11001番目の守護天使〜承前

竜
最強の守護獣
最凶の魔物
光と闇より造られしもの

『運』とは、いい時と悪い時とが綴れ織りになっているものなのだというが、サジはこの言葉は嘘だと思う。本当だったら、あまりにも大きな不運の後には、途轍もなく巨大な幸運がやってこなければ、おかしいではないか。
なのにサジには、カシムという友人…あまり認めたくはないが…ができてからこっち、それに見合う大幸運が訪れた試しはない。ただ、気苦労が増えただけである。故に、サジは思うのだ。
どのように言葉を飾ってみても、先天的に運の悪い人間というのはいるものなのである、と。
吹き荒れる強風は、大方の楽観的な予想を裏切り、この地方一帯に膠の如く張り付いて、なかなか離れようとはしなかった。風は時折大粒の雨を呼び、またあっと言う間に運び去る。殊に山の天気は変わりやすい。ただでさえ馬が怯えるこの現状では、山を越え、オレルアン領内へと入る旅の間に、今以上に天気が崩れでもしたら、ひどく危険な状態に陥ってしまうだろう。これでは山越えはできない。せめてもう少し、風が弱くならなくては。
そして結局、彼等はサムスーフにもう3日も足留めされている。
(…こんなに長い間篭もりっきりだなんて、体が腐っちまう)
風向きの関係か、時折聞こえるサムスーフ特有の甲高い悲鳴のような風の音にも、もうすっかり慣れてしまった。再び降り出した雨に、サジはうんざりしたように息を吐く。
船で1日、そこから更に馬で5日程。たったそれだけの距離しか離れていないというのに、随分とタリスとは違うものだと思う。サジの故郷では、雨は大抵1時間ほど、地を叩くように降りつける。その後はからりと晴れ上がるという至極はっきりとしたものだったから、いつ回復するか判らぬ天気がこれ程にうっとおしいものだとは知らなかった。
そして天気がこうだと、気持ちまで重く沈んでくるものだとは。
「さっきっから、何ハーハー言ってるんだよ」
すぐ横から届いたこの声に、サジは傍らに座っていた者の存在を初めて思い出した。
「…うっとおしい」
その台詞だけで、サジの言いたい事を汲み取って、彼も小さく頭を縦に振る。こういう時は、付き合いの長さが有り難い。
「ああ。…止まないよなー、風」
そう言って、カシムは静かに窓の外を見上げた。
カシムは言うなれば、サジの幼馴染みである。タリスの城に程近い小さな村に生まれた二人は、他に同年代の子供のいなかった事もあり、よく共に遊んだものだった。周囲のタリスの男達と同様、骨太でがっしりとした体格に育ったサジと違ってカシムは細身で、彼のおとなしげな顔立ちと少し猫背なところとが、妙に生白くひょろりとした印象を抱かせる。
そう。彼はサジとはどこからどこまで、正反対だった。
サジは隣に気付かれないように小さく息を吐いて、努めて笑顔を作る。
「きっと皆、苛々してきてるんだよな。ほら、昨日アリティアの騎士様が黒髪の傭兵と悶着を起こしてただろ?俺、騎士様っていうのは、あんな事しないもんだと思ってたけどなぁ」
「うーん。騎士様だからじゃないかなぁ、昨日のあれは」
カシムから返ってきた言葉の意味が、サジにはよく理解できない。それを見て取って、己の言葉不足に気付いたのか、カシムは補足する。
「あの傭兵の小指にさ、指輪が嵌まってたんだよ」
「指輪?だってそんなもん、珍しくも…」
「そりゃあ傭兵だもん。自分の財産、そういうもんに変えて身に付けてる奴だって少なくない。だけどさ、そーいうのとは違う、多分。それ、何か不似合いに品のいい感じだったし、おまけに銀製だったから」
それは確かに変だった。金、白金と違って、銀はそんなに高価な物ではない。小さな銀細工ならば、ごく普通の村の若者だって意中の娘に贈る事ができるほどなのだ。よほど細工が良くない限り、そうそう高値がつく訳ではない代物を傭兵が身に付ける意味は、あまりないと思われる。財産としての貴金属は、潰しても価値がある、という事が必要絶対条件なのだから。
「…じゃ、単なる飾り物なのか?それ」
その傭兵は、そういう型の人間には見えなかったので、ちょっと意外な感がある。
「いや。多分、守護指輪じゃないかなと思う」
「そりゃ変だよ。だって守護指輪だったら、左手の中指に嵌めるもんだろ?」
先程カシムは、『小指』に嵌めていた、とそう言った筈だ。
「だから、自分のじゃないんだよ。蒼い石が嵌まっているのも見えたし」
カシムの言いたい事がまだはっきりと捕らえらず、眉根を寄せて首を傾げるサジに、彼は更に言い添えた。
「意匠までは見えなかったんだけどさ。もし、竜を象ったものだったとしたら、あの赤毛の騎士様が怒るのも無理ないと思わない?」
ようやっとカシムの言わんとしている事が理解できたサジは、今度はその内容ゆえに口を開きっ放しにしたまま、目の前の男を呆然と見つめる。当のカシムは、常と変わらぬ飄々とした態度を崩さないまま、サジを見つめ返していた。
「半分は俺の想像だけどね。でも、そう考えるとつじつまが合うだろ?」
守護指輪は、子供が生まれた時にその祝福として作られ、与えられる物である。
生まれたばかりの赤ん坊は、その純粋さ故に魔物を魅きつける。そんな昔からの迷信が生き残った呪物であるそれは、子供が最初に手にする、自身の財産であると共に、聖別された銀を使用した魔除けでもあった。聖なる銀で象られる意匠は、魔。魔を避けるには、より強い魔の力が必要となるからだ。しかし、自身に御す事のできない程の魔物の意匠を選ぶ事も有り得ない。それは不用意に魔物を呼び込む事になると言われている。
つまり、小妖精の悪戯を避ける為に、彼等の上位に属するという小妖の指輪を身に付けるという程度の、本来、お守り以上の意味など持たない物なのだが、それを手放す人間はあまりいない。生まれて最初に手にした小さな財産は、死出の道行に必要な通行料ともなるからである。
しかし、傭兵が手にしていたのは、自分の守護指輪ではない、とカシムはいう。そして、蒼い石の嵌まったそれが、竜の意匠であるという可能性をも示唆する。
蒼はアリティアの色である。守護指輪に蒼を入れるのは、アリティアの人間だけだろうが、少なくともあの傭兵は、アリティア人には見えない。
そして、竜。『妖の中の妖、魔の中の魔』といわれる、最強の魔物。守護指輪にそんな意匠を選ぶ者もまた、自ずと限定されるだろう。
物語にいう。聖アカネイアの救国の英雄は、竜を御する者であると。彼はその功績によって、領地を与えられ、その地は彼の名で呼ばれた。
アンリの治める地、アリティア。
もし、本当に竜を意匠とした守護指輪があるのならば、それはアリティアの王族、それも玉座にかなり近い地位を持った者のものとしか思えまい。かてて加えて彼等の近くには、そのアリティアの王太子がいる。
「…お前、それをもう少し別なところに使えば、今頃は…」
善く言えば実直、有り体に言って単純な人間の多いタリスに、この手の観察眼を持つ者は少ない。本来、武人である筈のオグマが、情報収集という任につかなければならなかった程に。カシムはそんなタリスにとって、まさに稀有な人材であると言えただろう。それなのに…。
サジの溜息もつい深いものになってしまう。
「揉め事あるところ、金めの話しあり、だからね」
カシムは、小金を稼ぐ事にしか興味を持たず、興味のない事には指一本動かさない。城仕えで得られる大金よりも、ちょっとした事で手に入れる小金が好きなのだ。そう、昔からそういう奴だった。そんなカシムのお陰で、いっかな気苦労が絶えなかった日々は、忘れようったって、そう簡単に忘れられるものではない。
「馬鹿野郎、笑い事じゃねぇ。大体お前は、いっつもそれだよ。姫にまでタカりやがって、お前のお袋さん、いつ病気になったってんだよ」
「やだなあ。俺の母さん、もうずうっと病気だよ。サジだって、知ってるじゃないか」
「言っとくけど、お袋さんが太ってるのは病気の所為じゃねーぞ。食べ過ぎの所為だ」
「……サジ、随分と察しがよくなったね」
「生憎、付き合い長いもんでな」
むっつりと言い返すと、カシムは今度は面白そうに笑った。
「…何がおかしいんだよ。…ったく、お前みたいなのを『詐欺師』って言うんだぞ。勝手に村を飛び出しちまって、あん時はお袋さん、どんなに心配したと思ってんだよ」
「母さんは元気だろ?…また太ったかもしんないけど」
「……まぁ、その通りだけどよ」
タリスを出る前、実家を訪ねた際に会ったカシムの母の姿を思い出し、サジは不承不承頷く。するとカシムは、サジの背中を叩いて言った。
「サジが気になるんだったら、一度帰ってみる事にするから。今は、ここから離れる訳にはいかないけど、その内にね」
『今は、ここから離れる訳にはいかない』とは、一体どういう意味を含んでいるのだろう。責任感から言っている訳では無論ない。そんな事は『カシム』という人格に、全くそぐわないからだ。何だかとても、不安を想起させる言い方だ。
「お前、せめて軍の中では小金稼ぎしようとするんじゃねーぞ」
サジがカシムを横目で睨むと、彼は悪戯のバレた子供のような顔で小さく舌を出す。その姿にむっとして、サジはちょっと意地悪く付け加えた。
「お前がそんな事したら、俺、お前の事を周りに話すからな」
もう昔とは違うのだ。カシムにいいように使われたりはしない。しかし、カシムはきょとんとして、胸を張ったサジを見つめ返した後、ぽつりと言う。
「……サジ。そんな、できる訳ない事言ったって、脅しにも何にもなりゃしないよ」
人間、本当の事を言われると、皆、立腹するものだ。
「…お前なんか、嫌いだ…」
「そんな事、言うなよー。長い付き合いだろー、俺達」
結局、サジはカシムを切り捨て切れない。そして、それをカシムもよく知っているから、彼はこんなにも気楽そうに構えていられるのだろう。そしてサジは、そんなカシムのみならず、自身にもまた腹を立てるのだ。
運とは、人の良さと反比例するものなのかも知れなかった。
END・
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