堕天使達は夢を見る〜幕間

『運命』とは
神によって 永遠の眠りの獄に 閉ざされた
魔王の紡ぎ出す夢より 生まれいづる
地に住む どんな者達も
この魔物の気まぐれな手からは 逃れられぬ

昼尚暗き森の夜は、漆黒の闇に包まれている。風が強い所為だろうか、いつもならば煩いほどに聞こえている虫の声も、今夜は全く耳に入らない。
まるで、世界全てが死に絶えたかのような夜。
ただ、風に身を揺すられた木々だけが、ザワザワと蠢く音を立てた。
「…兄貴ー。やっぱり、兄貴も一緒に逃げましょうよ。こんなにヤバい所で、兄貴がオイラを逃がした、なんて知れたら、兄貴、どんな目に会うか判りませんぜ」
「バーカ、大丈夫だよ。俺はお前と違って、有能だからな。あいつらだって、俺をそんなに粗略にゃできねーんだよ」
人気のない廊下の突き当たり、石壁をくりぬいただけのような、元々、閉め戸の存在しない窓に足を掛けたままの状態で振り向いたリカードに、彼は器用に動く己の指を示して見せる。まだ幼い、と言ってもいいような年の頃からずっと、ギリギリの状態で生きてきた彼を支えた命綱。どんな鍵の形状も罠の有無も指先の触感ひとつで感じ取る、誰にも負けない彼の武器だ。
「そりゃ、知ってますよ。兄貴がどんなに凄いかって事はさ。長い付き合いだもん。だけど、今度ばかりは、マジでヤバいよ。ねー、お願いですから、一緒に逃げて下さいよ。頼みますよ、ジュリアンの兄貴」
真剣な表情で言い募るリカードに、ジュリアンは腕を組んでやや大仰な溜め息を吐く。
「…何だよ、まだ独り立ちできないのかよ、お前は。いい加減、俺の後ついてばっかいられないって事ぐらい、判れよ。仕様がねーなぁ、……まてよ」
ジュリアンの瞳が、悪戯っぽく瞬いた。
「判ったぞ。さてはお前、外に一人で出るのが怖いんだろう」
「ちっ、違!」
「しっ、声が高い!」
鋭い叱責の囁きに、リカードは続く言葉を慌てて飲み込んだ。ジュリアンは、しなやかな身ごなしで、廊下の反対側へと歩を進め、何も異変のない事を確認すると、また素早く窓辺へと戻って来る。夜の森の湿った空気が氷のように変えた、崩れ掛けた遺跡の石組みの廊下を走るその足運びは、まるで吸い付くようで、全く音を発しない。
「馬鹿野郎、気をつけろ!こんなトコ、やつらに見付かっちまったら、それこそ何の申し開きもできねーだろうが!!」
「…っすんません、兄貴。だけど、『外に出るのが怖い』なんて事は…」
リカードは、面を窓の外に向ける。それ自体、闇の因子を孕んでいるかの如き風に煽られ、森の木々が一際大きくその身を振るわせた。
「…ちっと、あるんですけど。逃げるの、明日とかじゃいけません?」
ジュリアンは、無言でリカードの背中を蹴り飛ばした。
黒々とした大きな木々の狭間から、まるで啜り泣くような声が聞こえてくる。レナが首に架けたロザリオを痛いほどに固く握り締めると、片手に掲げたランプの中の小さな炎が、不安気に揺れた。
いいえ。これは、ただの風の音。何も恐ろしい事などありはしない。子供達がこの先で待っているのだ。きっと皆、心細い思いをしているに違いない。
己に強く言い聞かせ、ともすれば固まってしまいそうな足を引き摺るようにして歩を進める。子供達が人買いに売られてしまう前に、盗賊達と接触しなくてはならない。そして、その限られた期間はとても短いだろう、という想像は簡単についた。売るために捕らえた複数の子供の世話を、そう長い間するはずもないだろうから。
幸い、盗賊達の居場所の見当はついている。後はできるだけ早く、そこに辿り着く事だ。ランプの燃料の油が切れる前に。この強い風が雨を呼び、ランプの炎を消し去ってしまう前に。
その時、目の端に小さな灯りが映ったような気がした。気の所為か、とも思ったが、確かに木陰の隙間から、細く小さな灯りが見える。すると途端に、妖気を含んだ深淵の闇は雨の気配を感じさせる夜の風へ、梢から覗く魔物達は落ちかけた枯れ枝へと、その姿を変えてしまった。
ほっと息をついたレナは手の中のランプを掲げ直して、灯りの見えた方角へと、しっかりとした足取りの一歩を踏み出した。
「ひでーよ、兄貴!ここが一階じゃなかったら、オイラ、死んでたかもしれないじゃないか!」
何とか顔から落下する事だけは防いだもののちゃんと着地する事もできず、埃まみれになってしまったリカードが不平の声を上げたが、ジュリアンの言はにべもない。
「盗賊がその位で死んでどうする。…いいか、麓まで行ったら、真っ直ぐにオレルアンを目指すんだ。ガルダにゃ今、ドルーアの兵隊がうろついてる。間違っても、近寄るんじゃねーぞ!」
「……兄貴ぃ…」
「…泣きそうな顔なんてしてんじゃねー!とっとと行かねーか!!」
ジュリアンの叱責に背を押されるように、リカードは山を下る道へ向かって走り掛けたが、それでも後ろ髪を引かれる思いなのだろう、幾度も立ち止まっては、背後を振り返る。その度にジュリアンは、心中の苛立ちをそのまま表した表情で、急いで立ち去るように、身振りで示す。ジュリアンの目に、その姿がかなり小さく映るようになった頃、ようやっとリカードは本気で走り出したようだった。月もない闇夜の森を走り抜けるなど、確かに正気の沙汰ではなかったが、闇夜でなければならなかったのだ。それに今夜は、お誂え向きに風も強い。リカードの走り去る気配も全て、この風と木々のざわめきが消し去ってくれることだろう。この悪魔達の住家からの逃亡には、うってつけの夜だった。
小さく安堵の息を吐き、ジュリアンは、窓を塞ぐ役目を果たす、今まで掲げられていた荒布を下ろそうとしながら、何気なく周囲を見渡した。それは、いつでも周囲の様子を窺う、習性のようなものだったのだが、この時、彼の視野にチラリと映ったものがあった。
木の影で風に翻った、白いもの。…人影?
次の瞬間、先程リカードを突き落とした窓から、これは綺麗に降りると、動きの流れを殺さぬままに走る。ベルトに手挟んでいた短剣を引き抜きざま、逆手に構えて一気に距離を詰めた。
相手に今までの自分が見えていたか?暗闇に沈んだ場所からならば、例え、小さなランプに布で覆いをして、最小限に光を絞っていたとはいえ、こちらの状態は見えていたと考えた方がいいだろう。ならば、身を隠しつつ忍び寄るよりも、先手必勝、相手に反撃の空きを与えぬうちに勝負をつけてしまった方がいい。
一瞬でそう判断したジュリアンが人影まで後数歩の位置に達するまで、10秒足らず。木の影に隠れた白い人影は、竦んだように動かない。
何者かは知らないが、こんな夜、こっそり様子を窺うような奴だ。ろくな者ではあるまい。…後ろ暗いところがないのならば、気にする事もないのだろうが、生憎とこちらは後ろ暗いところで一杯なのだ。
『サムスーフの悪魔』と呼ばれる盗賊団。己のしている事に対する自覚くらいは持っている。そして神出鬼没の『サムスーフの悪魔』に関する情報に、報奨金が掛けられている、という実情では、根城としているこの遺跡の事を人にしゃべられでもしたら、こちらの命が危なかった。
(…すまねーな。だけど、あんたも悪いんだぜ)
心中で呟きつつ、勢いのままに短剣を振り上げる。その時初めてジュリアンは、己の対している相手をはっきりと見たのだった。
粗末な短いマントの下は、飾り気のない白いローブ。フードの端から洩れた赤い髪。驚きに見開かれた紅玉の瞳。
(女?!)
女は小さく身を縮めて、顔を逸らす。勢いのついたその短剣が、もはや止める事もできぬままに振り下ろされる瞬間、ジュリアンも思わず、固く目を瞑った。
永遠に続くかのような一瞬の静寂。二人とも、凍り付いたように動かない。レナはそっとその目を上げた。短剣は首筋ぎりぎりのところでマントを貫き、彼女を背後の木へと縫い止めている。男は、右手で握られた短剣の柄頭を左の掌で押すように覆い被さった姿勢をとったままだ。逆手に構えられた短剣に上手く体重を乗せた一撃は、その刃を深く幹に食い込ませていた。後ほんの少し位置がずれていたら、きっと死んでいただろう、とは思うのだが、不思議と恐怖心のようなものは湧いてこない。体はあちこち強張っていたが、感情も過ぎると麻痺してしまうものなのかもしれない。
そして感情の方はともかく、体が固まってしまっているのは、目の前の相手にとっても同じ事であるらしい。短剣の柄から離れないらしい指を引き剥がすようにして外すと男は、恐る恐るといった様子でその目を開いた。赤い瞳だ。マケドニア人に多いその色はこんな状況でなかったら、レナを多少なりとも安堵させただろうが、今現在その瞳に凝った光は狂おしくも固い。
奇跡的にも取り落としたりしなかった…硬直してしまったのがかえってよかったのだろう、今もその手に握り締めたままだ…ランプの灯りに照らし出された髪も赤い。
もしかしたら、本当にマケドニア人なのだろうか?
レナの心中の疑問が聞こえた訳ではないだろうが、男は一度大きく頭を振ると、腹を決めたように顔を上げ、その視線を真っ直ぐにレナへと当てた。
「……おい」
声の響きを肌で感じ取れそうなほどの至近からの低い囁き声に、レナは小さく体を震わせる。相手が声を発した、という事が、現状把握の助けになった。
そうだ。これは、夢ではない。
凝り固まったままだった恐れの感情が、少しずつ溶け出して、頭を擡げ始める。これまで経験した事のない程に近すぎる異性との距離が更に、それに拍車を掛けた。
「怪我とかしてねーか?」
声が喉の奥に凍りついてしまって出てこない。しかし、しっかりと首を縦に振る。すると、男の瞳が不意に緩んだ。彼が身を起こしかけたその様子に、どうやら離れてもらえそうだ、とレナがほっとしたのも束の間、急に両肩に手を掛けられ、再びぎくりとする。しかし、身を固くするレナには構わず、男は彼女の肩に縋るように体を預け、その顔を伏せた。
「………よかったー…」
まるで、体中の力が抜けてしまったかのようだった。事実、そうだったのだろう。何よりも、心情を露わに示した今の言葉が、ひどく子供っぽく響いた事が、レナを当惑させていた。
レナよりも頭半分ほども背が高い。だけど、当初がっしりとしているかに見えた体付きは、思ったよりもずっと細身だった。彼女の肩に掛けられた腕の筋肉も、まだ薄い。レナの知る男の腕など、父と兄くらいのものだったが、それよりも随分と細い腕だ。…マケドニア竜王国の騎士であるレナの父と兄は二人共、一般よりも鍛えられた体をしており、それを比較対象とする事自体、誤りであるのだが、そのような事は、レナには全く思い及ばない。
今も男は、まるでそれ以外の言葉を忘れてしまったかのように、「よかった」を連呼し続けている。もしかすると、彼はまだ、少年、と言ってもいいような年齢なのかも知れない。
そう思ったら、何だか少し気が楽になった。
「だけど何で、あんたみたいなのがこんな所に…」
顔を上げながら少年…そう呼んでも別に構わないだろう…は言い掛け、不意に口を噤んだ。
「…それ」
一瞬、彼が何を言ったのか判らなかった。少年はレナの手首を取ると、胸元程の高さに引き上げた。またしても体が強張ったが、今度は恐怖よりも、驚きの比重の方が重い。そしてランプの灯りに照らし出された己の握り拳を眼前にして、初めてレナも気が付いた。手に血がこびりついている。夜道を歩いている間から、ランプを掲げていない方の手はずっと、胸に下げていたロザリオをまさぐっていたのだが、どうやら強く握り過ぎたらしい。
「怪我してるじゃねーか!何やってんだよ!」
「……今まで、気がつかなかった…。緊張していたから…」
少し掠れてしまったが震えたりはせず、きちんと声を出す事ができた。レナは幾度か深呼吸を繰り返す。
大丈夫。もう落ち着いている。
半ば暗示に掛けるようにして、己の動揺を振り払おうとしているレナには気が付かなかったらしい、少年は彼女の握られた手をこじあけた。
そこに現れたのは、人間の人間であるが故の罪を全て背負って死んだという、神の御子の印。先の細くなった部分がレナの掌にくいこんで、その金色を赤黒く汚しているが、傷そのものは大して深くないらしく、もうその血も止まり掛けているようだった。少年の手が、無造作にその十字架へと伸ばされる。それを反射的に避けて、レナは再びその手を握ると身を翻して逃げようとした。が、手を取られているので、それは適わない。
「……別に、取ったりしねーよ」
まるで傷付いたようなその響きに、レナの動きが止まる。もう恐怖は、殆ど存在しなかった。代わって、レナの胸中を占めていたのは、『恐怖』程には暗く、冷たくないけれども、それよりもずっと重く、苦しいもの。
やんちゃな子供に、悪戯をした、と強く叱り付けた事があった。その子供はただ、レナの手伝いをしようとして、失敗してしまっただけだったのに。それを後で知った時に感じた気持ちと、それは似ている。
レナの抵抗が止んだのを見て取って、少年は十字架を、今度は丁寧に摘み上げると、元のようにレナの胸に下ろさせた。幾つもの珠で連ねたロザリオは、レナの胸のかなり下あたりにその十字架が揺れるほどに長い。そして、懐から小さな白い布を取り出し、無言のままレナの傷付いた手を縛ると、今度は十字架から軽く血を吹き取って、それを再びレナの手に置いた。少年に謝りたかったのだけれど、それも何だか妙な気がして、彼女は少し躊躇する。こんな時、一体どうしたらいいのだろう。少し考えて、結局レナは今の気持ちを伝える為の、最も短い、しかし、これ以上ないほどに適切な言葉を選び出した。
「…ありがとう」
染み入るようなレナの笑みに、何故か少年は目線を逸らす。
「……あんた、『神に捧げられた者(そうりょ)』か?」
この言葉は、驚くには能わない。これ程しっかりとした作りのロザリオは、一般的にはあまり使われないものなのだから。レナは、少年に再び笑い掛ける。
「…ええ。貴方は盗賊団の方ね?私、麓の教会からさらわれた子供達を返してもらいに来たの」
正確にはもう『僧侶』ではなかった。だが、己を『神に捧げ』た事には変わりはない。レナの瞳から煙るような柔らかさが消え失せ、代わって強い光が浮かび出す。自然な口調の内に潜んだ固い決意と燠火のような憤りのない混ぜになった感情を感じ取ってか、少年は唇を固く引き結び、改めてレナを見下ろした。レナもまた、少年の視線を正面から捕らえて離さない。
何一つ武器を持たない、だけどこれは戦いだった。少年の真紅の瞳とそれよりも幾分か淡いレナの瞳がぶつかり、組み合い、それでも互いに一歩も譲らぬままに均衡を保っている。
先に目を逸らした方が、己の意を貫けなかった者が負けるだろう。
反射的にそう思った。
こうして、二人は出会ったのだ。
マケドニア竜王国の貴族の娘として生まれながら、流される果ての栄華よりも、己が手で掴んだ人生をこそ選び取った少女と、国を知らず、親も知らず、ただがむしゃらに『今』を生きてきた盗賊の少年。
この後、互いに相手の運命に深く関わり合いながら、共に歩き続ける未来など、神ならぬ身である二人に、知り得よう筈もない。
それはどんなに正しい理屈も分別も、神の指し示す道すらも見えなくしてしまう、嵐の海に乗り出した小船のように、その心を翻弄してしまうもの。小瓶の中に詰まった、綺麗な色をしたその水は限りなく甘く、そしてこの上なく苦い。
それは、『恋』という名の毒薬。
END・
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