まどろみの呪文硝子の剣〜ハーディン

大理石と薔薇水晶と黄金とでできた 白亜の宮殿
庭師が丹誠こめて育てた
四季折々の無数の花で埋め尽くされた その中庭は
天堂の花園もかくやと 誉めやそされた
いつも周囲にいた あの優しい人々は
一体 何処へ行ってしまったのだろう

空気が内に篭もらない事は移動式天幕の利点の一つであると思っていたが、もしかすると、欠点だったのかも知れない。
ここ数日、威を振るっていた嵐が残していった強風に煽られる度に、そこここから隙間風が通り抜ける。己の天幕の入口を塞ぐ垂布を捲ると、一際強い風がその顔面に吹き付けた。季節外れの北からの風は殊の外冷たくて、ロシェは思わず身を竦める。
元々、国民の大半が遊牧民のオレルアンであったが、国としての体裁が整うと共に次第に土地への定住化が進んだのも、無理からぬ事であったろう。正しく民を支配し、国を管理する為には、そう頻繁に居を移されては困るのだ。加えて他国との交易の中で、一つの地に堅牢な家を建てる事、それが豊かさの証しであるという考え方が浸透した事もあり、最近ではこういった天幕で生活する者も徐々に姿を消しつつある。実際、ロシェの両親の家も、その爵位に相応しい豪壮なものだったし、同じ騎士団の者達にしたところでそれに大差がある訳ではない。しかし、ここが王弟、オレルアン公爵ハーディンの住居なのだ。
雨季と特に寒さの厳しい冬を国境近くの砦で過ごす以外は、常にハーディン公の館はこの天幕である。普通の遊牧用のものよりは幾分大きく、地に直接敷かれた絨毯も織りの固く詰まった上級品ではあったが、それでも豪華とか壮麗といった言葉はお世辞にも使えない。第2の館である砦にしても、元々兵士の駐留する些か無骨な建物なのだから、やはり彼の立場に相応しい住居であるとは言えないだろう。
それでも、その飾り気のなさ、無骨さこそが主人の人となりをよく表している、とロシェは思う。国王の勅命によってハーディンの親衛隊士に推挙されて以来、彼等4人の隊士達はその傍らに仕える為、ハーディンの住居の近くに己の天幕を建てているが、当初、厭でならなかったそんな生活も今では慣れた。どころか、彼のように天幕で寝起きする事、草原を単騎どこまでも駆け続ける事の気持ちよさ、素晴らしさを肌で感じ取るようにさえなっている。それが等しく、己のハーディンへの傾倒に比例しているあたり、我ながら現金なものだとは思うが。
「ハーディン様。いらっしゃいませんね?」
ハーディンの天幕の前で、そう声を掛けてはみたが、わざわざ確認するまでもなく、留守である事は判っている。天幕の外にハーディンの黒馬は繋がれていなかったから。
夜明け前に遠乗りに出掛ける事を日課とするハーディンは、日が昇って暫くしないと戻っては来ない。こういった時、親衛隊士としては供をするのが常識であるのだろう。そうは思うのだが、ハーディン自身がそれを望まないのだ。それを無理に付いていく気にはなれない。国王命令だから、と渋々認めはしたが、彼が己の親衛隊という存在を快く思っていない事をロシェはよく知っていた。それも無理はない。親衛隊の存在は、自由奔放なハーディンに轡を嵌める。
その為だけに作ったのだ。彼等の国王が。
オレルアン国王とその異母弟であるハーディン。彼等は共に、国を支える二柱として、仲のよい兄弟と言われてはいるが、兄である国王は本当は、ハーディンを疎んでいるのかもしれない、と思う事さえある。思う度、瞬時に打ち消す、他愛ない考えであったが。
ロシェは、何となく忍び足で天幕に入ると、その手に抱えていた焼石を詰めた鉢をその中央に置いた。
例え、『親衛隊』が疎まれていたとしても、ロシェ個人は決して疎まれていない。ハーディンは何より、公正な人間だった。しかし、彼の息抜きでもある、夜明け前、単騎での遠乗りを邪魔しても疎まれる事がない、という自信はロシェにはなかった。彼は、何よりも苛烈な人間でもあったので。意に添わぬ事を強要する者、彼を押さえつけようとする者を、彼は決して許さない。彼の怒りから発する処罰がではなく、彼に疎まれるという事、それ自体がロシェは怖かった。他の3人がどう思っているのかは判らない。だけど、彼等もハーディンの意向に逆らおうとはしない。それは、彼等が国王ではなく、ハーディンの騎士となった事の証しだったのかも知れない。
ロシェが外に出ようとした時、一瞬早く天幕の出入り口の垂布が勢いよく引き上げられた。驚きに竦む前、ぬっとばかりに人影が、その高い背を屈めるようにして入ってくる。
「…ロシェか。どうした?何かあったのか」
ハーディンだった。そのがっしりとした体を包むマントは朝露に濡れて、重たそうに黒ずんでいる。マントから出された最小限の肌の部分も、まるで水を浴びたかのように濡れていた。一呼吸の後、主君の前にただ立ち尽くしている、という現在の自分の状況に思い至ったロシェは、急いでハーディンの前に片膝をついて、騎士の礼を取った。
「いえ。今朝は随分と寒いようなので、部屋を暖めようと火鉢を持ってきました。お留守の間に無断で入りました御無礼、お許し下さい」
「構わん。…大体、いつも『構わん』と言っているだろう」
親衛隊士4人は、彼が留守の折、何か用事がある時には、その天幕に好きに立ち入っても構わない、と確かにハーディン本人から言われてはいた。がしかし、帰ってきた当人と鉢合わせをしてしまうのは、非常に気まずい。大体、オレルアンの筆頭貴族の自室に勝手に入るというのは、如何に本人の許可があろうと、本当にしてよい事なのかどうか、ロシェには判らない。しかし、ハーディンはそんなロシェの戸惑いなど歯牙にも掛けず、髪を包んだ布を毟り取るようにして外すと、脱いだマントと一緒にそれを荒っぽく肩に引っ掛けた。
「火鉢は有難いな。今日は寒くてかなわん」
そしてそのまま、天幕の奥に足を運びかけたが、ふと思い付いたように立ち止まり、ロシェへと頭を巡らせた。
「今日からまた砦へ移る。天幕を畳む準備をしておけ」
嵐の間ずっと砦へと籠っていて、この天幕を広げたのはつい先日の事だったのだが、一体どうした事だろう。それに、ハーディンは天幕生活がとても気に入っていて、冬、かなり寒くなるまでは砦へと移動しようとはしない。それを自分から移動すると言い出すなんて、と首を捻り掛けたロシェであったが、またハーディンの気紛れかも知れない、と思い直す。元々、彼の主君は気分で己の住居を移す人なのだ。…それに何にせよ、風が吹き込まない分だけ、砦の方が過ごしやすいだろうし、ロシェ達にとっては有り難い事だ。
「できるだけ早い方がいい。他の連中にも伝えておけ」
ロシェは平伏したまま、更に深く頭を下げて、了解の意を示す。すると、その頭の上から、如何にもついで、といった様子の声が降ってきた。
「…そーいえば、あの娘はどうした?まだ寝ているのか?」
「聖アカネイアの王女殿下は」
ロシェは頭を上げ、ハーディンの不敬とも取れる言葉を遮って急いで言い直す。
「先程、火鉢をお届けの上がった折には、まだお休みの御様子でした」
「呑気なものだな」
「まだ、姫君が起きるような時間ではありません」
まだ日も昇り切っていない早朝である。今日のハーディンは、いつもよりも帰りが早かったから、彼の帰宅までに部屋を暖めておこうとしたロシェ自身だって鉢合わせをしてしまったくらいだ。姫君どころか、まだ王城では兵士達だって寝ているかもしれない。
オレルアン国王の元、被後見人として王城で生活をして然るべき王女が、ハーディンの元に身を寄せ、彼等と同じように天幕を建てるようになって、もう一月に近かった。流石に王城から一人、侍女が同行してはいたが、不自由も多いだろうに、城に帰る、などとは決して洩らそうとしない。そんな王女に対してロシェが感嘆し、好感を持つのも無理からぬ事であった。なのに、舌打ち混じりのハーディンの呟きは、あまりにも王女に対してきついもののように思えたので、自然、ロシェも咎めるような口調になる。
「ハーディン様。何故そんなに王女殿下に絡むんですか。昨夜も喧嘩されていたでしょう」
何故知っているのか、と顔に書いたハーディンに対して、天幕で大きな声を出していれば、周囲には筒抜けです、と補足する。それで潜められ気味だった眉を解いて、彼は頷いた。
「なる程。…しかし、聞こえていたのならこれも知っているんじゃないか?あれは別に喧嘩ではなかった。あの娘が俺に脇息を投げ付けただけだからな」
この時、視線を遠くさ迷わせる事以外、ロシェに何ができただろう。
「…脇息、ですか…」
身軽である事を最大の利点とする移動式天幕には必要最低限の家具しかなく、居住者は椅子にではなく、直に絨毯に寝そべるようにして座る。この時、半身を起こすように肘を凭れさせる為の、布を張った台が脇息である。体を支えるための道具であるだけに、小さくはあるがそう軽くはない。持てないほどに重い訳でもなかったが、深窓の姫君の投げるような物ではないだろうと思う。
「言っておくが、当たっとらんぞ」
「そういう問題じゃないでしょう」
妙に自慢げに言うハーディンに、ロシェはきりりと向き直った。その対応が気に入らないのか、不服そうなハーディンには気付かぬ振りをして、ロシェはハーディンに問い質した。
「今回は、王女殿下に何をおっしゃったんです」
「『毎朝毎夜、手入れに何時間も侍女を張り付かせなきゃならんのなら、そんな髪は切ってしまえ』と言っただけだ」
何故、そんな事を胸を張って言うのだろう。
「………ハーディン様。それでは、王女殿下のお怒りも当然です」
「何故」
「…『何故』って…」
豊かでくせのない、それこそ金の滝のようにその背を覆う王女の髪はとても美しいものだったし、それを自身も殊の外大切にしているのは、拝謁する機会など滅多にないロシェにだって判るほどだったのに、毎日のように顔を合わせている彼の主君は、なんだってそれに気付かないのだろう。
「…いえ。いいです」
ハーディンに女性心理を説いても無駄という気がする。
ロシェは小さく肩を落とす。がしかし、これだけは言っておかねばと、更に気を取り直し、精一杯の気合いで彼に相対した。
「だけど、ハーディン様の王女殿下に対するなさりようは、あまりにも礼を逸しています。相手は青い血の聖王家の姫君。この大陸に住まう全ての者の主筋に当たられる方。それも国王夫妻、王太子を含めて、血族が全て絶やされてしまった現在、姫君が唯一の、この大陸の主です。それをあのような…」
「血が青いはずなかろうが」
「ハーディン様!」
彼の前を通り抜けながら言い捨てたハーディンに、ロシェは憤然と立ち上がった。その様子にまた足を止めたハーディンは、再びロシェに向き直る。
「お前、貴族が偉いと思うか?」
唐突な言葉だった。少なくとも、ロシェにとっては。自身と反比例したその静かな様子に、ロシェは思わず口ごもる。ハーディンの真意が判らない。しかし、ロシェの返答も待たず、彼はそのまま話し始めた。
「3代前までは皆、遊牧民だった。貴族なんて者は存在しなかった。族長、長老、戦士、占師。それが敬意を受ける全てだったはずだ。これらを偉いとする理由は、俺にも判る。しかし、今威張り散らしている連中は、全く判らん。父親や祖父さん達が立派な事をすると、子供や孫達も立派だという理屈は何だ?どういう根拠があるんだ」
オレルアン貴族の歴史は浅い。多数の部族に別れていた遊牧民を、ある部族の長が闘争を繰り返して一つにまとめたのが、約80年前。長は初代オレルアン王を名乗り、その時の戦いで功を得た勇士達に多数の特権を与えたという。しかし、それはあくまでも個人に対するものであった。それが、個人から家系に受け継がれるようになったのは、隣国聖アカネイアとの国交が開かれるようになってからである。言うまでもなくそれは、聖アカネイアの貴族階級の考え方に由来する。勇士の家系をそのまま『貴族』と称するようになったのも、ハーディンの言う通り、ほんの2、3代前に過ぎないのだ。
3代後の貴族であるロシェは、反論の言葉を持たなかった。ハーディンの側近く仕えるようになってから、今までの価値観が不意に揺らいでしまう事がある。今のこの時のように。
常に空気のようにそこにあった周囲に対する己の優位は、一体何に根差していたのだろう。
「それが3代前でも30代前でも同じ事だ。先祖が偉大ならば、子孫も偉大だという道理などあるわけがなかろう」
聖アカネイア600年の歴史の中、起った王は三十数人。
聖アカネイアの神聖と権威など認めない、と言い放つハーディンに、つい頷いてしまいそうになる自分が恐ろしい。それは、自らの生まれながらの地位の有効性を問われる以上に、あまりにも根本的な常識を覆す。
「とにかく、荷物はまとめて、いつでも出発できるようにしておけ」
隅に置かれた寝台に向かってマントを投げ出すハーディンは、もうロシェには目もくれない。後は深く頭を垂れて、彼の前から退く事しか、ロシェにできる事は残されてはいなかった。
不安そうな様子を隠そうともせず、彼をちらちらと見上げる侍女にうんざりしながら、ハーディンはもう一度先ほど言ったのと同じ台詞を繰り返した。
「姫君に取次を。火急の用件だ」
「はい、あの、でも……」
なおもぐずぐずと言い淀む侍女に苛立ちが募る。元より、そんなに気の長い方ではない。それがそのまま面に現れてしまったのだろう、ハーディンを前に、侍女は益々萎縮する。
その時だった。
「客人はオレルアン公であろう?ならばよい。お通しせよ」
細やかな、子供のような、しかし、人に何かを命ずる事に慣れ切った者特有の響きをたたえた声。一般的には『威厳』『高貴さ』と受け取られるであろうそれも、ハーディンにとっては『尊大さ』に他ならない。もうそんなに短くもない期間を共にいるのだが、どうにも慣れるという事ができない。今日もまた、彼女の声を聞いただけだというのに、何だかやっぱり腹立たしくなってきてしまった。
むっつりと唇を引き結んだまま、ハーディンは侍女を押し退けるようにして天幕に入る。少なくとも入室の許可は得たのだから構うまい。
垂幕を捲ると、ほんのりと甘い匂いのする暖かい空気が彼を包んだ。王女の醸す香の匂いだ。この香りは、王女の存在にそのまま直結する。
聖アカネイアの貴族には、各々固有の香りを纏う風習があるという。細々とした身の回りの品に香りを染み込ませるのは当然の事で、飲用水に香を入れて吐息をも薫らせるという話を訊いて、ハーディンは呆れ返ったものだが、王女もアカネイア宮廷ではそうやってその身を薫らせていたのだろう。彼女がアカネイアを出る時に持ってきた荷物は微々たる物だったし、その中から更にこの天幕に運ばせた物など輪を掛けて少なかった…天幕に持ち込む荷物の量についてのハーディンと王女の悶着は、ロシェの胃をひどく痛ませたらしい…のだが、それでもその香りは平和な時代の名残のように、そこに止まっていた。
「ようこそ、オレルアン公。このような姿で失礼を」
声と共に、より強く空気が甘く薫ったような気がした。王女が飲用の香など持ってきている筈はないのに。視線を上げると、幾つものクッションを重ねた中に鎮座した少女が目に入る。埋もれてしまいそうに細く小さな姿に聖アカネイア風の白いドレスという常通りの王女。しかし、複雑な形に編み込まれ、結い上げられているはずの金の髪は、ごく自然に垂らされ片肩を流れて、彼女の内履きに包まれた足先近くを這っていた。
「今日は、髪を結わずに過ごす事にしましたの。ですが、人と会うには非礼に当たるゆえ、客人にはお引取り願うよう、侍女に申し付けておいたのですけれども、火急の用件との事でしたので。…それに、オレルアン公はこのような姿でも、お気になさいませんでしょう?」
王女は、ハーディンの背後で様子を窺うように控えている侍女に身振りで、下がるように示すと、艶然と笑んで見せる。
ハーディンが髪を結う手間について王女を非難したのは、つい昨日の事だ。そんな彼に対する報復と言うにもあまりに子供っぽいその行動に、ハーディンは慌てて吐く息を詰めて、王女から軽く視線を反らせた。ここで笑ってしまったら、今度は何が飛んでくるか判らない。
「…どうかなさいまして?」
「……いや」
(聖王家云々はさておき、気の強さだけは筋金入りだな)
挑戦的なその様子に更に笑いが誘発されそうになって、ハーディンは不自然な呼吸を繰り返したが、王女が不審そうに見ている事に気付いて、慌てて居住まいを正す。
「すまんな。こんな時間に」
言うと、王女は意外そうに目を見開いた。
「本当にどうなさいましたの?そのようにお気を遣われるとは珍しいこと」
まるで、いつものハーディンがとんでもない礼儀知らずであるかのような言い様である。……確かに否定はできないが。
ハーディンは、今度は押し殺す必要のない微苦笑を口端に浮かべる。
「『姫君』という人種の朝は、もっとずっと遅いものなのだろう?…そう言って、先程ロシェに怒られた」
まめな性質や優しげな顔とは裏腹に、ロシェは結構気が強い。国王命令により、オレルアン狼騎士団から選り抜かれた十数人の親衛隊士に対して、『俺の馬についてこれないような近衛など、邪魔なだけだ』と言い切った彼の遠駆けに、ふらふらになりながらも食らいついてきたのは、ウルフとロシェの二人だけだった。共に駆けられた訳ではない。何とか見失わずにすんでいるという状態ではあったのだが、短気で負けん気の強そうなウルフはともかく、如何にも良家の若君然としたロシェがついてきたのが驚きで、馬を降りる時に二人を労ったのだが、彼等はハーディンの馬についていける自信があったのだろう、ひどく悔しそうな顔をしていた。
だから、二人を隊士として認めたのだ。
ハーディンは自尊心を持つ人間が好きである。これはいわゆる身分とは全く関係がない、個人についてのものである事はいうまでもない。それに、二人だけでも傍らに置けば、王も納得するだろう。他の隊士は己の馬についてこれなかったという事実を訴えれば、なおの事。
不承不承ハーディンの言を受け入れた王が、しかし幾度となく送り込んでくる新しい隊士達を前回と同様の方法で蹴落とし続けて、それでも隊士の数は多少増えた。4人という数は結構多いと彼自身は思っているのだが、不幸な事に、これには周囲の同意がなかなか得られない。
常と違い、優しげな雰囲気すら漂うハーディンに、王女の肩を張らせていたものも取れてしまったようだった。
「先程、火鉢を届けにきた者ですね?…私が礼を言っていた、と伝えて下さい」
「…そちらこそ、めずらしいぞ。他者に礼などと」
途端に尖り気味になる王女の口元。彼女は思い切りハーディンからそっぽをむいて、再び固く引き締められた表情を作る。
「何かご用がおありだったのでしょう?早くおっしゃって」
本当に感情が判りやすい。まるっきり子供のようだ。
「ああ。…王女にはそう悪い話ではないかも知れんしな」
面白そうに王女をひとつ見やって後、これから言うべき事を顧みて、しかしハーディンは変わらぬ調子で言った。王女が不審そうに少し眉根を寄せたが、そのまま言葉を続ける。
「天幕を畳む。今日、昼過ぎに始めれば、夕刻頃には移動に移れるはずだ」
「もうですか?…それにいつもは、もっと明るい内に移動しますのに」
王女の言にも、ハーディンの様子は揺るぎない。その様に、質問の答えは望めないとすぐに理解したらしい。王女は小さく息を吐いたが、すぐに顎を引き、儀礼的な笑いを作って見せる。
「…それで、今度はどちらへ?」
「俺達は国境近くの砦へ。王女はそのまま国境まで案内する。そこから川を下れば、カダインはすぐだ」
ハーディンは事も無げに言ったが、王女の顔を正面から見ようとはしない。
「……カダイン?」
強固な城も強大な軍隊も持たないにも係わらず、難攻不落と世にいわしめた街、カダイン。通称、魔法都市。
カダインは、魔道士や白魔法士の住む治外法権地区である。永世中立を表明し、魔法使い以外の居住を認めない。名目上は聖アカネイアの領土であったが、その閉鎖性ゆえに聖王国が滅びた今もドルーアに下る事なく、独立独歩を保っている。
「如何に魔道士共だって、一応、自国の王女に当たる者を無下に追い出したりはせんだろう」
沈黙。言葉足らずなハーディンの言の意味が王女に伝わるまでの時間は、ひどく長く感じられた。
「……そして私を、この国から追い出すと言うのですね…」
小さく震えた王女の声にハーディンは顔を上げ、横目で嫌そうに彼女を見る。しかし、王女は泣いてはいなかった。その濃青紫の瞳は色が薄まり、ただハーディンへと注がれている。
怒っている。
王女は、今までの口論などとは比にならぬほどに、怒っている。
「…別に、どのように取ろうと構わんがな。天幕の解体には、後で人を寄越す。それまでに手近な荷を片付けておけ」
言い捨て、退出しようとしたハーディンだったが、それより前に垂幕に向かって飛び込んできた何かによって、その行動は阻まれた。彼の足元に転がったのは、その柄に桃色珊瑚の細やかな彫刻の施された櫛。そして、ハーディンが振り返るより前に、今度はその背を目掛けて、再び何かが飛んで来た。
彼はゆっくり振り返る。頬を紅潮させ肩で息をする王女は、その瞳を燃え立たせてハーディンを睨み据えていた。そんな王女をほんの少しその目を眇めて見つめる。王女の怒りとは対称的に、対峙したハーディンは如何にも平静である。しばし見つめ合った後、やがてハーディンは足元から櫛を拾い上げた。
「…それで気が済んだんなら…」
言い終えぬ内に、三度飛んできたものがある。しかも今度は引きも切らず、次から次へと投げ付けられた。如何にも手当たり次第といった風情である。それでも大人しくそれらが当たるがままになっていると、小さな内履きが二つ飛んできたのを最後に、やっと投物行為は治まった。どうやら、手近な所に投げられる物がなくなったらしい。
ハーディンは静かに顔を上げる。そして、目に飛び込む情景に、ついその口元を引きつらせてしまった。
「止めろ、それは投げるな!俺を殺す気かっ!」
脇息どころの騒ぎではない。彼から目を放そうとせぬまま頼りなく泳いだ王女の手がしっかりと掛けられたのは、衣装を入れる為の櫃だったのだから。
冷静に考えれば、王女の細腕で持ち上がるような物ではないのだが、それでも、それをもハーディンに投げ付けると錯覚してしまえそうなほどに、彼女の怒りは深かった。実際、彼女自身も、自分に持てる物かどうか、などという判断はついていなかったろう。渾身の力を込めて櫃を引き寄せようとしたようだが、当然ながら、それはびくともしなかった。
王女の顔が引き歪む。
「…また、侍女の仕事を無駄に増やす事もないだろう。それに、この辺の小物は大切な物なんじゃなかったのか?」
ハーディンの言葉が耳に入っている様子はない。王女は今にも泣き出しそうな顔で喚き出す。
「貴方は、私が嫌いなんでしょう!だから、私を追い出すんだわ!!」
悲痛な叫びは、高い自尊心と高貴さの影から、捨てられた子供の姿を垣間見させる。
「何よ!私だって、貴方なんか大嫌いだわ!乱暴で、無礼だし、意地悪で…!何よ、なによ、なによっ!」
堤が切れたように流れ出した涙を拭おうともせず、王女は叫んだ。そして、そのまましゃくり上げ出した王女を、ハーディンは櫛を手にしたままの姿で、何となく肩を落として見つめていた。
「…あー。…その、な…」
ハーディンは本当に狼狽していたのだ。しかしそれでも、幾度か小さく咳払いをして、何とか王女に対峙する気力を振り絞った。
「…別に、嫌ってなどいないぞ」
それは嘘ではない。ハーディンが嫌っているのは、王女自身ではなく、王女に付随した権威や象徴である。
しかし、王女は何も言わない。…しゃくり上げ続けているので、何も言えないだけかもしれなかったが、ハーディンは無言のままに責められているように感じて、些か居心地の悪い気分を味わった。
「…俺は口下手でな。どうも言葉が足りないらしい。…済まなかった」
天幕の中にはただ、王女のしゃくり上げだけが響いている。
「……別に、嫌いだから追い出そうなんて考えた訳ではない。ただ、もうオレルアンは王女を擁護する事ができないかもしれない」
ハーディンはそっと王女に近付くと、その傍らに膝を突いて少し身を屈めた。ほぼ同じ目線の高さの先にいる王女はしゃくり上げたまま、それでも大人しくハーディンの言葉に耳を傾けているようだった。ハーディンは静かに話し続ける。
「今朝、国境の丘の上で、蹄鉄の後を見付けた。多分、ドルーアの斥候だろう。これまでの度重なる小競り合いに、オレルアン軍の兵力は随分削り取られている。勿論、ドルーア軍も同様だろうが、奴等は俺達と違って、幾らでも兵の補充が利く。…だが奴等、兵はともかく、物資や金の消耗を防ぐ為に、そろそろ俺達を潰してしまいたい頃合だろうさ。こちらの兵の疲弊が頂点に達した頃、大兵力で取り囲んで、一気に突破する。…少なくとも、俺ならそうする」
ハーディンは皮肉げに笑う。
「今度のは、きっと大きな戦闘になるだろう。王女を守り切れるかどうかも判らん。だから、その前に王女はカダインへ…」
「カダインは私を匿ってなどくれません」
小さく鼻を啜り上げ、それでもしっかりとした口調で王女は言った。
「魔法使いにとって、一番大切な事は魔道の研究で、彼等はできるだけ外の世界の事に煩わされたくないんです。この大陸中で、聖アカネイアの権威を最も尊重しないのが、あの都市ですもの。…貴方を除いて、ですけど…」
付け加えられた台詞に、ハーディンは小さく笑みを洩らす。王女も小さく微笑むと、少し和んだ空気に背を押されるように言葉を紡ぐ。
「だから、私はここにいます。…ここにいたいんです。それで死んでしまっても、いいんです。お父様もお母様も、お兄様も、叔父様も従兄弟達も、みんなみんな死んでしまった。皆、聖王家の者だという、ただそれだけで死んでしまった。私だけが生きているのも、私が聖王家の最後の一人だからで、だったらせめて私が誇りを失わない事が、皆の名誉を守る事になるでしょう?…無駄に死んでしまったのではない。『聖王家』という気高いものの為に死んだのだって。…だから私は、カダインには逃げません。ここにいます」
そして王女は、染み入るような微笑を浮かべた。
聖王家の神聖など認めない、とそう言い放ったのは、今朝早くの事だった。
神聖ではない。絶対的優位に根差す根拠などない。今でも確かにそう思う。しかし、ならば、聖王家の人々が城壁から吊されたのは、何故だったのか。…聖王家の人間だったから、ではなかったか。
善かれ悪しかれ、好むと好まないとに関わらず、彼等は『聖王家』という楔から逃れられない。そして、その権威と神聖とが、王女の支えになっているのもまた事実。
それが、王女の救いとなるのならば。
ハーディンは、地についたままの膝を整え、アカネイア宮廷儀礼に則った騎士の礼を取る。
「…ならば、王女殿下。我等と共に砦へとお移り戴く事となりましょう。これから、御不自由な生活が続きましょうが、どうか堪えていただけるよう…」
「今更、でしょう?オレルアン公」
「ハーディン、とお呼び下さい。貴方にはその権利がある」
「…ならば、ハーディン」
涙に濡れた顔を雄々しく擡げて、王女は悠然と微笑う。
「私の名を口にする事を許します。貴方にも、その権利はありましょうから…」
「ニーナ王女」
ハーディンはそっと王女のドレスの裾に手を添え、その唇を押し当てた。
「ああ、こっちはいいから、ニーナ王女の天幕を畳むのを手伝ってこい」
ハーディンの天幕の支柱を倒した後の事。大量の布を小さく畳む、という大作業の為にやってきたロシェに、ハーディンは軽く言った。その手は、天井の骨に当たる細い木の枝を束ねる為に休みなく動き続けている。
しかし、意に反してロシェはぴたりと足を止めると、ハーディンをまじまじと見つめている。それを不審に思ってハーディンは顔を上げ、途端に己の失言に気が付いた。
「…ハーディン様。王女殿下と仲直りされたんですか?」
「始めから喧嘩もしとらんのに、何を仲直りするんだ」
憮然としたハーディンは、更なる質問を態度で拒否している。それにロシェは黙って腰を屈めたが、物言いたげな視線を送る事は止めようとしなかった。
この沈黙は、ハーディンにとって痛さや重さは持たなかったが、甚だ居心地の悪いものだった。何せ、彼が聖王家嫌いをはっきりと口にした時、昇り始めた太陽は、未だ天空の頂点にさえ達していないのだから。
「…何でお前はそう、意地が悪いんだ」
基本的に陽性なハーディンは、やはりロシェのこの攻撃に耐えられなくなったらしい、苦虫を噛み潰したような顔をする。…別に、ロシェには意地悪をしているつもりはないのだろうが。
「まぁ別に、聖王家に生まれた事がニーナ王女の責である訳でなし…」
如何にも渋々といった様子で口にされた言葉に、ロシェは深く頷いた。それだけで彼は納得してしまったようである。察しのいい事だ。
ハーディンは思う。
ならば是非、この心境の変化がどういう事なのか、己に説明してほしいものである。何しろ、ハーディン自身にはさっぱり判らないのだから。
自身の意志を曲げた事など一度たりともなかった。己を貫く事。それが彼にとっては、何よりも大切なものだったからだ。なのにあの時、王女を支える事の方がより大切に思えてしまったのだ。王女の前から退いて一人、冷静になった今となっては、そんな自分が何だか忌ま忌ましいし、目の前で如何にも嬉しそうに微笑しているロシェも腹立たしい。
「とっとと行ってこい」
むっつりとしたハーディンに動じもせず、ロシェは彼に軽く腰を屈めると、王女の天幕に向かって走り出した。そう言えば、王女からロシェに対して、礼の言葉を預かっていた、と彼が去った後にハーディンは思い出した。
だが、まぁいい。王女の元に当人をやったのだから、礼が言いたければ彼女が自分で言うだろう。
思い直して、再び手元の作業に集中する。王女直々の礼と共に、彼女がロシェの主君を『ハーディン』と名で呼んだ事が更に彼を喜ばせ、それがハーディンを更に不機嫌にさせる事になるのだが、それは今のハーディンには知りようもない。
迫る軍馬の足音を忘れた訳ではなかったが、そう簡単に負けてやるつもりなどありはしない。ハーディンは不敵に微笑う。
闇は己をより濃くする為に光を生み、光はその輝きを強めるほどに闇を更に深くする。
ならば光はあるのだろう。闇はこれほどまでに深く世界を覆おうとしているのだから。
それは、何処に?
答えはない。今はまだ。
END・
|