11001番目の守護天使〜マルス


災いを運ぶもの
世界を動かす力
変革の風



すぐ近くで甲高い悲鳴が聞こえた。また風が強くなってきている。梢の間を見えない何かが走り抜けて行くかのようだ。しかし、つい昨日まで『サムスーフの悪魔』達の砦として使われていた古代遺跡の現在の主であるアリティア軍以外の者は、ここにいない事はもうよく判っている。装飾兼物見としてくり抜かれたらしい石壁の穴は、今ではあちこち崩れ掛けているのだが、ここを風が通り抜ける際、丁度笛のような役割を果たして大小高低さまざまな音を立てるのだ。嵐の夜、魔物達が夜宴を開くというサムスーフ、通称『悪魔の山』の正体もこんなものなのかも知れないと、マルスは考えるともなしに、そう思う。
3日程前から、勢力を弱めながらもこの地に必死にしがみついている風について、「嵐の最後の足掻き」のようなものだと称したのは、新しく軍に加入したジュリアンだったが…。
ジェイガンとカインは激しく、アベルは静かにきっぱりと、ゴードン、ドーガは遠回しながら、騎士達の意見は一致して「元『サムスーフの悪魔』の加入など言語道断」というものだったのだが、これに関してだけはマルスは自分の意見を通させた。基本的に志願者を拒むべきではない、というのが大きな理由だったが、それだけではないという自覚もある。
要するにマルスは、ジュリアンという名の盗賊をすっかり気に入ってしまったのだ。その理由も何となくだが、判っている。
きっと、彼を包む空気が何よりも『自由』であったから。
自由。それは何不自由なく、何でも与えられる身の上だったマルスが決して持ち得なかったものだ。2年前も、そして今も。
マルスは小さく息を吐きながら、目の前に立つもう一人の『自由』の体現者に意識を戻した。
「…まずは、貴方の名前を教えてくれないかな」
彼は、ほんの少しだけその目を細める。マルスの真意を計り兼ねている。そんな感じだ。対してマルスも、ほんの少しだけその口元を緩ませた。
「色々な人達が貴方の噂話をしていたよ。有名人だね。だけど、貴方自身の口から訊きたい」
少々の間があった。己の言葉が彼にきちんと届いたのかマルスが不安になった頃、徐に彼の口が開かれた。
「ナバール」
初めてガルダの港町に着いた時、出会った傭兵と同じ声だ。マルスは安堵したように微笑う。彼のような人物を見紛う筈などなかったが、彼のマルスに対する無反応振りに、もしや人違いなのではないか、と思い始めていたところだったのだ。
「僕はマルス。…ナバール、先日はありがとう。お陰で助かったよ。……もしかすると覚えてないかも知れないんだけど、ガルダで…」
「俺は何もしていない」
後半、自信なげに変わったマルスに被せられた言葉はにべもないものだったが、少なくとも彼がマルスを覚えていた事だけは確かなようだ。
「それでも、貴方がいてくれたから助かったんだ」
そんな彼に力をつけられたのか、強く言い募るマルスの熱を冷まさせるように傭兵は、その髪や瞳と同じ色の声で言う。
「そんな話をする為に、こんな夜更け、俺を寝台から引き摺り出させたのか?」
マルスは頬を紅潮させた。騎士達と一緒では彼の本音を聞けないと思ったし、二人だけで話せるような機会は夜、皆の寝静まった後しかなかったのだが、結果として彼に迷惑を掛けてしまったのは確かだった。見上げると、超然とした傭兵の姿が『早く話を進めろ』と語っている。それ以外のもの…謝罪や言い訳…を聞く意思は全くないらしい。マルスは小さな溜息を吐く。
「…それだけじゃないよ、勿論」
今回、ナバールが軍に協力してくれたのは、あくまでも一時的な事である。本来、傭兵というものは、見返りがなければ動かぬものだという事くらいは知っていた。…王宮暮らしの時分には、きっと思いもよらなかったであろうが。
ともかく、彼を真っ直ぐに見据えて、言葉を続ける。
「ナバールは傭兵だろう?貴方を正式に雇う為にはどうしたらいいのか、教えてほしいんだ。変な質問なのは判ってるんだけど、僕はそういった事をしたことがなくて。…つまり、人を雇うって事を」
「…アリティアの、おまけに王太子様ではな」
アカネイア、グルニア、そしてアリティアの三つの国。それは100年前の第一次ドルーア戦役、解放戦争とも呼ばれた戦乱の三英雄の国。気位の高いこの国の人々が傭兵を雇う事など、まず有り得ない。例え三貴王国でなかろうと通常、王族が直々にする事でもないのだ。
ナバールは口の端を吊り上げる。
「『元』王太子、だよ。…アリティアという国は、今はもう亡いから」
近い未来、座るべき玉座を持たない者を『王太子』などとは呼ばない。普通は。
彼を見るナバールの目から侮りの色がふと消えたのを、伏せ目がちに静かに語るマルスは気付かなかった。
「…少なくとも、アリティアの王子でいてもらわなくては困るな。そうでないお前に、支払能力があるとは思えん」
それでも言いたい事を言うのは、ナバールの性分であるらしい。一瞬、鼻白んだように押し黙ったマルスだったが、少しして、深く息を吐いた。それは悔しさではなく、諦観と悲しみの色をした溜息だった。
「……うん、そうだね。国がなくても、王子である事には変わりはないんだろうな」
マルスの父コーネリアスは王として死んだのだから、きっと彼も死ぬまで『王子(王の子)』なのだ。マルスの父は、戦場でドルーアの手に掛かって殺された。その首は切り落とされ、槍先に高々と縫い止められて、ドルーア軍の本陣の旗印と並べて飾られたという。そして彼等の王を取り戻す為、更にたくさんのアリティアの宮廷騎士達が死んでいった。まるで殉教者のように誇らしく、その行動に何の疑問も抱かないかの如く。激しい戦闘の末、彼の前に捧げ持ってこられた父王の首は、マルスには何か不思議な作り物のようにしか見えなかったのだけれども。
その首の後ろに仄見えた、たくさんの屍。…父は満足だったろうか。アリティア王としての誇りと矜持に満ちていた父は、これ程にたくさんの殉死者に囲まれて幸せだったのだろうか。そして、騎士達は…。
マルスは、王となるのを欲した事など一度もなかった。どころかそれを厭うてさえいた心情は、隠していたつもりであったけれども、きっと彼等には伝わってしまっていたのだろう。宮廷内での王太子の評判は、散々たるものだったから。
軟弱。いつもぼんやりしている。大人しくて、人の言う事をよく訊くのが取り柄。
そんな陰口が叩かれているのを知らない訳ではなかったが、マルスは反論しようとも思わなかった。自分に対する人々の失望も尤もな話だったのだ。我儘を言って手に入れた大判の大陸地図に胸をときめかせ、幾度となく眺めた幼い日々に、たった一人、幼馴染みの親友にだけ、こっそりと打ち明けた事があった。
身一つで世界中を旅して回る者になりたい、と。
実際それは、己の宿命に目を瞑った夢想に過ぎなかったけれども、マルスには何よりも魅力的な夢だった。それは、未だ色褪せない夢。
己の想念にしがみつくように、マルスは固く目を瞑る。
それでも今、マルスは国に戻らなければならなかった。己を守る為に故郷を捨てた騎士達に、故郷(アリティア)を返す事が義務のように思われたから。
数回、瞬く。それだけで眼奥の過去は霧散した。マルスは、なるべく気軽く見えるようにと願いながら、小さく肩を竦めてみせた。
「…それに『支払能力がない』っていうのも本当。確かに今の僕には、貴方に払えるお金も何もないんだ。全部、成功報酬って事になっちゃうね…」
全額後払いというのは、あまり好まれないだろう、という事くらい、容易に想像がついた。自然、声のトーンの落ちたマルスに、しかしナバールは静かに応じた。
「仕事内容と期間、そして報酬を明確にしろ。仕事を受けるかどうかはそれから決める」
どうやら脈がないこともないらしい。そもそも、興味がなければ話を聞いてもくれないだろうと思っていたから、これは少しは期待が持てる、という事だろうか。
「…仕事は、僕らの目的であるアリティア奪還に協力する事。期間は、目的達成まで。報酬は…、相場ってどれくらい?」
「仕事による。半月で金500くらいの簡単なものから。…危険度が上がる程に値も上がる」
「それじゃ、金3万。取り敢えずこれを一年分として、かかった年数に3万ずつ上積みする。それと、アリティア貴族としての地位」
「…大盤振る舞いの空手形だな」
鼻で笑ったナバールに、マルスは顔を赤くした。祖国を奪還するという目的を果たせなければ、それは口先だけの約束で終わってしまうという自覚はあったのだ。客観的に考えても、あまり良い仕事とは言えない。落胆に肩を落とし掛けたマルスは、続くナバールの台詞に顔を上げ、大きくその目を見開いた。
「金5万。但し、貴族の地位なんて面倒なものはいらん」
「…受けてくれるの?」
「受けない方がいいのか?」
「受けてくれた方がいい!」
「ならば、よかろう。…我が魂たる剣にかけて…」
頭を大きく横に振りながらのマルスの言に、ナバールは、腰に下げた曲刀の刃を少しだけ見せるように抜き、再び鞘へと滑らせる。その時、剣は小さな金属音を響かせた。それが傭兵の契約の作法なのか、と興味深げに見守りながら、マルスは心の中で己自身を見返していた。この契約成立に際して、自分は何をすればいいだろう。幸いすぐに思い至り、マルスは左手の中指に嵌まっていた指輪を抜き取ると、ナバールへと差し出した。
「これを契約の証に」
純粋な銀と、小さいとはいえ透明度が高く、尚かつ深い色合いの蒼石とで作られた指輪は、それだけでもなかなかの値打ち物ではあっただろう。しかし、それよりも大きく目を引くのは、その意匠だった。
翼を生やした円形の蒼石を仰ぐ竜。
有翼の太陽円盤は、多分『神』を表している。まだ、この大陸へと渡って来て日も浅いナバールは、傭兵稼業に即必要となる大陸内事情は一応把握していたが、大陸の神話の類いはよく知らない。だが、神を表す意匠など、何処であろうとそうそう変わるものでもない。そして竜は『魔物』だ。妖の中の妖。魔の中の魔。土地や場所によって、魔神とも悪魔ともされるそれも、最も強力な妖魔である事に変わりはないのだ。これは、形状が似ている為にそう呼ばれるようになった『飛竜』とは、全く別種のものである事は言うまでもない。そして、この指輪に描き出されているのは、その本物の竜だった。…架空の幻獣である竜に対して『本物』というのも、おかしな話ではあるが。
おまけにこの竜、よくある悪の化身として表現されている訳ではない。まるで月に吠える孤狼のような、はりつめた気品すら漂わせたそれは、あくまでも神と同等のものである事を窺わせる。流石にその彫金技術は素晴らしいが、しかし、あまりにも異質な意匠であった。
神に打ち倒されない魔物。
「僕はナバールのように、自分の分身としての剣を持っていないけど、生まれた時に貰ったその指輪が一番それに近いと思うんだ。だからそれ、持っててほしい」
この珍しい指輪を眺めつつ、手の中で弄ぶナバールの様子を勘違いしてか、マルスは少々恥ずかしそうに付け加えた。
「…それは王室所蔵品じゃなくて、僕個人の物だから、ナバールに渡してもどこからも苦情は出ないと思う」
「…よかろう」
すぐ前のマルスの台詞に説得された訳ではあるまいが、ナバールは指輪を左の小指に嵌めた。成長途上である上、元々非力な王子とは比べ物にならない位、傭兵の剣を握る為の手は大きくしっかりとした作りをしている。マルスの中指用の指輪が小指にしか入らない程に。その事が少しだけ悔しい。
そんなマルスの心情も知らぬげに、ナバールは皮肉っぽく、それでも嘲笑でなく微笑う。
「これでお前は俺の雇主になった訳だ。この剣、お前の好きに使うがいいさ。それが傭兵の契約だ。少なくとも、期日が切れるまではな」
何かが変わる。ナーガ神の愛児たる巫女姫であった姉と違って、マルスに予知の能力はなかったが、この傭兵は何かを変えてしまうだろう。確かな予感があった。
風が強い。



END


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