堕天使達は夢を見る〜レナ


かくして『光を掲げる者』と呼ばれし御使 神に反旗を翻す
神の生み出す 予定調和に対する反逆
しかし 誰が知ろう
この反逆さえもが 神の予定調和の一端だったことを



「司祭様!子供が、子供達が…」
もともと立て付けの悪い礼拝堂の木扉が、壊れてしまうのではないか、と思えるほどに乱暴な音を立てて開かれた。同時に、暗かった室内にいきなり差し込んだ光が、彼自身と聖母子像とを浮かび上がらせる。その声を聞くまでもなく、息急き切って中に飛び込んできたのが誰なのかは判っている。常に穏やかで、たおやかな物腰を崩さない彼女とは思えぬような振舞いであったが。
礼拝堂に据えられた聖母子像の前に額ずいていた老司祭は、ゆっくりと振り返った。
「落ち着きなさい、シスター=レナ。主の御前ですよ」
老司祭の目に、両開きの扉に手を掛けたまま頬を紅潮させて立ち尽くす、この教会に奉仕するたった一人の尼僧の姿が映る。
「だけど司祭様、子供達がいないのです。決して外に出てはいけない、と、あんなに言い聞かせましたのに!」
それは、司祭もレナもたまたま用事があって共に教会を空けた、ほんの数時間の間の事である。その時、ここに残っていたのは、先の戦争で親を亡くし、教会に引き取られた戦災孤児達だけだった。二人揃って教会を留守にするなど滅多にない事だったし、心配ではあったのだが、『教会の留守を守る』という仕事を与えられた子供達の誇らしげな顔は、レナに、「やっぱり、出掛けるのは止めましょう」の一言を飲み込ませるのに充分で。後ろ髪を引かれる思いで、教会を後にした。それでも不安と焦燥感は収まらず、努めて急いで帰ってきたというのに。
レナは、唇を固く噛み締める事で、全身が震え出してしまいそうな動揺を懸命に堪えた。それは、かなりの努力を必要としたのだが、噛み締めた唇が小さく震えるのを打ち消し切る事は不可能だった。



年間を通じて季節風や海風を遮り、乾燥した草原地帯と湿潤な亜熱帯地帯とを分け隔てるサムスーフ山脈は、もとはアカネイア聖王国領であったが、先年、聖王国が新興国ドルーアに滅ぼされて以来、ドルーア帝国の支配地という事になっている。しかし、北側の山裾に広がる草原の、川を挟んだ反対側はもう、遊牧の民人の住む草原の国。現在、反ドルーアの意を明確に表明している唯一の国であるオレルアン王国である。
オレルアンとドルーアの戦端の開かれるのは、当然、その国境に位置する草原ということになり、草原での戦巧者なオレルアンは、この戦いには絶対的に優位に立てるはずであった。だがしかし、オレルアンの進軍を阻む分厚い壁であり、ドルーアの戦局を一気に有利にしてくれる堅固な盾でもあるものが、そこには存在していた。
サムスーフ山脈である。
聖王国健在時には思いもよらない事であったが、現在のサムスーフ山脈は、両国にとって接触点であり、軍事的に重要な場所であり、常に緊迫した空気を孕んだ緩衝地帯なのである。当然、この小さな教会の建つ山脈の麓とて例外ではなかったが、今まで、この教会が本当にその被害にあったことは一切なかった。聖職者は絶対不可侵である、という不文律が、そこに存在していたからだ。
人の世を捨てた聖職者は、人々と主なる神との橋渡しであり、神により近しい者。その彼等の領域を犯して、死後、天の御国に上る事を拒まれ、地の底で永遠に罪科の炎に炙られたい、と思う者などいるはずもない。
しかし、教会の近くの村ではならず者や盗賊達が横行し、ひどく治安が悪くなっているという。そもそも治安とは、その地を治める者の支配力が弱まるのと比例して悪くなるものだったが、聖王国が滅んで後、新たにドルーアが彼等の主となったにも係わらず、世の乱れは一向に回復しようとはしなかった。ドルーア帝国が支配力に欠けていた訳では無論ない。
ならば、何故か?
ドルーア帝国は、聖王国を滅ぼし、己の領土とした。しかし、手に入れたこの国を治める気など、毛頭ないのではないか。そんな考えに至ってしまうほどに、ドルーア帝国の旧聖王国領への対応は粗雑だった。まるで、アカネイア聖王国という国をただ滅ぼしたかっただけででもあるかのように。
随分と突飛で手前勝手な空想ではある。がしかし、全く根拠がない、という訳でもない。きっと、『ドルーア』という名前が、100年前に存在した同名の帝国を、物語の中では『古代竜族であった』ともいわれている暗黒皇帝と聖王国、そして、神剣を掲げた勇士との関わりを連想させてしまっているのだ。
英雄物語の最後に語られる、神剣に額を貫かれた暗黒皇帝がその闇彩の血と共に吐き残したという、アリティアの勇士とアカネイアの聖王女への永遠の呪詛と、己の復活の予言。それは、広く民間に浸透した、半ば伝説に近いものだったが、つい先年に復興されたドルーア帝国がアカネイア聖王国とアリティアを相次いで滅ぼしたことにより、『これはドルーアの復讐である』『ついに暗黒皇帝が復活した』と、そう信じている者も決して少なくないらしい。
最もこれは、下層に位置する民衆達の間に根強く這った噂話であり、知識階級の者ほど、このような話を一笑に付すというのもまた事実なのであるが。
『ドルーアの暗黒皇帝』が、単なる物語上の人物ではなく、本当に存在していたのは確かであるらしい。〈その咆哮、遍く大気を振るわせ、その歩みは、大陸全ての大地を揺り動かす〉などという事はなかったであろうにせよ、悪魔のような知略を持って、ほんの僅かな期間に大陸の半分以上を手中に収めた、世にも稀なる征服者であったという。しかし、暗黒の皇帝は100年前、アリティアの勇士によって倒されたのだ。死したものは生き返らない。世界の終末の日に、御使がラッパを吹き鳴らすまでは。そして、100年を生きる人などいるわけがない。神の定めた人の命数は、どんなに多くても70年が限界だった。…もし、皇帝が本当に古代竜族であったというのならば、話は別なのかもしれないが…。
古代竜族!
その昔、人を遥かに上回る知性で高度な文明を築き上げ、世界の全て…大陸はおろか、海を越えた他大陸、果てには星の海(!)をも支配したという、不老不死の一族。
そのような者は、存在しない。世界全てを支配し得るのも、死の定めに縛られないのも、神のみである。そのような存在など、認められない。
つまり、この世界の生きとし生ける全てのものが、神によって作られし命である以上、『暗黒皇帝の復活』などというものが、起こり得る筈がないのだ。
聖教団本部からの正式見解を受けた各地の教会が幾らそう説いても、人心が治まる事はない。そのような言葉が気休めにしか聞こえぬほどに人々は、大なり小なり皆、肌の泡立つような不安を感じ取っていたのだ。今まで当然のように信じてきた、今日の後には必ず明日が来る、という事すら、楽観的に過ぎた考えだったのだと、そう思えた。
遍く照らす神の光にも、照らし切れない深奥の闇。人々は恐れ、深く厭い、嫌悪しながらも、心の奥底で待っていたのかもしれない。
暗黒の予言の成就を。



「あの子達、きっと山に住むという盗賊にさらわれたのですわ。村の人達が申しておりましたもの、盗賊は、子供をさらって人買いに売るのだって。お金になるのだったら、何でも奪っていくのだって!」
何故なのだろう。求めたのは、暖かく平和な暮らし、ただ、それだけだったのに。手に入れた、とそう思った途端にそれは擦り抜けていってしまう。レナはその両の手で己の顔を覆う。そんなレナを前に、司祭は細い溜息を一つ洩らすと胸元で軽く十字を切り、両手を祈りの形に組み合わせた。
「主は与え給い、また、奪い給う。…与えられる運命に逆らってはなりません」
耳に届いた司祭の静かな言葉が、レナの脳に確かな意味を伝えるまで、暫くかかった。時間にして、十数秒程の間。そして、彼が何を言いたいのか、はっきりと理解した時、レナは息を飲み、弾かれたように顔を上げた。
これも運命なのだから、仕方がない。子供達の事は、諦めろ。
司祭は確かに、そう言ったのだ。
「いいえ!…いいえ、承服できません!」
まだ、10にも満たない子供達。あの生まれて幾らも経たないような子供達が、戦火に巻き込まれて親を亡くし、挙げ句に、人買いに奴隷として売られる。
「それが、主の定めたあの子達の運命だった、と、そう言うのなら、私はっっ…」
激昂のあまり、震える声に、レナは喉を詰まらせたように、息を継ぐ。
「私は、主を許す事などできません!!」
「シスター=レナ!!」
司祭の鋭い声が、レナの言葉を遮るように被せられた。滅多に聞けないその激しい声音に、レナは我に帰ったように目を瞬いた。頭が冷えてくるにつれて、ゆっくりと思考が動き出す。次第に、顔が白くなる。己から飛び出した言葉を恐れるように、レナはその口を手で覆うと、呻くように呟いた。
「……私は、何という事を…」
目の前の司祭は、信じ難いものを見るかのように、半ば恐怖に近い表情で、レナを凝視している。それも当然であったろう。主なる神に対する『忠誠』、『服従』、そして、『忍耐』。それこそが、聖職者の根となる教えなのだから。レナの吐き出したのは、神の否定、という、それこそ聖職者に在りうべからざる言葉であったのだ。
「…私は、何と不遜な、思い上がった事を申したのでしょう。例え一時であろうとも、主の御心を疑うなんて。お許し下さい、司祭様。懺悔致します…。〈主よ、御名の為に、私の罪をお許し下さい。…私の罪は、大きいのです。〉」
その手を揉み絞らんばかりに悔悟の意を表すレナの口から出た、聖句からの引用に、司祭の目の光はほんの少し和らいだようだった。
「懺悔は主なる神になさい、貴女の罪深い魂を、その大いなる御心にて許されんことを…」
彼女の額の辺りに手を翳す司祭の前に、レナは自然に跪く。
「〈偉大なる主。主を褒めたたえよ、主に感謝せよ。〉」
「〈偉大なる主。主を褒めたたえよ、主に感謝せよ。主は恵み深く、その慈しみは永遠に絶える事なし。〉…」
司祭の暗唱に続くように、レナは神に捧げる聖句を唱え始める。手を組ませて、真摯な表情で俯いた彼女の前から、司祭はそっと退いた。レナは顔を上げなかったが、今、彼女の眼前にあるのは、先程、司祭のかしずいていた聖母子像のみである。
「〈諸々の神の神に感謝せよ、その慈しみは永遠に絶える事なし。…〉」
しかし、その事にも気付かぬほどに聖句に没頭するレナの邪魔をせぬよう、司祭は礼拝堂からそっと滑り出た。木扉が完全に閉められると急に、堂の内部は静寂と安息の支配する神の領域へと変貌する。窓のない礼拝堂のたった一つの光源である蝋燭の炎が、動いた空気にその身を委ねて、頼りなげに揺らめいて、一瞬毎に聖母の表情を変化させた。
「〈諸々の主の主に感謝せよ、その慈しみは永遠に絶える事なし。〉」
礼拝堂にたった一人、レナは聖母子へと聖句を捧げ続ける。
「〈唯ひとり、大いなるくすしき御業をなされる者に感謝せよ、その慈しみは永遠に絶える事なし。〉」
本当に?
「〈知恵をもって、天を造られた者に感謝せよ、その慈しみは永遠に絶える事なし…。〉」
本当に、主の〈慈しみは永遠〉だというのならば、何故、あの子供達は救われない?
「〈地を…水の上に敷かれた者に……感謝せよ、…その慈しみは永遠に絶える事なし。〉」
如何に強く打ち消し、押し殺そうとしても、胸中を水泡のように浮かび上がる小さな囁きは、決して抜けない棘のように、彼女の心を絶え間なく痛ませた。
己の内に住み着いた『不信』という名の魔物につつき回され、レナは固くその目を閉じると、一言一句はっきりと己に言い聞かせるように、事の葉を紡ぐ。
「主よ、貴方の大路を私に知らせ、貴方の道を私に教えて下さい。貴方の誠を持って、私を導き、私を教えて下さい。どうか、誠実と潔白とが、私を守ってくれるように…」
父を捨て、母を捨てた。兄も家も国も、生まれた時から背負っていた領民達に対する義務も、全て捨て去った。今現在のレナには、主なる神より確かなものは何一つ存在しなかった。故に、全霊を以て祈り、何よりも強く求めたのだ。
どうか、いつも変わらず信じられる確かなものを、私の前に示して下さるように。


『お前、そのようにずっと、何かの為に生きていくつもりなのか?』


答えは速やかに訪れた。耳の奥から響くこの声は神のものか、それとも惑わしの悪魔のものなのか。
どちらでもなかった。レナはこの声を、この言葉を発した人を知っている。昔、…今となってはひどく遠く感じられる、故国の両親の元にいた頃、まだ神にこの身を捧げていなかった過去の事だ。彼女はこの人の声を知っていた。顔を合わせた事などたった一度しかないというのに、何故こんなにも声は鮮明なのか。


『俺の人生は、俺のものだ。俺だけのものだ。他の何者にも邪魔などさせない。神など、俺の後からついてくるがいいさ』


なんという傲岸な、驕慢な、それでいて強烈に人を引き付ける輝きを発していた公子だった事だろう。背後から掛かった光に映えてまるで燃えるように見える、背の中程まで垂らされたマケドニア人特有の赤い髪が、彼にはとても似つかわしいと思えた。レナにとって、王宮の園遊会に招待されるなど、それこそ一生の内に何度体験できるか判らない大事件だというのに、彼はまるで在るべき場所に在る人のようにそこにいたのだった。
宮廷の奥庭で偶然出会っただけの公子。多分、本来ならばレナと会うような事などまずないであろう程に身分の高い、大貴族の若君。
その出会いが、彼の言葉こそが、その後の己の人生を大きく変えてしまったのだという事を、レナは不意に思い出した。


『何かの為にしか生きられない、など、優しさなどではない。弱さだ。己の道を己で決める事のできない、優柔不断さの現れだな』


貴族の娘として生まれ、家の為に生きるのを当然として育てられたレナだった。園遊会の10日程後、自国の王子から後宮に入る事を求める通知…それは命令書に限りなく近かった…を受け取った時も、感謝こそすれ拒絶するなど、それこそ考えられない筈だった。現に両親はあんなにも喜んでいたのだし、それは父、そして兄の出世にも繋がる確実な道だったのだから。
なのに今、彼女はここにいる。故国マケドニアから遠く離れた、この教会に。長い、とはいえないであろうけれども、それ程短いとも思わないこれまでの人生の中で、それだけが、自分で決めたのだ、と自身に胸を張れる、たったひとつの選択。
私は、主に意のままに、主への奉仕を捧げるのではなく、私の意思で、主への忠誠を誓ったのではなかったか?
「主よ、判りました。信じるべきたった一つの事、私が愚かにも長い事、見失っていた事を。……感謝いたします」
何故、忘れたりしていたのだろう。己の手で掴み取ったこの力を。
俯いて目を伏せたままのレナの口元に浮かんだのは、確かに誇らしげな微笑。
許されるだろうか。もう一度だけ、己の思うままに行動する事が。それは、最初の選択を無にする結果になるかもしれない。主への恭順を示せない者に、僧侶である資格などないのだから。
それを厳しい処置だとは思わない。何よりもレナ自身、己の大罪を知っていた。
主はレナの願いにより、彼女に信じる心の強さを取り戻させてくれたが、その結果彼女の得た答えと主の望みとは一致しない。これは確かに主への反抗なのだ。だけど今、神の名の元に全てに目を瞑ってしまったら、後悔する。きっと一生後悔する。
レナは、ゆっくりと立ち上がる。先程までの従順な尼僧とは違う、静かな内にも芯の通った強さを感じさせる、それは動きだった。そして彼女は、己の肩に掛けられていた、聖教団の女僧侶であることを表す飾り紐を外し、綺麗に折り畳んで聖母像の前の拝受台へと置いた。
昔、国を捨て、立場を捨てて、神に仕える道を選んだのは私。そして今、神の意に逆らってでも己を貫く、とそう決めたのも私だ。
「主よ。私はこれから『悪魔の山』に登ります。そして、絶対に子供達をこの手に取り戻します。…貴方に背く愚かな尼僧は、きっと、二度と聖教団には戻れないでしょうけれど、いつでも何処にいても、主よ、私は貴方のしもべ。ただ、貴方への祈りを捧げる事だけは、お許し下さいますように…」
不思議と、聖教団の僧侶ではなくなった今になって初めて、本当に『僧侶』となれたような気さえするのだ。…実際には『破戒僧』と呼ばれる存在になってしまったのだけど。
そう考えると、何だか無性におかしかった。喉を突いて出そうになる哄笑を懸命に殺す。声が洩れたら、一緒に涙も溢れてしまいそうだ。進む道を決めた途端、あらゆる感情がどっと一気に湧いて出た。
不安はある。恐怖もある。だけど、決して後悔はしたくなかった。なのに何故、私はこんなにも弱い。
それでも、外見上はそんな乱れを微塵も感じさせない。これが最後、と聖母へと優雅に腰を折ると、ぴんと背筋を伸ばし、簡素な白いローブにただ小さなロザリオだけを下げた姿のレナは、木扉に手を掛け、ゆっくりと押し開く。その頭は誇り高く擡げたままに、決して振り返らない、と己を固く律して。
扉の外へと出、扉を静かに閉める瞬間、灯りに照らし出された聖母の顔が揺れる。目端に映ったそれは、まるで微笑んでいるように見えた。勿論それは、揺らめく炎の作り出した幻想に過ぎないだろう。だけど、レナは信じたいと思った。



愛する御子をその胸に抱いた慈愛の聖母の、子供達への加護を。



END







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