色のない夢〜マルス


あれは遠い昔話
それとも昨日見た夢



王族のみ入る事を許されたその宝物庫では、たくさんのもの達が永い眠りについている。シンと静まり返ったそこに、こっそり入り込む事は、幼いマルスにとっては、大冒険のひとつだった。
きらきらと光る石をたくさんつけた首飾り。異国からの献上品か、それは見事な陶磁の壺。立派な宝剣。そんなものがぎっしり詰まったその部屋は、少年の心をわくわくさせてくれる。
室内の壁に掛けられた歴代の国王とその王妃の肖像画は、隣り合わせに並んでいた。マルスにとっては、両親である現国王と王妃に続き、祖母に当たる皇太后、先代王妃までは、よく見知った、身近な人々であったが、それ以後となると、あまりピンとこない。マルスの生まれる前に亡くなった、という祖父、先代国王でさえ、遠いご先祖、という認識になってしまう。
それでも、肖像画を並び順に辿って行くと、突き当たりになる一番隅に、それはあった。自分の姿を後世に残す、という作業には、全く熱心ではなかったらしい、その人の姿をしのばせてくれるものは、今では、王家所蔵のこの肖像画のみとなっていた。
アリティア建国王、アンリ一世。
他の絵と同じように王妃の肖像を隣に掲げてはいたが、この肖像画の差し向かいに当たる反対側の壁に、小さな人物画が掛けられている事だけは、他とは違っている。
細い線、優しい線、きっぱりとした線、清楚な線、そして、艶やかな線。そんな線の数々で精一杯、絵の中の美女の魅力を表現しようとした当時の画家の苦嘆ぶりが見て取れる。それは、この上なく優雅な貴婦人の像。その絵の人物が、アカネイア聖王国の伝説のアルテミス王妃であるというのは、もう少し経ってから知る事実である。
今日も常の如く、ひんやりとした室内に入り込み、アンリの肖像の前へと足を運んだマルスの目に、常とは全く違う、有り得る筈のない情景が映った。
そこに、人がいた。
肩に落ち掛かった、茜色の髪。ほっそりとした、その立ち姿。一心に肖像画に見入るその人はマルスの気配に気付いたのか、ゆっくりと振り向いた。赤い石を嵌め込んだ金の額飾り。
「…ごめんなさい」
マルスは、小さく身を竦めた。その事に小首を傾げて、問うように見つめ返す人に、慌てて、言葉を続ける。
「アンリ様とお話中だったんでしょう?それなのに、邪魔しちゃって」
マルスとしては、思ったままを口にしただけであったが、目の前の人は、ひどく驚いたようだった。その凝視に居心地の悪いものを感じて、もじもじする。その様が判ったのか、その人は小さく微笑んだ。
「…お前、アンリの末裔(すえ)か?」
不思議な声。まるで年古た老人のような、うら若い青年のような。太古、運命を司ったという双面神は、こんな声をしているのかも知れない。マルスは唯、頷く事のみで返答する。
「…貴方は?」
「俺?俺は……幽霊かな」
びっくり眼のマルスを面白そうに見返すその人の目が、ふいに大きく見開かれた。マルスが己の手に触れてきた事が、余程意外だったらしい。
「冷たい…けど、『幽霊』って、ちゃんと体があるんだ」
如何にも感心したといったその様子に、目の前の人物が吹き出す。戸惑いを露わにしたマルスに、ようやっと笑いを治めたその人は滲んだ涙を拭きながら、しかし、未だ笑いを含んだ声で言った。
「お前、結構アンリに似てるな」
「そんな事ないよ。髪の色だけは、似ているって言われるけど、他は全然。この絵にだって、全然、似てないよ」
「こんな肖像画で、アンリを表現なんかできるもんか」
吐き捨てるような、痛烈な言葉。
「俺が『似てる』って言ってんだから、信用しろ。…アンリの末裔の中で、お前が一番、アンリに近い」
真っ直ぐなその言葉が、何だか面映ゆい。マルスは頬を染めて、だけど、確かに嬉しそうに笑う。
「幽霊さん、アンリ様を知っているの?」
「ああ、…もうお前達にとっては、昔の話なんだな。友達…だったんだよ」
他の人が口にしたら、信じなかったかも知れない。だけど、もう百年の時を生きていると言ったも等しい、目の前の人物の言葉は、何の疑問もなくマルスの中に落ちてきた。その人の纏った不思議な雰囲気は、だから、なのかも知れない、とかえって納得してしまう程に。ただ、『友達』という言葉は、その人の口から、何故か不自然な響きで出されたが、その事には気付かず、又は気にせず、マルスは瞳を輝かせる。
「それじゃ、アンリ様の短剣の友達の事、知ってる?」
「…『短剣の友達』?」
『アンリとアルテミスの恋』が相思相愛の恋人達の悲恋を差すように、『短剣の友人』は、永遠に変わらぬ友情の代名詞となっている。それは、アリティアでは、誰もが知る事実。だがその人は、それを知らないのか、マルスの言葉を己の口の中で、噛み締めるように繰り返した。
「これだよ」
マルスの指し示したのは、宝物庫の中央に納められた、この場にひどく不似合いな、古びた粗末な一本の短剣。
「それは、アンリ様の宝物だよ。大切な友達からの贈り物だったんだって。もう一本、小刀があったんだけど、それはアンリ様の棺に一緒に納められたって。そういう遺言だったって」
信じられぬものを見るかのように、大きく見開かれていたその瞳が、歪む。
「…そっか」
しかし、その瞳はすぐに伏せられ、次の瞬間、開かれた時には、悪戯な光を湛えられていた。
「馬っ鹿だなぁ、本当に。一国の王様のするこっちゃねーよ」
悪罵に近い言葉を口にしながら、その人の瞳は、とても優しい。きっと、アンリの事を大切に思っていたのだろう。マルスは、あくまでも明るく言い放ったその人が、泣きたいのではないか、と何故かは知らず、ふと思った。
「殿下、どちらにいらっしゃいますか。マルス様」
遠く、声がする。マルスを捜しに来た人達の気配。もう行かなければならなかった。渋々といった様子でその場を離れ掛けたマルスの背中に、その人からの声が掛けられる。振り向いた先、その人は己の額飾りを外すと、マルスの額に嵌めようとした。…が、大き過ぎて滑り落ちてしまう。少々の思考時間の後、その額飾りは、マルスの頭上に髪飾りとして納まった。
「これをお前にやるよ、アンリの末裔。アンリの示してくれた好意の礼に…」
その人の細められた目が、まるで猫のようだ、と思った事を覚えている。
「お前が大きくなったら、また会おう。…お前が俺を忘れなければ」
「忘れたりしないよ」
マルスの即答に嬉しそうに、楽しそうにその人はゆったりと笑った。



『あの人』の金細工の額飾りは、今もマルスの頭上にある。その存在だけがマルスに、あれは夢ではなかった、と語るのだ。
『大きくなったら、また会おう』と言った。それが、年齢の事のみを差している訳ではない事も、今のマルスにはよく判る。一体、いつになったら、『大きく』なれるだろう。今ではない事だけは、確か。マルスは薄く笑う。


強く、強く。大切なもの全てを守れる程に、強くなりたい。


その時、再び『あの人』に会えるのか。それは、光神ナーガのみの知る事なのだろう。



END







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