光を増し、彼の星もよりその輝きを強くする」
「…星は今、何処に?」
対する男の声は若々しかった。まるで少年のようだ。しかし、香の効果など微塵も届かなかったとでもいうのか、あまりにもしっかりした口調は、全く子供のようとは思えない。
「…寄せては返す、絶え間ないざわめき。…ああ、冷たくて強い風が渡っていく。闇が深いわ。嵐、なのかしら…」
周囲を砂の海に囲まれたカダインの夜は寒い。日中、熱せられた空気は急激に冷やされ、強い風をも巻き起こす。が、その風はそう冷たくは感じられない。湿度を含んでいないからだ。
雨を呼ぶ、嵐の風。ざわめき。そしてそれは、ドルーアと講和を結んでいない、これからも決して結ばないであろう国に程近いところにあるはず。彼等は兵力など持ってはいないであろうから、その国と合流するしかない。自明の理というものだった。
そして、それらの条件を満たす場所は、一つだけある。
「サムスーフの森か」
国土の殆どが明の気を発する草原であるオレルアンには、魔道の気が通らぬ程に冥き森など、サムスーフしか存在しない。
「分かった。ありがとう」
すると途端に、女の肢体が力を失い、前のめる。それを手にしていた杖で支えると、杖の先端に着けられた鈴が力無く鳴った。女は、正面に座っているはずの男に向かって、小さく笑い掛ける。
「何か、お役に立てたかしら?」
彼女自身、瞑想状態の中で自分が何を言ったのか、よく覚えていない。少し不安の滲んだ女の声の響きに気づいたのか、自身の想念に沈んでいた男はふと顔を上げた。少なくとも、女にはその気配が感じられた。
「ああ、十分にね」
彼女に対する労い、感謝。しかし、男の言葉の奥には他に、重い何かが確かに潜んでいる。それに不安を想起されたのか、女は恐々といった風情で彼を振り仰ぐ。
「貴方、何か企んだりしてやしないでしょうね、マリク」
ほんの一息分の沈黙の後、マリクの小さな微笑を含んだ声が女の耳朶をくすぐった。
「勿論。君に迷惑を掛けたりはしないから、安心して」
あれからもう、7年ほども経ってしまったのか。永遠とも思えるほどに永く、一瞬とも思えるほどに短くもあった7年。世界は平和で、思い出の中の祖国はどこまでも美しかった。
王城から見た国土のなだらかな緑の稜線。透き通った水を満々と湛えた大小たくさんの湖。
厳めしい父。暖かな母。威風堂々とした国王。優しげな美貌の王妃。少年マリクの憧れそのものだった、神秘的な王女。そして、王子。
マリクが王子の遊び相手として取り立てられ、王宮で生活するようになったのは、ほんの六つ七つの時分だった。家が恋しい時期もあったが、それも随分と王子の存在によって慰められたものだ。思いやりの深い、優しい王子。王の力強さを気丈さという形で受け継いだ王女よりも、弟である王子の方がより王妃に似通っていたように思う。剣を持つことを嫌う王子は、周囲の大人から『軟弱』と侮られていて、マリクは幼心にもそれが悔しくてならなかった。王子が戦わなくても、周囲の者が剣を持てばそれでいいのだ、とそう言ってくれる人も中にはいて、マリクも随分と剣の勉強をしたものだったが、それは全く上達の気配さえ見せず、結局、剣の方が決定的にマリクを嫌っているのだという結論に達して、以上の無駄な努力は放棄せざるを得なかった。
アリティアは尚武の国である。武を修めぬ者は一人前とは認められない。
そして、一人前ではない人間に、王子と王女を守る事などできるはずもなかった。
悔しかった。王子の悪口を言う大人。剣が使えない自分。何もかもが悔しくて、あの時期、嫌いなものがたくさんあったように思う。
そんな嫌いなものの中に、あの従士もいた。マリクに剣を教えてくれようとした親切な従士だったが、マリクは自分にはままならない剣を楽々と扱う彼が嫌いだった。王子が彼をまるで兄のように慕っているのを見ると、ますます嫌いになった。
今ならば判る。自身も王子の兄のようなつもりだったマリクは、彼に嫉妬していたのだと。当時は、後ろ姿に彼の赤い髪が見えると、それに石を投げつけたりした事もあったものだが。
思えば、随分と素直な子供時代だった。
過去、彼に対して行った様々な嫌がらせが脳裏を過ぎり、マリクはしみじみと思ったものだ。
本当にあの頃は子供だった。今だったら、あんな可愛らしいものでは絶対済まさないのだが。
マリクはこの7年間で随分と成長した。その才は周囲も認めるところだし、学院内でも優等生で通っている。そして何より、彼個人の性格が魔道士という存在である事に、非常に向いていたのが大きい。彼は今や立派な魔道士であった、がしかし、『成長する』事と『大人になる』事の間には、深くて暗い川があるというのもまた、厳然たる事実なのだった。
入り組んだ石造りの廊下を些かの迷いも見せずに歩き続けていたマリクが立ち止まったのは、粗末な木製の扉の前だった。二つ、あまり振動を与えないように加減して、尚かつ大きく扉を叩く。
「教授(せんせい)」
しばらく耳をすませていたが、返事はない。更に2回、先程よりも心持ち強めの力で叩く。
「ウェンデル教授」
「聞こえておる。そんなに扉を叩くな、壊れてしまうわ」
慌てたような声が扉の向こうから聞こえてきた。
「お話があるのですが」
しばしの沈黙。マリクが不審に思いだした頃、再び声が届いた。
「入ってもいいぞ。ただし、扉は静かに開けるように」
開かれた扉の向こうでマリクの目に最初に飛び込んでくるのは、小振りな部屋の壁面を埋め尽くした本である。壁は全て、天井に達するまでの填め込み型の書棚になっているのだが、マリクは未だこの部屋の壁自体を見た事がない。部屋の中央に置かれた机の上は元より、床にまで、本や古い羊皮紙の束が今にも崩れそうな状態でうずたかく積まれている。埃と黴の入り交じった古い本特有の匂いが、この部屋そのものの匂いでもあった。それらを一渡り見渡して、マリクは羊皮紙に埋もれたようなウェンデルを机で発見した。
「…教授。また増えましたね」
主語は、本の山が、である。マリクの言を受けて、ウェンデルは微笑う。
「おお。古代遺跡からまた新しく文書が出てな。それを解読しているのだが、いや、なかなか骨の折れる仕事だわい」
愚痴りつつも、如何にも楽しそうなその様子に、マリクは少し呆れたような顔をして肩を竦めてみせる。…教授の気持ちも判らないではないのだが。
「ではお前達、そろそろ部屋にお帰り」
ウェンデルが脇の本の山へと優しげな声を掛けた事で、マリクは初めてそこに人がいた事に気がついた。ぎょっとしたその様子をウェンデルが見咎める。
「何じゃ。室内の人の気配も読めぬとは、情けないのう」
「お言葉ですが、教授」
無能呼ばわりを聞き逃すわけにはいかない。
「この部屋は魔道の匂いが強すぎます。気配というなら、書棚のそこら中から漂っているじゃありませんか。例えば、それ」
マリクは横の書棚から、彼の手が辛うじて届くほどの高さにある、真紺の天鵞絨を張られた本の背を勢いよく指差した。
「教授自身よりもずっとすごい気を放ってます」
憤然と言い放った後になって初めて、マリクは己の言葉の意を飲み込んだかのように目を見開いた。不機嫌そうに寄せられていた眉根は一旦解かれたが、今度はそれは不審さ故に潜められる。
「…何なんです?あれは」
ウェンデルは手にしていた羽ペンをインク壺に指し、苦笑を洩らしながら緩く頭を振った。
「やれやれ、出来のよすぎる生徒も考えものだわい。すっかり言い負かされてしもうたわ」
マリクの質問はこのままはぐらかしてしまうつもりであるらしい。彼はちょっと目を眇めてウェンデルを見やる。
「教授。壺に指しっぱなしにしておくと、ペンが傷みます」
今はそれで我慢するしかない。マリクは、意識してみると今度は確かに感じ取れる、本の陰の気配に視線を転じた。二人いる。
「失礼。来客中とは知りませんでした。お邪魔しましたか?」
「いいえ。もう用事は済んだんです。こちらこそお邪魔をいたしました、アリティアの魔道士殿」
子供の声だった。本の山の陰から現れたのは、小さな女の子。マリクが学院に入学したのと同じ年頃だろうか。白い長衣を着ているから、白魔法士なのだろう。その少女に隠れるように、これは暗い色の魔道士風の長衣を纏った少年…多分…がおどおどと顔を覗かせた。その顔立ちは、二人の気性の違いを映してはいたが、とてもよく似かよっている。姉弟だろうか。学院の生徒ではないようだが…。
淡い金の髪。菫の瞳。痩せてはいるが、割にしっかりとした骨格。
「とんでもありません、グルニアの白魔法士殿」
典型的なグルニア人。
しかし、少女はマリクを前に、少し顔を赤くした。
「見習いです。私達、まだまだ未熟なので」
恥ずかしいのか、悔しいのか。唇を噛みしめて、マリクを見上げる。随分と勝ち気な少女のようだ。彼女にしがみついた少年は、賞賛と畏敬と憧れとが溢れ落ちそうな目をまん丸く見開いて、マリクから片時も視線を離そうとしない。マリクは微笑を浮かべて、軽く腰を屈めると、子供達の目を覗き込んだ。
「すぐに一人前になりますよ。やる気さえあればね」
二人の頬が申し合わせたかのように等しく、真っ赤に染まる。
「頑張って下さい」
そして、棒を飲んだように固まってしまった少年を引きずるようにして、少女が部屋から出て行くまでには、それから更に時間を必要としたのであるが、二人を見送る魔道士達の瞳はひどく暖かだった。
「お前がそのように優しいとは知らなかったぞ。級友達にも、そのように接してみたらどうだね」
からかいを含んだ微笑に、マリクは大仰に肩を竦める。
「僕は、目下の者には親切にすることにしていますけど、格下の者にまでそうする気はありませんね。必要も感じませんし」
協調性は、魔道士にとって特に必要という訳ではない。どころか、彼らは個人主義を体現する存在ですらある。がしかし、もう少しくらいくだけて友人を作ったっていいだろうにと思うのだが、彼は徹底して周囲に冷淡だった。話しかけられれば対応はする。乞われればノートを貸すこともある。しかし、その心の奥底は感じ取れるものなのだろう。彼はひどく周囲から浮き上がった存在だった。彼の級友達も、彼ほど優秀ではないにせよ、魔道士の卵なのだ。
溜息を吐いたウェンデルは、マリクの目がインク壺に突っ込みっぱなしの羽ペンに注がれているのに気づいて、急いでペンを引き上げた。しかし、再びペンを走らせる事はせず、その手で羽の部分を軽く弄ぶ。
「話があるというのは?」
「ええ、お暇乞いにきました。教授には随分とお世話になりましたので」
ウェンデルの手から、羽ペンが滑り落ちた。
「教授、汚れますよ。それ、提出用の清書分じゃないんですか?」
「そんなもの、どうでもいいわい!どういう事だ!!」
冷静なマリクの声に、ウェンデルは椅子を蹴立てて立ち上がる。その衝撃で、床の上の本が幾つか雪崩れた。
「アリティアの者達が兵を挙げたので、僕も参戦するんですよ、勿論」
事も無げに言い放つマリクを、暫く口を開けたまま見つめていたウェンデルは、我に返ったようにゆっくりと椅子に腰を下ろす。…もうそんな気遣いは無用なのかも知れなかったが。
恨みがましく周囲の惨状を見やり、これを引き起こした遠因へとそのまま視線を転じる。
「『アリティアが兵を挙げた』なんて、何故お前が判る。カダインには外界からの情報などほんの数えるほどしか入ってはこんじゃろう。遠見呪法でも使わぬ事には…」
それで気がついてしまったらしい。ウェンデルはこめかみを軽く押さえた。
「お前を好いとる白魔法士がおったな、そう言えば」
「頼んだら、快く引き受けてくれましたよ。毎月一回、呪法をものする間は彼女と一緒にいるという条件で」
月一回程度なら、『多用を禁じる』という学院の通達を破る事にはならないでしょう、と軽く笑ったマリクに、ウェンデルはこめかみを、今度は強く押さえた。
「もう荷物はまとめました。学長にも届を提出してきましたし、すぐにでも出発できます」
「…ちょっと待て。学長に?退学届を出してきたのか?」
「ええ。その足でここに来たんです」
ウェンデルが完全に頭を抱えて、机に突っ伏す。それに問いを発する間もなく、マリクの背後で扉が乱暴な音を立てて開かれた。急激に加えられた圧力に、今まで何とか堪え忍び留まっていた幾つかの本の山が、ことごとく崩れ落ちる。
「…この愚か者が」
押し殺されたウェンデルの呟きは、確かにマリクの耳に届いていたが、彼はそれに対する反論を持たなかった。まだ状況がよく見えていなかったのだ。殊更にゆっくりと振り返ると、常ならば学院外の警備に当たるはずの屈強そうな魔道兵が数人、扉の周辺に立ち塞がっているのが見えた。その図は、大量の本に占領された平和な小部屋に、不似合いな事この上ない。そして間を置かず、彼らはその身をずらし、後ろから来た者に対して場を譲る。すっかり埃っぽくなってしまった空気の中に、学長と副学長とが立っていた。
「…随分と派手なお出ましですね。一体、どういう事なんでしょうか」
彼ら二人はそれぞれ、魔道士と白魔法士の長でもある。ウェンデルも慌てて立ち上がって、小さく頭を下げると、崩れた山の手近なところへ手を伸ばし掛けたが、周囲の状況を見て、片づけの無意味を悟ったらしい。奇跡的に残った机の上の山から本を数冊下ろして、山を低くするに留めるつもりのようだった。
「『どういう事か』だと?!それはこっちの台詞じゃ!」
そんなウェンデルの挙動など目に入った様子もない学長は、暗い色の長衣を蹴立ててマリクに突進し、目の前ぎりぎりでようやく止まると彼を見上げて…マリクの方が背が高いのだ…、腕を振り上げて喚き出した。
「…もしかすると、先程の退校届の件でしょうか。でも学院では、勉学を続ける権利もそれを諦める権利も等しく生徒に与えられていると思っていたのですが、それは思い違いだったのでしょうか?」
「理由を言うてみい!それ如何によってはお前の退校など、認めん!届なんぞ、握り潰してやるぞ!!」
横暴、という呟きは口の中で消えたのだが、どうやらウェンデルには通じてしまったらしい。頻りに目配せを送ってくる。
(はいはい。大人しくしていますよ)
口汚く罵るのは心の中だけでに止めておいて、マリクは学長の知る優等生の仮面を被る。
「僕はアリティア人ですから、やはり国の人達と共に戦いたいと思うんです」
「アリティア人?!馬鹿者がっ!魔道士に国籍なんぞないわ!全ての魔法使いはカダインにこそ属しているのだからな!」
マリクはアリティア人であるのを止めた事などないし、カダインの人間になった覚えもない。学長の至極勝手な言い様は、マリクの心の奥底の琴線をきりきりと引っ掻いたが、その身に深く染みついた猫は彼に、穏やかに少し困ったような笑みを作る事を忘れさせない。そのマリクの微笑にひびを入れたのは、続く学長の怒りに任せた一言だった。
「そもアリティアなど、もう何処にも存在しない国ではないか。そのようなもののために、このカダインの次代の指導者を、むざと行かせると思うてか!」
マリクの中で、何かが音を立てて千切れ飛んだ。
「誰が『次代の指導者』ですか。僕はアリティアの宮廷魔道士になるんです。人の人生、勝手に決めないでいただきたい」
「宮廷魔道士?!何という愚かな事を!」
カダインで魔道を学んだ者が、自国へと帰って宮廷に入る。それは別に珍しい事ではない。どころか、極一般的な道筋であるといえる。しかし、一般的であるという事実が証明するように、一握りの優秀な者が強いて選ぶような道であるはずがないのだ。
「僕の選択が愚かかどうかなんて、僕自身が決める事だ」
マリクの瞳が苛烈な光を宿す。するとそれに気圧されたのか、学長は彼の前からよろめくように2、3歩退いた。
「力尽くでも通してもらう!」
マリクの意志力が一気に膨れ上がるのと、周囲の気が凝固したように重くなるのは、ほぼ同時の事だった。マリクの召喚に速やかに答えるはずの外気が動かない。ちょっとした身の動きについてくるはずの、あるかなしかの風さえ起こらない。全ての気の凝結した閉鎖空間。
「沈黙呪か!」
マリクは舌打ちして、学長の背後に端然と佇む副学長に視線をくれた。
外気を操る魔道士と違い、内気を操る白魔法士は敵と戦う術を持たない。人の内部には元々、それに足るだけの気の力が蓄えられてはいないからだ。だから白魔法士達の力は、自然、保守的な事象へと向かっていく。『遠見呪法』然り、『沈黙呪法』然り。
自身を中心として周囲の外気を押さえつける事により、魔道士の操る全ての呪法を封じる。『沈黙呪法』とは、よくも言ったものだ。
唇を噛み締めたマリクの瞳に映る副学長は、常の如く静かだった。髪一筋の乱れもない完璧さ。彼女が決して、外見通りの年齢であり得ないのは、その瞳を覗き込んだ者には一目で見て取れたろう。マリクが彼女を初めて見た7年前から少しも変わらぬ、皺一つない艶やかな顔は、如何なる感傷の介入も許さぬ冷たい仮面だった。
「…これでもう貴方の力は使えない。諦めなさい、マリク。ほんの少しの間、その目を塞いでさえいればいいのです。そうすれば、貴方の心を惑わすものも、すぐに消えてなくなってしまうでしょう…」
アリティアは滅んだ。少数の兵力で立ち上がったというその残党も、程なくドルーアに殲滅されるだろう。わざわざ、反逆の徒として打たれる為にカダインを出て、何になると言うのか。
しかし、彼女の言葉はマリクの怒りに油を注いだだけだった。射抜くような視線で彼女を睨み据えながら、彼の感覚は油断なく周囲を窺う。
「これが『沈黙呪法』ですか。聞いてはいましたが、実際に見たのは初めてです。でもこれでは僕だけでなく、ここにいる全ての者の呪法を封じる事になってしまいませんか?」
「構いません。呪法がなければ、人数の多い方が有利でありましょうから」
「…その為の魔道兵、という訳ですか。成る程」
確かに魔道兵ならば、マリクを押さえ込むことなど容易いものだろう。戦う為の修練を積んでいる彼らは、未だ成長途上のマリクとは体格からして違いすぎる。
「しかし」
マリクは不敵に笑んで、片掌を無造作に空へと差し伸べた。
「ここに、冷気があったらどうでしょう。戦局はまた変わってくるとは思いませんか?」
「副学長!」
「あり得ません」
悲鳴のような学長の叫びは、しかし副学長の静かな声に飲み込まれた。彼女の仮面に視線を投げて、マリクは苦笑しながら続ける。
「それが、あったんですよ。確かに副学長の呪法は完璧でしたね。さっきから呼んでいるのに、気はちっとも降りてきてくれない。だけど…」
色を取り戻し掛けた学長の顔を面白そうに見やる。
「最初の呪法は、副学長のよりも僕の方が速かったみたいです。ここに冷気がありますので」
といっても、呼び出し始めるなり、外気との接触を断たれてしまったので、手に残ったのはたったこれだけの冷気でしかない。マリクは空の手に何かを握り込むような仕草をして、それを胸元に引き寄せた。
「…そのように小さな気一つで、一体何ができるというのだ。強がりも大概に…」
「確かに小さなものですし、解き放ったらあっと言う間に霧散してしまうでしょうね。だけど、膨張させなかったら、どうなると思います?」
副学長が眉根を寄せる。彼女の仮面が初めて揺らいだ。
「広範囲への攻撃呪法は、外気の膨張による熱量拡散を旨とする。…そうですね?その為、範囲が広くなればなるほど、熱量自体は著しく低下する。ならば、これを収斂させていったらどうでしょう」
得心がいったのか、その場にいる全ての者の顔色が変わった。皆、高位の魔法使いである。呪法の扱いによる危険性もよく心得ている。熱量の自然な動きに対して、方向を指し示して後押しするに等しい拡散に比べて、収斂はひどく難しい技術を要したが、目の前の少年にそれができるであろう事を疑う者は、ただの一人もいなかった。
魔道を内包する素地の全くない国(アリティア)からやってきて7年。10歳という、魔道の修行を始めるにはかなり遅い年齢で学院に入った彼だったが、今までにたくさんの子供達を見てきた教授連の目を見張らせる信じがたい早さで、知識を飲み込み、魔道の手練を身につけた。その天賦の才により、学院卒業前にして、一級魔道士の称号を得るに至った程だ。これは、既に伝説級の魔道士として名を馳せるミロア、ガーネフに次いでの事である。そしてゆくゆくは、この二大魔道士を越えるかも知れぬとまで言われた天才。『カダインの至宝』と呼ばれるその才能。
「理屈でいくと、この程度の冷気でも米粒くらいにまで収斂させれば、強力な凍気になるはずなんですよ。心の臓に直接叩き込めば、十分相手を殺せる程度にはね。生憎、実際にやってみた事はないんですが、どなたか身を持って検証してみたい方はいらっしゃいますか」
周囲を見渡したマリクから逃れるように、皆は退く。
それでいい。
マリクは安堵感が顔に現れないよう、努めて平静な表情を作る。マリクの武器はたったひとつ、この冷気だけしかないのだ。無駄に使いたくはない。
「…でしたら皆さん、どうか僕の邪魔をしないように…」
その時、マリクの後頭部を予想だにしなかった衝撃が襲った。背後の人間が殴りつけたのだ、という認識が一瞬の空白の後に浮上する。しかし、敵に背中を見せるような不覚は取ってはいない。一体、何があったのか?背後にいたのは、一人だけだったのに。
信じたくない、しかしそれしか考えられない仮説を裏付けるように、その場にくずおれ倒れ伏したマリクの上から、声が降ってくる。
「全く、過激な奴じゃ」
よく聞き知った、穏やかな声。
(…ウェンデル教授)
マリクの意識はそのまま、白濁した空間へとゆっくり飲み込まれていった。
「本当に馬鹿じゃな、お前は」
マリクは寝転がったまま、ぶすったれてそっぽを向いた。
目覚めは最悪だった。気がついたら、自分の個室のベッドの上で、枕に押しつけられた後頭部はずきずきと痛んだし、出入り口の扉にはしっかりと鍵が掛けられているのは見るまでもなく判っている。おまけに、ご丁寧に監視までつけてくれるとは、有り難くって涙が出そうだ。
「あんな乱暴な事をしおって。問題になってしまうじゃろうが」
「人の頭を本の角で殴りつけるのは、乱暴とは言わないんですか」
監視者に対するこの嫌味が無視されるであろう事もよく判っていたので、マリクは返事も待たずにむっつりと続ける。
「あのままいけば今頃はもう、ここ(カダイン)を出ていられたはずなのに」
そして砂漠を越え、海を渡ってオレルアンへと向かう。そうすれば、王子に会えたはずなのに。
「出てどうする。すぐに追手は掛かったじゃろう。事実、この様じゃ。…あの学長が、他の者ならばいざしらず、お前を手放すとは到底思えんからの」
2年。アリティアが陥落して、もう2年だ。国際情勢というものに背を向けたこの魔法都市でその報を訊いたのは、更にそれから半年も後の事だった。王は戦死、王妃と王女は捕らえられ、王子だけが何処かへ落ち延びたと訊き、マリクがどんな思いをしたものか、きっと誰にも解らない。
「それにもう、外は荒れ果てとる。無事辿り着けるかどうかも判らん」
王子と王女を守るために、どうしても欲しかった彼の剣。それを得るためにやってきたカダインで、彼らの苦境を何も知らず、世界から隔絶されたマリクは、ただ安穏な日々を送っていたのだ。
自身を含めた周囲全てに対して抱いた怒り。胸を詰まらせる苦しさ。それは幼い日々、常に傍らにあったものとよく似た、しかし、より濃密な感情だった。
今は、道理の通ったウェンデルの言葉など聞きたくもなかったし、誰の顔も見たくなかった。布団に潜り込み掛けたマリクの背中に結びの一言が当たったが、彼はウェンデルの言葉をすっかり遮断していたので、耳から入ってきたその音の羅列が言葉として変換され、その意味が身の内に浸透するまでには、少々の時間が必要だった。
「だから、わしが送ってやる」
確かに言った。そう聞こえた。マリクは弾かれたように飛び起きた。跳ね飛ばされた布団はベッドから滑り落ちたが、彼の意識には枕元で椅子に腰掛けた、穏やかな様子のウェンデルしか存在しなかった。
「転移呪法でな。…わしだって、白魔法を使えるんじゃぞ?」
それはそうだろう。学院の教授は皆、魔道も白魔法も修めた賢者であるのだから。
「その前に、これを書いておけ」
呆然としたままウェンデルを凝視するマリクに突きつけられたのは、一枚の誓詞用の紙。
「『休学届』をな。これを残して出奔してしまえば、学院もおおっぴらには騒げまいよ」
全く、馬鹿正直に『退学届』なんぞ書いた上に、正門から出ていこうなどとするから面倒な事になる、とぶつぶつ愚痴るウェンデルに、マリクは何を言ったらよかったのだろう。胸の奥で言葉は凝ってしまって、開いた口からは何も洩れてはこなかった。
「それと、これは餞別じゃ。取っておけ。お前になら使えるじゃろうしな」
それは、表紙に古代文字が銀で象眼された、真紺の天鵞絨を張った本だった。魔道書だ。そしてマリクは、この本の気配に覚えがあった。
「…お前はこれに気づいたからな。きっと魔道書がお前を選んだのじゃろうよ」
マリクはこの魔道書を待っていた。そして多分魔道書も、マリクを長い間待っていた。
ウェンデルから差し出された魔道書をまるで畏れでもするかのように、そっと手に取る。やがて、胸の奥からふつふつと沸き上がってきた思いのままに、マリクはそれを静かに抱きしめた。
やっと手に入れた、己だけの剣。
そして程なく、マリクは彼の王子との再会を果たす。
END・
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