堕天使達は夢を見る〜ジュリアン


闇に繋がれ なお一層の輝きを放つ 誇り高き御使

光を掲げる者
明けの明星と呼ばれし者



「馬鹿野郎!!てめえ、それでその女連れてきやがったのか!!」
「…仕方ねぇだろう。相手は僧侶なんだ。あのまま、おっぽり出す訳にゃいかねーよ」
『サムスーフの悪魔』の頭目ハイマンの怒鳴り声を、心の中で耳に栓をしつつやり過ごすと、ジュリアンは肩を竦めてみせる。
「そもそも、教会のガキなんかさらってくる方がどうかしてるぜ」
つい挑発的な言葉が口を突く。頭で考える前に、口が動いてしまう癖をどうにかした方がいい、と自分でも思ってはいるのだが、どうもいけない。相手が気に入らない人間だったりすると、尚更である。慌てて口を噤んだが、遅かった。呟きに近い一人言であったのだが、ハイマンの耳に届いてしまったらしい。一瞬で顔色を変えた大男は、ジュリアンの横っ面を張り飛ばした。文字通り、飛ばされそうなその勢いに、ジュリアンは背後の石壁へと背を打ち付ける。
「…口の聞き方に気をつけろ。確かにお前は俺達の中でも、とびきり腕のいい盗賊だ。だがな、どうしても必要だ、という訳じゃない。他にも盗賊はいるんだからな。その事を忘れんじゃねえぞ」
確かにそれは真実だった。残虐無比な手口で恐れられる『サムスーフの悪魔』ならば、ジュリアン程の盗みの技術がなくても、充分やっていけるだろう。
食らい尽くし、破壊し尽くし、殺し尽くす。『悪魔』の名は伊達ではない。
しかし、だからといって本当にジュリアンを簡単に切り捨てる事ができるのか?
「判ってるさ。俺だって、まだ死にたかねぇよ」
したたかな笑いを刻んだ口元を拳で軽く拭いながら隠し、彼は壁に凭れた身を起こす。
どうしても必要な訳ではない。しかし、出来得る限り、手放したくもない。
ジュリアンは、そういった己の微妙な立場を正しく理解していた。そしてハイマンは、面白くもなさそうに舌打ちして、ジュリアンから目線を外すと、吐き出すように言い切った。
「その尼僧、ここに引っ張ってきな」
ともすれば頬を緩ませがちになる、小さな勝利への満足の笑みを努めて押し殺しつつ、ジュリアンは素早く扉を擦り抜けた。もう松明も消されているので、廊下は冷たく暗い闇に閉ざされている。手に掲げた小さなランプが光源では、ほんの足元くらいしか照らせないが、苦もなく小走りに進む。別室に待たせたままの彼女の元へ早く帰ってやらなければならない。まさか僧侶に不埒な振る舞いをする輩はいないだろうが、厳つい男達ばかりの盗賊団の崩れ掛けた遺跡を利用した廃墟のような根城に一人きりで残されたら、やっぱり心細いだろう。
今回は気配を消す必要はなかったし、できるだけ急いでいたのだが、それでも柔らかい革の靴底の立てる足音はほんの小さなものだった。食堂兼用の広間に顔を覗かせる。だが、ジュリアンのこういった気遣いは全く無用であることを示す光景が、目の前では展開していた。
背を真っ直ぐに伸ばして椅子に座った彼女は、静かにジュリアンの出した白湯を啜っている。その前には、幾人かの盗賊達。どうやら、常とは違う気配を感じて、起き出してきたようだ。…まぁ、彼女をこの広間に通して、暖炉に火を入れて、白湯を作って、それからハイマンに報告にいって、おまけにさっきの、根城中に鳴り響くような怒鳴り声だ。気が付かぬほうが問題だったかも知れないが。
思いもよらぬ深夜の訪問者は、他の盗賊達をも強く困惑させているらしい。何だか居心地悪そうに、それでも好奇心からこの場を動けない、とでも言いたげな、ジュリアンの知る無法な男達らしからぬ様子で、彼女とテーブルを挟んだ向かいの辺りに、座りもせずに溜まっている。相手が僧侶である、という事を差し引いても、あれだけ若い、尚かつ美人に対して、からかいめいた口説きかけ一つない、というのは、奇異に映るかもしれない。しかし、先程彼女を間近で見たジュリアンには、それは当然の事だと思えた。
美人。そう、確かに美人だ。粗末な白いローブ姿で、化粧っけもなくて、それでも彼女は十分に美しかった。決して派手さはない。むしろ、おとなしやかな、清楚な美貌。ジュリアンとそう年齢も違うまいに、ひどく大人びて見えるのは、あの落ち着きと、不思議と力に溢れた微笑の故だろう。それは、『気品』と『自信』という名をしたもの。
小さく小首を傾げた尼僧は、目の前の盗賊たちに、柔らかく微笑み掛けた。何の気負いも感じさせない自然な微笑だったのだが、いや、それ故に、男達は気圧されてしまったのだ。
ああいう類の人間に対して、引け目を感じない者はここにはいない。…それ程強い精神を持っていたら、このような場所にいる筈もない。
僧侶と言うものは、皆ああなのだろうか。それとも、彼女は特別なのか?
その時、ジュリアンの視線に気付いたのか、ふと彼女は顔を上げた。目が合う。その時浮かんだ笑みの奥に、小さな安堵が見えたのは、気の所為だろうか。彼女は白湯の入った椀をテーブルに置くと、目の前の盗賊達へと軽く腰を折り、ジュリアンに向かって小走りに駆けてきた。
「…頭目が会うってよ」
「ありがとう。貴方には、どんなに感謝しても足りません」
「よせよ。俺は何もしちゃいねぇよ。言っただろ。頭目に話をするくらいしかできねぇって。後は、あんたが奴を説得しなきゃならねぇんだから。……これは、あんたに怪我させちまった詫びみたいなモンなんだからよ」
顔を背けるようにして発せられたジュリアンの言葉の最後の一言に、彼女は顔を上げた。
「そんな。あれは私が自分で…」
そのまま、言葉は口の中に消える。まじまじと見つめるその瞳に、ジュリアンは何となく己の腰が引けるのを感じた。
「…唇の端が、切れています。それに頬も腫れて…」
彼女が、ジュリアンの顔を心配そうに見上げて、赤く腫れた頬にそっと触れた。たったそれだけなのに、熱かった頬が更に熱くなる。赤くなったであろう顔を見られたくなくて、彼女の手から逃げ去るように、その身を翻した。足早に廊下を進むと、少し遅れてついてくる気配。しかし、ほんの少し進んだところで、後ろに引かれるような感触に驚いて、ジュリアンは足を止めた。振り返ると、彼女がジュリアンの服の端を掴んでいる。
「ごめんなさい。暗くて、足元が見えなくって、もし貴方とはぐれたら、そのまま迷子になってしまいそうだし、…あの、こうしていてはいけないかしら…」
そうだ。彼女は自分のように、夜目が利く訳でも、暗闇での行動に慣れている訳でもないのだ。…手を引いた方がいいのだろうか。だけど何故か、そうする事にためらいを感じる。別にどうという事もありはしないのに、何でこんなに緊張しているんだろう。
「いいよ、別に…」
口から出た言葉はもしかしたら、ひどくぶっきらぼうに響いてしまったかもしれない。それからの歩みは随分と遅くしたつもりだったけれど、彼女の様子が何だか寂しげに感じられて、ジュリアンはひどく悪い事をしたような気持ちになった。



それでも結局、何も言えないままに部屋の前まで辿り着いてしまった。常日頃、不必要な時ほどよく回る己の舌はこういう時に限って、いっかな思う通りに動こうとしない。まるで、急に固く凍り付いてしまったかのようだ。
ジュリアンが立ち止まると共に、服の端にずっと感じていた小さな重みが去っていく。その事に対して残った、ほっとした反面、何だか残念なような感情は、一体何だというのだろう。
溜息を一つ洩らし、ジュリアンは形ばかりのノックを一つするとすぐに、半ば引き摺ったままの自己嫌悪を振り切るように、その扉を勢いよく開いた。
「遅いじゃねーか!何をグスグスしてたんだ」
すかさず飛んで来た濁声も、ジュリアンの耳には全く止まらなかった。全く思いもよらない、先程まではいなかった人物が、そこにいたので。
ハイマンの背後、腕を組んで石壁に凭れるようにそこにいる、その人物の足の近くには彼の愛用品らしい、古くシンプルな、それでいて優雅な曲刀が立て掛けられている。
つい最近、用心棒として加わった闇色の髪の傭兵は、ジュリアンに強い不安感を起こさせる存在だった。その髪と同じ色をした、感情を読ませない瞳の奥にある光が、何故か肌を泡立たせるのだ。しかしこれはジュリアンに限った事でもないらしい。背後から小さく息を飲む気配が伝わってきて、再び服の端に重みが加わった。
「…僧侶を連れて来た。あんたに、言う事があるそうだぜ」
大きく息を吸うと、ジュリアンは努めてはっきりとした発音で言った。傭兵の事はいないものとして、この場を切り抜けてしまうつもりである。幸い、傭兵の方も別段こちらの話に興味がある訳でもないらしく、顔を向ける事もない。その事実に勇気づけられて、彼は小さな深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
「…いや、それより先に、おめぇに訊きたい事がある」
しかし、続くハイマンの言葉は、ジュリアンの肺の中の空気を再び、全て凍り付かせた。
「リカードを何処へやった?」
早すぎる。まだリカードは山を降り切っていないだろう。追っ手から逃げ切れるほどの距離を稼いではいまい。
少なくても、皆の起き出してくる昼時までは気付かれない筈だった。リカードの逃亡の痕跡を隠し、ジュリアン自身の保身をも計る事ができるほどの時間。それだけの時間があれば、全てをうやむやにしてしまえる。彼にはその自信があった。
しかし、現実はこうだ。
半ば呆然とした状態のままジュリアンは、冷たい目をした目の前の頭目を見つめた。この半端な時間帯の小さな騒ぎが盗賊達の注意を引き、そして、起き出してこない、姿を見せない者への不審感を抱かせ、その者の不在を確かめさせた。そしてそれは、速やかに頭目へと伝えられる。裏切り者に処罰を与える為に。
尼僧の存在が、ジュリアンの計算を全て狂わせてしまったのだ。
先程の件もある。今度こそ殺されるかも知れない。
だけど彼女を恨むような気持ちは、自分でも不思議に思うほど、少しも湧いてはこなかった。
(…仕方ねぇよなぁ)
自分の強運を信じてここまで来たが、要するに今度は運命との賭に負けた、という事なんだろう。賭に負ける時が、命の終わる時だとずっと思っていた。その時が、遂にやってきた、というだけだ。痛い事は嫌いだったが、どのみち人間は1回しか死なないのだ。
しかし、腹を括ったジュリアンが口を開くのを待たず、ハイマンは彼の胸倉を掴み、締め上げた。瞬間、息が詰まる。
「あんまり舐めてんじゃねぇぞ。おめぇにリカードの野郎がえらく懐いてたってのは判ってんだ。リカードに一人で足抜けするような度胸があるわきゃねぇ!おめぇが裏で糸引いてんのはお見通しなんだよ!!」
「乱暴は止めて下さい!」
足先がやっと床に着くほどに吊り上げられて、それでも何とか息を整え、口を開こうとしたジュリアンは、再びそれを遮られた。
僧侶が、二人の男達を見上げて立っていた。怒りに頬を紅潮させた彼女は、古代の戦女神のように…主なる唯一神の僧侶である彼女に対して、そのような表現が許されるならば…二人を、…ハイマンを睨み上げていたが、その傷付いた手に再びロザリオが固く握られているのをジュリアンは見逃したりはしなかった。
「彼が罪を犯したという確証がない限り、彼に手を上げるのは許されません。そもそも、人が人を裁くなど、許されない事なのですから」
まるでジュリアンの無実をこそ知っているかの如き自信に満ちた態度を見せる尼僧に、ジュリアンはすっかり気圧されていた。急に緩められた胸元の締め付けから、ハイマンもそうなのだと知れる。といって、彼等が全く同じ心情を抱いていた訳では無論ないだろう。殊にジュリアンには、ずっと困惑の度合いが大きかった。
だって、彼女は見ていた筈だ。ジュリアンがリカードを逃がすところを。彼女風に言えば、彼女はジュリアンの『罪』について、『確証』を持っている筈なのだ。
盗賊であるジュリアンは、人を騙すのが商売である。だが、僧侶があんなに堂々と嘘をついてもいいのだろうか?…いや、嘘ではないのか。彼女は、ジュリアンが無実だ、と言っている訳ではない。
半ば呆れた彼の前、尼僧はにっこりと微笑み、十字を切る。
「聖母の加護を。いと暗き道を行く人の前にこそ、その慈しみの光が照らすよう…」
頭目には、神の道を外れた者…この場合、ハイマン自身…に対するものとして受け取られたようだが、ジュリアンには尼僧の言葉の裏がはっきりと見えていた。
暗い山道を灯りも持たず、下っていった人に。
やはり、彼女は知っている。しかし、今は彼を庇ってくれるつもりらしい。未だ呆然と立ち尽くすジュリアンを、その背に守るように立つ。対するハイマンも、今までお目にかかった事のない類のその反応と、加えて『僧侶』という異人種への対応に当惑の色を隠せないようだ。結果、緊張を孕んだ沈黙が室内に降り積もっていく。しかし、その時。
「その女の尋問をする、という事ではなかったのか?その為に俺はここにいるのだと思っていたがな」
沈黙は破られたが、一気に緊張感は高まった。闇色の髪の傭兵が口を開いたのだ。この時、ジュリアンは初めて、その男の声を聞いた。思ったより低めの、しかし、よく響く印象的な声だ。
「お前達の内輪もめなんぞに興味はない。さっさと話を進めろ」
目を伏せ、少し首を傾けた、最初に見た時と殆ど変わらない姿勢のままの傭兵の感情の籠もらない、しかしきつい物言いに、ハイマンも鼻白んだように押し黙った。
全く取り付く島もない。そして、まがりなりにも雇主に対する態度ではない。ハイマンもどのような態度を取ればいいのか、判断がつきかねているらしい。しばらく思案げに眉根を寄せていたが結局、大袈裟に肩を竦めて、作った薄笑いを浮かべて見せた。この場をなあなあで済ませてしまうつもりらしい。…その気持ちは、よく判るのだが。
あの傭兵の存在は、周囲にある種の感情を起こさせる。不安、圧迫、怯え、反発。それらは全て、ある一つの感情に集約される。『恐怖』と言う名の感情に根差しているのだ。
「…ま、いい。シスターの言う『確証』とやらを掴んでからにしてやるよ。それまでその命、預けといてやる。運がよかったな」
『運がよかった』為だけではなく、今この場の空気が緩んでくれた事に対して、ジュリアンは心からの安堵の溜息を吐いた。



「…ですから、教会の子供達をこちらにお返し願いたいのです。あの子達は、聖教団の庇護下にあります。言わば、主に庇護された者でもあるのですから」
「おっと、尼僧さん。まだ俺達がやったものとは限らないじゃねぇか。何の根拠があって、俺達を疑ってる訳だ。答えようによっちゃあ…」
尼僧の言葉を遮るように、ハイマンが嘯いた。その凄味を利かせた声音に恐れげもなく、彼女は小さく小首を傾げて見せる。
「もともと、教会は見晴らしのいい丘の上にありますし、周囲に複数の人の隠れるような場所もありません。誰か人が来たら、すぐに判る場所なんです。私が教会を空けたのは、ほんの少しの間でした。その間に身を隠せるような場所は、一番近くの村か、教会の裏手にある森くらいのものでしょう?森はそのまま、山に続いています。この山です」
「…村が怪しい、とは思わねぇのかい?」
「いいえ。だって、私は村に届け物に行って、すぐに戻ったんですもの。村から教会までの道では、行きも帰りもおかしな事はありませんでしたし。だから、この森へ連れ去られたのだろう、とそう思ったんです。…それに、盗賊の方々には『活動範囲』というものがあるのだ、と聞きました。ならば、この近辺で他の盗賊の方が『活動』する、という事は、あまりないのではないかとも思うのですけれど…」
その通りだった。この盗賊社会、無法者の集まりではあったが、そうであるが故の守るべき規律、というものも確かに存在している。例えば、縄張りを荒らした流れ者。そういった輩などは、いわゆる『おとし前』をつけられる事になる。半死半生の目に遭わせられた上、二度と盗賊稼業が続けられないように、指、又は腕を潰されるのが通常である。ジュリアンのように、捕まった先の盗賊団に引き込まれて、そこで仕事をするようになるなど、例外中の例外なのだ。
きょとんとしたまま少し戸惑ったように語る彼女の言葉は、理路整然としている。まるで、何故、ハイマンがそのような事を言うのか判らない、とでも言いたげな風情である。
実際、この会話の勝者がどちらなのかは誰の目にも明らかだったろう。ハイマンも、何とか上手く言い逃れられないか、と思案しているようだが、いかんせん役者が違う。平静に目の前の大男を見つめる尼僧の前で、彼は小さく目を眇めた。そこには苛立たしげな光が点り始めている。
「…あんたそれで、どうしてここが判ったんだ?『サムスーフの悪魔』の根城は、まだ何処にもバレていない筈だ。サムスーフっていっても、随分広い。あてずっぽうって事はねぇだろう。…それとも、それはもう周知の事実になっちまってんのか?」
背後から急に掛けられた声に、尼僧は驚いた様子で振り向いた。先程、彼女をこの部屋に送り届けた事で仕事は終わったはずなのだが、出ていくように言われなかったのを幸い、彼女から数歩下がった位置でずっとこの会話を聞いていたジュリアンが、初めて発した質問だった。彼女の視線が外れた事とジュリアンの問いに興味を掻き立てられた事とで、ハイマンの怒りも矛先を外されたらしい。今は頭目のこういった単純さが、いっそありがたい。
だがしかし、ハイマンの注意を逸らすだけのためではなく、これは本当に重大な問題である。何気ない風を装ったジュリアンの問い掛けに対する尼僧の答えは、こういうものであった。
曰わく。
教会というのは、実に様々な人々が尋ねてくるものであるらしい。祈りを捧げる信者の他、一夜の宿を求める旅人、休息の場を欲する商人。そして時には、近隣の山を仕事場とする、つい日が暮れるまで獲物を追い続けて、危うく遭難しかかった猟師、などという者も。
猟師は、薄い豆のスープを啜りながら、身振りつきの大仰さで彼女を相手に話し続けた。
自分は長い事、この仕事を続けている事。いつもならば決してこのような、まるで新米猟師のような失敗はしない事。今までならば確実に仕留められたはずの猟場で、めっきり獲物の姿を見なくなった事。その為、かなり山道を移動しながら、新たな猟場を捜し始めなければならなかった事。
喋り終わるとスープのお代わりを所望し、猟師は如何にもすっきりとした面持ちで眠りに就いた。要するに彼女に対して、言い訳と愚痴とをひたすら聞かせた訳なのだが、その情報は、ずっと彼女の記憶の引き出しにしまわれていたのだ。
かてて加えて、彼女はこの古代遺跡の存在を知っていた。
「その昔、聖教団が調べた事があるそうです。『主以外の神を祭った古代神殿であった場合、徹底的に破壊せねばならない』という公布がなされたという、暗黒時代のお話ですけれど。この頃、随分とたくさんの遺跡が瓦礫の山に還ったといわれますが、ここはそういった宗教色がなかったので、完全破壊の運命を免れたという事です。…聖教団の文献で知ったんですけど」
動物達が逃げたのは、そこに敵が現れたからだ。つまり彼女は、盗賊団が巣くっている場所を、動物達がいなくなった辺りであると断定した。これで捜すべき区域はかなり狭められたが、それでもしらみつぶしに当たるにはまだ広い。しかしその時、ふと思った。
盗賊達はどうやって、風雨を凌いでいるのだろう?
そこで、過去に目を通した報告書の内容を思い出し、その場所が捜索区域の中にある事に気が付いた。
後は簡単だった。遺跡の位置を確認し直し、ひたすらに山を登ってきた。それだけだ。
大昔、狂信的な坊主の集団が、如何に古代遺跡を壊しまくって回ろうと、今のジュリアンには何の関係もないし、興味もない。知りたいのは、他の僧侶もこの遺跡の事を知っているのかという事。しかし彼女は、癖なのだろうか小さく小首を傾げ、その疑問をあっさりと否定した。
「神学書の類ではなく、書庫の隅で埃を被っていた報告書ですもの。聖職者が一般的に読むような物ではありません」
尼僧の言葉は、危険だった。そう、酷く危険だ。彼女は気付いていないのだろうか?自分の言葉が何を指し示しているのか。
『サムスーフの悪魔』の本拠を知ったたった一人の人間を、このまま返す訳にはいかないのだという事を。
「……切るか?その女…」
低く響いた呟き声に、三人共驚愕に体を強張らせ、存在を忘れ掛けていた第4の人物へと視線を集中させた。その背を壁に凭れさせたまま、闇色の傭兵は、はっきりとこちらに顔を向けていた。
「僧侶だぞ?!それも、従軍している訳でもない、神に全てを捧げる…」
「『悪魔』と呼ばれる者が、神を恐れるか」
笑いの形を刻んで唇の端が吊り上げられる。それは、はっきりと嘲笑を示していた。未だ剣を抜いた訳でもない。しかし、傭兵の笑いはジュリアンを凍り付かせた。彼の目には僧侶も盗賊も全く変わらない。生きているのだと言う事すらも関係がない。どちらも単なる物体に過ぎないのだ、という事を一瞬で理解する。傭兵の抱えた暗黒が周囲に凝って、彼等を呪縛してしまうような、そんな錯覚。
「止めろ!その女はここに閉じ込めて置く、手を出すな!!おい、さっさとその女を連れて行け!早くしろ、早く!」
ハイマンにとってもそうだったのだろう。追い立てるようなそれに、ジュリアンは尼僧の手を引いて走った。
言われるまでもない。逃げるように部屋から飛び出す。いや、『ように』ではなく、ジュリアンは確かにここから逃げていた。ここから、というよりも、傭兵から、といった方が正しい。一度落とし掛け、拾い上げた命をあたら奪われたくはない、という事も確かにあったが、しかし、何よりも、傭兵という存在が恐ろしかったのだ。
彼等が走り抜けていったまま開け放たれた扉は、それ自体の重みによって静かに閉じる方向へと動き出していた。遺跡には、それと判らない程の傾斜があるらしく、きちんと閉めないと扉が一方向へと動いてしまうのだ。それはいつもの事であったのだが、ハイマンは息を飲み、しかしすぐにその事に思い当たって、変に過敏になっている己の神経に憤ったように額を拭う。そこは、冷たい汗が滲み出していた。
「……とんでもねぇな、あんたは…」
絞り出されたハイマンの言葉に、傭兵は鼻で嘲笑う事で返す。
「人は死んだら物になる。それだけの事だ。一体、神に何ができると言うんだ?」



「…待って、お願い!もう少し、ゆっくり…」
掠れた声に、ジュリアンはようやっと我に返る。尼僧の手を固く握ったまま、思いきり走っていたので、流石に彼女から苦情が出た、という訳だ。その白い手は想像以上に細くて柔らかで、先程その手を握る事に躊躇した事なども、いきなり意識してしまって、慌てて手を離すと、彼女はその場でへたり込んでしまった。
「……おい、どうした?」
彼女は項垂れたまま、ただ小さく首を横に振った。息が上がったらしく、苦しそうな呼吸だけが聞こえてくる。
「あの、さ。…さっきは助かった。庇ってくれて」
今度は、もう少し強く首を振る。どうやら、気にしないでくれ、とかそういった意味合いを含んだ動作のようだが、それでも顔は上げてくれない。ジュリアンは少し不安になった。
「…悪かったよ。あんたまで引っ張り回しちまって…。僧侶様はいつも、んなバタバタ走ったりしねぇよな、きっと」
ジュリアンの心配げな口調に、彼女は顔を上げた。済まなそうな、少し悲しいような表情をしている。
「………違うの…」
「…え?」
「……ずっと怖くて。怖くて怖くて、仕方がなかったの。でも、貴方が手を引いていてくれたから、もう大丈夫だって、ここまで来てほっとしてしまって、そうしたら急に、足の力が…」
まだ多少混乱しているらしく、たどたどしく語る彼女は、つまり、腰が抜けてしまったようなのだ。
「…だってあんた、今まで堂々としたモンだったじゃないか。森でも、頭目の前でも」
「『子供達を助けなきゃ』って、ずっとそればっかり考えていたから。だから忘れていたの。だけどさっき、本当に殺されるかも知れない、って思って。そうしたら、もう子供達を助ける事もできないんだって、そう思って。…自分の非力さを実感したら、怖いのと悲しいのと悔しいので、胸が一杯になってしまって…」
言うと拳で目元を擦る。冷静で理知的な僧侶の姿はもはやない。今の彼女は、まるで幼い少女のように見える。そうだ。彼女はずっと、縋るようにロザリオを握り締めていたのだ。
「…そんなに子供達が大事か?あんたには、縁も所縁もない子供だろうに」
「そんな事ないわ。皆、戦争で親を亡くした『神の家』の家族だもの」
涙の滲んだ目はまだうるんでいたが、尼僧はほのかに微笑んだ。
「ごめんなさい。もう少しすれば、足も立つようになると思うから…」
言い掛けたきり、尼僧は言葉を失った。ジュリアンの行動の意味が判らなかったらしい。それはそうだろう。ジュリアン自身にも、何故そんな事をしてしまったのか判らない。
「おぶさんなよ、シスター」
尼僧に背を向けてしゃがみ込んだ自分に、我ながら呆れてしまう。
背後に目を持つ者はいない。つまり背中は、人間にとって最も無防備な箇所のひとつである。それでも例えば、農業で生活を立てる村人等であったら、背後からいきなり刺される心配をする事など、そうはないだろう。よっぽど後ろ暗い事でもしていない限り。
しかし、ジュリアンはいわゆる『後ろ暗い』職業についている。相手に背後を取られるのは、死を意味するかもしれない位、大変な事だ。最早、習性と化しているはずのそんな事も、後から思い付いてしまって、そんな自分につい溜息が出る。
「え?!でも…」
対する尼僧は、ひどくおろおろしている。
「このまま、ここにいる訳にもいかねぇよ。今、あんまり目立つ事したくねぇんだ。さっきもぶん殴られちまったしな」
「ごめんなさい。でも、あの」
「ほら、早く!」
「あ、はい」
ジュリアンの声に押されるように、尼僧はついとその手を目の前の肩へと掛けた。その重みを感じてすぐ、彼は尼僧の体を支えて立ち上がると、彼女から息を飲む気配が伝わった。どうやら絶句しているようだが、ジュリアンはそのまま歩き出す。
建物の端に、捕虜を閉じ込めておく為の小さな部屋がしつらえられている。滅多に使われない場所であったが、取り敢えず、彼女はそこに入れておけばいいだろう。…だけど、なんで女というのは、こんなに細っこくって、柔らかくって、いい匂いがするんだろう?早く送り届けてしまいたい反面、ゆっくり歩みたくもあり…。何だか妙な気持ちだった。
暫くすると背中から、おずおずとした彼女の声が聞こえてきた。
「ごめんなさい。重いでしょう?」
「いや…」
それは本当だった。彼女を背負った瞬間勢い余って、思わず前のめり気味になってしまったのを、早足で誤魔化した。予想以上に軽くて、拍子抜けしてしまったほどだ。だが、そのまま言葉を切り掛けたジュリアンは、それでは背中の僧侶が困るかもしれないと思い直した。
「全然、重くねぇよ。もうちっと太った方がいいぜ、シスター。やっぱ、女はグラマーじゃなきゃあ」
努めて明るく言う。まぁ、僧侶がグラマーでも、あまり意味はないだろうとは思うが。
しかし、その返答は深刻な色を含んだものだった。
「……ごめんなさい…」
本気で謝っている。その様に、返ってジュリアンの方が狼狽してしまう。…何だかさっきから、彼女と一緒にいると戸惑ってしまう事ばかりだ。
「…別に深い意味なんかないんだから、そんなに気にするなよ。…あんた、さっきから謝ってばっかりだなぁ」
「ごめんなさ…」
背中へと降ってくる声の主は、ふと口を噤んだ。またしても謝罪の言葉を口にしている自分に気付いて、困惑している姿が目に映るようだ。まるで子供のようなその反応につい口元が緩み掛けたジュリアンであったが、その時、己の側頭部に覚えた小さな感触に、息も止まりそうな程驚いた。思わず、足が縺れそうになる。
「…ありがとう。初めから、こう言えばよかったのだわ」
彼女はその指で、ジュリアンの髪を撫でるようにまさぐりながら言ったのだ。
「っ、子供達のことだけど!」
多少ひっくり返り気味になってしまう己の声が、恨めしい。
「多分、無事に返せると思う。元々、教会近くで遊んでいたってんでさらっただけで、それが教会の子供とは知らなかったんだと思うし。…流石に教会に手を出すほどの度胸はねぇよ。それと同じ理由で、あんたの身も安全だよ。暫くは、ここにいてもらう事になるけど」
しかし、ジュリアンは先程の件で、ハイマンに首根っこを押さえられる前に盗賊団から逃亡する事を余儀なくされた。一度別れてしまえば、その後、彼女と再び会える可能性などまずないに等しい。現実に則したその考えは、何故か自身の心に小さな影を落とす。
「ありがとう」
それでも、降り注ぐ声はふわふわと柔らかくて、とても優しく暖かい。ジュリアンは、少し歩む速度を遅くした。
少しでも長く、彼女の声に包まれていられるように。



END







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